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(回答先: チェ・ゲバラ 世界を変えようとした男 投稿者 中川隆 日時 2017 年 6 月 03 日 19:50:37)
「泣いたのは初めてです…」“世界一貧しい大統領”ホセ・ムヒカ85歳の言葉に日本人通訳が嗚咽した日
中村 竜太郎 2020/10/28
「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
2012年6月、ブラジルのリオデジャネイロで開催された国連の「持続可能な開発会議」(以下リオ会議)。世界の首脳・閣僚が参加し、自然と調和した人間社会の発展や貧困問題が話し合われたが、演壇に立った南米のある大統領のスピーチが、世界中の感動を呼んだ。8分間の熱弁が終わると、静まり返っていた会場は沸き立ち、聴衆の拍手は鳴り止むことはなかった。
ウルグアイ第40代大統領ホセ・ムヒカ氏 ©文藝春秋© 文春オンライン ウルグアイ第40代大統領ホセ・ムヒカ氏 ©文藝春秋
ウルグアイ第40代大統領ホセ・ムヒカ氏(85)は、この演説をきっかけに一躍時の人となり、質素な暮らしぶりでも注目された。大統領公邸には住まず、首都郊外の古びた平屋に妻のルシア・トポランスキ上院議員と二人暮らし。古い愛車をみずから運転し、庶民と変わらない生活、気取らない生き方を貫いた。そしていつしか尊敬を込めて、「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれるように。国のトップになっても給与のほとんどを寄付していたことでも知られるムヒカ氏が、2020年10月20日、上院議員を辞職した。2015年に大統領職を退任後、上院議員として活動していたが、この日、高齢と持病を理由に引退を表明したのである。
ムヒカ氏は議会で「慢性的な免疫疾患があり、新型コロナウィルスの流行で私自身の健康が脅かされている、それが直接的な引退の原因だ。議員の仕事は人と話し、どこへでも足を運ぶこと。しかし感染の恐れでそれもできなくなった」と説明。「政治を捨てるわけではないが、第一線からは去る」と述べ、さらに後進に、「人生の成功とは、勝つことではなく、転ぶたびに立ち上がり、また進むことだ」とメッセージを送ったのである。
2015年の夏。文藝春秋の大松芳男編集長(当時)と打ち合わせをしていたときに、ムヒカ氏の名前があがった。2014年末にジャーナリストとして独立した私は、以前から行きたかったブラジル、アルゼンチンなどの南アメリカ諸国へ旅立った。約2か月間ひとり旅を続け、帰国してから、その体験をもとに東京スポーツで「南米放浪記」という記事を書いていた。地球の反対側にある南米は日本人にとって異世界で、スペイン語しか通じない。快適とはいえない旅だったが、南米の風土、気質を存分に味わえた。そして私のテーマは日本人移民の足跡をたどることだった。
その内容を面白がってくれた大松氏が、「竜太郎さんは南米に詳しいから、ムヒカ大統領のインタビューやろう」と提案してくれたのだ。だが、お恥ずかしい話、そのときまで彼のことは知らず、リオ会議のスピーチをもとにした絵本『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』(汐文社)が15万部超のベストセラーとなっていることをあとで知った。私はウルグアイ在住の人にかけあい、自力で大統領官邸にオファーを続けた。しかし返答がなく、途方に暮れていたところ、2016年に吉報が舞い込んできた。『ホセ・ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領』(角川文庫)の刊行に合わせ、初来日が実現したのだ。そして4月6日、角川書店の会議室でインタビューできることになったのである。
“清貧の思想”を持つ好々爺は、長年ゲリラの闘士だった
本名ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダノ。1935年5月21日、スペイン系の父とイタリア系の母の間に、ウルグアイの首都モンテビデオで生まれた。7歳のときに父親が亡くなり、家庭は貧しかった。モンテビデオ大学を卒業後は家畜の世話や花売りで生計を立てながら、1960年代に社会運動に目覚め、極左武装組織ツパマロスに加入。ゲリラ活動中には6発の銃弾を受け、4度の逮捕を経験。軍事政権下、最後の逮捕では、13年間獄中生活を送ったという。恩赦で出所後、左派政治団体を結成し、1994年に下院選挙で初当選し、2010年大統領に就任した。
いったいどんな人物なのか。彼にまつわるあらゆる書物や記事、映像資料を見て、インタビューに備えた。“清貧の思想”を持つ好々爺。そんなイメージを得たが、一方で気になったのは、長年ゲリラの闘士だったこと。写真で見る穏やかな表情の裏に、どんな人生があったのか、とても気になった。
私は、ムヒカ氏の到着を待った。日本人論を聞こうとか、日本人移民との交流を深く聞こうとか、質問は山ほどあるにせよ、限られた時間内で収めなければならない。片道30時間以上の長旅のうえ、ご本人が高齢のため体力的な負担をかけるわけにはいかない。スペイン語の通訳を介してのインタビューになるので、通常の倍時間がかかる。そんなことを心配しながらいると、ムヒカ氏が登場した。ゲリラ活動をともに戦った同志で、ムヒカ氏をずっと支えてきたルシア夫人と2人の男性ジャーナリストも随行。大テーブルをはさんで、目の前にムヒカ氏と通訳の日本人女性。私は旅行で習ったスペイン語で挨拶し、手前に座った。
背丈は日本人と変わらず、貫禄のある体格。ムヒカ氏はテーブルの上で手を組み、チャーミングに微笑んで「お好きな質問をどうぞ」と切り出した。質問をするたびうなずいて、ゆっくりおだやかな口調で語った。大事なところでは、まっすぐに私の目を見つめ、「自分が言いたいことは、これなんだ」という強い意思がはっきりと伝わった。
質素な暮らしの理由、日本人から学ぶべきこと、世界を支配する強欲資本主義、チェ・ゲバラからの影響、そして老人の孤独死にいたるまで話は及んだ。驚いたのはムヒカ氏が日本の「明治維新」に興味を持ち、学んでいたことだった。当初は少し緊張していたふうに見えたムヒカ氏だったが、持論を語るにつれ、次第に言葉が熱を帯びてきた。
「私たちは非常に多くの矛盾をはらんだ時代に生きている。こういう時代にあって、自らに問わなければならないのは“私たちは幸せに生きているのか”ということだ。経済の進歩は、一面で非常にすばらしい効果をもたらした。150年前に比べれば、寿命は40年延びた。その一方で、私たちは軍事費に毎分200万ドルを使っている。また、人類の富の半分を100人ほどの富裕層が持っている。私たちはこうした富の不均衡を生み出す社会を作ってしまった」
ムヒカ氏の顔には深いしわが刻まれ、人間の年輪を感じた。柔和な風貌なのに、岩のような厳しい表情が見え隠れする。この人は本物だ、と感じた。
通訳の女性は「泣いてしまったのは初めてです、すみません……」
時間がなくなり、最後の質問で、私は「ムヒカさんがこれまでで一番幸せだなと感じたことはなんでしょうか」と訊ねた。ムヒカ氏は組んでいた手を一瞬ギュッとして、考えをめぐらせた。
私はかたわらで静かに見守っているルシア夫人を見て、きっと「妻と出会えたこと」ではないか、ロマンチックな回答を内心期待した。著書にも「ルシアは私の人生を変えた」「二人の間に子どもは欲しかったけれど、授かりやすい時代を刑務所で過ごしたから、それは仕方がなかった」とあったからだ。
静かに語るムヒカ氏の言葉を拾った通訳の女性が、突然、天を見上げて嗚咽を漏らし始めた。「本当に、すみません、私、長いこと通訳の仕事をしていますけど、こうして泣いてしまったのは初めてです、すみません……」
いったい何があったのか。その光景に驚きながら、彼女の通訳を待った。
そして、完全に打ちのめされた。思わず言葉を失った私を、ムヒカ氏は「大丈夫だ。頑張って」と、握手して引き取ってくれた。ざらりとした太い指とぬくもりのある手のひら。包み込むようなあの感触は忘れない。彼の生き様に触れたような気がした。
その答えは、「文藝春秋2016年6月号」および「文藝春秋digital」に掲載されている「 日本人への警告 」を読んで、ぜひ知ってほしい。
(中村 竜太郎/文藝春秋 2016年6月号)
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