“特攻服で怖がらせる””幅の狭い机でプレッシャーを” サラ金業者が語った「集金業務」という”ゲーム” 小島 庸平 2021/03/25 創業者一族は高額納税者番付に名を連ね、法人所得ランキングの上位にも毎年のようにランクインしていたサラ金各社。一方で利用者はしばしば深刻な多重債務に陥り、破産や自殺に追い込まれる人も少なくなかった。1983年の貸金業規制法制定によって、厳しい督促は制限されるようになったが、債権を回収しようとするサラ金業者は、巧みに法の抜け穴を探り当て、言葉を慎重に選びながら事実上の「威迫」を実施。過酷な取り立ては21世紀初頭に至るまで続いた……。果たしてサラ金業者はどのような方法で取り立てを行っていたのだろう。
東京大学大学院経済学研究科で准教授を務める小島庸平氏の著書『 サラ金の歴史 』を引用し、苛烈な取り立てを行っていたサラ金、消費者金融の知られざる内実を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む) ◆◆◆ 男女間の役割分担 サラ金の有人店舗には、原則として男女がそれぞれ最低一人は配属された。窓口での対応や、一回目の延滞を起こした顧客に対する連絡は男女問わず担当したが、基本的には女性が営業、男性が債権回収というように、男女の分業がはっきりしていた。業界内で女性支店長はめずらしくなかったものの、最大手の武富士では、回収は基本的に男性社員の仕事であり、回収できなければ支店長にはなれないという暗黙の了解があったという( 中川 2006 )。 小田(2006) は、こうした男女間の性別役割分業の理由を、客には男性が多いので女性の甘い声で営業をかけた方が成績が上がり、反対に債権回収は男性でないとなめられるうえ、客の暴力などの危険があるからだと説明している。 貸金業者は、「貸すときの地蔵顔、返すときの閻魔顔」などと言われることがある。サラ金では、女性に地蔵顔、男性に閻魔顔を割り振ることで、店舗の運営が円滑になるよう工夫していた。貸し付ける時には顧客の自尊心を尊重して丁寧な接客を心がけ、反対に回収の際には軽く思われないよう力強い態度で返済を要求する。サラ金における男女間の分業は、女性社員を債務者の予期しない行動から隔離する配慮と同時に、顧客(特に男性)の感情を自社に都合よくコントロールしようという意図に基づいていた。 顧客の罪悪感や恐怖心に働きかけて行う回収 顧客の感情に働きかけるサービス業に独特な労働のあり方は、「感情労働」と呼ばれる。漫画『闇金ウシジマくん』を社会学の視点から丹念に読み解いた 難波(2013) は、「感情労働」という言葉を生んだ ホックシールド(1982=2000) が、集金業務を感情労働の一つとして挙げていることに着目している。 肉体労働者が肉体で稼ぎ、頭脳労働者がアイデアや専門知識を売っているように、感情労働者は自らの感情をコントロールし、顧客の感情を雇主に有利なように誘導することで賃金を得る。営業スマイルを浮かべ、航空機内で「真心」のこもったサービスを提供するキャビン・アテンダント(CA)は、典型的な感情労働者である。 ホックシールドによれば、CAだけでなく、顧客の未払い代金を回収する航空会社の集金人も感情労働に従事していた。集金人は、必要に応じて怒りや苛立ちを露わにし、料金を滞納する顧客の罪悪感や恐怖心に働きかけて回収を行うからである。 サラ金の社員もまた、航空会社の集金人に類似した業務に従事しており、ホックシールドの言う感情労働者とみなせる。以下では、サラ金やクレジットカード会社などの消費者金融に特有な感情労働である債権回収に注目して、その実態に迫ってみたい。 感情労働としての債権回収 現在、一般の消費者に対する債権回収には厳しい規制が加えられている。1983年に制定された貸金業規制法によって、債務者に返済を督促できる時間帯の制限や、「威迫」の禁止などが明確化され、その後も段階的に規制が強化された。1990年代のプロミスで「資金回収の神様」と呼ばれたある幹部は、顧客の心を巧みに開かせ、個人的な信頼関係を構築して金を取り立てることに長けていたという( 岩田 1996 )。 しかし、こうしたマイルドな取り立ての一方で、脅迫的に支払いを求めることも珍しくなかった。サラ金業者は、巧みに法の抜け穴を探り当て、言葉を慎重に選びながら事実上の「威迫」を加えており、過酷な取り立ては21世紀初頭に至るまで止むことはなかった。 感情労働としての債権回収について生々しい証言を残しているのが、元中堅サラ金業者の室井忠道である。 室井・岸川(2003) によれば、債権回収の際には、延滞している債務者に「効率よく怖がって貰う」ことが必要だった。一日に何軒も回収に行くのだから、四六時中怒鳴っていては声が嗄れてしまう。そのため、服装は「おっかなそうな格好」でなければならない。「我々の取立の時は、アメ横で買ってきた特攻服を若いヤツに着せたり、ダークスーツで行ってたけど、いまのヤミ金の連中もそういうドスを利かせる感じでしょう。作業着やジャージじゃ怖がらないから」。恐怖という感情を掻き立てる強面の回収スタイルは、大手の消費者金融も大同小異だったと室井は述べている。 債務者の恐怖心を煽るための細々とした工夫 加えて、室井の店舗では、回収を行う別室のテーブルとして特に幅の狭いものを選んで置いていた。顧客と顔が接近している方がプレッシャーをかけられ、取り立てや交渉で有利になるからである。債務者の精神を効率的に圧迫し、恐怖心を煽るための細々とした工夫は、回収業務の過程に様々な形でちりばめられており、そうした工夫が債権回収の成績を上げるうえで不可欠だった。 債権回収の担当者が感情をコントロールする対象は、債務者本人だけに留まらず、時に債務者の家族にも及んだ。法律的には、浪費的な使途のために借りた金は、債務者本人以外に返済の義務はない。1983年に制定された貸金業規制法では、家族を含む第三者への支払い要求が明確に禁止されている。 違法であるはずの代理弁済を引き出すためのノウハウ にもかかわらず、同法制定後も某サラ金は勉強会を開き、債務者の家族に入金を説得するロールプレイング研修を行っていた( ほのぼの 2003 )。講師となる上司が夜逃げした債務者の父親を演じ、回収役の社員は代理返済に応じるよう働きかけるのである。 社員の間では「学芸会」などと揶揄されていたが、父親役の上司は豊富な債権回収の経験を持っており、役作りは真に迫っていた。研修では、入金を説得する際には「返済しろ」とは決して言わず、「協力」を「お願い」するという形で、貸金業規制法違反を免れようとしていた。本来は違法であるはずの代理弁済を引き出すためのノウハウが、研修の場で議論され、共有されていた。 さらに、親だけでなく子どもに対して督促を行うこともあり、サラ金業者が小学校宛てに支払催告書を送りつけて問題化したこともあった(『朝日』1983年6月18日付朝刊)。督促を受けて恐怖を感じた子どもが、夜尿や自傷行為を起こした例も報告されている(武富士被害対策全国会議2003)。1999年に大手サラ金に入社した 金太(2003) は、子どもを利用した債権回収の方法を、やや冗談めかして次のように紹介している。 延滞している債務者に電話で督促していると、支払いを引き伸ばすために子どもに受話器を取らせ、「親はいません」などと居留守を使われることがある。そんな時には、子どもに向かって「僕、アンパンマンだけど……」と名乗るのがよい。子どもは「ホントに?」と食いついてくるから、今度家に行くからね、などと言って丸め込めば、親に電話を代わってくれる。結果的に親が電話口でアンパンマンにペコペコ謝ることになるので、子どもの夢を壊してしまうが、やむをえない。小学生になると疑われるから、あくまでも対象年齢は5〜6歳くらいまで。年末ならば、アンパンマンはサンタクロースに置き換えてもよい。 債務者本人だけでなく、家族の感情をもコントロールしながら債権回収を行う手立ては、しばしば面白おかしく話題にされ、共有された。小手先の小細工も含めた工夫の積み重ねによって、サラ金の回収技術は徐々に進化し、債務者をさらに追い込んでいく。「パパ/ママはどうしてアンパンマンに謝ってたの?」などと子どもに聞かれた債務者が抱くであろう屈辱感とやり切れなさは、察するに余りある。時に家族も巻き込みながら、債務者本人に精神的打撃を与えることが、債権回収を効率的に進めるうえでは有効であり、必要だった。 (中略) 職務の「脱人格化」と自己責任論 債権回収に伴う精神的負荷を軽減する方法は、感情労働の金融技術というべきものだった。たとえば、元アイフル社員の笠虎崇にとって、入社当初は債権回収ほど嫌な仕事はなかった。その嫌悪感を払拭する上で、上司から受けた次のような助言が有効だったという。 「いいか、殺人犯や凶悪犯の役をやる役者が、素の自分でやっていたら罪悪感にさいなまれて嫌になっちゃうだろう。取り立ても同じ。素の自分で取り立てしていたら嫌になるのは当たり前。ドラマだと思って、こわもての取り立て役になったつもりで演技するんだよ。そうすれば、舞台(仕事)の上でどんなにえぐい取り立てやっても、その舞台が終われば、そこで起こったこととは関係のない、自分に戻れる。仕事とプライベートをしっかり分けてやれば、取り立てで辛い思いはしなくなるぞ」( 笠虎 2006 ) 取り立て役を演じる「役者」になりきることで、仕事とプライベートを切り分ける。これは、ホックシールドがdepersonalization(「脱個人化」あるいは「脱人格化」)と呼んだ対応である。取り立て役を「演じる」ことで、業務から本来の自己の人格を分離し、債権回収につきまとう罪悪感を受け流すのである。 「脱人格化」は心身を病む こうした職務の「脱人格化」は、自分を偽ることになるため、しばしば労働者本人の自尊心を傷つける。ホックシールドは、「脱人格化」を行う感情労働者は、やがて自分を偽ることに嫌気が差し、最終的には燃え尽きる可能性が高くなると指摘している。 この指摘は、確かに一面では正しい。就職氷河期にカード会社に入社した榎本まみは、「脱人格化」に成功しているように見える練達の社員でも、心身を病んで退職する者は少なくなく、それはまるで「人の消費や使い捨てのような労働だった」と述べている( 榎本 2012 )。 だが、「脱人格化」が感情労働者を燃え尽きさせるというホックシールドの見立てに対しては、 鈴木(2012) が的確に整理しているように、多くの批判が寄せられている。実際、サラ金の感情労働者が、職務の「脱人格化」によってむしろ精神的な負荷を軽減し、自尊心を守ろうとしていたという証言は、数多く残されている。 債権回収は「ゲーム」 その一つが、債権回収をある種のゲームとみなす方法である。某サラ金の元社員は、「相手の債務状況や家族関係、営業店の交渉履歴などのデータを駆使して、いかに回収できるかを考え、追い込む。まさにゲームだった」と述べている(『朝日』2006年9月19日付朝刊)。債権回収をゲームだと考えれば、返済に苦しんで延滞する債務者は「勝負」の相手なので、打ち負かしても同情する必要はない。単純に債権を回収できれば「勝ち」だから、勝利の達成感で罪悪感を打ち消すことができた。典型的な職務の「脱人格化」である。 加えて、債権回収に伴う心理的負荷を軽減するもう一つの方法が、自己責任論の内面化だった。サラ金社員は、延滞する債務者を自業自得だと割り切り、徹底的に追い詰めたのである。元大手サラ金のある社員は、次のように振り返っている。 「当時の上司の口癖は、「悪いのは客。どんなことを言っても許されるんだ」と。しょせんは電話での督促ですから、何を言おうが、どんな悪態をつこうが気楽なんです。だんだん相手を攻めたてる面白味にも目覚めちゃって、こいつら人生の負け組なんだと……。責任転嫁もいいところですけど、当時の私はほんとにそう思っていました。」( 須田 2006 ) 債務の返済に苦しむ顧客を自業自得であると決めつけ、「こいつら人生の負け組なんだ」と自らに言い聞かせる。そうすれば、債務者を責め立てることには「面白味」さえ感じられた。債務者に対する共感や同情を意識的に断ち切り、債権回収業務を円滑に進めるうえで、自己責任論の内面化は有効だった。だからこそ、上司は部下に向かって「悪いのは客。どんなことを言っても許される」と口癖のように繰り返したのだろう。 こうした自己責任論の内面化や、職務の「脱個人化」が、感情労働に従事する人びとの心理的な負担の軽減に貢献したことは間違いない。自業自得の客になら「どんなことを言っても許される」と信じ、取り立ては「演技」や「ゲーム」にすぎないと自分を納得させれば、債権回収に伴う精神的な負荷を、少なくとも短期的には軽減できた。顧客の追い込みに付随する心理的な葛藤を回避し、自尊心を守るための方策が、職場の上司と部下、先輩と後輩という感情労働の重層的な構造の中で伝承されていた。 【続きを読む】 借りたものを返さない方が悪いのか? 全国の多重債務者を救った「サラ金問題研究会」の知られざる功績とは 借りたものを返さない方が悪いのか? 全国の多重債務者を救った「サラ金問題研究会」の知られざる功績とは へ続く https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E7%89%B9%E6%94%BB%E6%9C%8D%E3%81%A7%E6%80%96%E3%81%8C%E3%82%89%E3%81%9B%E3%82%8B-%E5%B9%85%E3%81%AE%E7%8B%AD%E3%81%84%E6%9C%BA%E3%81%A7%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%92-%E3%82%B5%E3%83%A9%E9%87%91%E6%A5%AD%E8%80%85%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%9B%86%E9%87%91%E6%A5%AD%E5%8B%99-%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86-%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0/ar-BB1eVA7A?ocid=msedgntp 借りたものを返さない方が悪いのか? 全国の多重債務者を救った「サラ金問題研究会」の知られざる功績とは 小島 庸平 2021/03/25 “特攻服で怖がらせる””幅の狭い机でプレッシャーを” サラ金業者が語った「集金業務」という”ゲーム” から続く 「サラ金」は、利息制限法で定められた金利を超過したグレーゾーン金利で貸し付けを行っており、借金返済に苦しむ膨大な数の被害者を生み出した。そうした借金苦に悩まされる人たちの窮状を解決すべく、結成されたのが「サラ金問題研究会」だ。サラ金苦に陥った被害者と、被害者を支援する弁護士とが開始した社会運動は、やがてサラ金に対する規制強化実現の大きな原動力となった。 ここでは、東京大学大学院経済学研究科准教授の小島庸平氏が「サラ金」にまつわる約110年間の歴史を紐解いた一冊『 サラ金の歴史 』(中公新書)を引用。サラ金規制強化のきっかけになった社会運動のあらましを紹介する。 ◆◆◆
「サラ金被害者の会」結成 「いくら苦しくても、死ぬのはやめてともに助け合い、サラ金地獄から抜け出そう」 そう呼びかけて「サラ金被害者の会」(以下、「被害者の会」と略)が結成されたのは、1977年10月のことだった。組織づくりを主導したのは、同年5月に大阪で15名の若手弁護士が結成した「サラ金問題研究会」である。この研究会の目的は、サラ金に対する法規制を議論し、被害者の救済方法を検討することだった。サラ金苦に陥った被害者と、被害者を支援する弁護士とが起こした社会運動は、やがてサラ金に対する規制強化実現の大きな原動力となる。 弁護士の木村達也の回想によると、被害者の会が結成された経緯は、次のようなものだった。 1977年5月、サラ金苦の相談が増えていることに気づいた大阪の若手弁護士たちが、解決法を探るために「サラ金問題研究会」を結成した。同年6月にメディアで好意的に紹介されると、全国から相談が殺到する。中でも研究会の呼びかけ人だった木村は、相次ぐ取材や相談者への対応に忙殺された。見かねた先輩弁護士の中村康彦は、木村に「被害者の会」を組織するよう助言している。 中村は、公害訴訟の分野で多くの経験を積んでおり、被害者を組織することの重要性を知る人物だった。さらに、森永ヒ素ミルク中毒事件で名を挙げた中坊公平も、1977年に大阪弁護士会の公害委員会から消費者保護委員会を独立させて委員長となり、78年には木村を同委員に選任した。1960年代後半以降、四大公害病や食品汚染問題が次々と訴訟に発展しており、そこで蓄積された弁護士たちの経験と組織が、サラ金問題でも活かされていた。そんな経緯もあって、サラ金問題は「第二の公害」とも呼ばれた。 中村の助言を受けた木村は、さっそく「被害者の会」の組織化に動き出した。しかし、日々返済に追われ、昼も夜も懸命に働いている人びとの中から、運動の核になってくれそうな候補者を探すのは難しかった。
借金返済に苦しむ仲間が結束 ある夜、木村は、協力してくれそうな相談者たちを会議室に集め、被害者の会の必要性を説いた。しかし、彼らに「被害者」の意識は少なく、反応も発言もほとんどない。そこで、木村は自己紹介を兼ねて全員に厳しい取り立ての体験を話してもらうことにした。すると、次々に発言が続き、参加者の緊張感と警戒心が一気に薄れ、仲間意識が芽生えた。後に、木村は、「サラ金被害者は孤独と不安の中で悩み苦しんでも人に相談できず、一人耐え続けていたのだ。借金返済に苦しむ同じ仲間を見出して安心し、結束したのだ」と振り返っている。 木村らの努力の結果、1977年10月24日に全国で初めて被害者の会が大阪で結成された。記者会見には新聞社やテレビ局の記者が数多く集まり、マスコミの「サラ金地獄」報道はさらに加熱していった。 若く勢いのある弁護士を引きつけたサラ金問題 この時、被害者の会の初代会長職を引き受けたのが、当時50代の男性Mだった。Mは、多重債務者としてサラ金からの厳しい取り立てを受け、親子四人で心中しようと夜の街をさ迷ったことがあった。空腹に耐えかねて一本のコーラを買い、公園の水で薄めて分け合って飲み、そのうまさから心中を思いとどまったという経験の持ち主である( 江波戸 1984 )。 余談だが、サラ金被害者の救済に奔走した弁護士の木村晋介は、上の内容とはやや異なるM会長の経験談を聞いて衝撃を受け、サラ金問題に関わるようになったと振り返っている( 木村 1990 )。こちらの木村弁護士は、椎名誠の自伝的小説『哀愁の町に霧が降るのだ』に登場する木村晋介、「怪しい探検隊」や「東日本何でもケトばす会(東ケト会)」のメンバーである。 この時期のサラ金問題は、メディアで盛んに報道されたこともあり、若く勢いのある弁護士を多数引きつけていた。後に日弁連会長となる宇都宮健児も、多重債務者に関わる案件を引き受けることで事務所独立の契機をつかんだ。北海道釧路市の今瞭美のように、地方に波及したサラ金問題の実態を鋭く告発し、武富士から「天敵」( 中川 2006 )と恐れられた弁護士もいた。皮肉にも、サラ金業界は、被害者を増やしすぎたがゆえに借金問題を扱う弁護士に安定した収入を与え、被害者運動を継続して支援することを可能にしたのである( 上川 2012 )。 被害者の会に対し、世間の目は冷たかった 話を被害者の会に戻そう。Mが会長職を引き受けることでようやく組織された被害者の会に対し、世間の目は冷たかった。多くの消費者団体は「借りたものを返さない方が悪い」と関心を示さず、一般からの寄付もごくわずかしか集まらなかった。登録会員は一年足らずの間に800名を超えたが、自身の問題が片付けば会に寄り付かなくなるか、サラ金に追い詰められて活動どころではなくなってしまった。逆境の中でもM会長はくじけず、「夫や妻、兄弟がサラ金禍にひそかにあえいでいるかもしれないんですよ。他人事じゃないんだ」と、熱心に活動に取り組んでいた。 被害者の会の運営に意欲を燃やすMは、自宅の電話番号を公開して相談者からの電話に連日対応し、優しい言葉をかけ続けた。しかし、会結成から3ヵ月が経つ頃、Mは心身に不調をきたしてしまった。「どの相談も暗く重く悲しいものであったから、その精神的苦しみから逃れられない」と言うのである。さらにその3ヵ月後、Mが被害者から預かった返済金約800万円の使い込みが発覚した。「酒を飲まずにはいられなかった」というのが、Mの釈明だった。 被害者の会は、横領したMを自首させることに決めたものの、この経緯が某新聞にすっぱ抜かれ、運動は一時苦境に陥った。精神的にも経済的にも深い傷を負った当事者たちが被害者運動に従事するのは、決して容易ではなかった。 それでも、1983年までに全国で21の被害者組織が結成され、運動は着実に全国へ広げられた。恐怖心や罪悪感を煽られた多重債務者たちが業者に毅然と立ち向かうには、法律的知識を身につけるだけでは不十分で、弁護士や被害者の会といった背後の「味方」が必要だった( 大山 2002 )。サラ金禍に苦しむ人びとの声は、有能な弁護士たちや自助グループの支援もあって、徐々に大きくなっていった。 破産件数の急増 追い込まれても返す金のない多重債務者が、自殺や夜逃げ以外の方法で問題を解決しようとすれば、最後に残された手段は自己破産である。その方法を確立したのが、被害者の会と、それを支援する弁護士たちだった。 1952年から70年代までの破産事件数は、おおよそ年間2000件前後で推移していた。しかし、1984年には2万6385件へと急増し、このうち貸金業関係の比率は、初めて数値の得られる85年には67.1%と、3分の2以上を占めた。 1983年6月18日付の『朝日新聞』朝刊は、「自殺、心中や夜逃げよりは、なけなしの財産を投げ出しても自己破産の宣告を受けた方が――。サラ金の返済に困り、ぎりぎりのがけっぷちに立たされて、裁判所に自ら破産を申し立てる人が急増」と報じている。貸金業規制法が制定される前後の時期から、多重債務によって破産を余儀なくされた人びとの存在が明らかになりつつあり、サラ金の引き起こした社会問題として大きな注目を集めていた。 こうした破産件数の増大は、多重債務者の深刻な状況を一面では反映していた。しかし、そこから債務者の悲惨な状況のみを読み取るのは正確ではない。破産件数の増大は、苦境にある多重債務者たちが、過剰な債務の支払いを回避するべく積極的に抵抗を試みたことの反映でもあった。 破産宣告を受ける予納金「5万円」も払えない 1980年当時、サラ金問題研究会に集まっていた弁護士たちは、利息制限法を活用して元本を減額する調停申立や任意整理には限界があり、最後の救済手段は自己破産しかないと判断していた。しかし、この頃はまだ自己破産は一般的ではなく、破産宣告を受けるには最低5万円、ときに50万円もの高額の予納金を裁判所から請求された。サラ金問題研究会の弁護士たちは、まずこの予納金の減額を求めていくつかの訴訟を起こしている。5万円も払えないような多重債務者が、相談者の大多数だったからである。 次いで、1982年10月には、サラ金問題研究会が編者となって小冊子『自分でできる破産』を発行した。同書は一般書店では流通しなかったにもかかわらず約2万冊も売れ、自己破産件数増加の最初の呼び水となった。 この間の動きに深く関わっていた木村達也は、「破産・免責手続きを認めなければ、多重債務者は自殺か犯罪に走るしかない。消費者信用に多重債務、返済不能者の発生は不可避であり、破産・免責手続こそ消費者信用の安全弁である」と訴え続けていた。 その甲斐もあって、破産宣告をまるで「死の宣告」かのように考える誤解が徐々に解け、中には『自分でできる破産』を持って法律事務所に駆け込んでくる人も現れた。弁護士たちの粘り強い努力により、破産はサラ金問題の有力な解決策となったのである。破産件数の増加は、弁護士たちの熱意と、多重債務者たちが過去の失敗を乗り越え、人生の再出発に踏み出そうとした苦闘の結果でもあった。 貸金業規制法の立法過程 だが、木村たちは、自ら利用の道筋をつけた破産申立も、結局は事後的な対症療法に過ぎないと自覚していた。本質的には、サラ金をはじめとする貸金業に適切な規制を加え、高利の多重債務に苦しむ人びとをこれ以上生み出さないような立法措置が不可欠だった。 利息制限法と出資法の関係を整理し、上限利率を引き直す作業は困難を極めた。業界・被害者・与野党・政府の利害が複雑に絡み合う中で、上限金利については容易に意見がまとまらず、7年近い歳月をかけて1983年にようやく貸金業規制法が制定された。貸金業規制法が制定されるまでの道のりは、長く困難に満ちたものだった。 1979年に政府が法案作成を断念した後、与野党や業界・日弁連から提出された貸金業規制法案は、過剰取り立てや過剰融資に規制を加える点では一致していた。しかし、上限金利の扱いについては鋭く意見が対立しており、この不一致が法案成立に多くの時間を要した最大の原因だった。 「不当利得」とされたグレーゾーン金利が合法化 利息制限法と出資法の間のグレーゾーン金利については、最高裁が1968年に「不当利得」と判示していた。にもかかわらず、規制法案の検討過程では問題が蒸し返された。業界と与党がグレーゾーン金利の合法化を求め、これに反対する野党・運動側と真っ向から対立したのである。結局、各党と運動側、業界の間で議論はいつまで経ってもまとまらず、最終的には大蔵省が間に入って法案を成立させている。 こうして1983年に国会を通過した貸金業規制法では、上限金利は109.5%から40.004%へと半分以下に引き下げられた。業界の利害を重視する自民党は上限利率54.76%を求めていたから、野党や運動側の主張を認め、業界に一定の譲歩を求める判断だった。 その一方で、たとえ利息制限法違反のグレーゾーン金利であっても、債務者が任意に支払い、法令で定める書面が提出されていれば、有効な弁済とみなされることになった。いわゆる「みなし弁済」条項である。1968年の最高裁判決で「不当利得」とされたグレーゾーン金利が、貸金業規制法のみなし弁済条項によって合法化されたのである。 被害者の会や弁護士たちは、当然ながら「貸金業界寄りの法案で賛成できない」とすぐさま反対の意見を表明した。しかし、木村達也は成立した規制法を見て、腹の中で密かに「やった!」と快哉を叫んだという。約7年にもわたって繰り返し法案が流れたこともあり、上限金利40%が引き下げの限界と考えていたからである。当時の情勢は、それほどまでに厳しいものだったのだろう。 だが、みなし金利条項は後日に禍根を残した。2006年の貸金業規制法改正の際、グレーゾーン金利の扱いは再び大きな問題として取り上げられることになる。 成立後の法律を健全に成長させた弁護士たち ともあれ、こうして1983年4月にようやく貸金業規制法が成立し、施行は同年11月からとされた。制定から施行までの半年余りの間に、大蔵省は規制法に関連する政省令を策定しなければならない。 その政省令案について、日弁連に事前の内示と意見の照会があった。大阪から呼び出されたサラ金問題研究会の木村達也たちは、東京のホテルに泊まり込んで内示された政省令を何回も検討し、貸金業者の債権取立規制をはじめ、詳細な規定を追加した。貸金業規制法に命を吹き込む政省令の検討過程で、木村たちは「この法律は私達が作ったのだ」という自負の念を強めたという。 さらに、貸金業規制法成立後も、木村たちは解説書を出版して各地で学習会を開催し、貸金業者の違法行為に対して厳しい告発運動を展開した。木村は、「成立後の法律を健全に成長させたのも私達だった」と語っている。貸金業規制法の成立・運用の両面で、被害者の運動とそれを支える弁護士たちの経験と手腕が果たした役割は、確かに極めて大きかった。 https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%80%9F%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE%E3%82%92%E8%BF%94%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%84%E6%96%B9%E3%81%8C%E6%82%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%85%A8%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%A4%9A%E9%87%8D%E5%82%B5%E5%8B%99%E8%80%85%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%A3%E3%81%9F-%E3%82%B5%E3%83%A9%E9%87%91%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A-%E3%81%AE%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E5%8A%9F%E7%B8%BE%E3%81%A8%E3%81%AF/ar-BB1eVJVk
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