★阿修羅♪ > リバイバル3 > 715.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
チェ・ゲバラ  世界を変えようとした男
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/715.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 6 月 03 日 19:50:37: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 投稿者 中川隆 日時 2017 年 5 月 07 日 04:13:51)

チェ・ゲバラ  世界を変えようとした男 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ErkVFI_HTDE


チェ・ゲバラ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%90%E3%83%A9

キューバ革命を勝利に導いた英雄たちの引き裂かれた友情――ゲバラ・カストロ 1/2
http://blogos.com/article/226557/

2人の革命家の圧倒的な存在感

 結末をあえて書えてしまおう。最後にこの作品ではチェ・ゲバラの遺体の映像が出てくる。キューバ革命をカストロと共に先導したが、ある事でキューバを半ば追われて、アフリカ・コンゴ動乱に加わり、39才で南米・ボリビアの大統領命令で銃殺された。横たわるゲバラの映像は世界に配信された。

 それは世界的革命家の栄光のかげもなく、目を見開いた髭面の哀れな反逆者の末路を物語っている様にも見える。共産主義革命を恐れるアメリカ・CIAの手によるものと言われているが、事の真相は闇の中だ。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 しかし、この作品は一見ただキューバ革命の歴史を追っている作品の様に見えながら、何か胸を熱くするものがある。それはやはり個性の異なる二人の革命家ゲバラとカストロの圧倒的な存在感にある。

 たとえ、CIAによる策略やイメージ操作があったとしても大国アメリカ合衆国を相手に、その軍門に下らない為に闘う小国キューバの二人の姿は神々しくすら見えるのである。

 もしかしたら、この1時間弱と言うこの作品の長さは短か過ぎるとも言える。二人の革命闘争は2時間以上あっても良い程、様々な起伏に富んでいる。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


植民地の様相を呈していた革命前のキューバ

 この作品では冒頭のナレーションで「カストロは権力を、ゲバラは革命を欲した。」としている。まるで二人に終始確執があったかの様に。

 だが、最初にメキシコで二人が出会った時、キューバの弁護士だったカストロはアルゼンチンから来た革命について熱く語る青年医師ゲバラに一目ぼれするのである。

 革命前のキューバはあたかもアメリカの植民地の様相を呈していた。キューバは砂糖の原産地として重大な拠点だった。たかが「砂糖」と言うなかれ、「砂糖の歴史」を調べてみるとわかるが、欧米諸国は17世紀ころからカリブ海・南太平洋・南米・西インド諸島等に彼らの嗜好品である砂糖のプランテーションを作るために、アフリカから黒人奴隷などを労働力として入れるなどして、半ば植民地化していたのである。

 キューバは革命前、米国の傀儡(かいらい)だったバティスタ政権、アメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアにほとんどの利益が吸い取られる様な仕組みになっていた。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 最初はほんの小さな武装蜂起に過ぎなかったカストロとゲバラによる動乱が、やがて革命へと転じて行くには、ゲバラのカリスマ性と武装能力、カストロの政治力と戦略性が必要だった。

 1959年バティスタ政権を転覆する。アメリカはこの新政権をただちに承認するが、キューバによるアメリカ企業の財産没収と国有化により、アメリカとの関係が即時に悪化する。カストロはソビエト連邦に接近しキューバの「砂糖」とソ連の「石油」を交換し両国の蜜月が続く。
http://blogos.com/article/226557/


キューバ革命を勝利に導いた英雄たちの引き裂かれた友情――ゲバラ・カストロ 2/2
http://blogos.com/article/226557/?p=2


英雄は最後まで優遇されるとは限らない

 この作品では1960年の貴重なカストロによるニューヨーク・国連総会におけるカストロの4時間半に渡る演説の一部も出てくる。「我々は共産主義者ではない。」と言いながらアメリカのど真ん中でアメリカの横暴をカストロは非難したのだ。

 生涯、カストロは「資本主義最大の敵」として50年間で638回もの暗殺計画の対象となった。これは「世界で最も暗殺計画の対象になりながらも生き延びた人物」としてギネスブックにも登録された。

『ザ・ライバル』マンデラVSデクラーク 〜平和へのライバル〜より


 1962年。ソ連の最高指導者フルシチョフが休暇中にとんでもない事を思い付く。

 「そうだ、アメリカに対する抑止力の為にキューバに核ミサイルを置こう。」

 アメリカの鼻先のキューバにである。間もなくアメリカのU-2偵察機がこれを発見し、米ソ入り乱れての核戦争の可能性を含むいわゆる「キューバ危機」が訪れる。あわや世界戦争という直前、どうにかフルシチョフとケネディが交渉の場に立ち危機を回避したが、キューバとアメリカの関係は最悪になる。

 米国と敵対するキューバはソ連に様々な援助を頼るしかなかったが、あろうことか純粋革命家チェ・ゲバラは外遊中の北アフリカのアルジェリアでソ連を非難、「帝国主義的搾取の共犯者」と呼ぶ。ソ連が東欧諸国等に対して搾取的であると言い放ったのだ。

 ソ連首脳陣は激怒。キューバに「ゲバラを追放しなければ援助を削減する」と通告。ゲバラはその事を知り妻と子供を置いて自らキューバを離れる。

 「カストロは権力者」とこの作品では言っているが、これは日本でも海外でも、よくある事だろうと思う。「創業者」「英雄」は必ずしも最後まで優遇されるとは限らないし、この半ば追放に近い出来ごとはひとつの悲劇でもあるし、ゲバラの出国を止めることすらしなかったカストロによる国や組織を守る者の「苦渋の決断」とでも言うのだろうか。

 そしてゲバラはアフリカのコンゴ、南米のボリビアと渡り死去。彼は生前「第二第三のベトナムを作るべきである。」との言葉を発し、大国の支配から小国はいち早く離脱すべきだと説いていたので、当時のソ連の横暴をどこかで感じていたのかも知れない。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 南米諸国はラテンアメリカで、まるで宗主国の様に振舞い続るアメリカ合衆国に対抗するカストロの姿に主義主張を問わず共感した。政治家・カストロは同じ共産圏である中華人民共和国にも接近し一時、友好関係を結ぶが、ソビエト連邦と中国の間で対立が起り、キューバ・中国間の関係は悪化する。

 しかし、毛沢東死去後、経済成長を遂げた中国はキューバにとって重要な援助国になっている。2008年5月「四川大地震」が発生したとき、即座に多くのキューバの医療チームがカストロの指示によって送られる。

 両国の絆はさらに深まる。カストロの政治的感覚は晩年になっても衰えていなかったのだ。そして2016年11月25日死去。

ゲバラが受けた「ヒロシマでの衝撃」

 一方、最後にこんな逸話も紹介しておこう。

 1959年7月15日、革命からわずか半年後、チェ・ゲバラは日本にキューバ使節団の団長として訪問している。戦後、奇跡の経済成長を成し遂げつつある日本にやって来た。自動車工場などを見学し、その時「ヒロシマ訪問」を望んだ。

 しかし、革命を成し遂げたゲバラの重要性をあまり認知していなかった日本政府はそれを望まなかった。そこでゲバラは秘密裏にヒロシマ入りし、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪問した。大きな衝撃を受けたゲバラはその時、中国新聞の記者・林立雄氏にこう語っている。

「なぜ日本人はアメリカに対し、原爆投下の責任を問わないのか。」

また、宿泊先で故国に即手紙を書き

「全ての人はここに来なくてはならない。」

と伝えた。

 ゲバラはキューバに帰国後「ヒロシマでの衝撃」を報告し、キューバではそれ以来、初等教育から広島・長崎への原爆投下の経緯とその結果がかなり丁寧に教育されていると言う。

 それは「キューバ政府とゲバラによる反米教育」だったのか? 「純粋革命家ゲバラの感じた無抵抗な市民への大国アメリカの攻撃に対する怒りの表現」であったのか?

 キューバで育ち、後に小児科医になったチェ・ゲバラの娘、1960年生まれのアレイダさんは2011年の東日本大震災後、福島と宮城を訪れ

「キューバなら国家が先頭にたって復興させる」

と語った。

 そして、現代。米国トランプ大統領はメキシコからの不法移民を一掃すると言った。

 しかし、メキシコを通過してアメリカに入って来るのはメキシコ人だけでなく、国情不安定で国を脱出せざる負えない南米諸国からの移民も多いと聞く。それは歴史的にアメリカや欧州諸国の半ば植民地化され搾取・蹂躙され、過去の清算ができないまま独立したとしても、なかなか安定出来ない貧しい国から脱出してきた人たちである。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 今は亡きゲバラとカストロが生きていたら、このトランプ発言に対しどう反応したのであろうか? 我々はこのカリブ海の小国「キューバと革命家」についてもっと知るべきではないのだろうか。
http://blogos.com/article/226557/?p=2  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
1. 中川隆[-6542] koaQ7Jey 2017年9月02日 17:13:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


2017年9月2日 ゲバラ日記を海外進出の反面教師とする
独裁の命運4 風樹茂 (作家、国際コンサルタント)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/10490


 この夏、東京で写真展「チェ・ゲバラが見た世界」(8月27日まで)が開催されたのを機に40数年振りに『ゲバラ日記新訳』(中央公論)を再読してみた。中学1年のときに幻滅したのと同様に、植民化のためにボリビアに土足で踏み入れ、住民にとてつもない迷惑をかけた山賊行為だったと再認識した。なぜ世間がゲバラを英雄視するのかさっぱり分からない。と、同時に、ボリビアの密林の臭い、知人のボリビア人たちの顔をまざまざと思い出した。

 筆者はゲバラが1年弱ゲリラ戦を展開したボリビアのサンタクルス州で2年半ほど鉄道敷設の援助プロジェクトに従事した。その後、数々の海外プロジェクトに関与したが、ボリビアでのゲバラの戦いほど杜撰なものは見たことがない。せっかく克明な日記(海外プロジェクトで求められる日報、週報、月報に相当する)を残してくれたのだから、それを海外進出事業の反面教師として活用しない手はない。


1. ボリビア前史

扱いにくい外様の古参幹部は海外へ

 ゲバラはキューバ革命成功後、工業大臣や国立銀行総裁になるが、はかばかしい業績は上げられなかった。反革命派を粛清する血生臭い粛清や、理想を声高く述べるのは得意だが、他にこれといって活躍できる部門はない。アルゼンチン人で外様である。その上、キューバが後ろ盾となってもらうソ連に対して歯に衣着せない批判までする。このような幹部は外に出てもらうに限る。本人も自分の立ち位置に気がついてそれを望んでいた。

最初の海外進出は大失敗

 ゲリラ戦の場所として選んだのはコンゴだった。1960年にベルギーの植民地支配から独立したが、地域・部族の利害対立からすぐに内乱が始まりベルギー軍の介入を招いていた。一見すると、ゲリラが活動するには絶好の国? けれども、エジプトのナセル大統領やアルジェリアのベンべラ初代大統領は大反対している。「白人のゲバラがブラックアフリカで成功するはずがない」

 案の定、言葉もわからないキューバ軍は国内情勢をまったく把握できないまま、6カ月ほどで撤退する。現地の軍隊は規律もなく、呪術師が支配する社会であった。

 「アフリカは、ほんとうにとんでもない所だ。人間はとっつきづらい、まったく異なるそれぞれの部族が独自の首長と領土と〈くに〉を持っていて、それでいてひとつの国の中にみんな住んでいる。ほんとうにむずかしいけど、彼らが革命を取り入れる可能性はある。キューバ人はその点が上手だから」(『コンゴ戦記 1965』現代企画室 末尾の解説 太田昌国)

2. 杜撰な事前調査
進出国をまた間違える 


ゲバラが最初に潜んでいたボリビア・ラバス。標高3600m

 ボリビアは1952年から64年まで社会主義革命政府が、資源国有化、農地解放などをすでに行っていた。が、副大統領だったレネ・バリエントスがクーデターを起こし、炭鉱労働者などから成る社会主義者への締め付けを強化していた。

 今度は言語も同じスペイン語で、アルゼンチンの隣国だ。コンゴよりは成功の可能性がありそうに見える。けれどもボリビアはアルゼンチンやキューバと比べると、民族、歴史、文化、社会が多様に折り重なる重層的な国で、よそ者が国民を解放できるような所ではない。たとえば、戦後の混乱期に多国籍軍が日本国内でゲリラ戦を展開したとして、成功するか?

進出地域選定の大失敗

 ゲバラが進出先に選んだのは、ボリビア南部、サンタクルス州とチュキサカ州の境である。低地と高地の境目で密林山岳地帯への入口である。降雨が多く蚊やダニも多い。普段は暑いが、6月24日のサンフアンの祝日前後から、時々スル(南)と呼ばれる南極からの冷たい風が吹く。すると朝夕は寒い。鉱山はなく零細農牧業が主体である。村が点在し、人は疎ら。民族的には、高地系の先住民のケチュア族、先住民とスペイン人の混血、低地のグアラニー族との混血、白人などが混在している。


サンタクルス州の小村、人は疎ら

 ゲバラは農民革命を目指していた。ところが、クーデター後選挙で大統領に選ばれたバリエントスはケチュア系先住民の多いコチャバンバ州タラタ出身。演説はケチュア語で行っている。農地解放も続いている。また、先住民にはインディオ基礎共同体あり、共産主義など必要としない。バリエントスは先住民の農民には人気が高かった。今もボリビア史上農民の心を最もわかってくれた大統領とされている。一方左翼系の鉱山労働者やその組合とは対立し、彼らを虐殺している。

 進出地域に相応しいのは、鉱山地域だった。たとえば標高4000mのポトシ(世界史にも登場する銀山があり、今は細々と錫をとっている)、あるいはやはり錫鉱山があった標高3800mのオルロの山中が適切だ。筆者が親しくなったオルロの美術館長は、ばりばりの反米共産主義者だった。


「黒鷲の死」前オルロ美術館長マクロビオ作 (筆者所蔵)

 けれども、高地は酸素が薄い。アルゼンチン人、ましてやキューバ人が活動できる環境ではない? 筆者はポトシで、試しに場末の酒場数軒でビールを何本も飲んだが、夜、心臓がばくばく音を立てて鼓動し、朝まで眠れなかった。

 その反対に、酸素の薄いアンデス高地から酸素の濃い低地に降りてきたコーヤ(後述)は、太腿が膨れ上がり、体調不良となることがある。ヘモグロビンの量が増えすぎるからである。


3. ゲリラ活動
地元組織との連携に失敗する

 海外進出事業は適切な地場の企業との協力が不可欠である。筆者の従事した鉄道事業では、ボリビアの日系企業と合弁することができ、おかげで随分と助かった。ゲリラ事業も同じである。地元をよく知るグラスルーツの革命組織との連携は欠かせない。ところが、ゲリラ開始早々に、ゲバラはラパスを拠点とする共産党の書記長マリオ・モンヘと決裂してしまう。

ゲバラ「ゲリラ部隊の副隊長のお出ましだな」

モンヘ「まさか、ボリビア国内で革命をするのだから、ナンバーワンはおれをおいてほかはない」

 ゲバラの内心はこうだったであろう。

 「ボリビアのサンタクルスに開設したのはキューバ支店だ。革命を成功させた経験のあるおれが支店長だ。ボリビアの地から南米全土に革命支店を広げる」

 謙虚さが欠如した海外プロジェクトは必ず失敗する。 

多国籍軍団を統率できない

 プラント建設の海外事業では、従事する社員の国籍は20〜30にわたる。ゲバラのゲリラ軍団は、キューバ人16名、ボリビア人23名、ペルー人3人、アルゼンチン人のたかだか4カ国程度から成る混成部隊である。だがゲバラはうまく統率できない。とりわけ、キューバ人とボリビア人の間の不信感は最後まで解消しない。

 「私は、先遣隊内にキューバ人を見下す傾向があるのに以前から気付いており、その傾向については昨日カンバが、リカルドとの諍いがあって以来自分のキューバ人に対する信頼感が日増しに希薄になっているとコメントしたことで、いっそう表面化したように思う」(ゲバラ日記)

 ゲバラの撮った写真の被写体の多くは遺跡か工場などの建物で、人は驚くほど少ない。人間が苦手だったのではないか。

 多国籍軍を束ねるには、リーダーか副官が人間関係の機微の中に入り込み、日々不満を解消する必要がある。さもないと、個々員の負の感情が内向し、グループは瓦解する。

地元のボリビア隊員を敵に回す

 「私はパコ、ぺぺ、チンゴロ、エウセビオにも、働かないものは食うべからずと申し渡し、解雇すると宣言した。私は彼らの煙草の配給を一時停止し、彼らの私有物についても彼らよりも困っている同志たちに再配分した」

 この4人は全員ボリビア人であり、「ゲバラ日記」では徴兵不合格組と訳されている。けれども、日常よく使うresacaというスペイン語の意味からすると、二日酔い組としたほうが相応しい。彼らは行軍では始終もたもたしていたようだ。実際どこかの村で地酒を手に入れて、仕事にならないことがあったのではないか。

 解雇と宣言したならば、すぐに出て行ってもらうか、排除する必要がある。まったく別の立場だが、筆者の従事した鉄道事業でも左翼系の活動家が労働者をオルグするために入ってきたので、早々解雇した。

 もし解雇しなければ、それは当時の中南米(80年代)や今の中近東、アフリカなどでは生死にかかわる問題となる。実際、少し前には、アフリカで筆者も勤務したことのある日本企業が企業内の内通者がいたせいもあって凄惨なテロの被害にあっている。

 逆にもし、今後もゲリラとして継続勤務してもらいたいならば、人前で叱責するような面子を潰す行為は避けねばならない。彼らの敵愾心に火をつけるだけである。結局、解雇宣言の3カ月後、彼らは脱走し、ボリビア軍への情報提供者となる。武器、医薬品、食糧、文書類の隠し場所が暴かれたのは致命傷だった。


ボリビアの特殊性を最後まで理解していない

 海外事業を成功させるためには、地域の特殊性を把握し、適正技術、適正規模、適正プロジェクト形態を作ることが欠かせない。だが……

 「カンバとチャパコは軟弱者たちである」

 2人ともボリビアの低地の出身者である。ゲバラ日記ではカンバ族と翻訳されているが、
誤解されやすい。人種や民族による区分ではない。ボリビア全土で低地の人間はカンバ、高地の人間はコーヤといい、文化・生活様式が大きく違う。

 高地はどちらかというと先住民の血が濃い人々が住む。日本人が思い描く、山高帽をかぶってケーナの笛やチャランゴでフォークロ―レを奏でる人々である。けれどもその地域の人間ならば白人であってもコーヤと呼ばれる。勤勉で政治的で忍耐強く倹約家で酒飲みである。労働運動や共産主義に親和的なのはコーヤのほうだ。

 一方カンバの住む低地は、先住民は少なく、混血か白人の血が濃い。人生の価値は享楽的で酒、女、カーニバル。音楽も陽気なクンビアである。ゲリラには向かないし、主義のために死ぬなどばかばかしいと本来考える人々である。

 結局、カンバはゲリラ戦数カ月で脱退を申し出、脱走する。チャパコは精神を患ったまま、脱走せずに最後までつきあい機銃掃射で殺される。なおチャパコとは、アルゼンチン国境のタリハ州の人間を指し、青い目の美人が多く、日本では知られていないが素晴らしいワインの産地である。

 ゲバラは社会的、地理的条件によってゲリラ戦の形態や手法も変わってくると理論上考えていたが、日記にはこのような文化の相違の記述はない。

兵站の杜撰さ

 『ゲバラ日記』には食べ物にかかわる記載が充満している。第二次世界大戦のときのインパール戦や南太平洋での日本陸軍を思わせるほど兵站は杜撰である。食糧や水は現地調達。だから隊員はいつも腹が減っている。子猿、野ブタ、鳥 椰子の芽(パルミータ)を狩猟し、荷物運搬用の馬を次々に殺して食べていく。

 さらに会計事務所のあったラパスやキューバ本社や前衛隊と後衛隊との通信手段さえない。ハンディトーキーも他の無線機器も持っていない。ゲバラがトランジスターラジオでニュースを聞くだけである。

盗み食いが頻発する

 空腹の前で革命は虚しい蜃気楼となる。

 「ミルク缶を取りに出向いたところ、不可解にも23缶が蒸発していることを発見した。モロが48缶置いてきたが、誰にも横領する暇はなかった筈だ」

 「私は、べニーニョを、缶詰を食したにもかかわらずそれを否認したことで、ウルバノを、チャルキ(干肉)を皆に隠れてこっそり食べたことで、そしてアニセトは食べ物に関係することならなんでも熱心に手伝うのに、それ以外はなにひとつ協力したがらないことで非難した」

 ゲリラの生き残りの1人キューバ人のアラルコン・ラミレス(キューバに幻滅し94年にフランス亡命 2016年没)は「8月になると40度の炎暑の中、6日間水がなかった」と述懐している。食糧も水もなければ当然、士気は堕ちる。それどころかボリビア人戦士でキューバ留学経験者のチャパコは精神が崩壊した。

住民を敵に回す

 ゲリラは基本的に金を支払って農民から食糧を調達していた。時には時価の3倍も支払って薬なども買っている。けれども、多雨密林地域ではすぐに道が途絶する。ある程度食糧の備蓄がいる。ジャングルの中での鉄道建設事業でも鉄道のストライキと豪雨のせいで一週間ほど交通が途絶して200人分の食糧が不足しそうになった。隣町の市場に出向いて野菜などを購入したが、市場にあるすべてを購入するわけにはいかない。日本企業が買い占めたと住民の反感が募る。 

 ゲバラにはそういう類の住民配慮が足りなかったか、その余裕がなかった。

 「上下両方からやってくる農夫たちを次々に拘留していったので、多種類の捕虜を捕まえることができた」

 「われわれは生活物資と大量のバナナを積載したトラックを、かなりの人数の農民もろとも強奪した」

 「一軒は家の者全員が逃げ去ってもぬけの殻だったので、そこにいたラバを徴発した。もう一軒の家のものは全然協力的でなかったので、脅しに訴えなければならなかった」

 道案内に農民の男たちを連れていく時には、家に残された女たちは泣きわめいていた。イラクで家々を誰何して回るアメリカ軍と変わるところはない。このような態度では農民を味方にすることなど到底無理。ゲバラは6月と9月の解析で以下のように記載している。

 「農民を補充兵として取り込めないままでいる。彼らは扱いにくい集団である」

 「軍隊が実戦においてより有効性を発揮しつつあり、農民がわれわれを支援するどころか情報提供者になりつつある」

引き際を間違える

「敗北を匂わす風が吹いていた」

「万事が完全なカオスの風を呈しており、なにをどうしたらよいのか誰も分からない」

 3月20日付けの記載である。ゲリラ事業が5カ月弱立った段階で、まだ状況を把握できていない。海外プロジェクトの現場は筆者の経験だと最初の3カ月は何をどうしたらよいのかさっぱりわからないという状況に置かれる。けれどもそのあとには徐々に周囲の環境を理解し、プロジェクトは進捗していくものだ。

 けれどもゲバラのゲリラ事業は違った。なるほど海外プロジェクトや投資の引き際の決断は、誰にとっても難しい。失敗したと分かっていても泥沼に嵌る事例があとを断たない。ゲバラは6月14日の誕生日には「39歳になりゲリラとしての将来についても考えなければならない」と記していたのだが。結局、多くの若い命を死地へと追いやることになる。

山賊としての死を自ら予言する

 ゲバラはボリビアで殺害される7年前に『ゲリラ戦争』を発刊している。その中でこう述べている。

 「ゲリラ戦士は地域住民の全面的な援助に頼っている。これは必須条件である。このことは地域に横行する、たとえば山賊の場合を考えてみれば明快に理解できる。彼らは統制、リーダーへの尊敬、勇敢さ、土地勘など、ゲリラ軍が持つ多くの特徴を備え、とるべき戦術を正しく理解している事さえしばしばである。ただ一つ、欠けているのは人民の支持であり、だから彼ら一味は必然的に軍や警察に捕らえられて掃滅される」)『ゲリラ戦争 新訳 チェ・ゲバラ 中公文庫』

 67年10月8日ゲバラは部下とともに ボリビア軍に捕らえられ、翌日銃殺された。

 「写真家 チェ・ゲバラが見た世界」は大盛況だった。ある中年女性は涙をながさんばかりに、「感動したわ」と言って出てきた。こうして世間はゲバラを英雄として崇めていく。

 一方、私は中学生のときから、世間を信じることができなくなった。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/10490



2. 中川隆[-6191] koaQ7Jey 2017年10月15日 17:54:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017.10.15
50年前の10月9日にボリビアでゲバラを殺したCIAはゲバラが66年までいたコンゴでもクーデター


今から50年前、1967年10月9日にエルネスト・チェ・ゲバラがボリビアで殺された。その当時のボリビアを支配していたレネ・バリエントス・イ・オルトゥニョは1964年11月の軍事クーデターで実権を握った独裁者で、アメリカ大使としてボリビアにいたダグラス・ヘンダーソンからゲバラを処刑するように命令されていたと言われている。その当時、まで存在が認められていなかった電子情報機関のNSAはゲバラの動きを正確に把握していた。

ボリビアでゲバラに撃ち込む銃弾の位置も指示していたCIAのフェリックス・ロドリゲスはジョージ・H・W・ブッシュ(エール大学の学生だったときにCIAからリクルートされた可能性が高い)と親しく、ベトナム戦争ではCIAの秘密工作に参加していた。

その工作とは麻薬取引や住民皆殺し作戦とも言えるフェニックス・プログラムで、テッド・シャックレー、リチャード・シコード、リチャード・アーミテージなど1980年代に浮上したイラン・コントラ事件(イランへの武器密輸とニカラグアの反革命ゲリラに対する違法支援)で中心的な役割を果たした人物も含まれている。後に統合参謀本部議長や国務長官になったコリン・パウエルはフェニックス・プログラムの内部告発をもみ消す仕事をしていた。シャックレーもブッシュと親しい。

ゲバラは1966年11月にボリビアの首都ラパスへ入っているが、その前、1965年の初めからコンゴで活動していた。コンゴは金やコバルトなどを含む鉱物資源に恵まれた国で、ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジック系のユニオン・ミリエール(ユミコアへ名称変更)がウラニウム鉱石を採掘している。

1940年にドイツはウラニウム鉱石1200トンをユニオン・ミリエールから入手している。フランクリン・ルーズベルト米大統領が急死した1945年4月12日、アメリカ軍はドイツの施設でウラニウム鉱石約1100トンを発見してソ連軍の手が届かない場所へ運び去ったが、それはその一部だ。ルーズベルトはソ連を同盟国と考えていたので、急死しなければマンハッタン計画を推進していたグループにとって面倒なことになっただろう。(Simon Dustan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)

ユニオン・ミリエールで重役を務めたことのあるラウンデル・セシル・パーマーはチャールズ・ハンブロと同じように、イギリスの破壊工作機関SOEの中心的な人物。ハンブロは銀行一族のメンバーで、マンハッタン計画にも関係していた。アメリカの情報活動や破壊活動はSOEやイギリスの対外情報機関MI6を師としている。

資源の宝庫、コンゴは1960年2月に独立し、6月の選挙でパトリス・ルムンバが初代首相に選ばれる。それを受け、コンゴ駐在アメリカ大使のクレアー・ティムバーレークはクーデターでルムンバを排除するように進言するが、同大使の下には後に国防長官となるフランク・カールッチがいた。ドワイト・アイゼンハワー大統領は同年8月にルムンバ排除の許可を出している。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

アメリカ支配層に選ばれたモブツ・セセ・セコが9月にクーデターを成功させ、12月にルムンバは拘束された。1961年1月17日、ジョン・F・ケネディが大統領に就任する3日前にルムンバは刑務所から引き出されてベルギーのチャーター機に乗せられ、ルムンバの敵が支配する地域へ運ばれて死刑を言い渡され、アメリカやベルギーの情報機関とつながっている集団によって殴り殺された。1月26日にアレン・ダレスCIA長官はコンゴ情勢について新大統領に説明しているが、ルムンバ殺害について触れていない。(前掲書)

そのケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺され、その2年後にゲバラはモブツが支配するコンゴへ入って活動を始めたわけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710150000/


3. 中川隆[-12074] koaQ7Jey 2019年2月19日 12:21:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22249] 報告

「スリルに生き、スリルに死ぬ」ことを求める人はチェ・ゲバラになれる

アルゼンチンに生まれ、カストロと共にキューバ革命を成功させた筋金入りの革命家、チェ・ゲバラは幼児の頃から喘息に苦しむ少年だったが、異様なまで激しいスポーツを好む性格があった。じっとしていられない子供だった。

大学は医学部に入学したのだが、この頃にオートバイでラテンアメリカを放浪して回り、医学部を卒業してからも、再びラテンアメリカを放浪して回った。その後、メキシコでカストロ兄弟と出会うと、危険な革命に身を投じるようになり、死の危険の中でキューバ革命を成し遂げている。

ところで、こんなことを思わないだろうか。

戦場は非常に過酷な場所であり、飲み物、食べ物もゆっくりと取れず、深刻なケガをする確率も高く、神経が休まる暇もない。しかも場合によっては敵と向かい合って撃ち合い、殺したり殺されたりする。

だから、誰もこんな「仕事」に自分から就きたいと思わない。まして、ゲリラ部隊は正規軍と違って装備される武器も限界があり、死の危険はことさら大きい。もし、「ゲリラ」も職業であるとしたら、そんな仕事は誰も就きたいと思わないはずだ。

しかし、そんな「誰も就きたがらない仕事」なのに、チェ・ゲバラのように、少なからずの人間が過酷な現場に浸りきり、のめり込むのである。なぜ、そんなところに行きたいのだろうか?(鈴木傾城)


過酷で、危険で、悲惨で、極限的

チェ・ゲバラだけではない。一度、戦場に送り込まれた人間の中には、ある一定数の「戦争中毒者」が生まれるというのはよく知られている。彼らは過酷な戦場で戦うことを欲して、身体も、考え方も、常識も、すべてが「戦場」という場所に合うようにチューニングされていく。

だから、戦場から外されて平和な世界に戻っても、まったく馴染めなくて、またもや危険な戦場に戻り、それで満足する。チェ・ゲバラもそうだった。

根っからの「革命家」だったゲバラは安定した環境にはまったく関心がなく、次々と「戦場」を求めてさまよっていた。1966年にはアフリカのコンゴにいた。コンゴ動乱に参加していたのである。

1960年代は東南アジアのベトナムで共産主義者ホー・チミンが強大なアメリカを相手に戦争を続けていた。ゲバラは「二つ、三つ、さらに多くのベトナムを作れ!」と1967年4月16日、三大陸人民連帯機構から世界に向けて叫んだ。


『どこで死がやってこようと我々の戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、我々の武器を取るために別の手が差し出され、他の人たちが立ち上がるなら、喜んで死を受け入れよう』

結局、革命を追い続けてきたチェ・ゲバラは、ボリビアで「反体制ゲリラ」として捉えられて銃殺された。39歳だった。

チェ・ゲバラは医者の免許を持っている。だから革命家にならなくても医者として平穏な人生を送ることもできた。しかし、そうしなかった。チェ・ゲバラはキューバ革命を成功させた。だからキューバでカストロと共に政権の座に座っても生きていけた。しかし、そうしなかった。

戦場は、誰が考えても、過酷で、危険で、悲惨で、極限的な場所である。そんなところに誰も行きたくないと思う。しかし、チェ・ゲバラはそうではなかった。まさにその極限(エクストリーム)を求めていたのだ。

自ら身を投じて突き進んでいく人間がいる

過酷であればあるほど、中毒のようになるケースはチェ・ゲバラのような戦場の兵士だけではない。たとえば、スポーツの世界でも、ボクシングや格闘技は誰が見ても危険なスポーツに見える。

ボクシングは、人間のもっとも重要な器官である「脳」を互いに殴り合うゲームである。顔面を殴り合い、脳にダメージを与え、相手が立てなくなるまで痛めつけるゲームだ。もちろん、自分が痛めつけるだけならばいいが、往々にして自分もまた痛めつけられる。

試合中はもちろんのこと、練習中も殴られ、叩かれ、しかもロードワークから減量まで、人間の身体をこれでもか、これでもかと痛めつける。トップに立って大金を儲けることができるプロはほんのわずかだ。

それで、こんな割の合わない野蛮なスポーツは廃れているだろうか。

いや、廃れるどころか、大勢の男たちがボクジング・ジムの門を叩いている。過酷で、危険で、悲惨で、極限的なスポーツに自ら身を投じて突き進んでいく人間がいるとは思えないが、それが「いる」のである。

彼らはまるで中毒になったかのように、過酷な世界から抜け出さない。ハマったら、抜けられない。カネのためだろうか。もちろん、カネも重要な要素であるのは間違いない。

しかし、彼らはそれだけではない「何か」を求めている。それは何か。極限的な環境だ。殺すか殺されるか。生き残れるか死ぬか。その極限(エクストリーム)こそが彼らの原動力になっている。

チェ・ゲバラと同じだ。


『戦いに行くために、快適な生活を捨てる覚悟のある者だけが、革命家の名に値する』

新奇性とスリルを求める人々

生き残れるかどうか分からないような極限(エクストリーム)の極地に立って、自分の生死をその瞬間に賭けたいという人間はいる。中東に突如として誕生した超暴力武装集団「ISIS」は、世界中からそうした志願者を集めていた。

このような人間がいることを、普通の人は理解できない。しかし、彼らは「地獄に行きたい」と叫ぶ。こうした人間を「戦争の犬」と言うのは、よく知られている。戦場で犬のように嬉々として走り回るのである。

アメリカのCIA(中央情報局)も、こうした戦争の犬を使って、途上国や戦乱国家でアメリカの正規軍が表立って動けない時に、ひとつの駒として使っているのは有名だ。途上国のクーデターや暴力デモの背景には、こうした戦争の犬が暗躍している。

極限(エクストリーム)に取り憑かれる人間は、いったい何に取り憑かれているのか。

言うまでもない。「スリル」である。

そのスリルは常に「死」と隣り合わせとなっている。テンプル大学のフランク・ファレイ教授は、危険なスポーツにのめりこみ、新奇性とスリルを求める人々をスリル(thrill)の頭文字を取って「T型人格」と定義した。

「T型人格」はスリルに大きな快楽を持つ。その快楽は危険であればあるほど強い。そのため、常に死を試すようなスリルを求める。つまり、こういうことになる。戦争中毒になった職業軍人は、戦場に「スリル=快楽」を感じている。

過酷であればあるほど、スリルが身体を痺れさせ、強烈な快楽を覚えてしまう。もうそこから離れたいとは思わないし、離れるどころか他人が止めても突き進んでいく。「危ないから行くな」と言われても、スリルの中毒になってしまっているので本人も止められない。

かくして、ボクサーはパンチドランカーになっても引退せず、ゲリラは撃たれて死ぬまで戦場を巡る。そして、最後はスリルによって散っていくのである。世の中は、一定数「T型人格」の人間が存在する。チェ・ゲバラもそうだった。ゲバラはこのようにも言っている。


『先のこと? 正直言って、自分の骨をどこに埋めることになるのかも分からない』

ゲバラの生き方を理解できるだろうか。そして、そこに心酔し、その生き方をなぞることができるだろうか。できる人とできない人がいる。できる人は間違いなく「T型人格」、すなわち「スリルに生き、スリルに死ぬ」人である。

逆の言い方をすれば、「スリルに生き、スリルに死ぬ」ことを求める人は、チェ・ゲバラになれる。(written by 鈴木傾城)

ゲバラの生き方を理解できるだろうか。そして、そこに心酔し、その生き方をなぞることができるだろうか。できる人とできない人がいる。できる人は間違いなく「T型人格」、すなわち「スリルに生き、スリルに死ぬ」人である。

https://blackasia.net/?p=11690

4. 中川隆[-8988] koaQ7Jey 2019年7月19日 16:17:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3707] 報告
映画"モーターサイクル・ダイアリーズ"に寄せて――遍在するチェ・ゲバラ  越川芳明
http://www.isc.meiji.ac.jp/~nomad/koshikawa/kwork/motorcycle.html

 

バナナ共和国(バナナ・リパブリック)とチェ・ゲバラ

ユナイテッド・フルーツCo.は 自分たちの土地を
新たに「バナナ共和国」と名づけた
眠っている死者たちの、その上で――
(ネルーダ「ユナイテッド・フルーツCo.」)
 チェ・ゲバラといえば、一つ星の輝く黒いベレー帽に長髪なびかせた髭づらの顔、眉間に皺を寄せて遠くをにらむ眼光鋭い眼差しといった、よくTシャツの図柄になっているかれの肖像写真が思い浮かぶ。というより、そうした商品化されたゲバラ・イメージしか頭に浮かばず、ゲバラについて書かれたものはもちろん、ゲバラ自身が書いた著作すら読んだことのない僕のような者にとって、太田昌国の『ゲバラを脱神話化する』や、ゲバラ自身が二十代の初めに南米各地を貧乏旅行して書き残した旅日記『モーターサイクル南米旅行日記』、さらにはそれを原作にしたウォルター・サレス監督の映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』は、ゲバラを「伝説の英雄」としてではなく、太田氏の著作の帯文を借りていえば、「傷つき、悩み、苦しみ、絶望する等身大の人間」として理解するための最良のテキストだ。
 Tシャツの図柄にもなったゲバラの肖像を撮ったコルダの写真集をはじめ、ゲバラ関連書を系統的に出している現代企画室の太田氏には、個人的に取材を申し込み、話を聞く機会を得たので、その一部を小論の最後に紹介することにする。三十数年にもわたって、ゲバラを追いかけてきた氏の言葉には、こちらが圧倒されるほどの説得力がある。

 一方、ゲバラの『モーターサイクル南米旅行日記』は、ロードノヴェル顔負けの楽しい読み物だ。こっそり船にもぐりこんで密航したり、地方新聞に自分たち医者としてのウソの業績を載せさせたり、とあたかもピカレスクロマンのような物語性に富む。独善的な記述がまったくなく、むしろ旅先で出会う人々の善意にたかりまくる寄生虫のようなおのれのやり口に対しても皮肉やユーモアを飛ばすことを忘れない、醒めた口調が特徴だ。

 ヨーロッパ系の血をひくアルゼンチン人のゲバラにとって、インディヘナの歴史と現実を目のあたりにするアンデス山脈に入ってからの記述は、ひときわ冴えわたる。たとえば、チリの鉱山での労働搾取の現状、あるいはペルーの思想家マリアテギによって提唱された先住民復権のための運動<インディヘニモ>を唱える教師から得た知見など、単に冒険譚の域を超えた深みが見られる。 「インカの大地」と題された章で展開される民族学的省察では、スペイン人によって破壊されたケチュアの人々の遺跡についての考察に、その当時政治的、経済的に南米に君臨した北米ヤンキーに対するラテンアメリカ人の矜持が重ねあわされる。

 「確かなこと、重要なことは、僕らはここで、アメリカ大陸で最も強大であったインディヘナ文明の純粋な表出を、目前にできるのだということである。(中略)またこの景色は、ここの遺跡の間を意味もなく徘徊する夢追い人や、あるいは旅慣れた北米人を恍惚とさせるのに必要な環境を提供している。彼らは旅で目にする今は落ちぶれてしまった民族の象徴を、かつては生彩を放っていた城壁の中にはめ込んでみたりするが、しかしこの部族の精神面での変化のことは分かっていない。なぜなら、そんな違いは本当に微妙で、南米人の持っているような半分インディヘナの精神でもってしか感じることができないからだ」

 「半分インディヘナの精神」こそ、ゲバラがこの旅で発見し、その後深化させていったものだった。南米において特権階級であるヨーロッパ系の人間が、精一杯努力して入り込めるぎりぎりの精神世界、それこそ「混血(ルビ:メスティーソ)の世界」だった。

 リマの大聖堂の描写に、ゲバラの発見がうかがわれる。ゲバラはいう。「真の芸術的範疇に入るのは全て木造の聖歌隊席で、インディヘナかメスティーソの職人が彫刻したものであり、カトリックの聖人伝が描き出されている杉材の中に、カトリック教会の精神とアンデスの住民の謎めいた魂が混ざり合っている」と。

 その「混血の世界」こそ、アメリカ合衆国の資本による搾取の象徴としての「バナナ共和国」に対抗するゲバラの思想の原点だった。「バナナ共和国」とは、中南米におけるアメリカ資本の多国籍企業、ユナイテッド・フルーツCo.の別名であり、十九世紀末から各国の独裁者と手を組み、鉄道だけでなく、郵便・通信事業、港湾、税関などの権益を一手に握っていたのである。ゲバラはのちに五四年に、アイゼンハワー政権が「バナナ共和国」の権益保護のために、CIAの軍事介入によってグアテマラの民主政権の転覆をはかるのを目撃するが、すでにこの青春の旅の最中に、ペルーのハンセン病診療所でのパーティの席上で、国境を越えたラテンアメリカ諸国の連帯を訴える、次のようなアジテーションをおこなっていたのである。

「見せかけの国境によってラテンアメリカ諸国が分けられているのはまったく理不尽なことだと、旅を始める前より今はずっと強く認識しています。私たちは、メキシコからマゼラン海峡にかけて顕著な民族学的類似性をしめす、ひとつの混血民族を形成しているのです。だから、心貧しい地方主義の重荷など打ち棄てて、ペルーと、統一されたラテンアメリカのために乾杯しましょう」と。

「半分インディヘナの精神」と言語

 わたしは正直なところ、ウォルター・サレス監督の『モーターサイクル・ダイアリーズ』をあまり高く買わない。将来、強大な「バナナ共和国」に歯向かいその結果殺される英雄的人物の揺籃期という位置づけで、ゲバラの青春を美化し、ゲバラを間接的ながら神格化しているからだ。それでもメキシコやラテンアメリカのヒーローを扱ったハリウッド映画としては、見るに耐えられる映画であると思う。

 その理由のひとつは、この映画ではスペイン語が使われているからだ。画家としても、その生き方としても、近年評価がうなぎのぼりであるメキシコの女性画家を扱った映画『フリーダ』(2002年)が、中途半端に英語でお茶を濁していたことに比べれば、数段評価できる。

 言語は、人間の作りだす文化の要である。言語はたんに意味を伝達するだけの道具ではない。人々の使う言葉の響きがそれぞれの土地のローカルな雰囲気をかもし出し、そのリズムや韻がその言葉を使う人々の思考を左右し、また聴く人に怒りや悦びの感情を呼び起こす。

 たとえば、映画の最初のほうで、旅の年上の相棒アルベルト・グラナードがゲバラに向かって、「フーセル(乱暴な奴)」と仇名で呼びかける。もしこれが「ヘイ、ユー」とか「マイ・バディ」とか「マイ・ブロ(なあ、ダチよ)」とか、英語だったら、どうだろう。きっとやけに気やすい南米のヤンキー野郎二人組みになったにちがいない。

 あるいは、牛を連れたトラックに便乗させてもらうシーンも見逃せない。そこでは相棒のグラナードもゲバラも理解できないケチュア語が先住民によって話されている。あとで触れるように、アルゼンチンのふたりの若い旅人たちとその土地のインディヘナとの間の越えられないギャップが示唆されていることが重要だ。

 とはいえ、スペイン語を話すカトリック文化圏での<メイキング・オブ・ア・ヒーロー>物語を、ヨーロッパの征服者が新大陸にもたらした階級・民族闘争の歴史の省察からではなく、単にハンセン病者に対する差別への抵抗という観点から描いた点がやっぱり北米の大衆向けの映画なのだ、と思えてしまう。

 言い換えれば、二時間に及ぶ映画の後半部分は、もっぱらこの「抵抗」の素晴らしさを描くことに費やされ、勇気のある「正義」の人ゲバラというイメージを強化する。南米の政治的、社会的な背景への考察を欠いた勧善懲悪の物語は、『ライオン・キング』をはじめとするディズニー・アニメの手法とあまり変わらない。

周縁に生きるチェ・ゲバラ

 ゲバラ自身が南米人の魂と定義した「半分インディヘナの精神」は、北米ヤンキーへの抵抗思想として強力な武器になりうる。が、南米においてそうした「混血の思想」が意図せずに抑圧してしまうもの、それは弱者としての先住民たちであり、かれらの<インディヘニスモ>である。

 『モーターサイクル南米日記』にあるように、ゲバラはアンデスの先住民の喋るケチュア語がわからなかったので、治安警察にガイド役を命じられて、馬にゲバラたちを乗せて黙々と歩くインディヘナたちと真のコミュニケーションは果たせなかった。

 また、今年出たばかりの写真集『セルフ・ポートレート』に付された、ある友人の死を悼むゲバラの文章にも、そうした先住民との間の越えられないギャップが示唆されている。 

 ゲバラの文章によれば、「エル・パトホ」という仇名で呼ばれていたグアテマラの若いジャーナリストがいた。その仇名は、「ちび」とか「小僧」を意味するグアテマラのスラングだったが、本名はフリオ・ロベルト・カセレス・バジェといった。フリオは五四年のグアテマラの軍事クーデターを逃れ、ゲバラと一緒にチアパスからメキシコシティに向かう。ふたりともほとんど無一文だったために、メキシコシティ中を駆けずりまわって、チェの買い求めたカメラで裕福そうな人たちの肖像写真を撮っては押し売りして稼いだ仲だった。カストロが八十余名の革命軍兵士を引き連れてメキシコからキューバに向かうときに、多国籍軍にしたくなかったカストロによって参戦を拒まれるが、革命後に、チビのグアテマラ青年はキューバにやってくる。友情厚い仲だったにもかかわらず、ゲバラには超えきれない壁をエル・パトホが築いているように思えた。ゲバラはこう述懐する。

 「かれがキューバにやってきて、われわれは昔馴染みの友達のつねとして、ほとんどいつも同じところで一緒に暮らした。しかしながら、ここでの新しい生活では、もはや昔のような親密さを維持できなかった。わたしはエル・パトホの意図を疑ったりした。ときどき、かれが祖国のインディヘナの言語の一つを熱心に勉強しているのを目撃したからだ。ある日、かれがわたしに旅立つことを告げた。いよいよ自分の義務を果たすときがきた、と」

 おそらくインディヘナの言葉を学び、先住民の魂に近づこうとしたエル・パトホにとって、スペイン語オンリーのゲバラは、むしろ高みに立つエリートに映ったのかもしれない。一方、ゲバラには、インディヘナの言葉を学ぶ友人の態度が失われた過去へのノルタルジックな回帰に見えたのかもしれない。それでもゲバラは、軍事訓練も受けず祖国解放の使命に燃える友人に対し、三つのアドバイスを授ける。「一に用意周到、二に細心の注意、三につねに警戒を」と。具体的には、つねに動きまわり、同じところに二日つづけては泊まらない、屋根の下では眠らない、夜警は怠らない、といったゲリラ戦法の基本を教え込む。かくして、ゲバラの「半分インディヘナの精神」は、<インディヘニスモ>との埋めがたい溝を抱えていたものの、皮肉にも「バナナ共和国」といった強大な敵が存在したからこそ、<インディヘニスモ>との連帯をもたらしたのだ。

 いま、ゲバラの説いた「混血の思想」は、ラテンアメリカにとどまらずに、一躍北上して北アメリカにおいても熱狂的な信者を獲得している。たとえば、僕がフィールドワークにしている米国とメキシコの国境地帯では、エミリアーノ・サパタやフランシスコ・ビジャ、フランシスコ・マデーロなどといったメキシコ革命の英雄たちに混じって、チェ・ゲバラは生きた「革命の英雄」として機能している。

 テキサス州南西部エルパソとメキシコのチワワ州フアレスとの間を流れ、国境線をなすリオグランデのコンクリートの土手には、チェ・ゲバラのグラフィティが描かれている。もちろん、政治的なメッセージつきだ。「下ではキューバへのブロック。上ではヤンキーのテロリスモ」とか、「メキシコ革命、万歳」とか、「緊急、愛と平和を」といったスローガンがスペイン語で書かれている。これは明らかに、ゲバラの反米思想をそのままコピーしたものであり、それほど面白くはない。面白くはないが、アメリカ合衆国がこれまでラテンアメリカでおこなってきた数々の国家的テロリズムの記憶がラテンアメリカの人々に根強く残っていることを、このグラフィティは暗示している。

 また、イースト・ロサンジェルスのバリオ(メキシコ系の地区)のストリート・グラフィティには、「われわれは、マイノリティではない」というスローガンとともに、黒いベレー帽のゲバラの肖像がデカデカと描かれている。また、一つ星の代わりに"大儀"の徽章を縫いつけたブラウンのベレー帽をかぶったメキシコ系の女性学生運動家の肖像がズートスートのパチューコ(メキシコ系の不良青年)とともに描かれていたりする。これらのグラフィティは、ゲバラが国境をとび越えて時の独裁者と戦った姿勢を、合衆国内のレイシズム(人種差別)に対するメキシコ人たちの抵抗に重ねあわせたものである。とりわけ、女性運動家が、「半分インディヘナの精神」を唱えたゲバラの表象を借用しているのに興味がひかれる。というのも、メキシコ系のフェミニストは、チカーノ(メキシコ系)共同体に見られる家父長的なマティスモにも抵抗しているのであり、それが同じ共同体内のヒーローたち(先住民の血をひくサパタやビジャ)ではなく、むしろ遠いラテンアメリカのヒーローであるゲバラの引用に繋がったのではないか、と推測されるのだ。

 個人的に少々驚いたのは、今年の夏、ニューメキシコ州アルバカーキの労働問題を取り扱う非営利団体の事務所を訪ね、そこで中年男性に話を聞いているうちに、かれが左腕の袖をまくりあげて、ゲバラの刺青を見せてくれたことだ。米国南西部の農場で働くメキシコ系農民をサポートするかれにとって、ゲバラの刺青は、米国メインストリームのアングロ白人によるレイシズムに対する直接的な抗議の形なのだと感じた。

 しかし、環境・労働問題を扱う別の非営利団体を訪ねたとき、そこの若い女性二人に「あなたたちにとって、ヒーローはいるのですか?」と訊いてみたが、彼女たちにとって単純に自己同一化できるような偶像はいない、という返事が返ってきた。もっとも、そのうちの一人は机にチアパス州の女性サパティスタの写真を貼っていたのだが・・・。

 米国の国境地帯には、メキシコの幻の紙桃源郷「アストラン」を信じる排他的なメキシコ至上主義者たちが立ちはだかっている。エスニック・ナショナリストのかれらにとって、コロンブスの到来以前のアステカ帝国に回帰することが理想であるので、チェ・ゲバラなどは問題でない。そのように米国のラティーノ社会は一枚岩ではないが、ボーダーウォッチングをして、さまざまなところでゲバラの表象に出くわすにつれ、ゲバラの唱えた「半分インディヘナの精神」は、グロリア・アンサルドゥアらの唱える、もっと広義の第三世界の有色フェミニズムによる「混血の精神(メスチスサヘ)」にゆるやかに連結されて、生き延びるような気がした。

太田昌国さんの話

 太田昌国さんは、メキシコ南部チアパス州で一九九四年に武装蜂起したサパティスタ民族解放軍のことを書きつづけている数少ないジャーナリストの一人だ。サパティスタこそ、白人の指導者マルコス副官とインディヘナの協働により、ゲバラの「半分インディヘナの精神」を実践しているゲリラ隊だといえるかもしれない。日本におけるチェ・ゲバラの思想の可能性について、太田氏に聞いてみた。

消費主義を逆手に

 ―― 『モーターサイクル・ダイアリー』の刊行のきっかけは、なんでしょう。

 太田 僕は九二年の暮れに初めてキューバに行き、ゲバラの著作集のことも聞いてみたんです。新しい著作集を編纂しているという話はあったが、キューバの経済事情を考えると、そう簡単に出版されるとも思われない。ただ九七年を間近にして、死後三十年だし、せっかく出版にかかわっていることでもあるから、何かやりたいなと思っていたんです。そんなとき『モーターサイクル・ダイアリー』のスペイン語版が、九三年にキューバで出ていましてね。

 読んでみたら、青春紀行文学として非常におもしろい。結構でたらめな、無鉄砲なところもあるし、それでいてすごく事態を観察していて。二十二とか三のときに書いたものとしては、のちに開花させる彼の素質の原型がそこにあると思いました。革命後の論文や著作は、そう簡単にキューバでまとめられるとは思えない状況だったので、じゃ、こんなところから新しい形を描き出してみようかな、と。死後三十年目の命日に合わせてこの本を出したんです。

 ソ連が崩壊して六年たっていますし、東西冷戦も終わったし、社会主義というのがかつての僕らの若い時代のように、それ自体としてのあこがれであったりすることがなくなり、若い人たちは冷めていたり、関心がなくなった時代だったんです。

 僕は、一方的な資本主義の勝利の歌に声を合わせる気がしないのです。ゲバラのような生き方をした人間が、ああいう時代の中でどういうふうに蘇ることができるかなということを、まだ革命とも何の関係もなかった若い頃の著作の中で、彼のその後の生き方に対する関心が呼び起こされればいいなという感じでした。そのときには若い人向けに出したんですけれど、これがわりあい六本木、原宿、渋谷の書店で売れ始めたので、それなりに話題になったということです。

 ―― その反響に対しては、どういうお気持ちだったんですか。六本木、原宿という場所も場所ですけど。

 太田 僕は入り口は何でもいいと思っていて、自分が知らなかった時代とか、人物とか、どういうきっかけでもいいからそれに対する好奇心がかき立てられるのであれば、どこまで行けるかは一人一人の問題で、外からあれこれ言うべきことでもないし。とにかく入り口が作られれば今とは違う、今与えられている可能性とは違うもっと別な選択肢があるんだということで、世界や人の見方が変わっていく可能性があるわけだから。ほんとうにどんな機会でも、Tシャツでも、CDでも、歌でも、映画でも、本でも何でもいい、と。

 今出ている、阪急コミュニケーションズの『Pen』というファッション雑誌がある。それが『モーターサイクル・ダイアリーズ』の映画を材料に使っているんです。それらしい現地の人にポーズをつくらせて、あの映画の旅を辿るような、そんな感じの特集があって、もうびっくりという感じではあるけれども、おそらくゲバラという人間なり、革命の理念というのは、高度消費社会の中では、そこまで利用され尽くすことによって、もしかしたら先が見えてくるかもしれないといったところに、もう居直るしかないと思って。

 ―― なるほど。

 太田 ああいうことを一々とんでもないといって批判するのは、僕は無力だと思います。もちろん、それもいいだろうといっても、その先に何があるか見えないというのも、当たり前な話なんだけども。

 ただ、ここまで、ある種魅力のある人物であったり、生き方であったりするわけだから、そこまでやりたい。

―― ええ。太田さんがおっしゃるように、阪急某は派手にやってください。でも、現代企画室も地道ながらやりますっていう、そういう姿勢ですね。そういう形で、世間にゲバラが流布していくと、チェって誰だっけ、そんなのどうだっていいじゃないって、言われることもなくなる。一見資本主義に取り込まれているようだけど、人の心に入り込んで、逆に取り込んじゃうような・・・。

 太田 そうですね。

小さな革命を

―― ゲバラの革命の理想というのが、皮肉にも抑圧装置になってしまったといった指摘もなされているようですが、その辺はいかがでしょうか。

 太田 <新しい人間>ということを言っていた六五年ごろのゲバラは、やはり、キューバのように社会主義革命を経て、完全に、五九年までの古い社会のあり方とは価値観が変わっていくということ、そこに資本主義的なものではない価値観が生まれるということを、わりと楽観的というわけではないけれども、前提にしていました。まあ、ゲバラが娘に向かって使った、わかりやすい比喩で言えば、自分たちが育ったのは、人間が人間の敵であるような社会であった、と。これから形成されるであろう社会主義の社会というのはそうでなくて、非常に美しく新しい社会であるととらえた上で、人にも自分にも大変な自己犠牲を求める、そういうかなり厳格な人間像ですよね。

 それは、あの時代ではそれなりに僕らに訴えかける問題提起であったんですが、それによって文学、芸術のあり方も変わっていく。それは社会全体をとらえた視点でもあり、必ずしも政治レベルだけで人間が変わっていくということだけを狭く言っているわけではない。そういう広がりを持った言葉ではあったんですが、ただ、現実の社会主義はこれだけめためたになってしまいました。キューバ自身も経済制度としては、ある程度、世界市場に開いて、ドルも部分的に解禁するというような形で生き延びているわけですから。当然、ゲバラが提言した新しい人間像というのは、あのまま理論的に生き延びていくわけではないというのは、当然だと思います。

 ただ、僕としては、社会がどういう政治経済制度を選択して、その制度のあり方によって人間の意識が変わっていくということをきちんと問題にすべきだと思います。日本やアメリカなんかでは、グローバリゼーションの力によって、今の所与の社会制度がもう絶対不変であるというように人々に信じ込ませようとしています。でも、実際はそうではないんです、社会の制度というのは可変的なのです。僕としては、人間の持つ価値観も変わっていくんだということを前提とするような未来イメージを作り出すことをあきらめたくない。新しい人間というのがいま現在、そして近い将来において、どういう形を持ち得るのかというのは、まだよくわからないところがありますが、かつてのような、いきなり大きな革命を夢見るというような形ではだめだということがわかってしまった。

 しかし、人間の社会は、変わり得るというか、個人は変わり得るということです。そのことが日常的ないろいろな小さな選択に端を発して、さまざまなところで問われていて、日常に根差したところで、人は考え始めていると思います。そういうところで、個人がどうなって行くかということじゃないですかね。

 ―― その話をお聞きして、いま大きな革命でなく小さな革命というタイトルが浮かんだんですけど(笑)。実は、ディエゴ・レルマンという、ゲバラの故郷アルゼンチン出身の映画監督がいますが、『ある日、突然。』という作品を作っています。その映画、ブエノスアイレスが舞台ですが、出てくるのはほとんど女の人たちだけで、武器をもって戦うといった意味では革命的なところは一切ない。タブーというか、体制も変わらない。

 けれども、個人の中ですごく偏見を持っている田舎から出てきた超保守的な女の子が旅を通じて、内面が徐々に変化していく。その旅をしているうちに、「他者」であるレスビアンたちと軋轢をもちながら接しているうちに、彼女自身が内部から変わっていく。概念ではなくて、イデオロギーじゃなくて。意識革命ですね。そういう一個人に巣食うタブーの転覆を観客に自然に受けとめられるように、丁寧に追っかけたという意味で、とても素晴らしい「革命的な」映画だと思ったんです。

 太田 キューバもそうだと思うけれども、ソ連や中国でも、大きな権力をひっくり返して、新しい人たちの国家という大きな権力をとったところで何も変わらない。もっと陰惨な事態を生み出しながら、ソ連邦のように崩壊していったところもある。ああいう結末を見てしまうと、社会主義とか何とかという理想のもとで大きな権力の獲得を目的とするような革命というのは、結局だめなんだという、僕のように党派に関係のなかったマルキシズム的な心情で、遠からずの場所でやってきた人間にとっては、まさにそう感じます。結局、非権力の方向をめざしているサパティスタの問題意識に、僕が共感するのは、そういうところからくる。ドゥールーズ=ガタリやフーコーがよく言うけれども、もっと人間生活の中で、日常的ないろいろな局面に権力問題というのは出てきていて、そこをきちっと解決できないとだめなんだ。大文字の革命などを考えてもだめなんだという。そのことが、ほんとうにわかったというのが、この現代なんじゃないですかね。(2004年8月収録)

あまり革命的でないポストスクリプト(まとめ)

 太田さんは、昔堅気の一本筋の通った現代企画社のスタッフとして、ラテンアメリカ文学叢書や、周縁から<世界を見るシリーズ>なども地道に刊行している。

 今回、話を聞くうちに、何度か、ゲバラ関係の本をゲバラの命日に出版するとか、ゲバラの誕生日に出版するといった言葉が太田さんの口から洩れたが、それはまるでゲバラが血のつながった自分の家族であったかのような発言として、僕には聞こえてきた。

 そう、太田さんこそ、ネルーダのように大地にうごめく死者たちにごく自然と視線が向かう「インディヘナの精神」をもった出版人として、また著述家として、僕には映ったのだった。

 米国の周縁に、TOKYOの片隅に・・・ゲバラはいまも、潜伏中のようだ。

参考文献

<書籍>

  太田昌国『ゲバラを脱神話化する』現代企画室、二〇〇〇年。

エルネスト・チェ・ゲバラ(仲晃、丹羽光男訳)『ゲバラ日記』一九六八年。みすず書房、一九九八年。

―――(真木義徳訳)『ゲバラ日記』一九六八年。中公文庫、二〇〇一年。

―――(棚橋加奈江訳)『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』現代企画室、一九九七年。

コルダ(写真)、ハイメ・サルスキー、太田昌国(文)『コルダ写真集――エルネスト・チェ・ゲバラとその時代』現代企画室、一九九八年。

パブロ・ネルーダ(本川誠二訳)『ネルーダ回想録――わが生涯の告白』三笠書房、一九七七年。

―――(大島博光訳)『ネルーダ詩集』角川書店、一九七五年。

Anzaldua, Gloria. The Borderlands/ La Frontera. San Francisco: Aunt Lute Books, 1987.

Casaus, Victor, ed. Self Portrait: Che Guevara. New York: Ocean Press, 2004.

Castaneda, Jorge G. Companero: The Life and Death of Che Guevara. New York: Vintage Books, 1997.

<映像>

  サレス、ウォルター『モーターサイクル・ダイアリー』米国、二〇〇三年

マルセロ・シャプセス『チェ・ゲバラ 人々のために』アルゼンチン、DVD発売アップリンク、一九九九年。

モーリス・デュゴウソン『チェ・ゲバラ 伝説になった英雄』フランス、DVD発売エプコット、一九九七年。

ローレンス・エルマン『チェ・ゲバラ モーターサイクル旅行記』イギリス、DVD発売エプコット、二〇〇二年。

<ウェブページ>

  配給映画会社公式ページ(日本語版)http://www.herald.co.jp/

バナナ共和国について(英語版)http://www.mayaparadise.com/ufc1e.htm/

米国CIAによるグアテマラ介入について(英語版)http://www.writing.upenn.edu/~afilreis/50s/guatemala.html/

(『すばる』2004年10月号)

5. 中川隆[-14137] koaQ7Jey 2020年1月31日 21:11:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-819] 報告
ニュービーはあるエピソードを紹介している。

時は、ジョン・F・ケネディー大統領まだ生きていた頃。彼はアイゼンハワー政権から引き継いだCIAの極秘作戦(covert operation)、通称「マングース作戦(Operation Mangoose)」を1961年に承認し、キューバのフィデル・カストロを失脚させてやろうと考えた。

何しろ、当時のアメリカは「ピッグス湾上陸作戦(Bay of Pigs Invasion)」で失敗した後だから、どうしても次の手を打つ必要があった。とりわけ、面子を潰されたCIAは躍起だった。軍を出し抜いてカストロを排除しようと思ったら、殊のほかCIAの作戦が杜撰で、上陸作戦のメンバーは窮地に・・・。

焦ったCIAは大統領に爆撃機の支援を仰ぐが、ケネディーはこれを却下。最終的に、CIAに協力した地下組織のキューバ人はカストロ側に捕まってしまう。


(左 : ジョン・F・ケネディー / フィデル・カストロ / チャールズ・カベル / 右 : アール・カベル )

当時、CIAの副長官を務めていたのは、合衆国空軍のチャールズ・カベル将軍(General Charles Cabell)だ。1962年1月、ケネディー大統領は作戦の失敗を咎めてカベル将軍を解任。だから、この空軍大将が激怒したのも不思議じゃない。殺したくなるほどケネディーを憎んだんじゃないか。

そして、CIAに恥をかかせたケネディー大統領は、翌年の1963年11月22日、遊説先のテキサス州ダラスで暗殺された。(これは「エルム街の悪夢」じゃなく「エルム通りの惨劇」だ。)

時のダラス市長は、カベル将軍の弟であるアール・カベル(Earle Cabell)。何とも“出来すぎた”シチュエーションだよねぇ〜。(ちなみに、この暗殺事件には副大統領のジョンソンやハワード・ハントが深く関わっていた。そして、「マングース作戦」を指揮したのは合衆国空軍のエドワード・ランズデール少将だ。この軍人は実に興味深いが、ここでは立ち入らないことにする。)

  戦争には幾つかの形態があって、ミサイルや白兵戦を用いる直接攻撃もあれば、政治宣伝を使って内部混乱を狙う間接攻撃もある。この他に、敵国の経済をメチャクチャにして民衆の暴動を煽り、反体制派に政府転覆を肩代わりさせるという手口もある。

ケネディー政権の了承を取り付けたCIAは、キューバ経済を徹底的に破壊して、カストロ政権を打倒しようと考えた。その一環として目を附けたのは、キューバ経済を支えるサトウキビであった。ニュービーが接触した元CIA局員の話によれば、彼がまだ新人職員であった頃、上司から二つの箱を渡され、この中身をキューバの上空からサトウキビ畑に播いてやれ、と言われたそうだ。

こうして最初の任務を命ぜられた新米は、セスナに乗ってキューバ上空に向かい、目標の地点で箱の蓋を開けると驚いた。そこには感染したダニが一杯詰まっていたのだ。

でも、命令は絶対だ。彼は飛行機の扉を開けると、急いで箱を逆さまにしてダニを振り落とした。身震いするほどの恐怖だったが、即座に扉を閉めて、さっさと帰還したそうだ。

(なるほど酷い作戦だけど、アメリカの諜報機関は敵国人を「人間」とは思わない。もし、キューバ人が同じ事をしたら、何年経ってもアメリカ人はキューバ人を赦さないだろう。)

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68797866.html

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > リバイバル3掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
リバイバル3掲示板  
次へ