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(回答先: 日本が自滅する日 殺された石井 紘基 (著) 全文 目次 投稿者 たけしくん 日時 2009 年 8 月 06 日 13:40:29)
日本が自滅する日 殺された石井 紘基 (著) 全文 序章
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569614140/asyuracom-22
序章
真の構造改革とは何か ― 「もう一つの日本」を直視せよ
旗印の正しさだけでは改革はできない
小泉純一郎首相の出現は、低迷する日本政治に大きなインパクトを与えた。それは小泉氏が、人
気のない森政権の後に登場し、「聖域なき構造改革」 「構造改革なくして景気回復なし」といった立
派な発想と旗印の下に、積年の権力の腐敗に対して力強く対決する姿勢を示したからであった。経
済社会情勢がますます悪化するなかで、不公平感をつのらせた国民は、小泉首相に最後の望みをか
けたのである。
たしかに、小泉氏は大胆に旧弊に立ち向かい、日本再生を果たしそうに見えた。多くの政治家の
ように、地位を得、地位を利用するために旧(ふる)い利害秩序に忠実で、人間関係の序列に利口であるタ
イプとは異なり、国家と歴史の使命に忠実な小泉氏の姿勢に、国民は共感したのである。
しかし、残念なことに、旗印の正しさだけでは改革はできない。この半年の経過の中で小泉氏の
掲げる「構造改革」はじつは、きわめて内容に乏しいものであることが明らかになった。どうやら
小泉氏の 「構造改革」は、橋本内閣のころ、あるいはもっと以前からいわれてきた「民間にできる
ことは民間に」「税金の無駄遣いをなくす」といった「構造改革」と、本質的に違いはなさそうな
のだ。
「従来型の公共事業は景気対策に効果がない」「これ以上借金を増やすことはできない」という主
張も目新しいものではない。従来からこうした言葉は、時の政権が旧(ふる)い利害の構造を保持するため
に、国民と状況へのやむを得ざる「妥協」として用い、申し訳程度に実行してきたものだ。
国民が小泉氏に期待したのは、そうした一般的でキャッチコピー的な「構造改革」ではない。旧
い政治システムを根底から一変させる、日本再生の国家戦略としての「構造改革」だったはずであ
る。
言い換えれば、今日の危機的状況を招いたわが国の仕組み(=構造)は何かを明らかにするとと
もに、それをもう一つの″の仕組み(=オールタナティブ)に取って替えるための大構想と大戦
略を提示し、果敢に実行することこそが期待されたのである。
小泉首相は就任以来約半年のあいだに、「構造改革」の課題として、国債の新規発行額の限定や
道路特定財源の問題、一部の特殊法人や公共事業の見直し、将来の郵政民営化といったことに触れ
てきた。正直にいって、これでは、これまで試みられてきた個別的な政策といったいどこが違うの
か理解できない。「骨太の方針」とか「工程表」などのネーミングが躍っただけに思える。
たとえば、道路特定財源が「無駄遣いされている」から「見直す」ことは言葉として間違いでは
ない。しかしそれを財政の「構造」問題として取りあげるのなら、特定財源は九種類もあるのだか
らそれらの総体を問題にしなければならない。しかも、それらの多くは本来の予算であるべき「一
般会計」ではなく、「特別会計」という裏帳簿に入る仕組みになっている。
後の章で見るように、これらの資金は行政レベルで配分が決められ、公共事業や行政企業″、
業界などへの「補助金」として流されていく。小泉首相の道路特定財源見直しは、森″が殺(や)られ
ているときに一本の枝″を語るようなものである。枝″を治すには森″を知り、森″を治
さなければならないのに。
不良債権処理は最優先課題か
小泉改革が最優先課題として掲げる不良債権処理にしても、それ自体決して悪いことではないが、
それははたして現下の最優先課題であろうか。後に詳しく論じるとおり、今日、わが国は官制経
済体制″であり、基本的に市場機能を喪失している。とすれば、優先課題は金融機関を身軽にする
こせではなく、そうなったときの、活躍の舞台を用意することである。そもそも市場性″が失わ
れた経済で不良債権が解消することなどあり得ない。
わが国の金融機関は平成四年度以降に六八兆円もの不良債権を処理し、八兆四〇〇〇億円もの国
費を受けた。にもかかわらず、不良債権残高はなお三二兆円もあり、この三年間増加し続けている。
不良債権は予備軍を含めると一五〇兆円あるとされる。さらに一般には認識されていないが、政府
系金融機関と行政企業″の不良債権は、企業会計の常識からみれば仰天するほど大規模なものだ。
それがなぜか、問題にされていない。
小泉内閣は不良債権処理を、アメリカからの厳しい「お達し」に呼応して権力主導で進めようと
している。これはRCC(整理回収機構)による強硬な手法とも合わせ、きわめて重大な問題であ
る。アメリカの姿勢は日本の実態に関する認識不足もあろうが、基本的にはアメリカの国家戦略か
ら生まれてきたものだ。
民間企業が泡を吹いて水面に浮上する中で、アメリカは今日までにすでに日本株の二〇%を取得
した。日本の不動産の相当量を獲得している。日本の死命を制することになりかねない不良債権処
理について、政府の方針はもっと自立的でなければならない。
不良債権処理をめぐる、いたちごっこ的状況の下で、小泉内閣の 「骨太の方針」も認めるように
「デフレ圧力が不良債権処理のプラス効果を上回る可能性が高い」とすれば、「企業整理や離職者の
問題」 のみが一方的に生じるだろう。
特殊法人の安易な「民営化」は事態を悪化させる
小泉首相は従来から「郵政民営化論」を主張し、その財政的側面からの理由として、郵貯資金が
特殊法人に回っていることを挙げている。だが、それをいうなら、一五〇兆円もの年金資金なども
特殊法人のメシの種になっている。厚生大臣として小泉氏は「厚生年金基金」 の名称を変えて「年
金資金運用基金」という同じ特殊法人を作った張本人である。そのことはさて置くとしても、特殊
法人の原資として郵貯だけをやり玉にあげていたのでは特殊法人の食いぶちはなくならない。
特殊法人問題に対する小泉氏の姿勢にも問題がある。小泉首相は特殊法人等の 「民営化」または
「廃止」を主張し、特殊法人を経営する省庁自身に具体策を提示させた。これはたとえ話でいうな
らば、鯛や鮪(まぐろ)に自分たちで俎の上に乗って自分の刺身を造れ、というような見当違いである。橋
本内閣や小渕内閣が試みたのと同じことを、小泉氏も繰り返している。改革を断行しょうとするの
なら、自分サイドで設計図が措けなければダメだ。
特殊法人等の 行政企業″ は、たまたま個々別々にあるのではない。彼等の存在は、「政策」「法制」
「財政」 の仕組みと連関したトータルシステムの中の機能の一部分なのだ。
「民営化」という方針も間違っている。多くの公団、事業団等の特殊法人は、莫大な借金をかかえ
ている。借金の大部分は国民の貯金や年金の積立金から出たものである。いま「民営化」を強行す
れば、百兆円単位の借金を国の会計に計上し、しかも「株」は全株を政府が所有するという「民営
でない民営化」 になってしまうだろう。
過去にも、鉄鋼、国鉄、電々公社などの民営化が行われた。これらは、国民経済の発展途上で成
長の先導役をつとめた基礎的インフラ整備事業であったが、今日の特殊法人などは、これらとまっ
たく性格を異にする。
後の章で述べるように、それらはむしろ経済に対する侵略者″なのであり、市場とは本質的に
相容れない権力機構の側の存在である。形だけ株式会社にしてお茶を濁そうとしても、官・民の領
域がますますルーズとなり、事態をいっそう悪化させるばかりである。
むしろ彼らが権力の陰で領有してきた経済の資源を市場に戻すべきである。国と地方の特殊法人、
認可法人、行政系公益法人はすべて早急に廃止することとし、その上で財務の状況等によってそれ
ぞれの実行時期と処理策を定め、必要な責任の追及と、やむを得ざる借金を整理する以外にない。
さらに社会的に必要な仕事は、経済活動としてではなく行政事務として堂々と行政機関自身が行
うことにすべきである。また投資や取引、開発事業など経済活動に属すべき事業は放出するだけで
よい。そうすれば市場が勝手に市場の論理に従って動く。会社が設立されるなり、既存の民間企業
が取り込むことになるまでである。
小泉流構造改革の致命的弱点は、特殊法人などの改革を単に財政問題としてしか見ることができ
ないところにある。そのため、一連の方針のなかでも、とくに財務状況が悪く、財政負担の大きい
特殊法人しか取りあげていない。ましてや公益法人や地方公社などはほとんど狙上に登らない。こ
れでは構造改革とはいえない。
このように小泉流の「構造改革」には体系がなく、全体像も見えない。たんに断片的、部分的な
改革では、わが国のトータルなシステムは変化し得ないし、国民にとっても先が見えない。このま
までは小泉流「構造改革」はせいぜい部分利権の移転に終わる可能性が高い。与党内で「国の構造
改革ではなく自民党の構造改革なのだ」といわれるのもあながち的外れではなさそうだ。
むしろ、こうした周到さを欠く小泉氏の認識と気負いは、きわめて危なっかしい。私には、カミ
カゼのパイロットが複雑な電子装置を備えたジェット機の操縦桿を握っているように見える。ジェ
ット機が空中でダッチロールを始めるのではないか。
というのも、総論と戦略を欠く小泉改革が不用意に手を出した不良債権処理や特殊法人改革が、
国債の暴落という時限爆弾″を爆発させる危険を孕(はら)んでいるからだ。逆にいえば、巨額の国債や
不良債権をかかえている特殊法人などは、国民から人質をとったうえに爆弾を持っているのと同じ
存在なのだ。
意気込みだけでやれるものではない。補正予算や国債増発に表れた首相の姿勢の甘さも爆弾炸裂
を誘発しかねない。真の改革に踏み出すべき貴重な時間を空費したわが国の経済は、いまや危険水
城に入った。崩落″ への瀬戸際の状態にきたといってよい。
危機をもたらした頁の原因は何か
いま為さなければならない真の構造改革とは何か。
それを論ずるには、まず、今日わが国が直面している経済、財政、社会の危機をもたらした要因
は何か、について正しい認識を持つ必要がある。この三〇年間にわたってわが国に浸透し、遂に体
制を支配するに至った官制経済″ のシステムこそが、その要因である。
官制経済体制とは、中央集権、官僚制、計画経済、そして閉鎖財政(国民に見えない財政)を基
本構造とする国家の類型である。官制経済体制の下では基本的に経済は権力に従属するため、本来
の経済(=市場)は失われる。
したがって構造改革の目的はただ一つ、国家体制を官制経済から市場経済に移行させることであ
る。経済を権力の侵蝕から解放し、経済(=市場) のものとするのである。
利権を本質とする官制経済体制を形成する要素は次の四つである。第一に行政が「公共事業」お
よび「経済振興」を展開する政策″、第二に開発法、振興法、整備法、事業法、政省令、規則、
許認可等からなる法制度″、第三に補助金、特別会計、財政投融資計画で構成される財政制度=A
そして第四に特殊法人、公益法人、許可法人など官の企業群を擁する行政組織≠セ。
以上の 政策″ 法律″ 会計″ 組織″の四本柱はすべて各省庁の縄張り(所管)となり、それぞ
れに連なる政治家があり、政治的力関係″ (政治力) によって機能するのである。これがまぎれ
もないわが国官制経済のトータルシステムなのである。
わが日本国では、この周到に編みあげた官制経済体制のシステムの下に、政治家たちが笛を吹き
「景気対策は税金をバラ撒(ま)くもの」「経済は政府の政策と予算で支えるもの」との原理主義″を普
及させ、学者も評論家もマスコミも、そして経済人といわれる人々までがこぞってこうした集権的
意識構造の下に振る舞っているのである。
その結果、国の本来の会計である「一般会計」予算は八五兆円と書いたカモフラージュ (迷彩)
の中に置かれ、実際の運営は誰も知らない二六〇兆円という巨額のカネが闇の中のコウモリの大群
のように飛び交うことになった。この中で補助金として配分される金額は少なくとも五〇兆円、公
共事業関係で支出されるカネは国だけで三〇兆円にもなる構造が完成しているのである。これは第
一章で詳しく述べる。
この国の「経済」は端的にいえば、国と地方と合わせて国民の税金と貯金、年金、保険積立金な
ど三五〇兆円を上から流し込んで消費しているだけのものだ。つまり、市場特有の拡大再生産機能
によって生み出される果実はないに近い。経済的価値を創出する市場″が死亡状態となり、回復
不能の、借金が借金を呼ぶ財政破綻構造に陥っている。積もり積もったほんとうの借金額は一〇〇
〇兆円を超えてしまっている。
この重い病を癒(いや)す方法は、ありもしない市場″に向かって金融対策″だ景気対策″だと無
駄な金を突っ込むことではない。問題は単なる経済政策の領域にあるのではない。その鍵は市場″
と権力のあいだにあるのである。
小泉政権の大きな誤りは「構造改革」を相変わらず経済政策や金融政策と混同しているところに
ある。小泉氏は自分で「構造改革」の言葉は述べるが、中身になると、「経済・財政諮問会議」な
る機関に担(にな)わせて、経済学者を矢面に立たせている。しかし、「構造改革」とは経済政策や金融政
策、財政政策の次元の問題ではなく、こうした政策論議を超えた「市場」と権力の問題、「市場」
に向き合う政治体制のあり方の問題なのである。
言い換えれば、必要なのは「市場」の存在を前提とした政府の景気対策や産業政策の論議ではな
く、政治家が政治的に旧体制と闘い、そのシステムを打破し、「市場経済体制」と自立した経済を
保障する新たなシステムをいかに創るかということなのである。
私がかねてから述べてきたように、この国には見えざるベルリンの壁″がある。冷戦時代に資
本主義と社会主義を分け隔てた、あの壁だ。壁の向こう側では、一九六〇年代以降、政府権力の
闇市場″が拡がっていった。その勢いは山火事のように早く、その量はねずみ算のように一般の想
像を絶する規模に膨らんだ。
この権力による経済侵蝕のそれぞれの過程において、それに合わせた政策と予算と法の巧妙な裏
打ち″が積み重ねられ、それらが次第にそれなりの国家形態を形成させた。この変貌は見えない所
で行われたため、実態は一般にきわめて解明されにくいものであった。この解明には実際、政治家
が持つ国政調査権という手がかりしかないほど閉ざされたものだったのである。
この変化は一九七〇年代から八〇年代にかけて急速に進み、わが国に「官制経済体制」が形成さ
れた。とくに七〇年代には、公共事業の拡大、特別会計や財投の全面出動、行政企業のフル稼働、
事業法の大展開がおこなわれた。一九八〇年代の終わり頃から政府の「経済対策」が目に見える効
果を示さなくなってきたのは、じつは権力による「市場の破壊」が進行していたからだ。また、経
済学者や経済評論家の「景気予測」などが目立って迷走したのも、それ以降のことである。
市場から権力の足枷を取り払え
以上のような認識に立てば、いま必要な構造改革とは、官制経済の中心である世界最大級の行政
企業群とそれを支える法制度や財政システムの廃止であることがはっきりする。これこそまさに、
構造改革の目的でなければならない。そのための大胆で壮大なプログラムの提示と実行に、政治は
取り組むべきなのだ。
これさえ断行できれば、諸々の経済問題は基本的に自立した経済が自ら解決する。「サービス産
業の拡大」「産業構造の再編」「経営革新」など市場の具体的な活動にまで政府が直接手を下すこと
は、むしろ構造改革に反する。「IT国家」などに政府が深入りすることは、権力主導の公共事業
の発想と同じで、むしろ構造改革の逆行である。当面は基本的に、市場活動に対する権力の足枷(あしかせ)を
取り払いさえすればよいのだ。
とはいえ、これこそ政治家を含む壮大な既得権益との厳しい闘いであり、緻密な戦略の下に国民
とともに実行されなければならない「歴史的課題」なのである。
構造改革の成果が本格的に市場に現れるには少しく時間を要する。だが、その間の時間は市場の
「マインド」が支える。不良債権の解消は基本的には構造改革の成果を吸収しながら進むことにな
る。構造改革によって民間に出現する膨大な「経済」に対して、基盤を得た銀行が対応できるよう、
グローバル・スタンダードの強制や不良債権に関する規制などを逆に見直し、銀行に自由で責任あ
る行動(発展と後退の自由)を促(うなが)すことが重要である。
結局、構造改革とは、民間部門にさらなる世話をやくことではなく、官制経済体制から市場経済
体制へ転換することなのである。このことを明確にすることが構造改革の戦略である。
小泉流では日本が潰れる
公共事業や財政について小泉首相の認識はまことに不十分だ。彼の発言を聞いていると、わが国
の財政について財務省の公式発表″の数字しかご存知ないように思われる。
彼は(第一章で説明するようにほとんど意味のない)「一般会計」の数字を用い「公共事業費は一〇
兆円なので、その一割を減らしても一兆円しか削減できない」とか「八五兆円という国の予算の中
で国債の新規発行額を三〇兆円以内に押さえるのだ」と胸を張っている。日本国の財政について総
理大臣が何十兆円、何百兆円という単位で間違った認識を持ち、ベルリンの壁″の内実をほとん
ど知らないのは困ったことである。
小泉氏は「構造改革」の実施が遅れていることについて再三「みんなの意見を聞いてから決める」
と答えている。これは小泉氏自身が方針を持っていないことを示している。国民はすでに、小泉氏
の「改革」は旧来の政官権力の利権秩序を破壊し、日本再生を実現するものと受け止め、その断行
に同意を与えている。族議員の多い自民党や特殊法人などを抱えている省庁の普蒐を開くことを望
んではいない。
「構造改革」は政治家や官僚が作ってきた積年の悪弊である既得権益の構造を打ち破る国民自身の
闘いでもある。そうした国民の期待を担っている小泉首相が、自分自身の確固とした信念に基づい
た方針も出さずに「多くの人々の意見を聞いて」 では納得できない。
「構造改革」が既存の権益や利権を破壊するものだとすれば、旧体制における利権を手放すことへ
の 「抵抗」は必至である。彼らはその全存在をかけて命懸けの闘いを試みることになろう。
「構造改革」は官制経済から市場経済への体制の変革という意味でも、また既成の秩序・権益との
闘いという意味においても、まさに「革命」なのである。これは大勢の人々の意見を聞いて方針を
決める、などという性質の問題ではない。
ベルリンの壁″ の向こう側のことは政府自らが明らかにすべきだ。同時に国政調査権を持つ政治
家が自ら調べて実態と方針を国民に示し、犠牲者である国民とともに改革を断行するのだ。それく
らいの知識と構想力と指導力がある政権でないと真の構造改革は遂行できない。
行革担当大臣が省庁の特殊法人見直し案提出の期限目前に、参考例はないかとヨーロッパに勉強
に行くような一夜漬けではいささか心もとない。ヨーロッパに行ってわかることは、特殊法人など
というものが支配的な国は官制経済の日本ぐらいのものだということぐらいである。
もし小泉氏が全身全霊を投じてこの闘いの陣頭指揮をとろうとするのであれば、むしろ向こう三
年間にわたり、「開かれた戒厳令」ともいうべき強力な臨戦態勢を確立することが必要だ。民主主
義の制度をさらに広げて、国会の自由討議や、それを国民とつなぐテレビの活用、そして政治家の
自由な言動と責任を保障する党議拘束の廃止などが求められる。
「骨太の方針」は見当違いだ
小泉内閣の「骨太の方針」は「経済再生」および「構造改革」 の二本柱で、その全体が「構造改
革」という組み立てである。「経済再生」については、効率性と社会性を重視した資源の移動を活
発にするために、市場と競争を重視するといったありきたりの考えを示したうえ、具体的には不良
債権の解消を「第一歩」とし、IT国家、規制改革、財政改革などを実施することと述べている。
「構造改革」 に関しては「日本経済の……実力をさらに高め、……発展を遂げるためにとるべき道
を示すもの」 であり、「七つのプログラム」として特殊法人等の見直し、チャレンジャー支援、地
方の活性化、公共事業計画の見直しなどが提示されている。
私はこの 「骨太の方針」は非常な危険を孕(はら)んでいると思う。勘違いの方向に思い切りアクセルを
踏んだようなものである。断固ストップし、方向転換すべきであると考える。
というのは、小泉政権の方針は、経済政策における不良債権問題や産業活性化についても、一部
の特殊法人等の 「見直し」といった発想においても、基本的には従来の政府がとってきたものと変
わらないからだ。従来の姿勢と異なるのは公共事業の削減、すなわち政府支出の抑制のみである
(これについても小泉首相の言動は揺れている)。これではかつての橋本政権より危険な要因が強くな
る。デフレ圧力の下で政策的に失業・倒産を増大させ、株式市場の動揺や国債の暴落など、恐慌の
条件をつくり出しかねない。
いま必要なことは、従来の方針のどこに比重を移すかではない。現在の国家経済構造に対するア
ンチ・テーゼ (対案)を掲げることである。そして、そのプログラムを示すことである。
今日わが国が直面している事態を見れば、大問題は既存の体制それ自体にあることがわかる。既
存の体制とは、権力による経済侵蝕の構造、すなわち官制経済体制である。市場を市場でなくして
しまった官制経済体制にこそ日本経済低迷の原因があり、そこにこそ日本再生のための問題を解く
鍵がある。
銀行や企業活動の行き詰まりが解決されないのは、不良債権処理への手際が悪かったからではな
い。(全民間の一・三倍の規模をもつ)政府系金融の肥大化と政府の過度の介入・規制による金融市
場自体の自壊状況が原因なのだ。そして経済活動(市場)全般への行政企業の大規模な進出・侵蝕
による市場経済そのものの瓦解が原因なのである。
したがって、日本経済の基盤の構築、すなわち官制経済から市場経済への転換なくして、ひとり
銀行だけが蘇ることはないし、(民間の)経済が旧来の体制のままで息を吹き返すこともないので
ある。
以上、小泉政権の「経済再生」と「構造改革」についての私の見解は二つに要約できる。第一に、
金融事業本来のシェアと活動諸条件を政府系機関が占有している状況下で、民間銀行の不良債権が
「優先的に」解消されることはありえないということである。
第二に、不動産・建設・土木・運輸・通信をはじめ主要産業各分野が政府系行政企業に庄倒され
国内に市場性が失われている状況下では産業の創出・改編も企業の不良債権解消も、それ自体問題
にならないということである。
経済再生は、市場″ に対してあれこれと世話やくことではなくて、経済(=市場)と政官権力の
関係のあり方を根本から改める方策としての 「構造改革」にかかっている。
わが国の経済成長率は公的支出の反映
「骨太の方針」は、不良債権処理を行う「集中調整期間」は経済成長率がゼロまたは一%程度にと
どまらざるをえない、と述べている。この 「構造改革」と経済成長率との関連には矛盾があること
にも触れておかなければならない。
この辺の記述は、「集中調整期間」中は高い経済成長が望めないことを、あらかじめ断っておく
つもりであるためのようにも見えるし、逆に公共投資とは別の形で需要政策をとり続けることによ
って現状の国内総生産(GDP)水準の維持を宣言する意図のようにもとれる。いずれにしても理
解困難である。
後にGDPと市場経済との関連において述べるとおり、わが国のGDPはほとんど政府支出の反
映という性質を持っている。したがって経済成長率を左右する要素はほとんど公的支出にかかって
いる。
一方で小泉政府は「新規国債発行を三〇兆円以内」に抑えるほか、公共投資予算等の削減を打ち
出している。また、郵政をはじめ特殊法人等の 「民営化」を実行すれば政府の予算支出はさらに減
少するはずである。全般に、民営化を含め、構造改革の成果は当面強い 「デフレ」要因となる。
こう考えると、「成長率ゼロまたは一%」という期待はどこから出てくるのだろうか。逆に、政
府予算規模の水準を維持するとすれば、それは財政の構造改革との矛盾を来す。
はたせるかな昨年二月五日、「骨太の方針」からわずか四カ月で内閣府は平成一三年度の成長
率見通しを、プラス一・七からマイナス〇・九に下方修正した (もっともこれは予算規模の縮小から
きたというより、構造改革の迷走によるものであろうが……)。
もし本当に「民需主導」、すなわち経済の資源を行政の分野から市場に向けて大規模に移転する
のであれば、わが国の中央政府支出(二六〇兆円)を当面の三年ほどのあいだにせめて米国の国家
予算並み(一九〇兆円) の規模に縮小するべきであろう。
そうなれば、市場経済体制が形成されるまでの「革命」期間におけるGDPは大幅に縮小し、成
長率は大幅なマイナスになるはずだ。
成長率はGDP数値の対前年度比であるから、大規模予算の配分で国民生活が維持されるわが国
のような官制経済体制下では、成長率は必ずしも経済の実態を反映するものではない。
したがって、「骨太の方針」が成長率にこだわるのは自家撞着である。財政規模の縮小は当面、
必然的にマイナス成長をもたらすのがわが国のシステムなのであるから、そのことを明確にしたう
えで改革に着手しなければ、それは生きた市場のマインドに大きな打撃を与える。
この点について小泉氏は理解を欠いている。小泉氏はむしろ、構造改革の期間中は財政規模を大
幅に縮小し、それに連動して成長率が下がること、そしてこれは景気の実勢を反映するものではな
いことを明確に主張すべきなのである。
「日本の構造改革」を成功させるには
わが国経済政策の混迷を象徴している「不良債権処理」と「景気回復」をめぐる論争″もまた、
わが国経済の特性への無理解から生じている。
与野党を含めた政界も経済界も言論界も、当面の経済・財政の立て直しをめぐって大きく二つの
議論に分かれている。一方の陣営は、経済問題の解決にとっての根本的課題は銀行の不良債権処理
と考えている。小泉政権の「骨太の方針」がその代表格である。他方は、不良債権処理を進める一
方で不良債権が増大していく、いたちごっこの状態の下では、景気の落ち込みと地価の下落が続く
だけなので、公共投資による景気刺激で需要を喚起することが重要とみる。
しかし、私にいわせれば、これらの議論は「景気回復が先か、財政再建が先か」「二兎追うもの
一兎をも得ず」などの議論と軌を一にするもので、日本経済に対する認識が近視眼的である。
後者の方から述べてみよう。この立場が主張する政府の財政出動は、確かに一般的には経済活動
の触発剤になる。しかし、その際忘れてはならないのは、この理論は市場経済体制下においてのみ
通用するということだ。
ところが、今日のわが国の官制経済体制下では、経済対策としての公共投資等の予算はほとんど
公的セクターまたは行政システムを通って流通し、余剰価値や付加価値を形成する「市場」を素通
りし、むしろ市場における生産・流通コストに負荷をかけてしまう。財政出動によって刺激すべき
「市場」がそもそも寝たきり状態″なのだ。
政府が一升の酒を漏斗(ろうと)に注げば(予算配分)、そのまま酒ビン (GDP)に一升弱の酒が落ちてく
るだけのことだ。いくら「需要政策」を採っても経済は活性化も膨張もしないのである。
この国では、過去十数年にわたって「景気対策」として総計百数十兆円の財政を投入し、かえっ
て構造的には事態をますます悪化させてきた。公共投資論者は、そのことを省みない原理主義者″
である。
この賭はいくら張っても当たらない。彼らが「景気対策」が効果を現さなかった毎年ごとの偶発
的要因をどれほど説いてみても説得力はない。株価が反応したことがある、といえばそれはあるだ
ろう。しかし、それは株式市場がある以上当たり前のことであり、マクロ経済の趨勢(すうせい)とは無関係な
のである。
これに対して、小泉改革が採用している前者の考え方は、不良債権をまず処理し、金融機関と企
業を身軽にする必要があるとみる。そのうえで民間部門の構造改革を進め、サービス産業やIT産
業を起こしていけば、景気回復が実現するというのである。しかし、これでは、手術はしてみたが
病人は死んだ、という結果になる。民間部門の改革や景気回復のくだりにいたっては、日本経済の
体質に関する認識の乏しさと、構造改革の内容の薄さを露呈しているといわざるを得ない。官制経
済という経済の「砂地」に対して、どれほど種を播いても、耕しても、芽は出ないことを知るべき
である。
さて、本書で私は、政官権力が政官権力のために作った日本の国家システムを作り替える「構造
改革の戦略」を提示する。
「構造改革」は一億二七〇〇万人が生活を営んできた経済、社会に対する大手術である。目標と手
順を一歩誤っても致命傷である。何より心配であるのは小泉氏の挫折とともに「日本の構造改革」
が失敗し、日本崩落″ が現実のものとなることだ。
よしんば小泉氏が挫折したとしても「構造改革」を挫折させるわけにはいかない。小泉氏は私の
主張を採り入れ、なんとしても「日本の構造改革」を成功させてほしい。
本書は、はじめの三つの章で、官制経済が支配する日本の現状を描出する。第一章が特別会計、
財投、補助金を中心とする財政問題、第二章が特殊法人と公益法人を中心とする 官企業″の問題、
そして第三章が公共事業の問題である。それらを踏まえて最終の第四章で、この国に必要とされる
「市場革命」の内容を提言する。
この国をどう改造すればよいかについての処方箋を手っ取り早く知りたい読者は、第四章をまず
読まれたい。また、この国の経済の病の深さを具体的に知りたい読者は、それに先立つ三つの章を
読んでいただきたい。
(つづく)
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