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その時、馬に神が宿った2 _ ステイゴールド
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/400.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 9 月 02 日 23:12:46: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 伝説のツインターボ _ その時、馬に神が宿った 投稿者 中川隆 日時 2010 年 9 月 02 日 22:08:19)


2001 ドバイシーマクラシック(G2) ステイゴールド
http://www.youtube.com/watch?v=hwvUiZ-MrrA&feature=related

Stay Gold in HongKong Vase 2001
http://www.youtube.com/watch?v=QInd_ApcU7w&feature=related

【黄金旅程の始まり】

 2001年、7歳を迎え、晩年のステイゴールドは一着賞金1億5000万、ドバイシーマクラシックへ挑戦した。本命は地元ドバイのファンタスティックライト。

 ワールドレーシングシリーズ(競馬のF1グランプリ。世界15戦でポイントを競う。凱旋門賞、キングジョージ、ジャパンカップなど)のチャンピオンで、この年、欧州年度代表馬&アメリカのエクリプス賞・芝部門代表馬に輝いているファンタスティックライトは、間違いなく”現役世界最強馬”である。

 レースは最後の長い直線、ファンタスティックライトが先に先頭に立つ。

その後から、ただ一頭同じ脚色で追うのがステイゴールドだった。

必死にファンタスティックライトに詰め寄るステイゴールド。

 しかし、わずかに届かない・・・。

残り200mで、そういう脚色に見えた。

 だが、残り100m。さらに一歩一歩差を詰めるステイゴールドはゴール板をファンタスティックライトと全く同じタイミングで駆け抜けた。

 判定は写真でなければわからない微々たる差であった。

 そしてこの激闘に勝利を収めたのはステイゴールドであった。

「まさか、勝ってしまうとは・・・。」

ステイゴールドはまたしても我々を裏切って驚かせたのであった。

今度は称賛と共に・・・。

【翼の生えた小さな戦士】

 その後、日本へ帰国した後のレースでも相変わらず今一歩が続き、「シルバーコレクター」という評価は変わらなかった。

 そして、この年の秋で引退が決定。

 なんとかG1を手にしたいステイゴゴールドは無敵のテイエムオペラオーとの強烈な叩き合いを制し、1着でゴールするも張り切りすぎたかゴール前で他馬の進路を妨害したとして失格となってしまった。


結局、秋のG1戦線も勝てず、引退レースを迎えることとなる。


 引退のレースは香港国際競争の香港ヴァーズ(G1)になった。

ドバイで見せたあの勇姿を再現するために。

そして、最初で最後のG1制覇を成し遂げるために・・・。

 (不運にもドバイシーマクラシックは例年のパフォーマンスの高さから、ステイゴールドが制覇した翌年からG1に昇格した。)

 当日、ステイゴールドは1番人気。実はステイゴールド、1番人気に支持されたレースでは(未勝利時代を除いて)連対率100%というファン思い(?)の馬でもある。


 この引退レースが50戦目。ここまで幾多の名馬達と鎬を削ってきた。

シルクジャスティス、メジロブライト、サイレンススズカ、スペシャルウィーク、グラスワンダー、テイエムオペラオー、メイショウドトウ・・・。

  『相手が強い程、燃える!』

ステイゴールドはそういう馬だった。


 G1制覇を目前にして時にはハナ差で辛酸も舐めた。

ステイゴールドが欲しかったG1タイトルのチャンスはついにあと一回、この香港ヴァーズのみとなった。

 そのレースは終盤の直線入口でL.デットーリ騎乗、ドバイのエクラーが巧妙な逃げ切りを図っていた。

ただ一頭、悠々と直線に入った際のエクラーの脚色からしても

「この距離では、後ろからは絶対届かない・・・。」

誰もがそう思う程のリードがあった。

 その時、エクラー以外一団となる後続集団から、ステイゴールドがただ一頭、馬群から抜け出し懸命をその差を詰めてきた・・・。

 まるで弾けたかのような伸びで後続を一気に突き放すステイゴールドであったが、エクラーはまだ、遥か前にいた。

 「やはり届かないか・・・。」

 世界中の人々はそう思ったことだろう。

だが、日本のファン達はあることに気づいた。


先頭はドバイの雄、絶対に届かない差、懸命に走るステイゴールド・・・。

これは、まるでドバイの再現ではないか・・・。


(ラジオ実況)

「・・・エクラー先頭。

3馬身のリード。

さあステイゴールドが外から上がってきた!

3番手から2番手。

その内にダリアプール。

ファンデーションスピリットの体制だ!

さあ一気にステイゴールドが2番手まで上がってきた!

残り300メートル。

しかし前までは5馬身ある!

先頭はエクラー!ドバイ!200を切った。

さあステイゴールドがんばれ!!

ステイゴールド追ってくる!

ステイゴールド追ってくる!

単独2番手だ!

前までまだ3馬身ある!

ステイゴールド、ステイゴールド追ってくる!


ステイゴールド!差し切れ!!!          

ステイゴールド!ステイゴールド!

エクラー!

ステイゴールド!

ステイゴールド!ステイゴールド!ステイゴールドーーーッ!!!

差し切ったぁーーー!!!!

ラストランを見事に飾ったステイゴールド!!

・・・引退の花道。

勝利で飾った!

G1制覇!

悲願のG1制覇です。」


【”stay gold”】

 ラスト150m辺りで内によれてしまうステイゴールドであったが、手前を変えると、爆発したようにさらに鋭い末脚を繰り出した。

 

 「決め手不足」、「勝負根性がない」といわれたステイゴールドは果たしてその通りだったのだろうか?

 騎乗していた武は、「最後は羽が生えたようだった。」とステイゴールドの末脚を表現した。

「――お前、よくわからん奴だったけど、決めるときは決めるんだなぁ」。

 嬉し涙に濡れながら、池江泰郎調教師はそうステイゴールドに語りかけたという。

ドラマティックとしか言い様のないレースだった。

「映画や小説のような都合のいい感動話は、現実には起こらないんだよ。」

それは正論かも知れない。

しかし、ステイゴールドは”役者が違う”のだ。

この馬はそんな感動話を見事に作り上げてしまった。

なぜなら彼は名馬だから・・・。

 香港のゼッケンにはステイゴールドの漢字表記「黄金旅程」が記されている。

 それは、世界へと羽ばたき、旅路の果てに黄金を手にしたステイゴールド自身を出来すぎたように表した言葉であった。

 
 ”stay gold”それは”永遠の輝き”

引退レースで悲願のG1制覇を成し遂げたステイゴールドは、人々の記憶の中でこれからも永遠の輝きを放ち続けるだろう。

http://houtobega-eien.at.webry.info/200512/article_11.html

最後の伸びは神がかり的だ。こんな脚を見たことはない。

これを書いていても鳥肌が立つくらい凄まじいレース、一生忘れることはないだろう。

ステイゴールドのベストレース、そして武豊騎手の名騎乗に拍手を贈りたい。


レースを見ていてひとつ感じたことがある。

ステイゴールドはよれてラチまで行ったときに武豊騎手は馬と喧嘩せずにフワッ〜とした感じで手綱をくれてやった。

そうしたらステイゴールドの闘志が再点火して、騎手に追われるからではなく、自分から前を捕えに行ったのだ。

ステイゴールドのこの性格を武豊騎手は見抜いていたのだろう。

これまでステイゴールドに騎乗した騎手がみな格闘していたが、もしかするとステイゴールドはそういう騎手をあざ笑っていたのかもしれない。
http://www.keiba-dojo.com/i/so04/8.shtml

20世紀の名馬 ステイゴールド
http://www.youtube.com/watch?v=iceTLMTzTBA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=QTuSG4-BmJk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=7cVzCJz5C94&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Lf5WItSUhVM&feature=related

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2010年9月12日 11:05:29: MiKEdq2F3Q

これ本当かな?


147 :名無しさん@実況で競馬板アウト:2010/09/09(木) 21:48:39 ID:iaK4dNqE0

ディープインパクトは強かったけど出てきたときからエルコンと同じタイプでエルコンをコンパクトにした馬だと思ったな。

凱旋門もエルコンの2着に対して3着だったしやはりと言う感じだった、

後にドーピングが分かってステイの香港思い出して
あの時のステイと同じ末脚のタイプだと気づいて同じ厩舎だったのでそういうことかと残念に思ったよ。


156 :名無しさん@実況で競馬板アウト:2010/09/09(木) 22:07:19 ID:WFKuWmIyP
ステイゴールドもやっちゃってたの?

157 :名無しさん@実況で競馬板アウト:2010/09/09(木) 22:09:46 ID:iaK4dNqE0
あくまで推測だがドバイでの走りや香港での差しきった時の末脚は国内では一度も見せたことが無いパフォーマンスだったからね。


163 :名無しさん@実況で競馬板アウト:2010/09/09(木) 23:02:56 ID:iaK4dNqE0
ドーピングにもノウハウが必要だからディープでいきなりノウハウ掴んで使ったとは考えづらいしな。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/keiba/1283955866/

724: こんな名無しでは、どうしようもないよ。 2010/04/23(金) 02:37:58 rIexvqYG

ステゴも池江だったし、香港でのあの脚はドーピングくせーしな


725: こんな名無しでは、どうしようもないよ。 2010/04/23(金) 02:45:09 rIexvqYG
池江の息子が薬に詳しいとどっかで見た


740: こんな名無しでは、どうしようもないよ。 2010/04/25(日) 00:29:11 ID:u5lWa+Oz

ディープは母父ノーザン系で即禁止になるぐらい効果あるドーピングしてたのに、キンカメにかなわなかったハーツとか凱旋門で普通に負けたり、買ったレースも相手弱いのしかいないし、

ステイの香港でのパフォーマンスでドーピング成功してディープで使い方極めたとしか思えん。

言い訳せずに罰金払って失格受け入れたってことはそうだろう。

以前から長距離レースでほかにも怪しい馬いたが、イプラ禁止になったとたん菊花賞や天皇賞春など昔強かったタイプの馬が勝つ様になったからな
http://2bangai.net/read/93448cde38e285744b6aae1c206960628650165fe39e65734f7df582cb6974f6/all


___________


週刊文春2006年11月2日号は

「ベンチプルミンシロップ投与についての池江泰寿調教師に対する事情聴取」

と称するJRA内部文書の存在と、その概要を報じている。

文春の報道によれば(以下、カッコつき文章はすべて文春から引用)

ディープインパクトを管理する池江泰郎調教師の長男、池江泰寿調教師が禁止薬物を含むベンチプルミンシロップを投与した疑惑があり

2年前の2004年10月10日夕方、JRAから事情聴取を受けたことを示す文書がある、

というのがおおまかな内容。
http://blog.livedoor.jp/dope_impact/archives/50176410.html

92 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage] 投稿日:2009-08-26 13:56:45 ID:cOCyq51+0

「今回の遠征には池江泰郎調教師の子息である池江泰寿調教師も管理馬のピカレスクコート号とともに帯同しています。


彼の薬物の知識はケイバ界でも相当なものと聞いています。


ディープは気管が弱かったので、薬を常用していたとしても不思議はない。

海外に出たことで引っかかってしまった、ということはありえますね」

池江泰寿調教師は約2年間、欧米で修行してきた経験を持ち、

「(薬物の知識は)そのときに得た」(前出のターフライター)といわれている。


週刊文春は記事中で、泰寿調教師に過去、薬物疑惑があったことも記している。
http://www.j-cast.com/2006/11/21003928.html


289 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage] 投稿日:2009-09-04 13:02:25 ID:FCh0imIQ0

池江郎師、吸入治療「時々していた」…ディープ薬物騒動語る

http://b.hatena.ne.jp/entry/hochi.yomiuri.co.jp/horserace/news/20061022-OHT1T00077.htm


308 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage] 投稿日:2009-09-05 04:15:38 ID:6NVAP6Pp0

当時、日本は使用が認められてたって事は、薬物検査でイプラが出ても スルーって事だよね。

それで、当時から禁止だったフランスでディープが引っかかってイプラと言う薬物が表に出てきた。

と言うことは、それがなかったら表には出なかったってことでしょ。

だとしたなら、イプラが競争能力を上げると知っていた調教師は問題になるまでは、全員普通に使ってたと思うけどな。

と言うか池江氏の管理馬は使ってなきゃおかしいよ。


215 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage] 投稿日:2009-09-02 01:02:48 ID:Vqqn9mQw0

スポーツの世界でも普通にドーピングなんだけど、現行犯以外での立証が困難なので実質的に野放し状態なんだよね・・・

ましてや、禁止もされていない競馬の世界。

池江寿師が薬物について詳しかったおかげで、ディープは色々とメリットを受ける事ができた。

でも、これは馬のせいではないからね。

それにドーピングがバリバリの時代だったセクレタリアトがストロイド+興奮剤かませすぎて暴走したベルモントステークスよりなんか見ちゃうと、ディープなんかかわいいもんだよw

11 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage] 投稿日:2009-08-24 01:41:37 ID:TnNsGS9Y0

そうなるとナリタブライアンはドーピングだった可能性が高いですね

つまり94年には既にこのような「スターホース作り」が行われていたことになりますね

恐ろしいことです


423 :名無しさん@実況で競馬板アウト[] 投稿日:2009-09-16 21:24:19 ID:4C4J2H+EO

今現在は禁止薬物になっているのは知っているのだけど…

治療薬として使用可能ならば、要はレース後の薬物検査で検出されなけば無問題って解釈でいいのかな?

ならば、仮定の話になるが、イプラで競争能力が上がるのであれば今現在も使用してる馬がいる可能性があるよね?

ちなみにイプラを使用したさいに生じる副作用みたいなものはある?

424 :名無しさん@実況で競馬板アウト[] 投稿日:2009-09-16 21:43:06 ID:XuUHPotRO>>423

副作用は早死にの可能性だけやね

エル、ナリブ…

いとかなし

20 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage] 投稿日:2009-08-24 03:51:01 ID:C0ukXrBxO

ノーザンファーム生産の幼駒達が突然稽古で走るようになったのがディープ世代からで
それに疑惑の目を向けてる人がドーピング失格騒ぎの頃に何人かいた記憶がある

確かノーザンが全天候型の走路が出来た事を自慢していたころなんだけど
たかが屋根付き走路一つで見た目にも体のつくりが違ってくるなんて
そんな露骨なまでの変化ありえないとかなんとか


135 :名無しさん@実況で競馬板アウト[] 投稿日:2009-08-27 10:59:58 ID:9/SsvtDY0>>20

ノーザンの馬ばかり活躍している昨今だが、イプラ疑惑が常につきまとっているからな。

これはノーザンへの警告と同時に、他の馬主からの依頼でもあったと聞いている。

あまりにもおかしすぎないかと。


452 :名無しさん@実況で競馬板アウト[] 投稿日:2009-09-20 15:16:11 ID:whd0aoJmO

社台F生まれは種馬としても活躍できるがノーザンF生まれは種馬失敗馬多数。

やはり薬が原因か


26 :名無しさん@実況で競馬板アウト[] 投稿日:2009-08-24 04:15:46 ID:n6yQyviPO

でも、ディープの筋肉は素人目にも違いが歴然なくらい凄かったよ


31 :名無しさん@実況で競馬板アウト[] 投稿日:2009-08-24 06:18:57 ID:QOjPcUNhO
成長ホルモン剤との併用使用だね
http://kakolog.desktop2ch.net/keiba/1251045237/

28 :名無しさん@実況で競馬板アウト:2010/02/16(火) 10:24:55 ID:jX7armqI0

特定厩舎の馬が筋肉モリモリになるのはなんで?

30 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage]:2010/02/16(火) 11:11:20 ID:oYH6TQseP

松国の馬なんて、筋肉の付き方どころか、立ち方、歩き方、走り方までみんな同じ。

なんか凄い科学技術を持ってて、強い馬のクローンを作ってるとしか思えない。

http://www.unkar.org/read/dubai.2ch.net/keiba/1266135750

156 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage]:2009/07/18(土) 19:16:35 ID:mD+oqs1P0

イプラトロピウムなんて当時はみんな使ってたよ

157 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage]:2009/07/18(土) 19:31:16 ID:n3Z773/X0

禁止にされていない能力向上に効果のある薬物があるのに使ってなかったんならその調教師は無能ということ
http://www.unkar.org/read/dubai.2ch.net/keiba/1247553751


02. らいだー 2014年3月24日 22:07:07 : lc7iGvb8beDRU : 5i9bxS4ZvQ
エルコン信者=関東人
栗東圏では最強と思う人は皆無。他にもいっぱいいるからさ。
だって関東馬エルコンとグラスワンダーとクリスエスしかいないもん。

03. 2015年2月06日 16:39:39 : b5JdkWvGxs

ステイゴールドの訃報、熊沢「何回も泣かされただけに思い入れが強い」

2月6日(金)12時19分配信


5日に急死したステイゴールドへの惜別の思いを語った熊沢重文騎手


 5日に急死したステイゴールド。デビューの頃からコンビを組み、50戦のうち33戦で手綱をとった熊沢重文騎手が、惜別の思いを語った。

「訃報を聞いて驚きました。種牡馬としてもまだまだ若かったですし、残念でなりません。

デビューの頃から長いことコンビを組ませてもらって、自分では大きいところを勝たせてやれなかったのは残念ですが、あの気の強いところに何回も泣かされてきた馬で、それだけに思い入れもすごくあります。

当時、こんなこともありました。調教にもよく乗せてもらっていたんです。厩舎から坂路に向かう時に逍遥馬道を通るんですが、その道中で、多い時には3回落とされたこともありました。

立ち上がったりも、よくしてましたね。普通の馬なら立ち上がるだけで終わりですけど、ステイゴールドは立ち上がって、そのまま10歩くらい歩いちゃうんですよ。それでもひっくり返ることがなかった。当時から本当に身体能力が高かったですね。

(産駒の)オルフェーヴルを見ていても、あの気の強いところがそのまま出てますよね。でも、走る馬って単にうるさいだけじゃない。悪さはしても、手が付けられないくらいにはならなくて、上手くおさまる賢さも持ってる。ステイゴールドはそういうふうになっていったし、オルフェーヴルも同じように成長していったように思えます。そういうところも血統なのかなって思いますね。

小柄な馬で、気持ちの強さもあったから、レース後の回復がとにかく早かった。疲れという疲れを感じたことがないですね。たくさんの思い出のある馬。あんな個性的な馬、なかなかいないですよね。ゆっくり休んでほしいです」


04. 中川隆 2015年2月06日 16:44:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

2014年05月22日(木) 石田敏徳

池江泰寿調教師が語る「ステイゴールド」と血統の魅力、そして「アッシュゴールド」

『黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語』番外編インタビュー
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39324


現役時代、50戦7勝だったステイゴールドが、史上7頭目の「三冠馬」オルフェーヴル、ダービー(6月1日開催)出走予定の「2歳女王」レッドリヴェール、「天皇賞・春2連覇」フェノーメノ、「GT4勝」ゴールドシップといった大物産駒を次々と輩出するまでの軌跡を描いた、『黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語』がこのたび講談社から刊行された。そこで今回、著者の石田敏徳氏が、ステイゴールドの調教助手を務めた池江泰寿氏(現調教師)に特別インタビューをした。池江師は、知られざるステイゴールドの現役時代のエピソードから、ステイゴールド産駒とディープインパクト産駒の違い、ダービー出走予定のトゥザワールドとトーセンスターダムの分析、そして、いよいよ今夏デビュー予定の注目馬<Aッシュゴールド(オルフェーヴル、ドリームジャーニーの全弟)への期待まで、縦横無尽に語ってくれた。

まるで肉食獣のような激しい馬だった

──調教助手として携わった現役時代、競走馬としてのステイゴールドにはどんな印象を抱いていましたか?

池江:とにかく「我の強い馬だった」というのが最大の印象ですね。

 現役時代、一緒に戦ったスペシャルウィークやテイエムオペラオーなどと比べても、ステイゴールドは遜色のない能力を秘めてはいたんです。気性さえもう少し丸くなって、人間のいうことを聞いてくれるようになれば十分、そうした馬たちにも先着できる自信がありました。なのに、なかなか勝てない。スタッフの一人として、それが凄く歯がゆかったですね。

 周囲からはブロンズ、シルバーコレクターなどといわれましたが、決して2着、3着にしかこられないレベルの馬ではなかった。勝てる能力を秘めているのに、勝たせることができないという歯がゆさを感じ続けていました。

 ではなぜ、勝てなかったのかといえば、気性の激しさ、難しさ、要は我の強さが大きな要因。ただ、競走馬にとっては気性というファクターも能力のひとつですから。

──調教や運動の際には本当によく立ち上がったみたいですね。

池江:立ち上がりましたねえ。それに厩舎にいるときでもステイゴールドの馬房の前を通ると、コブラみたいに凄い勢いで人間に襲いかかってくるんです。とても草食動物とは思えない、そう、まるで肉食獣のような激しさを感じる馬でした。


──現役生活最後の秋、それだけの激しさ、我の強さを矯正するために、様々な工夫を凝らしたという話は、『黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語』にも書きました。それが実を結んでラストランでのGT制覇という劇的な勝利に繋がったわけですが、その香港ヴァーズでも最後の直線では突然、右側に斜行し、いったんは絶体絶命と思える状況に追い込まれました。

池江:ステイゴールドがレースで右側にもたれたのはあのときだけなんです。片側ブリンカーで視界を遮られているから左側には行けない。じゃあ右に行ってやれ、というね(笑)。常に何かをしでかして、「人間を困らせてやろう」と思っているようなところがあった馬ですから、あの斜行もそうした習性の表れだったんでしょう。

まさかここまで成功するとは……

──しかし武豊騎手の“マジック”が炸裂して、そこから奇跡的な差し切りを飾ります。本書にも書きましたが、あの勝利は種牡馬としての命運を左右する大きな1勝だったと思います。

池江:そうですね。ああいう強烈な勝ち方をすると、いい繁殖牝馬が集まりますから。逆にいえば、あのとき勝っていなければ、埋もれてしまっていてもおかしくはなかったと思いますよ。

──とはいえ種牡馬入りの当初、あのステイゴールドからこれだけコンスタントに大物が出てくるというイメージは誰も描けなかったはずです。

池江:僕もちょっと、ここまでの成功は想像できなかったですね。特に三冠馬、オルフェーヴル級の大物が出るとは思っていなかった。ステイゴールドが種牡馬入りした時期、サンデーサイレンスの直子の種牡馬って他にもたくさんいたじゃないですか。しかもGTをいくつも勝っている馬が何頭もいました。それらの馬に対してステイゴールドはGT勝ちが1勝だけ、馬格は小さいし、社台スタリオンステーションにも入れなかったわけです。だからここまでの成功を収めるなんて、「まさか」というのが正直なところですよね。

──現実にこれだけの成功を収めていることについてはどんな感想を持っていますか?

池江:もう、単純に嬉しいですよ。本当に嬉しい。あの馬はなんか、戦友みたいな間柄の馬でしたから。ドバイにも香港にも一緒に行って、しかも両方、勝ってくれたわけですし。だからオルフェーヴルが出たとき、特にダービーを勝ったときはしみじみ、「ステイゴールドが僕に贈り物をしてくれたんだな」と感じました。

──先生が管理されたオルフェーヴルと(兄の)ドリームジャーニーは、ステイゴールドの種牡馬としての名声を確立した存在といえます。あの兄弟について、“父のDNA”はどんなところに感じましたか?


池江:どちらかといえば、ドリームジャーニーのほうが父親によく似ていた気がします。馬体は小さいけれど俊敏だったところもそうですが、キャラクター、気性的にも、ドリームジャーニーのほうがわがままでしたから。競馬でも、ドリームジャーニーのほうがやっぱり成績の波が激しかったですよね。

 一方のオルフェーヴルは阪神大賞典や凱旋門賞のようなこともたまにはありましたが、トータルで見れば割と走るのが好きで、競馬でもすべての能力を出し切ってくれたタイプ。ステイゴールドの産駒にはちょっとムラなところがあるなかで、オルフェーヴルの勝率はかなり優秀でした。あの馬は(母の父の)メジロマックイーンの安定性も兼ね備えていましたし、姿形を見ていると(母系の種牡馬である)ノーザンテーストやディクタスにもよく似ていましたね。

ステイ産駒とディープ産駒の違い

──現在、日本の生産界で大きな成功を収めている種牡馬といえば、今年もリーディングの首位を快走しているディープインパクトが筆頭格にあたります。先生にとってはディープインパクトも“身近な存在”といえる馬ですよね?

池江:そうですね。ディープインパクトは僕が独立して、自分の厩舎を開業してから(父の池江泰郎元調教師が管理した)の馬ですが、どんな調教をしているかとか、長所、短所などは父からずっと聞いていましたから。

──ステイゴールドとディープインパクト。産駒の特徴を比較すると?

池江:ディープインパクト産駒のほうが、気性的にはやっぱり安定しています。管理する側からすると「やりやすい」という言い方になると思います。対してステイゴールドの産駒は激しいというか、我の強いタイプが多いので、なかなか難しい面もありますね。

──そのかわり、長打力の比較ではディープインパクト産駒にも全然負けていないイメージです。

池江:ええ。繁殖牝馬のレベルが決して高くなかったなかからも、これだけ大物を出してきたわけですから。ステイゴールドの種牡馬能力は相当高いんだなって思います。

──そうした特徴の違いを実感できるのは、ステイゴールドともディープインパクトとも、身近な立場で携わったおかげなのでしょうか?

池江:血統についてはあまり、先入観を持ちすぎてはいけないと僕は考えています。父親やお兄さんのときはこうだったからと、その経験に縛られて、まったく同じことをしようとしてはダメ。でもやっぱり、参考になることも多くて、父親、母親、あるいはきょうだいを直接、手がけたという経験は、非常に大きなアドバンテージになっています。


──ステイゴールドに携わった経験が、ドリームジャーニーに活かされたというエピソードは『黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語』にも書きました。オルフェーヴルについてはどうだったんでしょう?

池江:ドリームジャーニーと同じですよね。現役時代のステイゴールドって、凄く成長力があったんですよ。身近な立場で携わっていて、2段階、3段階ぐらいの成長力を肌で実感しました。引退レースの香港ヴァーズを勝ったときには豊君(武豊騎手)も、「もう1年、現役を続けられるなら、年度代表馬をとれる」と言ってくれたほどです。それぐらい成長力があったんですね。

 だからドリームジャーニーと同様、オルフェーヴルについても「この馬はまだまだ強くなる」という確信を常に抱いていました。実際、ステイゴールドのときと同じで、オルフェーヴルが(引退レースとなった)昨年の有馬記念を勝ったときには、「もっと強くなる」と思いましたよ。もし来年、凱旋門賞に出走できるなら、トレヴと再戦しても勝てるなと自信を持てるぐらいでした。

ダービー2014、トゥザワールドとトーセンスターダムは?

──身近な立場で携わった馬といえば、先生はこの春、自身と深い縁を持つ2頭の馬で2度目のダービー制覇に挑むことになります。そのうち、弥生賞の勝ち馬で皐月賞2着のトゥザワールドは、調教助手として担当したトゥザヴィクトリーの息子。トゥザヴィクトリーは先生にとって、どんな存在の馬ですか?

池江:やっぱり、かけがえのない馬ですよね。あの馬は入厩してきてから引退するまでほとんど毎日、僕が乗っていたんです。今も身につけているベルトのバックルには「トゥザヴィクトリー」という刻印を入れていますし、普段、愛用している双眼鏡にもトゥザヴィクトリーのキーホルダーをつけています。もちろん、思い入れの深さは「どちらが上」などと比べられるものではありませんが、僕にとって特別な存在であることは確かです。

──そのトゥザワールド、お母さんに似ているところはありますか?

池江:首の高い走法などはよく似ています。ただ、性格は似ていません。少しヒステリックな面があったトゥザヴィクトリーに対し、トゥザワールドにはそういうところがないんです。本当に賢い馬ですよ。

──もう1頭のトーセンスターダム(きさらぎ賞の勝ち馬)はディープインパクトの産駒です。


池江:見た目はあまり、父親には似ていないですけどね(笑)この馬の場合、肉体面の完成度は決してまだ高くない。腰が甘くて、全般的に“緩い”印象が先に立ちます。ただ、そんな身体でデビューから3連勝したという事実が、潜在能力の高さを物語っています。腰の部分がもっとしっかりしてきたら、もう一段上のギヤを使えるはずで、ダービーを迎える頃にはもっと完成度も高くなっていると思いますよ。

三冠と凱旋門賞を狙うアッシュゴールドと「血統の魅力」

──その一方では今年、父がステイゴールド、母がオリエンタルアートという血統の、オルフェーヴル、ドリームジャーニーの全弟にあたる2歳馬(馬名アッシュゴールド)も入厩してきます。1億8000万円という社台レースホースの募集価格からも大きな注目を集めていますが、この馬にはどんな期待を抱いてますか?

池江:見た目とか身のこなしが同じ時期のオルフェーヴルにそっくりで、様々な意味で非常にレベルの高い馬です。もちろん、三冠もとりたいし、夢はやっぱり凱旋門賞のリベンジですよね。この馬で是非、凱旋門賞を勝ちたいと思っています。

──“血の繋がり”から数々の新たなドラマが生まれていくことは、ブラッドスポーツとも呼ばれる競馬の魅力のひとつで、それは『黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語』に通底するテーマでもあります。競馬には馴染みが薄い方々に、「血統を通じて見る競馬の魅力」をアピールするとしたら、どんな表現になるでしょう?

池江:人間の世界って、自分がリアルタイムで見られるのは3代か4代ぐらい。しかし競馬の世界ではサイクルが早いから、すぐに子供が出てきて、孫が出てきます。そういう楽しみは競馬特有のものだと思いますね。たとえばプロ野球でも、自分が応援していた選手の子供がデビューするとなれば気になるでしょう? ボクシングとか、芸能界でもそう。だけどそれは20年後とかになってしまう。

 それが競馬の世界では5年ぐらいでもう、自分が見ていた馬の子供がデビューしてくるし、競馬を見続けていくほど、思い入れも深くなっていくはずです。

──自分だけの物語をつくれる?

池江:その通りですよね。今、こうやってステイゴールドのことを思い出していたら、話をしていくうちにどんどん、当時の記憶が鮮明に甦ってくるんです。現役時代のステイゴールドについて、コペルニクス的なアドバイスをくれたときの上村君(上村洋行元騎手)の表情とか、豊君が言った「来年は年度代表馬をとれる」という言葉とか。

 1頭の馬を通じて、過去の個人的な記憶がフラッシュバックした経験を持つ競馬ファンの方は多いでしょうし、そうした“記憶に残る”馬を1頭でも多く送り出せるよう、これからも頑張りたいですね。

池江泰寿(いけえ やすとし)

1969年京都生まれ。同志社大学卒業後、浅見国一厩舎所属の調教厩務員などを経て、94年に父・池江泰郎厩舎へ移籍。調教助手としてトゥザヴィクトリーやステイゴールドを管理。

2003年に調教師免許を取得し、04年厩舎開業後、ステイゴールド産駒のドリームジャーニーやオルフェーヴルなどを手掛け、12年にJRA賞(最多賞金獲得調教師賞)を受賞。

通算成績は417勝(うち重賞40勝/14年5月19日現在)。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39324


05. 2015年2月06日 16:49:39 : b5JdkWvGxs
・ステイゴールド急死を惜しむ池江調教師「闘争心と心肺能力が非凡」2015年02月06日

・大接戦の末、「香港ヴァーズ」を勝利。現役最終戦で初GI制覇を飾ったステイゴールド(手前)
http://www.tokyo-sports.co.jp/race/horse/364438/attachment/%e3%80%8c%e9%a6%99%e6%b8%af%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%83%bc%e3%82%ba%e3%80%8d%e3%82%92%e5%88%b6%e3%81%97%e3%81%9f%e3%82%b9%e3%83%86%e3%82%a4%e3%82%b4%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%89/


・ 3冠馬オルフェーヴル、GI・5勝馬ゴールドシップ、グランプリ2勝馬ドリームジャーニー、仏GI凱旋門賞2着馬ナカヤマフェスタ…トップホースを数多く輩出してきた種牡馬ステイゴールド(21歳)が5日、けい養先の北海道日高町のブリーダーズスタリオンステーションで急死した。

・今年初めての種付けを終えた後体調が急変し同日夜に息絶えた。死因は不明だ。

・ ステイゴールドは、1994年生まれ。父サンデーサイレンス、母ゴールデンサッシュの間に生まれた。

・現役時代は目黒記念、日経新春杯とGIIを2勝したが、国内GIでは天皇賞・秋2着、有馬記念3着など勝利に一歩届かない善戦型だった。

・しかし7歳で臨んだ海外遠征で覚醒。2001年3月のドバイシーマクラシック(当時はGII)を勝ち、同年暮れの香港ヴァーズを快勝。引退戦でGI初制覇を果たした(JRA48戦5勝、海外2戦2勝)。

・ 現役引退後は種牡馬として大物(ドリームジャーニー、ナカヤマフェスタ、オルフェーヴル、マイネルネオス、ゴールドシップ、フェノーメノ、レッドリヴェール)を次々に送り出し一流サイアーとして君臨していた。

・同じサンデーサイレンス系のライバル・ディープインパクトが決め手とスピードを武器にしているのに対し、ステイゴールドはパワーとタフネス、成長力が売り。

・相対的に産駒数が少なく、気性がムラでコンスタントに勝ち星を稼ぐタイプではないためリーディングサイアーにはなれなかったが、ここ一番での無類の強さを発揮、後輩ディープ2世を撃破するシーンを何度も演出した。

・ このように強烈な個性で日本の競馬サークルを引っ張ってきただけに、今回の急死は惜しまれる。

・ 調教助手時代に海外遠征に帯同し、トレーナー転向後は代表産駒ドリームジャーニー、オルフェーヴルを管理した池江調教師は

・「昨日(5日)夜に知った。非常に残念」

と働き盛りでの急死を惜しんだ。続けて

・「一番の思い出は香港ヴァーズを勝ったこと。現役時代はどうしてもGIを勝たせてあげられずにスタッフとして歯がゆい思いをしていたので本当にうれしかった」。

・種牡馬としては

・「闘争心と心肺能力が非凡。これは現役時代のステイゴールドもそうだし、オルフェーヴル、ドリームジャーニー3頭に共通すること。実戦が終わった直後でも息が上がらずケロッとしていたことが何度もあった」。

・ 一方「黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語」で14年度JRA賞馬事文化賞を受賞した石田敏徳氏は、

・「突然のことで驚いています。先日の授賞式では元気だと聞いていましたから。ステイゴールドは決して恵まれているとはいえない環境からスタートして大種牡馬になりました。そこに興味を覚えたのが本を書くきっかけでした。本当に感謝の言葉しかありません」。

・突然の死を悼んでいた。
http://www.tokyo-sports.co.jp/race/horse/364438/

・ステイゴールド急死に後藤騎手「思い出のレースは失格した京都大賞典」

・東スポWeb 2月6日(金)16時5分配信


・ステイゴールド急死に後藤騎手「思い出のレースは失格した京都大賞典」


・2001年の京都大賞典。
左からステイゴールド、落馬するナリタトップロード、テイエムオペラオー
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150206-00000029-tospoweb-horse.view-000


・ トップホースを数多く輩出してきた種牡馬ステイゴールド(21歳)が5日、けい養先の北海道日高町のブリーダーズスタリオンステーションで急死した。

・トレセンを駆け巡った悲報に関係者も少なからずショックを受けており、美浦では現役時代5回騎乗した後藤浩輝騎手(40)が当時を振り返った。

「・01年の京都大賞典で1位入線。

・この馬で初勝利となるはずが、ナリタトップロードを落馬させてしまい失格に。最悪の結果に終わった印象が強いです」

・と、まずは苦い思い出が口をついた。しかし、同時に

・「あの馬の本当の強さを感じたレースでもありました」。

・それは当時最強だったテイエムオペラオーに先着したからだという。

・「直線で左に寄っていったのですが、それは決してヨレた訳ではない。強い馬に立ち向かって、食らいつこうとする動きでした」

・ そういう独特の気性の持ち主だったので

・「ステイゴールドに乗る時はいつも“どうすればしっかり走らせられるだろう”と試行錯誤していました」。

・続けて

・「人間の油断や弱さを察知できるすごい馬。
一瞬でもそれを悟られるとこっちの負け。
レース中だけではなく、あの馬に乗っている間は常に気が張っていた。

それだけにあの京都大賞典は失格になったとはいえ、ああいう(闘争心を表に出した)走りを見せてくれたのですから、ようやく自分のことを認めてくれたのかなと思いました。

あの感覚を感じられたことは今でも自分の中で財産になっています」。

 種牡馬ステイゴールドに関しても評価は高い。

「遺伝力も強かったですね。産駒は必ずお父さんが持っていた怖さや危うさを受け継いでいますから。

だから自分もステイゴールド産駒に乗るときは、お父さんの時と同じように人間が負けないよう強い覚悟を持って接するようにしています」


06. 2015年2月06日 19:50:47 : b5JdkWvGxs

2000 目黒記念
https://www.youtube.com/watch?v=Nz2fDzhDuog

2001年 ドバイシーマクラシック
https://www.youtube.com/watch?v=8F2nQVmBXi4

2001年 香港ヴァーズ
https://www.youtube.com/watch?v=4W113zq1i24

引退式
https://m.youtube.com/watch?v=nxWsq2sc-Ns

砂浴び
https://m.youtube.com/watch?v=PhPfY47AacU

ボロ@
https://m.youtube.com/watch?v=UqUJPEegpfs

ボロA
https://m.youtube.com/watch?v=FUg7jP8jscc

牧場
https://m.youtube.com/watch?v=cXGgXuW-Quw
https://m.youtube.com/watch?v=IEPbXufeCnU
https://m.youtube.com/watch?v=E00Nx6F-vJQ
https://m.youtube.com/watch?v=gIW976Sg2lc
https://m.youtube.com/watch?v=Vim8TYzl4jE


7. 2021年4月09日 11:05:58 : 6gG22Swxpc : bm5xUFA5bmFnVjI=[9] 報告
ステゴがもし香港ヴァーズ勝ってなかったら
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/keiba/1617893106/


1名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:45:06.62ID:frCIFGpR0

種牡馬になれなかったってまじ?
そしたらゴルシもオルフェーもオジュチョーもいなかったんだけど競馬の偶然て怖いな


2名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:45:59.39ID:Oqljf1U20
元々乗馬予定だったしな

3名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:46:39.22ID:sbNWldhn0
オジュチョー言いたいだけのスレ

4名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:47:06.56ID:grlnAzTD0
>>1
せめてオジュチョウやろ

5名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:49:21.92ID:UQdsCSRM0
さんを付けろよデコ助野郎

6名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:49:32.08ID:lxepzqfs0>>60
ステゴは肉にはならない
多分ならないと思う
ならないんじゃないかな
まちょっと覚悟はしておけ

7名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:50:06.04ID:LKcUJHGH0
>>1
マジレスだが
香港ヴァーズ負けて、種牡馬になれたとしても
香港ヴァーズ負けた時点で運命が大きく変わって
ゴルシもオルフェーもオジュチョーもいない

8名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:51:44.41ID:8eplfrXu0>>10
ステゴはドバイSC勝った事の価値の方が偉大だよ

9名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:51:50.07ID:2WNpxL1H0
種付けが一秒ズレただけで他の馬ができるんだから気にするレベルじゃない

10名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:53:30.25ID:Oqljf1U20>>11
>>8
メンバー的に豪華だったよな
GI昇格後のシーマでもあれより豪華メンバーだったのってあまりないだろう

11名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:54:53.18ID:6VuYlswN0
>>10
あの時が最高メンバーだった
だからステゴなんて最低オッズ評価だったしな

12名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:55:46.50ID:gQiY9DPw0
ドバイシーマクラシックを制したことで種牡馬入りが決定した
当初は日高軽種馬農協と交渉したが決裂、その後社台、岡田氏、ブリーダーズSSの三者で
シンジケートが結成された

13名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:57:25.27ID:OB44f+Af0
確か誰もステゴ勝てると思ってなくて勝った時競馬板飛んだんだよな
あのドバイ

14名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:58:42.33ID:7TlBLJ/b0>>19
もし中途半端に国内G1勝ってたらどうなってたの?
たとえば98秋天とか

15名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:59:48.12ID:PAMqzSmP0>>18
武さんが時代を変えたんやで
後藤も少しあるかな

16名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/08(木) 23:59:59.93ID:g5tGJkI80
ファンタスティックライトに勝ったっていうニュース聞いた時は耳を疑った
そもそも当時のドバイなんてワールドカップ以外にレースあったっけ?ってくらい認知度低いし

17名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:04:47.84ID:5kYJknRm0>>25>>32>>49
この年のドバイ・シーマ・クラシックには前年のエミレーツ・ワールドシリーズのチャンピオンの座に就いた地元のファンタスティックライト、ドイツのGIホース・シルヴァノ、シンガポール航空国際Cを制した英国のエンドレスホール、ジャパンC2着の実績などで日本でも馴染みのある香港のインディジェナスなど、世界の一線級が参戦してきたことからGIIレース(現在はGIだが当時はGIIとして実施されていた)と言えど、間違いなくGIレースに値するメンバー構成だったと言える。

レースではエンドレスホールが主導権を奪ってスローな流れを作る中、ステイゴールドは中団よりもやや後ろ目の最内に待機。それも英国ブックメーカーのオッズで圧倒的な支持を集めていたファンタスティクライトをピッタリとマークするように追走していった。

直線に入ってファンタスティックライトが早めに動き出すも武豊はここでもジッと我慢。無理にファンタスティックライトを追いかけずにステイゴールドの脚をためてからスパートする作戦に出た。そして、満を持して武豊がステイゴールドにGOサインを出したのは残り300m地点からだ。道中は馬場の内側を走っていたステイゴールドを今度は外に持ち出して猛スパートを開始した。

ステイゴールドの末脚は強烈で、先に仕掛けて懸命に粘るファンタスティックライトとの差は見る見る縮まっていく。地元のファンからはファンタスティックライトへの声援が飛び、日本から駆けつけたファンや関係者からはステイゴールドを後押しする声が上がり、ナドアルシバ競馬場はメインレースを超えたと言っても過言でないほどヒートアップしていた。

内のファンタスティックライトか、外のステイゴールドかという熱い戦いは2頭が馬体を並べたところでピリオドが打たれ、勝敗の結果は写真判定へと委ねられる。ゴール前までは、あまりの大激戦に割れんばかりの大歓声が場内を覆っていたが、写真判定の結果を待っている間は、嵐が過ぎ去ったかのような静けさに包まれ、全ての人が固唾を飲んで結果発表を待った。

そして、再び場内に活気が戻ったのは写真判定の結果を告げるアナウンスが流れた瞬間だ。「The winner is Stay Gold!」。この勝利者コールが告げられると同時に場内は拍手喝采。泣いて抱き合う日本人観光客、吠えて喜びを表現する報道陣、満面の笑みでガッツポーズを繰り返す武豊、それを涙目で迎える関係者、まさにナドアルシバ競馬場はステイゴールドの勝利で金色一色に染めあげられたのだ。また、ファンタスティックライトを応援していた地元のファンからも純粋に勝者を称える声援が送られ、何とも清々しい風が漂っていた。

レース後、武豊が「ゴールの瞬間に勝ったと思った」とコメントしていたが、結果は数センチのハナ差での勝利。それでもこの僅差ながらの勝利は日本の競馬史で永遠に語り継がれる大きな一勝であり、世界の競馬史にもその名を確実に刻んだ勝利だったと言える。

18名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:04:52.68ID:Gxw5QTT00>>26
>>15
渡辺をジャンプさせるという偉業
落馬の中ではあれが一番芸術的だった

19名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:07:01.77ID:Gxw5QTT00
>>14
蛯名「笑いが止まらないね」

あまり違和感ないな

20名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:08:41.43ID:VIfik7GN0>>21
ステゴが種牡馬じゃなかったら、他の種牡馬でもっと強い馬が産まれていた可能性は考慮しないのか

21名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:14:34.50ID:A+spzuWC0
>>20
ステゴ以外のオリエンタルアート産駒、ポイントフラッグ産駒見ればわかるだろ

22名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:16:17.28ID:5kYJknRm0
──現役生活最後の秋、それだけの激しさ、我の強さを矯正するために、様々な工夫を凝らしたという話は、『黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語』にも書きました。
それが実を結んでラストランでのGT制覇という劇的な勝利に繋がったわけですが、その香港ヴァーズでも最後の直線では突然、右側に斜行し、いったんは絶体絶命と思える状況に追い込まれました。

池江:ステイゴールドがレースで右側にもたれたのはあのときだけなんです。
片側ブリンカーで視界を遮られているから左側には行けない。じゃあ右に行ってやれ、というね(笑)。
常に何かをしでかして、「人間を困らせてやろう」と思っているようなところがあった馬ですから、あの斜行もそうした習性の表れだったんでしょう。


──しかし武豊騎手の“マジック”が炸裂して、そこから奇跡的な差し切りを飾ります。
本書にも書きましたが、あの勝利は種牡馬としての命運を左右する大きな1勝だったと思います。

池江:そうですね。ああいう強烈な勝ち方をすると、いい繁殖牝馬が集まりますから。
逆にいえば、あのとき勝っていなければ、埋もれてしまっていてもおかしくはなかったと思いますよ。

──とはいえ種牡馬入りの当初、あのステイゴールドからこれだけコンスタントに大物が出てくるというイメージは誰も描けなかったはずです。

池江:僕もちょっと、ここまでの成功は想像できなかったですね。特に三冠馬、オルフェーヴル級の大物が出るとは思っていなかった。
ステイゴールドが種牡馬入りした時期、サンデーサイレンスの直子の種牡馬って他にもたくさんいたじゃないですか。しかもGTをいくつも勝っている馬が何頭もいました。
それらの馬に対してステイゴールドはGT勝ちが1勝だけ、馬格は小さいし、社台スタリオンステーションにも入れなかったわけです。
だからここまでの成功を収めるなんて、「まさか」というのが正直なところですよね。

──現実にこれだけの成功を収めていることについてはどんな感想を持っていますか?

池江:もう、単純に嬉しいですよ。本当に嬉しい。あの馬はなんか、戦友みたいな間柄の馬でしたから。
ドバイにも香港にも一緒に行って、しかも両方、勝ってくれたわけですし。
だからオルフェーヴルが出たとき、特にダービーを勝ったときはしみじみ、「ステイゴールドが僕に贈り物をしてくれたんだな」と感じました。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/39324?page=2

23名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:23:05.95ID:H0++H8AH0
オルフェやゴルシを出したのは本当に凄いよ

24名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:27:03.69ID:8Iu8T9Sy0>>62
2着はあのガリレオに土つけたG1を6勝したファンタスティックライトなんだ
オペも勝ったけど首差
エルコンとは20馬身以上の差やっぱエルコン強すぎる

25名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:28:55.37ID:FmKHqULs0
>>17
熱いなこの頃

26名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:34:32.77ID:nK/kXxhp0
>>18
うおおおおい!って叫んだわあれ
馬が無茶苦茶し過ぎ

27名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:35:10.23ID:CPE9TjJ+0
何がステイゴールドだと何回思った事か…
それでも応援せずにはいられない馬だった

28名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:35:28.31ID:A+spzuWC0
ファンタスティックライトの戦績見たら明らかに晩成だからな
全盛期に戦って勝ったのは評価できるから例え香港で勝てなくても種牡馬にはなれただろ

29名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:35:42.76ID:C1WaEKyi0
内ラチにぶつかったら手前替えたとか

30名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:37:33.67ID:qriLJdsz0
血統も超ではないけど良いし種牡馬になったかもしれないけど、決して豪華ではない繁殖の中から見込まれたほどの馬はより悪い待遇で出なかったかもしれない

31名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:40:28.16ID:WxDSG3N60
ファンが多い馬だったから種牡馬になれなくても
功労馬として人気者だったのは間違いない

32名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:40:45.46ID:qriLJdsz0
>>17
これ2chの実況スレ?かなんかが熱いんだよなー

33名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:43:08.24ID:KwWEsXF10
>>1
無限にある分枝のひとつが具現化したに過ぎぬ

34名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:43:28.58ID:Vp85YxHw0
2ch飛んだよなドバイの時
あん時の実況スレでもトゥザの帯同馬として行かされた挙句体重も落ちてガリガリで可哀想という声と、奇跡起きてもブロンズコレクターだろどうせという諦めムードだった

35名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:43:50.83ID:HrobIGT00
スエヒロコマンダーの馬連当てた人よりステイゴールドの単勝買ってた人が本当の勝者だと思う

36名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 00:50:17.68ID:nK/kXxhp0
とにかく手を抜く馬だったからな

37名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 01:08:53.65ID:752iuHX70>>39
ステイゴールドは惹かれる馬だったな
現役の頃メルアドにしたかったけど、皆んな使ってるらしくて、どう工夫しても駄目だった
もっと25才位までは長生きしてほしかったな

38名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 01:10:56.35ID:p7vJKhBL0
久々に動画見てきたけど何回見ても泣ける
実況が良いのもあるよね

39名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 01:11:54.03ID:WxDSG3N60
>>37
あの時期じゃハイスタのファンも使ってそう

40名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 01:13:39.45ID:c5mA6TZk0
ナイスネイチャは有馬記念3年連続3着なんだよね
それでもG1勝ちがなくても種牡馬になれた
G1勝ってなくても種牡馬にはなれる

ステゴはそれなりの実績はあった
コントレイルを負かしたモズベッロ
モズベッロは種牡馬になれる資格はある

41名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 01:47:22.60ID:zMWCXNRn0
ドバイ勝った後で種牡馬ほぼ確定してたから香港勝てなくても種牡馬にはなれてたよ

42名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 02:08:29.92ID:oui1TdVV0>>45
ステゴ名レース3選
香港でとんでもない末脚で鮮やかに初GIとったラストラン
ファンタとのデットヒートで勝ったシーマ
渡辺ふっ飛ばしてオペにも勝ったけど失格の京大

43名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 02:08:42.24ID:PAOyVEBt0
ウイポ2005で俺がプレイしたとき
ステゴが種牡馬で大成功したから、コーエーは見る目あったんだなって思った

44名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 02:12:38.23ID:wPCBKWfA0
香港がなければドリームジャーニーは生まれてなかったかもしれないと
以後のステゴ産駒達はこの活躍あってのものだろうし

45名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 02:25:43.67ID:EvzB2v+w0
>>42
そこは目黒記念入れましょうよ

46名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 02:26:16.91ID:3oqlg+g30
引退しないで凱旋門賞行ってたら勝ってたよ。気性が落ち着いてこれからだったのに引退させやがって

47名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 02:37:14.50ID:s2k5falg0
元から引退種牡馬入りが決まっての最後のレースなんだけど

48名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 03:05:17.64ID:OKXVRPal0
香港行かなかったら有馬でマンハッタンカフェに勝てたとは思えないんだが・・・
確かに素晴らしいラストランだったがちゃんと勝てるレースを選んで走った。
ドバイは本当にビックリしたけどねw

49名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 04:57:02.26ID:g/f8+S+m0
>>17
これで地元も日本人も賭けてないってのが凄いな

50名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 08:20:56.37ID:5J+mEh980>>55
藤田伸二は上手く乗ってたよね

51名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 08:33:17.30ID:xccW0YbO0
ステゴはファンタスティクライトに勝った時点で種牡馬の道あったろ。

52名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 08:38:13.70ID:dH53oACz0
総帥の一番の手柄

53名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 08:38:24.81ID:dTOayE8P0
やっぱり池江も種牡馬として成功するとは思ってなかったんだな

54名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 08:42:44.33ID:NsQAweuv0
ラストランと決まっての遠征で種牡馬入りがとか言ってるのは

55名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 09:44:10.99ID:Cs/ExmdW0
>>50
武いないときなぜ藤田じゃないかわからんかった
アンカツはほんま下手くそだった

56名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 10:05:12.68ID:eim76z7V0
>>1はクソアプリで競馬に興味もったやつか?

57名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 10:07:37.70ID:5x3h5oBv0
ステゴはスイッチが入れば鞍上関係なく自分の意思で前の馬を抜きにいってたからな。

58名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 10:18:02.11ID:ZMEvuOEX0
ザ社台って血統なのに、社台が見捨てた馬がサンデーサイレンス最優良種牡馬になったのが笑える

59名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 10:23:17.64ID:S4mdts450
>>1
ヒント=サウンズオブアース

60名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 10:25:09.90ID:S4mdts450
>>6
肉にはならないぞ、知名度があるんだから乗馬センターでも牧場でも客呼びに使えるだから使うに決まっている
肉にしたら1000円にもならんが客呼びに使えば億円ひねり出せる

61名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 10:25:44.86ID:+bGC4aDn0
テメーら熊沢なめんなよ!

62名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 10:37:23.50ID:Zc8zkX780
>>24
G1で一番ステゴに着差つけたのはグラス
2番がエルとデジで4位がスぺ

63名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 10:56:58.63ID:PAOyVEBt0
まぁ血統的にも特筆するべきものがなかったし
競走成績もGI勝ちまくったというわけでもなく
馬格も小さいこともあって、当時は種牡馬としての成功は疑問視されてたよな
すでに社台にはサンデー系種牡馬がすでに何頭もいたこともあって
売却の流れは当然といえば当然だった

64名無しさん@実況で競馬板アウト2021/04/09(金) 11:01:04.17ID:C1WaEKyi0
ステマ配合という異常なニックスが無かったら埋もれていただろう

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/keiba/1617893106/

8. 2021年4月09日 11:24:17 : 6gG22Swxpc : bm5xUFA5bmFnVjI=[10] 報告
ステイゴールド
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A4%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89#%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E5%88%B6%E8%A6%87

ステイゴールド(Stay Gold、中:黄金旅程、1994年3月24日 - 2015年2月5日)は、日本の競走馬、種牡馬である。

1996年に中央競馬でデビューし、翌年1997年のデビュー6戦目で初勝利を挙げた。その後条件戦を2勝して同年10月に重賞初挑戦となる京都新聞杯に出走するも、このレースから2000年に重賞初制覇となる目黒記念を制するまで29連敗を喫した。しかし、連敗期間中に2着に入線した10レースの内G1競走での2着が4回、掲示板に入ったレースが29戦中22回と上位入着を重ねながらもあと一歩勝利に届かないレースぶりから「稀代のシルバー&ブロンズコレクター」という愛称が定着した[2]。2001年に日本生産馬として史上初となる国外G1競走[注 1]優勝を果たし、JRA賞特別賞を受賞した。引退後は種牡馬入りし、オルフェーヴルやゴールドシップなどのチャンピオンホースを輩出した。

出生からデビューまで

1994年、北海道白老町の白老ファームに生まれる。父は1989年の全米年度代表馬で、日本輸入後に1995年から12年連続のリーディングサイアー(首位種牡馬)となるサンデーサイレンスで、本馬はその3世代目の産駒にあたる[3]。この年社台グループで生産されたサンデーサイレンス産駒には牝馬が多かったため例年よりも牡馬が少なく[4]、1997年のクラシック戦線においてサンデーサイレンス産駒は未勝利に終わっているが、ステイゴールドと同期のサンデーサイレンス産駒の牡馬にはサイレンススズカがいた[4]。母・ゴールデンサッシュにとってステイゴールドは2頭目の産駒であり、本馬は中央競馬で5戦未勝利ながら、全兄には1987年の阪神3歳ステークス、1988年のマイルチャンピオンシップ優勝馬のサッカーボーイがいる良血馬であった[4]。白老ファームスタッフの石垣節雄によるとゴールデンサッシュは独特の気の強さを秘めた牝馬だといい、「発情がきていても、襲い掛かるぐらいの勢いでアテ馬に噛み付こうとすることがよくありました」と述べている[4]。当時白老ファーム場長だった服巻(はらまき)滋之によれば、サンデーサイレンスよりもゴールデンサッシュの雰囲気が出た馬であったという[5]。管理調教師の池江泰郎は、生後間もない本馬の第一印象を、「きりっとした小柄な馬で、かわいらしくてからだは薄かったけど、黒くて品があってバランスがいいと思ったね。動きがキビキビして見えた」と語っている[6]。

白老ファーム時代のステイゴールドは石垣によると「青草が大好きだったことを覚えている程度で、特別にうるさい馬だったとか、スタッフの手を煩わせたとかの記憶はまったくないですね」と振り返るように大人しい馬だった[7]。しかし、当歳の秋に離乳してノーザンファーム空港牧場に移動してブレーキング[注 2]を済ませて人を乗せての調教が始まると、両親から受け継いだ気性の激しさが鮮明になっていき[7]、運動中や調教中に立ち上がることは日常茶飯事[7]、他にも馬房内でレーザー治療を受けているときに立ち上がって機器を蹴り、高価な治療器を二回も壊してしまった[7]、調教で前を走っている馬がいると数メートル離れたところからでも襲い掛かるように乗り掛かっていこうとしたといった悪癖を出していた[8][9]。調教に向かう最中もしばしば立ち上がっていたが、ほぼ垂直に立ったままふらつくことがなく、それを同じ場所で何度も繰り返すなど、腰の強さも窺わせるものであったという[10]。

1995年、系列のクラブ馬主法人・社台サラブレッドクラブの出資募集馬となり、一口95万円×40口、総額3800万円でカタログに掲載され、間もなく満口となった[11]。競走年齢の2歳となった1996年、公募によって「ステイゴールド」と命名された[12]。これは映画『アウトサイダー』の主題歌に使用されたスティーヴィー・ワンダーの同名曲に由来しており[13]「黄金のような美しい輝きのままで」という思いが込められていた[12]。


競走馬時代

条件馬時代
1996年の9月末、栗東トレーニングセンターの池江泰郎厩舎に入厩。池江はステイゴールドの担当厩務員に1980年の秋に熊本県の荒尾競馬場から中央競馬に移籍して以降、池江厩舎のスタッフとして働き続けていた山元重治を指名した[12]。入厩当時のステイゴールドについて、山元は次のように回想している。

テキ(池江のこと)からは『ギロギロッとした目つきの、ちょっと元気のいい馬だ』と聞かされていたけど、本当にその通りだった。普通の馬とは眼光が全然違ったものね。いつも目をバチーンと見開いて、隙あらば暴れようとする。最初に来たときから引退するまでずっと、人間に対して"俺は強いんだ"と誇示するところがあったな

山元によると、栗東トレーニングセンターの馬場で初めて調教を行った日、10回も20回も立ち上がった挙句にステイゴールドに騎乗していた調教助手が降参したかのように馬のお尻から下馬したという。しかし、坂路コースでの調教では好時計をマークしていたため、陣営の期待を膨らませた[14]。

1996年12月1日、阪神競馬場で開催された芝2000mの新馬戦でオリビエ・ペリエを鞍上にデビュー。スタートで後手を引きながら出走馬中最速タイの上りタイムを記録して3着に入線した[14]。2戦目は前走と同じく阪神の芝2000m戦に出走。単勝オッズは2.2倍の一番人気に支持されたものの、右前脚に骨膜炎を生じて戦意を喪失し最下位となったため、いったん休養に入る[15][16]。

翌1997年2月のダートの未勝利戦で復帰し、このレースでは以後長く主戦騎手を務める熊沢重文が手綱を取った。立ち遅れ気味にスタートし、道中は中団を追走。ところが、ポジションを押し上げにかかった最終コーナーをステイゴールドは曲がろうとせず、大きく外に逸走したうえで身を翻して熊沢を振り落としたため競走を中止[17][18]、競走後にはJRAより調教再審査を通告された[19]。このレース以降熊沢は毎日のようにステイゴールドの調教に跨るようになり、陣営はハミを制御力の強いものに変えるなど左へ斜行しようとする癖の矯正に努める[19][18][注 3]。こうした工夫が実り、ステイゴールドは前走の逸走によって課されていた調教再審査を一発でクリアし、再審査処分明けの一戦ではクビ差の2着、続くレースも2着に敗れた後の通算6戦目、5月11日に東京競馬場で開催された芝2400mの未勝利戦で初勝利を挙げた。このレースでは早め先頭で立った直線でふらついたものの、一週間前に同じコースで行われていた青葉賞(優勝馬トキオエクセレント)より0秒8速い勝ちタイムを記録した[20]。

初勝利後に出走したすいれん賞では馬群の最内を突いて鋭く抜け出し連勝、次走のやまゆりステークスの4着を挟み、札幌競馬場に転戦した阿寒湖特別では3コーナーからのひとまくりで初めての対戦となった古馬勢を相手に勝利を収めた[20]。この2勝を加え、陣営は秋の目標を3歳クラシック三冠最終戦の菊花賞に据えた[21]。10月に重賞初挑戦となる京都新聞杯(菊花賞トライアル)に出走したが4着となり、3着までに与えられた優先出走権を逃す。菊花賞には獲得賞金上位に回避馬が出たことで出走を果たしたが、当日は10番人気と評価は低く、結果もマチカネフクキタルの8着に終わった。年末には準オープン競走のゴールデンホイップトロフィーで2着となり、当年は3勝のみでシーズンを終えた。最終戦は抽選で騎手が選ばれるワールドスーパージョッキーズシリーズの一競走であり、抽選で当たったのは後にステイゴールドと共に重賞3勝を挙げる武豊だった。武はこの時初めてステイゴールドへの騎乗が決まった当時の心境について、以下のように語っている。

もちろん、その前からちょっと気になる馬ではあったわけですよ。ここ一番で声をかけてくださる池江厩舎の馬ということもありますから、いつか乗せてもらえるんじゃないかと、そういう可能性も考えるわけです。当たったときですか?そりゃあもちろん「やった!」という気持ちです。結果的に2着に負けてしまうんですが、勝つのはこの馬だろうと見当をつけていましたからね。
— ステイゴールド永遠の黄金、36頁。
しかし、武によれば本馬に対する第一印象は「とにかく気が悪い馬だな」というものであり、このレースでのステイゴールドについて「2コーナーで、外から併せてきた馬にガーッと噛みつきに行ったんですからね。若い馬にたまにいることはいるんですが、菊花賞にも出たほどの馬がそんなことをするとは思いませんよ。なんか、常に怒って走っているような、そういう意味では競走に対する集中力が全然できていない馬でした」と述べているが、「でもいま考えると、やっぱりあの馬とは縁があったんですよね」と語っている[22]。

翌1998年も緒戦の万葉ステークス、松籟ステークスを連続で2着と惜敗を続けていたが、次走の重賞・ダイヤモンドステークスで2着に入線したことから、獲得賞金規定によりオープンクラスに昇格。続く日経賞での4着を経てGI戦線に出走を始めた。

惜敗続きで人気を得る

日経賞の次走となった天皇賞(春)でステイゴールドは14頭立ての10番人気(単勝オッズ57.9倍)と低い下馬評の中でレースを迎えたが、中団追走から鋭い差し脚を繰り出して並んで伸びたシルクジャスティスを競り落としてメジロブライトに次ぐ2着を確保した[23]。続くグランプリ・宝塚記念でもサイレンススズカの2着(9番人気)と好走、GIにおける2戦連続の2着と、そこまでで通算8度の2着という成績から注目され、「シルバーコレクター」という異名を与えられた[24]。秋シーズンも天皇賞(秋)(蛯名正義騎乗)でオフサイドトラップの2着、年末のグランプリ有馬記念でグラスワンダーの3着といった成績が続いた。1999年に入ると3着が増えたが、秋の天皇賞ではGIで4度目の2着となっている。陣営は試行錯誤を続けていたが、一方でステイゴールドはその惜敗続きの成績から、独特の人気を獲得していった。作家の高橋直子は伝記『ステイゴールド物語』において、人気の萌芽が見られたレースを1998年の宝塚記念として、次のように記している。

おずおずと、しかしはっきりと、不思議な人気が出はじめた。
これだけ二着が得意なのだから、馬券好きたちの間で、連軸としての人気が出る。というのではなかった。まだそこまでは信用されていなかったようである。まあね、まだ重賞も勝っていないし、しょせん三勝馬だし、シビアな馬券師のお眼鏡にはかなわなかったらしい。強いヤツ、あこがれの的、息子(あるいは彼氏)にしたい馬、そういうことで出はじめた人気ではなかった。どんな相手とやっても「あともう少し」でとどまる。その「歯がゆさ」を愛する競馬ファンが少なくなかったのである。


熊沢はコンビを組んでいた期間のなかで、サイレンススズカに敗れた1998年宝塚記念を「一番悔しかったレース」、スペシャルウィークに敗れた1999年天皇賞(秋)を「一番ステイゴールドの強さを感じたレース」として挙げている[25]。宝塚記念では、サイレンススズカに並び掛けたところで、同馬が最後のひと伸びを見せて[24]3/4馬身及ばなかった。一方の天皇賞(秋)では、ハイペースの中での後方待機策が功を奏して直線で先頭に立ったが、さらに後方に控えていたスペシャルウィークにゴール寸前でクビ差交わされた。熊沢は前者について「ステイは完璧なレースをしていると思う。相手が強かったです[25]」、後者について「レース中、何秒かは勝ったと思えた。結果的には負けたけれど、このレースが僕の中では馬の持ち味を引き出せた一番いいレースだと思ってます」と回顧している[26]。

重賞初制覇

2000年も緒戦からGIIを2・3・2着と勝ちきれず、天皇賞(春)で4着となった後、5戦目の目黒記念を前に熊沢は降板となり、以前一度だけ騎乗していた武豊が代役として迎えられた。池江泰郎はこの乗り替わりについて、「心を鬼にして、すべてをユタカ君に任そうと思いました」と語った[27]。

競走当日は朝から雨が降っており、東京競馬場の馬場状態は重馬場と発表され、パワーを要求されるコンディションに悪化していた[28]。オッズは当年初戦のアメリカジョッキークラブカップで負かされていたマチカネキンノホシに次ぐ2番人気に推された。レースは前半1000m通過が58秒7という速いペースで推移し、武は後方待機策を取った[27]。最後の直線で追い込みを開始すると、残り100m付近でマチカネキンノホシを捉え、同馬に1馬身1/4差を付けて優勝[27]。通算38戦目、3歳時に勝った900万下条件戦の阿寒湖特別以来、約2年8カ月ぶりの勝利で、陣営念願の重賞初制覇をサンデーサイレンス産駒重賞100勝目の区切りの記録で果たした。その間の連敗数は28戦、うち重賞での2着・3着がそれぞれ7回ずつあった[27]。

土曜日開催・雨天下のGII競走ながら、観客スタンドからはGIに匹敵する歓声と拍手が送られ[29]、またモニター中継を行っていた中京競馬場でも拍手が湧き起こった[27]。池江は「GIでもね、あんなのないものね。あんな温かいのは。僕もね、本当は拍手したかったんですよ。みなさんと一緒に。それぐらい感動しましたよ」[29]、担当厩務員の山元重治は、「振り向くとさ、みんなが応援してくれているじゃない。喜んでくれているじゃない。それを見て涙が出て困ったよ」と語った[29]。また武は、「土曜の、しかも雨降りのGIIなのに、クラシックレース並の大拍手で迎えられて、ステイゴールドの得難いキャラクターというものを肌で感じました。池江先生なんか感激で泣いてるんですからね。まわりの、そうした空気というものに一番の驚きを覚えましたね」と述懐している[30]。

一方で降板させられた熊沢は後に行われたインタビューで、この競走について次のように語っている。

どうしたらステイゴールドを勝利に導けるか。あのころはそれだけを考えていただけに、目黒記念を見たときは複雑な気持ちでした。そうなんだ、そう乗るテもあるんだ、と思ったけど、それを言うわけにもいかないし、聞いてくれる人もいない。やっぱり正直な気持ち、あのときは寂しさをひしひしと感じましたね。でも、いつまでも引きずったりはしませんでしたよ。僕の手から離れたけど、永年付き合ってきた戦友ですからね。(後略)」
— ステイゴールド永遠の黄金、50頁。
武は東京競馬場からの帰路において「熊沢さんは今どんな気持ちなんだろう」とその心中を慮り、「ちょっと顔を合わせにくい」という気持ちもあったと述懐しているが、熊沢から「意外なほど屈託のない声で」祝福の言葉をかけられたといい、「すごくいい気持ちになれました」と語っている[30]。

目黒記念の後は安藤勝己に乗り替わって宝塚記念に出走し、最後方追走から末脚を伸ばしながらも4着に終わる。また、宝塚記念でのファン投票の得票順位はテイエムオペラオーに次ぐ2位につけ、3位にはグランプリ4連覇の快挙がかかっていたグラスワンダーが入った[31]。その後夏を休養に充てて迎えた秋の初戦・オールカマーは後藤浩輝に乗り替わってメイショウドトウの5着、武豊と再度のコンビを結成して臨んだ天皇賞・秋は1コーナーで受けた大きな不利が響いて5着、後藤に乗り替わって逃げを打って出たジャパンカップは直線の伸びを欠いて8着、年内最終戦となった有馬記念では7着に敗れ、結果的に目黒記念後は宝塚記念での4着が最高という成績に終わった。一方、同年秋には日本中央競馬会が主催した20世紀の名馬選定企画「Dream Horses 2000」において、GI級競走の未勝利馬として最上位の34位に選ばれた[注 4]。


ドバイシーマクラシック制覇

翌2001年、この年の初戦は当初前年と同じくアメリカジョッキークラブカップが予定されていたが、陣営は1週前に行われるハンデキャップ競走の日経新春杯も視野に入れて登録を行っていた。その後、日経新春杯におけるハンデが58.5kgと発表され、これによって陣営は迷った末に急遽日経新春杯への出走を決定した[33]。このレースは藤田伸二が鞍上を務め、トップハンデを背負った馬は苦戦しているレースの傾向とステイゴールドの勝ちきれないレースぶりが敬遠されたのか11頭立ての5番人気という低評価で臨んだが[33]、道中は好位の内で末脚を温存し、そのままインをついた直線では逃げ粘るサンエムエックスを鋭く捉え、重賞2勝目を挙げた。日経新春杯後の3月、厩舎の僚馬トゥザヴィクトリーらと共にアラブ首長国連邦のドバイへ遠征が決定。早くからトゥザヴィクトリーにはドバイ遠征が計画されていたが、トゥザヴィクトリーを遠征させるなら帯同馬も連れて行った方がいいという陣営の考えの中で、そのエスコート役としてステイゴールドに白羽の矢が立てられ[34]、池江が社台グループに「ステイゴールドをドバイに連れて行きたい」という申し出を行ったところ快諾されたためステイゴールドもドバイへの遠征が決定した[35]。

ドバイへの移動に際しては、成田国際空港の検疫所を出発してからドバイに着くまでの輸送時間は経由地の香港での待ち時間(約9時間)も含めて約30時間に及び[注 5]、機内で腹痛を起こす危険性を考慮してその間に与えられたのは水と少量の牧草のみであったため、この輸送で消耗してしまったステイゴールドはドバイに着いてからもカイ食いがなかなか回復せず、馬体も減らしてしまう[36]。このような状況の中で、世界最高賞金開催であるドバイミーティングの一競走・ドバイシーマクラシック(GII)へ武豊を鞍上に出走した。

このレースで注目を集めていたのは前年覇者の地元UAEのエースであるファンタスティックライト(鞍上ランフランコ・デットーリ)だった[37]。同馬は4歳のシーズンを迎えた前年の2000年に本格化し、当時はGIII格付けだったドバイシーマクラシックで英ダービー馬のハイライズや凱旋門賞馬のサガミックスを相手に3馬身差の勝利を飾ると、コロネーションカップでは1999年の英ダービー2着馬ダリアプールの2着、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでは1999年の凱旋門賞馬モンジューの2着に敗れた後アメリカへ転戦し、マンノウォーステークスでGI初制覇[37]。その後目標に掲げていたブリーダーズカップ・ターフでは直線で前が塞がる不利が響いて5着に敗れたものの、続けて出走したジャパンカップではテイエムオペラオー、メイショウドトウと横一列の叩き合いを演じて僅差の3着に食い下がっている[37]。さらに暮れの香港カップでは好位追走から抜け出して2つ目のGI制覇を達成し、この勝利によって同年の「エミレーツワールドシリーズレーシングチャンピオン」の2代目王者に輝いていた[37]。ファンタスティックライトに次ぐ存在として見られていたのが先のコロネーションカップの勝ち馬で暮れの香港ヴァーズでも勝利を飾ったダリアプールであり[38]、当日イギリスの大手ブックメーカーがつけた単勝オッズはファンタスティックライトが2.7倍の一番人気、ダリアプールは6倍で、三番人気にはイタリアのGIミラノ大賞典の勝ち馬エンドレスホールと欧米のGIで3勝の実績を持つムタファーウエクが8倍で並び[39]、ステイゴールドは16頭立ての10番人気[40]、単勝オッズは34倍でブービー人気のグループに入っていた[41]。

レースでは6番枠から好スタートを切って武が馬を内へ導くと中団馬群のインにつき、ファンタスティックライトが走っているポジションで末脚を温存。最後の直線に向いてからは前がやや壁になるシーンもあったものの、スペースが開いた隙を見逃さずに外へ持ち出して加速にかかると、並んで伸びたドイツのシルノヴァを振り切り、先に抜け出していたファンタスティックライトを猛追し、並びかけたところでゴールした[42]。審議の結果、決勝写真にはステイゴールドの鼻先がファンタスティックライトよりもわずかに早くゴールラインを捉えた瞬間が映し出され、ステイゴールドの優勝が決定した[42]。日本産の日本調教馬による海外重賞制覇はハクチカラ、フジヤマケンザンに続いて史上3頭目であり、サンデーサイレンス産駒の日本調教馬として初の国外重賞初勝利でもあった[注 6]。武は「日本でなかなか勝てなかったのに、こうやってステイゴールドが大きなところを勝ったこと、それから日本のサンデーサイレンス産駒がやっと海外で勝ったこと、これは日本の競馬の歴史を変えるできごとで、今後大きな意味を持ってくると思います」と語った[43]。なお、2着に敗れたファンタスティックライトはこの年2年連続でエミレーツワールドシリーズレーシングチャンピオンの座に君臨し、のみならず欧州の年度代表馬、アメリカの芝のチャンピオンにも選出された[44]。


種牡馬入りの売買交渉

ドバイシーマクラシックでの勝利後、社台グループと日高軽種馬農業協同組合の間でステイゴールドの種牡馬入りに関する売買交渉が行われた[45]。両者の間で売買交渉が行われるまでに種牡馬入りしたサンデーサイレンス産駒は33頭であり[注 7]、この年の皐月賞を優勝したアグネスタキオンが社台SSで種牡馬入りすることが決定的となっていたこと、この時点で父・サンデーサイレンスが現役の種牡馬(同年の種付け頭数は223頭[45])だったため、社台グループの生産馬であり、社台レースホースの所有馬でありながら当時の時点で種牡馬入りしていた社台SS繁用のサンデーサイレンス産駒の種牡馬と比べて実績面の見劣りを否めないステイゴールドが外部へ売却されることは当然の経営判断と見られ[47]、その売却先の候補として日高軽種馬農協が浮上した[48]。両者の間でステイゴールドの売買交渉が行われたとき、社台グループ側は売却価格として3億円を提示した[48]。GIでの2着が4回、そして当時の格付けはGIIながら実質的にはGI級のレースを制したステイゴールドの競走成績は宝塚記念をはじめとして国内の重賞を6勝したマーベラスサンデーと比べても引けを取っておらず、それほどのサンデーサイレンス産駒を組合所有の種牡馬という形で導入できることは、当時バブル崩壊以降の景気の落ち込みとともに厳しい状況に陥りつつあった日高の生産者にとって非常に魅力的な話であった[49]。

しかし、その一方でいくつかの不安材料を指摘する声もあり、その中でもステイゴールドの小柄な馬体がネックとされた[49]。当時の日本の生産界では小柄な体格の種牡馬は敬遠される風潮が強く、小さな種牡馬を種付けしてできる産駒はどうしても小さく生まれがちであり、すると“売れにくい”ということになってしまうため、ステイゴールドの小さな馬体は決して軽視できないマイナスファクターとなった[50]。また、交渉が行われた時点でステイゴールドは7歳、種牡馬として供用を開始する翌2002年には8歳になる年齢を不安視する声もあった[51]。さらには、既に水準級以上の実績を残し始めていたサンデーサイレンス産駒の種牡馬の中でも双璧的な存在として見られていたフジキセキ、ダンスインザダークの二頭は交渉が行われた時点でGI馬を輩出しておらず、サンデーサイレンス自身が健在で、優秀な繁殖牝馬はこぞってサンデーサイレンスに配合されていたためもあり、後継争いの大本命と目されるような馬はまだ出現していなかった当時、血の飽和を懸念する人物、近い将来サンデーサイレンス系のサイヤーラインは“縮小再生産”に向かい、本当の意味で次代を担う種牡馬は別の系統から出現するだろうと考える人物が多かった[51]。このようなマイナス要因が重なったため、組合員たちの間で「3億では高い」という判断が多くを占め、最終的に「この価格(3億円)での導入は見送るべき」という結論に傾いたため、この時点で行われた両者の交渉は決裂した[52]。

その後、日高軽種馬農協の返答を受けた社台グループは、売却価格を下げて再度交渉することはせずにオファーを取り下げたものの、代わりに自分たちも含めたいくつかの組織を中心とするステイゴールドのシンジケートを結成することを決めた[53]。結果的に交渉が決裂したことによって社台グループは小さくはない所有権を手元に残すことが可能となり、社台ファーム代表の吉田照哉は当時のことについて「あのとき、危うく売ってしまうところだったんだ」と振り返っている[53]。その後、ステイゴールドのドバイシーマクラシック優勝後の2001年4月下旬に社台グループ、サラブレッド・ブリーダーズ・クラブ、大口の会員として岡田繁幸率いるビッグレッドファームの3つの組織が中心となり、ステイゴールドのシンジケートが結成された[54]。総額は4億5千万円、60株で結成されたシンジケートの会員のうち、大口の株主となったのは社台グループ(15株)と事務局を担当するサラブレッド・ブリーダーズ・クラブ(17株)、ビッグレッドファーム(15株)だった。ただ、この時点で既に同年の種付けシーズンは始まっていたため、ステイゴールドは同年一杯まで現役を続行することとなった[55]。


宝塚記念から国内ラストランまで

ドバイから帰国後はステイゴールドにとって17回目のGI挑戦となる宝塚記念に出走することになり、ドバイシーマクラシックで手綱を取った武豊はこの年の活動の拠点をフランスに移していたため、前年の有馬記念以来となる後藤浩輝を鞍上に迎えて出走することに決まった[56]。後藤は半年ぶりとなるステイゴールドへの騎乗を前にした当時の心境を、生前「週刊Gallop」にて連載されていた自身のコラム「GO TO MOVE!」の中において以下のように綴っている。

ステイゴールドに再び乗れる機会が訪れた。しかも、舞台は宝塚記念。相変わらず人気の高い古豪にこれまでコンビを組んだレースに対して僕の中には不完全燃焼という気持ちがあるから、もう一度チャンスをくれたステイゴールドの関係者には本当に感謝している。また、それとともに、これまでにないプレッシャーをすごく感じている。プレッシャーを強く感じる最大の理由は、ステイゴールドの実績が昨年と比べて明らかに変わったからだ

ドバイから帰国しての凱旋レースとなった宝塚記念は、後藤が断然人気を集めていたテイエムオペラオーが馬群の中で閉じ込められているのを横目に中断追走から早めに押し上げにかかったが、前でスムーズに流れに乗っていたメイショウドトウも早めに押し上げに加速しており、直線に向いて一頭になったときに集中力が途切れてしまい4着に終わった[57]。

夏場を休養に充て、秋の初戦となった京都大賞典でも鞍上は引き続き後藤が務めた。最後の直線ではテイエムオペラオー、前々年の菊花賞優勝馬ナリタトップロードとの競り合いとなったが、ステイゴールドがナリタトップロードを交わして先頭に立った後、内から抜け出しにかかったステイゴールドは左に斜行し、後藤がムチを持ち替えて懸命に矯正を図ったものの斜行を止められず、直後を走っていたナリタトップロードの進路を防ぐ形で前に入ったときに同馬の前脚とステイゴールドの後ろ脚が交錯し、これでバランスを崩したナリタトップロードの鞍上・渡辺薫彦が落馬した[57]。審議の結果、ステイゴールドは1位入線したものの失格処分となり、半馬身差で2位入線のテイエムオペラオーが繰り上がりでの1着となった[注 8]。レース後、後藤は検量室に来たテイエムオペラオー馬主の竹園正繼から大声で「こら!おまえ、いったい何を考えて乗っとるんだ!もっと、フェアに乗れ!」と怒鳴りつけられ、後藤は「すみません。そんなつもりで乗っていたわけではないんですけど…」と弁明したものの竹園の怒りは収まらず、「何を言っているんだ!いいか、これで三度目[注 9]だぞ。どうだ、身に覚えがあるだろう。考えてみろ!」と詰め寄られる一幕があった[60]。なお、ナリタトップロードはこの事故で右前脚に跛行を来たし、続く天皇賞(秋)を回避することになった[61]。

天皇賞(秋)では騎手が武に戻り、テイエムオペラオー、メイショウドトウに次ぐ3番人気に推された。レースではスローペースの中を先行し、最後の直線で抜け出しを図ったが、またしても左側の埒にもたれかかる素振りを見せて前に進もうとせず[62]、武が全く追うことができないまま7着に終わった[63]。道中は好位の内々を進み、絶好の手応えを保ったまま直線に入ったときに武は「勝ったと思った」という[62]。

レース後、武は調教助手の池江泰寿に「なんとかまっすぐ走るように矯正してほしい」と 要望し、泰寿は父の泰郎からも指名されて以降ほぼ毎日ステイゴールドの調教に跨るようになった[64]。その後、池江厩舎の調教を手伝っていた上村洋行から「もっと当たりの柔らかい(=制御力の弱い)普通のハミに替えれば、馬は反発しなくなってまっすぐ走ってくれるかもしれない」と提案され、試したところ馬の従順さが増した感触を得た[65]。さらには、上村からの進言を受けて左目だけを覆うブリンカーを装着して次走のジャパンカップに出走させることが決まった。[注 10][63]。草食動物の馬には、「見えないところには天敵が隠れているかもしれない」という本能が刷り込まれているため視界を遮られた方向に寄って行こうとはしないものの、勝ち気なステイゴールドに両目を覆う通常タイプのブリンカーを着用すると「前へ」という意識が強くなりすぎ、レースへの折り合いを欠いてしまう恐れが懸念されたため、左目だけを覆うブリンカーを着用させて、左へもたれてしまう開く癖を封じ込めるという狙いがあった[66]。また競走前には、これが国内における最後の出走となることが発表された。

こうして迎えた国内最終戦のジャパンカップでは、レースでは中団を進み、テイエムオペラオーをマークして進んだ。最後の直線では外目を伸びた直線、内が開いている状況でも真っ直ぐ走ったものの、先頭に立つまでには至らず4着に終わった。しかし、4着という結果は4年連続での参戦となったジャパンカップにおいて過去最高の着順であった[注 11]。メイショウドトウにも始めて先着を果たし、レース後に武豊は「これなら香港、勝てるよ」という言葉を残した[66]。


引退レース・香港ヴァーズ優勝

通算50戦目の引退レースとなったのは、香港・沙田(シャティン)競馬場で毎年12月に行われる香港国際競走のひとつ・香港ヴァーズ (G1) であった。国際レーティングで120ポンドの評価を得ているステイゴールドは、他馬と4ポンド以上の差がある抜けたトップクラスの存在であり、当日はオッズ2倍の1番人気に支持された[67]。

レースでは淡々とした流れの中で後方から6番手を進んでいたが、第3コーナーからランフランコ・デットーリ騎乗のエクラールがロングスパートを仕掛けて後続を引き離し、ここから流れが高速化した[68]。武は無理にこれを追ってもステイゴールドの持ち味を活かせないと判断して中団に留まり、大きなリードを許したまま最後の直線に入った[69]。直線では素早く馬群を抜け2番手に上がるも、残り200メートルの地点では逃げるエクラールから約5馬身の差があり、さらにステイゴールドは武が警戒していた向きとは逆の右側に斜行を始めた[69]。ここで武が咄嗟に左側の手綱を締め直すとステイゴールドは態勢を立て直し[69]、エクラールを急追。ゴール寸前で同馬をアタマ差交わして1着となり、引退レースで念願のG1制覇を果たした。またこれは同時に、日本の厩舎に所属する日本産馬として初めての国外の国際G1制覇ともなった[注 12]。

武はゴール前の追い込みを「まるで背中に羽が生えたようだった」と評し[70]、またエクラールがドバイで破ったファンタスティックライトと同じ、青い勝負服を用いるゴドルフィンの所有馬だったことから、「どうもステイゴールドはゴドルフィンのブルーの勝負服を見ると燃えるみたい」とも語った[70]。武はレース後の検量室でデットーリから「またあの馬にやられたよ。どうも、僕とは相性が良くないみたいだ」と言われ、それに対して「ゴドルフィンブルーの勝負服を見ると燃えるみたい。でも、これが引退レースなんだ」と返すと、デットーリは「ユタカは寂しくなるだろうけど、僕にとってはとてもいいニュースだね」という会話があったと述べている[71]。共有馬主のひとりだった競馬評論家の山野浩一は、「まるで一瞬ヴィデオがカットされて一秒くらい飛んだかのように、次の瞬間にはエクラールをとらえていた。いったいその間をどんなスピードで走ったのだろう。少なくとも私は過去にあのような瞬間的なスピードを発揮した馬を見たことはない」と感想を述べている[72]。


5年間に渡った競走生活の末、50戦の節目、引退レースでのG1制覇は、「まさに絵に描いたような大団円」(武豊)[69]、「映画でもドラマでも、二度とは見られないようなシーン」(池江泰郎)[73]、「ここまでドラマチックな幕切れはそうそうあるものではない」(『優駿』)[74]など、史上希に見る出来事として称えられた。この勝利を評価され、ステイゴールドは当年国内においてJRA賞特別賞を授与された。また、生涯G1出走回数20、重賞連続出走回数36は、いずれもナイスネイチャをしのぐJRA記録である。

当初は引退式の予定はなかったが、ファンからの強い要望があったことに加え、JRAからも陣営に要請が行き、翌2002年1月20日、京都競馬場で引退式が行われた[75]。当日は香港ヴァーズで使用されたゼッケンのレプリカを着用し、場内には名前の由来となったスティーヴィー・ワンダーの「Stay Gold」が流された[76]。


種牡馬時代

香港遠征から帰国し、京都競馬場で行われた引退式を経て、ステイゴールドは北海道門別町のサラブレッド・ブリーダーズ・クラブが運営するブリーダーズスタリオンステーションにて種牡馬入りした[77]。加えて、2年ごとにブリーダーズスタリオンステーションとビッグレッドファームを移動する契約を結び、ブリーダーズスタリオンステーションでは2002-2003年、2006-2007年、2010[78]-2011年、2014年-2015年(死亡前まで)、ビッグレッドファームでは2004-2005年、2008年-2009年、2012年-2013年に種牡馬生活を送った。2006年からはアドマイヤマックスと互いの供用場所を交換する形となっているが、2013年シーズンはビッグレッドファームで初めて共に供用された。

シンジケートが組まれた種牡馬の場合、シンジケートに加入した会員は一つの持ち株(=本株)につき、年間一頭分の種付け権利を保持し、一方で本株を持たない、すなわちシンジケートに加入していない生産者がシンジケート種牡馬への種付けを希望する時は、所定の種付け料を事務局に払って申し込む「余勢種付け」という方式が採用されていた[79]。ステイゴールドのシンジケートの事務局を担当していたサラブレッド・ブリーダーズ・クラブ取締役社長の遠藤幹によると、引退レースの香港ヴァーズを勝利するまでは余勢種付けの申し込みは3件だけだった[79]。しかし、香港ヴァーズ(2001年12月16日)の翌日以降、ステイゴールドの余勢種付けに関する問い合わせと申し込みの電話が事務局に殺到し、年が明けてからも断続的にオファーが舞い込んできたため、2002年1月19日以降の申込みについては「仮受け付け」という形を取った[80]。

ステイゴールドの初年度の余勢種付けの金額は「受胎確認後150万円、もしくは産駒出産後200万円」に設定された[81]。種牡馬としてステイゴールドと同期にあたるテイエムオペラオー、アグネスタキオンの初年度の種付け料はともに500万円で設定されており、その3分の1に満たない価格でサンデーサイレンス産駒の種牡馬を種付けできることが生産者から人気を集め、初年度はブリーダーズ・スタリオン・ステーションのレコードにあたる177頭に種付けを行った[77]。産駒は2005年よりデビューし、初年度産駒からはステイゴールド産駒として初の重賞制覇を飾ったソリッドプラチナム(マーメイドステークス)[77]、岡田繁幸が「父親に似たよくバネ」が気に入って買ったというコスモプラチナ[77]、主に障害レースで活躍したマイネルネオス[77]、エムエスワールドと4頭の重賞勝利産駒を輩出した[77]。2006年には種付け料が初年度の150万円から100万円に値下げされたものの[82]、次年度産駒からステイゴールドの調教助手を務めた池江泰寿が調教師として管理するドリームジャーニーが朝日杯フューチュリティステークスを制して産駒のGI初勝利を達成し、同馬は2009年に宝塚記念・有馬記念の春秋グランプリを制した。2歳王者による宝塚記念制覇は1999年のグラスワンダー以来10年ぶりであり[83]、また有馬記念当日のドリームジャーニーの馬体重は426kgであり、これは1971年の有馬記念優勝馬トウメイの430kgを下回る最小体重優勝記録であった[84]。2010年にはナカヤマフェスタが宝塚記念を制し、10月には凱旋門賞に出走。19頭中12番人気(最終単勝オッズは27.0倍)[85]という低評価での出走となったが、直線半ばで先頭に立ち、最後はワークフォースにアタマ差及ばず2着に敗れたものの、1999年のエルコンドルパサー以来となる日本調教馬の凱旋門賞連対を果たし、内国産馬としては初の凱旋門賞連対を果たした。

2011年にはドリームジャーニーの全弟にして、兄と同じく池江泰寿が調教師として管理するオルフェーヴルが皐月賞・日本ダービー・菊花賞を制して史上7頭目となる牡馬クラシック三冠馬となり、同馬は年末の有馬記念も制して同年のJRA賞最優秀3歳牡馬・年度代表馬を受賞した。池江泰郎は2005年にディープインパクトで牡馬クラシック三冠を達成しているため[86]、史上初の親子での三冠馬のトレーナーとなった[86]。2012年には前年のオルフェーヴルの活躍を受けて250万円から600万円へ値上げされ[87]、同年はゴールドシップが皐月賞・菊花賞・有馬記念を制して最優秀3歳牡馬に選出され、自身は同年のサイアーランキングで自己最高の3位にランクインした。2013年にはレッドリヴェールが阪神ジュベナイルフィリーズで優勝し、産駒初の牝馬のGI制覇となった。2013年の種付料は受付窓口となるサラブレッド・ブリーダーズ・クラブからの発表で受胎条件のみで800万円にまで値上げされるも、すぐに満口となり、翌2014年も800万円で登録された[87]。翌2014年終了時点で中央競馬における産駒のGI競走19勝はサンデーサイレンス直仔の種牡馬の中ではディープインパクトに次ぐ2位につけていた。

2015年2月5日、繋養先のブリーダーズスタリオンステーションでの種付け後に異常をきたし、輸送先の社台ホースクリニックにて死亡した。死因は大動脈破裂[88][89]。ステイゴールドの遺骨は同スタリオンの墓に埋葬された[90]。ラストクロップはステイゴールドが亡くなる直前に種付けした唯一の産駒「ハルノナゴリ」(母の父キングカメハメハ)であり、2018年末にデビューしている[91]。


特徴・評価

競走馬としての特徴

勝ちきれなかった頃には、「華々しいスタートダッシュを持つわけではない、鋭い切れ味を持つわけでもない」[92]と評されるなど目立つところがなかった。しかし2001年に入るとスローペースからの瞬発力勝負に対応できるようになり、重賞2勝目の日経新春杯では最後の600m(上がり3ハロン)を推定34秒4、失格となった京都大賞典では同33秒8という優れた脚力を見せた[93]。ライターの河村清明は、2000年シーズンを終えた時点で43戦という「ずっと重賞を走り続けた馬としてはめったにないほど」の戦績を重ねながら、競走生活の晩年に急速な成長を遂げたことについて、「一般的に考えるなら、豊富すぎるキャリアゆえ、それ以降の上がり目は望むべくもない。7歳馬ステイゴールドの変身はまさに驚異というほかはない」と評した[93]。武豊はステイゴールドの引退に際し、「ステイゴールドは、今がまさに競走生活のピークじゃないですか。種馬になるのも大事だけど、ボクは乗り役だから、あれほどの競馬ができる馬を種牡馬として奪われたような、そんな寂しさをひしひしと感じているんです。思い出をありがとう、と素直に言える日は、もう少し後からになりそうです」とその引退を惜しんだ[69]。

ステイゴールドを種牡馬として高く評価したビッグレッドファーム代表の岡田繁幸は、ステイゴールドの良さは「回転の良いフットワーク」とそれを支える筋肉の柔らかさにあるとしている[94]。岡田は巷間にあった「ステイゴールドはステイヤー(長距離向きの馬)である」という評価に対し、香港ヴァーズを例に挙げて異を唱え、「あの驚異的な瞬発力はむしろミドルディスタンホースと言えるのではないでしょうか。いかにもサンデーサイレンス産駒らしい馬だと思いますね。ただ、ステイゴールドはスタミナもあるので長い距離になってもあの瞬発力を温存できますし、スタートがそれほどうまい馬ではなかったので、厩舎でも中距離を使わなかっただけでしょう」と述べている[94]。一方、武豊は2000年秋の天皇賞で7着と敗れた敗因として、位置取りの失敗のほかに距離の不向きを挙げ、「根本的に2000メートルは距離的に短いのではないかということも感じていました。忙しい競馬は似合わない、根っからのステイヤーなんですよ」と述べている[30]。

斜行癖
しばしばレースの障害となった左への斜行癖に対して、厩舎では日々の調教や馬装に様々な工夫を凝らし、その矯正に努めた。ハミ吊りや片面ブリンカーといった装具の工夫に加え、調教においてもコースを歩くときまで右寄りを徹底し、左に寄る素振りを見せれば叱り、素直に歩けば褒めるということを習慣づけていた[95]。調教助手を務めていた池江泰寿は、ステイゴールドの心理について「あの馬は、左に行ったら楽ができると思い込んでいたんです。競馬では、とにかく一所懸命走らず、どこかでやめる機会をつねに窺っていた(笑)。ハミをさらってグッと左にもたれたら、騎手が追えなくなり、直線で全力疾走せずに済むのを分かってたんですよ」と分析している[96]。武はステイゴールドの引退式において、「この馬は乗る立場としてはむずかしい馬でした。最後までつかみどころがなく、ずっと考えさせられましたね」と述べた[97]。

身体面の特徴
サラブレッド競走馬の平均体重が470kg程度あるのに対し、ステイゴールドは最も重かったときで2001年の日経新春杯時の436kgと、小柄な体躯の持ち主であった。生まれた頃は他馬と同じ程度の体格だったが、成長が鈍く、じきに自分より小柄だった馬にも追い抜かれていった。これはゴールデンサッシュの産駒に共通して見られる成長過程だった[98]。池江泰郎は「つくりの軽いスポーツカーみたいな馬」と評したことがあり[49]、熊沢重文によれば、「大人のからだに変わってきたのが6歳の後半」だったといい、「ほんとうに大器晩成だったんだろうな」と述べている[99]。また厩務員の山元重治は「骨格が牝馬みたいやった」と評しているが[100]、調教助手を務めていた野村功は、体重60kgある人間が騎乗して調教を課すと失速する馬が多いなか、ステイゴールドは小柄だったにもかかわらず失速せずに走る馬力があったとしている[101]。

また、ほとんど休養をはさむことなく50戦を走り抜いた頑健さに対する評価が高く、池江泰郎は「『無事是名馬』を地でいくような、素晴らしい馬[73]」、岡田繁幸は「ほんとうに偉大なことで、よほど柔らかい筋肉を持っている証拠です[94]」と述べている。共有馬主を統括する社台サラブレッドクラブ代表の吉田晴哉は、「この馬のすごいところは、引退の話を出すスキを決して見せなかったところですね」と語り、毎回の出走予定をきっちりとこなし、勝てずとも賞金は必ず稼いでいたステイゴールドを「クラブで持つ馬としては理想的」、「(ステイゴールドのような馬は)いません。うちのクラブだけじゃなくて、競馬界全体を見てもほとんどいないんじゃないですかね。信じられない存在です」と評している[102]。

性格面の特徴
非常に激しい気性の持ち主であり、池江泰寿は「肉をやったら食うんじゃないかと思ったほど凶暴だった」とし[96]、調教助手の池江敏行は、馬房の前を通るだけで突進してきたことから「猛獣」と評している[103]。熊沢重文は「馬場へ出る前の運動でも、立つ、蹴る、噛むと悪さの連続。振り落とされるなんてのは特別珍しいことじゃないけど、乗るときに回し蹴りが飛んできたり、噛まれるのを心配したりなんて馬はやっぱりそんなに数多くいるものじゃないです」と述懐しており[104]。その調教では近付いてくる馬がいると立ち上がって威嚇するため他厩舎から避けられていた[105]。白老ファーム場長の服巻滋之は、こうした激しさの由来をステイゴールドの母の父ディクタスに求めている[106]。

日々の世話をしていた山元重治は「猛獣ではないよ。扱えないってほどの馬じゃない[107]」と述べているが、それでも手を焼いたといい[108]、「とにかく『自分が一番エライ』ということをいつもいつも主張している馬[109]」、「自分のペース、自分のやり方に徹底してこだわり、やりたくないことは頑としてやらない強情さは、引退まで変わりませんでしたね」と述懐している[110]。また、熊沢は乗り手の立場から「総合してみると、おだてる、という意識をもって乗ってないとだめだった。ダメ、それしちゃダメ、とか表現するのではなくて、そうそう、そうそう、それでいいんだよ、って感覚ですね。ソッポ向かれたらお手上げだったんで」と述べ、その性格については「僕らが要求したことに対して、それは譲れる、それは譲れないっていうのをちゃんと表現してくれるわけ。そういう意味では、基本的には扱いにくい馬なんだけど、わかってやれば、中途はんぱな馬よりは扱いやすい。わかります?何がしたい、どうしたらいいのか分かる馬だけに扱いやすい。だからみんな入れ込んでしまう」と語っている[111]。

評価
ノーザンファーム代表の吉田勝己は、ステイゴールドの通算50戦に及んだ競走生活を振り返り、また、種牡馬入り後への期待について、社台グループの会報「サラブレッド」(2002年2月号)に、次のような手記を寄せている。

ステイゴールドは、たしかに近親のサッカーボーイに似ている部分がありました。この牝系に共通した特徴なのですが、馬体は華奢でも、並外れたバネと勝負根性を持っているのですが。最小馬体重は4歳春の日経賞出走時で、なんと408kgでした。これだけ小柄だというのに、着実に成長をともなって7歳まで走り続けたのですから大したものです。しかも大きな故障もなく実に50戦、そのタフさには本当に頭が下がります。 (中略)それにしても、ファンタスティックライトを差し切ったり、失格とはいえテイエムオペラオーに競り勝ったり、私自身、ついにステイゴールドの本当の能力は掴みきれませんでした。どうやらその答えは、種牡馬となって産駒が走り出すのを待つしかないようです。先に申し上げたとおりライバルもそうそうたる顔ぶれですが、ステイゴールドなら必ず成功してくれると確信しています。あるいは内国産種牡馬の枠を超越した結果を出すかもしれません。とにかく人を驚かすのが得意な馬でした。多くのファンの心を動かしたのも、生まれながらにステイゴールドに備わっていた不思議なスター性だったのではないでしょうか
— 石田2014、77-78頁。
種牡馬として
種牡馬入りした当時のステイゴールドについて山元重治は「気性は激しかったけれど、いわゆる“馬っ気”はない、牝馬には興味を示さない馬だったから、本当に種牡馬としてやっていけるのかなってちょっと心配していた」というが、「種付けが大好きで、牝馬に飛び掛かっていくような猛々しい種付けをするんです。(中略)最初の頃は種付けが終わって牝馬から離されると“オレはまだ物足りない“と主張するように怒ったりして。その上受胎率も高く、他の種牡馬に付けて受胎しなかった牝馬が途中からステイゴールドに回ってきたケースもありました」と振り返っている[112]。いわゆる”とまり”が良く、種付けに対しても積極的で性欲・精力共に強いというのは父・サンデーサイレンスの種牡馬としての武器とも言えた特徴であった[113][114]。

産駒は小柄な馬が多く、パワーにおいて劣勢に立たされる馬が多いためダートを苦手とする産駒が多い[115]。性格も馬格によって2タイプに分かれ、小柄に出た馬は幼少期からいじめを反骨精神ではねのけ、パドックで威嚇するしぐさを見せる馬が多い[115]。ゴールドシップのように大型で生まれた馬は牧場時代から我関せずな性格の馬が多く、わがままな方向へ転換されやすい[115]。

母の父・メジロマックイーンの産駒について
2009年、母の父にメジロマックイーンを持つドリームジャーニーがグランプリ連覇を達成した2年後の2011年、全弟であるオルフェーヴルが三冠馬となり、またこの年は前述の2頭と同じく母の父にメジロマックイーンを持つフェイトフルウォーが京成杯・セントライト記念を制した。その翌年には前述の3頭と同じ血統を持つゴールドシップが皐月賞・菊花賞を制したことにより、ステイゴールドとメジロマックイーンを父に持つ繁殖牝馬の配合がニックスと目され、「黄金配合」として注目を集めた[116][117][注 13]。

ステイゴールドの父・サンデーサイレンスは非常に気性が荒いことで知られており、騎乗した人間の指示に従わず暴れる傾向があった。競走馬時代のサンデーサイレンスの調教師を担当していたチャーリー・ウィッティンガムは厩舎一の腕を持つジャネット・ジョンソンをサンデーサイレンス担当の調教助手に指名したが、ジョンソンは気性の荒さに嫌気が差して一度騎乗しただけで降板しており、騎手のウィリー・シューメーカーも調教のために騎乗したことがあるが気性の荒さに激怒し、レースでの騎乗を拒否したほどである[118]。しかし、種牡馬時代のサンデーサイレンスはメジロマックイーンがそばにいると大人しくなることが多く、サンデーサイレンスとメジロマックイーンの放牧地は隣同士に設えられていたという逸話がある[119]。社台スタリオンステーションの徳武英介は、「ちょっと不良っぽいヤツとナヨナヨした感じのヤツが妙にウマが合ったりすることって、人間の男同士でもあるでしょう?マックが“ナヨナヨした性格の馬だった”という意味ではないけれど、サンデーにとってマックは自分にないものを持った馬、隣にいると自分が落ち着けて癒される存在だったんじゃないかな。そうした相性が血統の世界にも反映されて、だからマック牝馬と(サンデーサイレンス産駒の)ステイゴールドの配合から、これだけ走る馬が出るのかなって思ったりもするんです(笑)」という見解を示しており[120]、また徳武は“自分にない特徴を補完しあう関係”は、性格面にとどまらず肉体面についても指摘できるといい、「マックって肉体的にはちょっと水っぽいというか、芦毛特有のダブダブした感じがあったんですよ。一方のステイはサンデーやディープと同様、もっと乾いた乾いた感じの馬。あの配合はお互いの特徴をうまくカバーしあっている面もあると思います」と推測している[121]。

岡田繁幸はステイゴールドとメジロマックイーンを父に持つ繁殖牝馬の血統に由来する肉体的な相性の良さについて、「マックイーン自体がグニャグニャした、ゴムみたいな馬だった。それはパーソロン系(メジロマックイーンの曾父母)の特徴で、トウカイテイオー(パーソロンの孫)もそうだったでしょう?一方のステイはディープインパクトに比べると筋肉の収縮力、輪ゴムをどこまで引っ張れるかという意味の“粘り”がちょっと足りないから、パーソロン系の牝馬にステイをつけると、粘りの不足が補われてディープの体質に近くなるわけ。だから僕に言わせればあの配合があれだけ走るのは当然で、たとえばトウカイテイオー牝馬にステイを付けても理論的には成功するはず。テイオーの牝馬って細い馬が多いから、細すぎる産駒が生まれてしまうリスクもあるけれど、ある程度の馬格があって、お尻もあって、テイオーに似たゴムみたいな体質をした繁殖にステイを付ければ、オルフェーヴルみたいな馬を出す可能性は十分にあると思います」と解説している[122]。

この「黄金配合」が注目された時期においては、すでにメジロマックイーン産駒の牝馬で繁殖登録されている馬の数は少なくなっており、乗馬として供用されていたメジロマックイーン産駒の牝馬(ミツワオーロラ)がステイゴールドと種付けする目的で買い戻されるという事例も出たほどであった[123]。ただし、前述の配合を持つ馬が重賞を制したのは2015年の天皇賞・春をゴールドシップが優勝したことで最後となっている。また、オルフェーヴルの母であるオリエンタルアート(2015年死亡[124])、ゴールドシップの母であるポイントフラッグ(2016年死亡[125])はそれぞれ2頭を生んだ後もステイゴールドとの交配が行われ、オリエンタルアートは5頭[126]、ポイントフラッグは3頭[127]ステイゴールドとの仔を生んだものの、いずれも目立った成績を残すことはできていない。

メジロマックイーン以外では母系にダンジグを持つ繁殖牝馬とも相性が良く、フェノーメノ、ナカヤマフェスタ、シルクメビウスがこれに該当する[128]。

顕彰馬選定
種牡馬としての活躍を受け顕彰馬選定記者投票でも票を集め始めており、オルフェーヴルがクラシック三冠を制した翌年の2012年には初めて3票を、ゴールドシップがクラシックで活躍した翌年の2013年には4票を獲得した。


種牡馬成績
年度別成績(中央+地方)
年 出走 勝利 順位 AEI 収得賞金
頭数 回数 頭数 回数
2005年 93 362 15 17 132 0.33 1億1715万8000円
2006年 165 1261 70 103 28 1.06 6億9322万2000円
2007年 188 1776 80 161 23 1.28 9億6665万1000円
2008年 232 2163 99 205 20 1.27 11億9007万7000円
2009年 236 2423 115 224 12 1.76 16億7405万1000円
2010年 249 2333 116 209 14 1.46 14億6318万0000円
2011年 246 2290 122 228 6 2.50 24億1595万2000円
2012年 261 2132 105 196 3 2.49 25億1160万1000円
2013年 302 2444 127 237 6 1.86 21億9921万5000円
2014年 387 2889 140 272 10 1.22 19億1030万5000円
2015年 421 3578 192 370 5 1.34 23億5982万0000円
2016年 446 3812 197 364 5 1.42 27億0303万3000円
2017年 406 3531 205 343 3 1.98 35億1966万2000円
2017年終了時点。


GI競走優勝馬
太字はGI(またはJpnI)競走。

2003年産
マイネルネオス(中山グランドジャンプ)[129]

2004年産
ドリームジャーニー(朝日杯フューチュリティステークス、宝塚記念、有馬記念、大阪杯、神戸新聞杯、朝日チャレンジカップ、小倉記念)[130]
エルドラド / El Dorado(シンガポールゴールドカップ3回)[131]

2006年産
ナカヤマフェスタ(宝塚記念、セントライト記念、東京スポーツ杯2歳ステークス)[132]

2008年産
オルフェーヴル(牡馬クラシック三冠〈皐月賞、東京優駿、菊花賞〉、有馬記念2回、宝塚記念、スプリングステークス、神戸新聞杯、フォワ賞2回〈仏G2〉、大阪杯)[133]

2009年産
ゴールドシップ(皐月賞、菊花賞、有馬記念、宝塚記念2回、天皇賞・春、神戸新聞杯、阪神大賞典3連覇、共同通信杯)[134]
フェノーメノ(天皇賞・春2回、青葉賞、セントライト記念、日経賞)[135]

2011年産
レッドリヴェール(阪神ジュベナイルフィリーズ、札幌2歳ステークス)[136]
オジュウチョウサン(中山グランドジャンプ5連覇、中山大障害2回、東京ジャンプステークス、東京ハイジャンプ2回、阪神スプリングジャンプ3回)[137]

2013年産
アドマイヤリード(ヴィクトリアマイル)[138]
レインボーライン(天皇賞・春、阪神大賞典、アーリントンカップ)[139]

2014年産
ウインブライト(香港の旗クイーンエリザベス2世カップ、香港の旗香港カップ[140]、スプリングステークス、中山記念2回、福島記念、中山金杯)[141]

2015年産
インディチャンプ(安田記念、マイルチャンピオンシップ、東京新聞杯、マイラーズカップ)[142]

グレード制重賞優勝馬

2003年産
ソリッドプラチナム(マーメイドステークス)[143]
コスモプラチナ(マーメイドステークス)[144]
エムエスワールド(京都ハイジャンプ、小倉サマージャンプ)[145]

2004年産
アルコセニョーラ(新潟記念、福島記念)[146]
サンライズマックス(エプソムカップ、小倉大賞典、中日新聞杯)[147]

2005年産
マイネレーツェル(フィリーズレビュー、ローズステークス)[148]

2006年産
シルクメビウス(東海ステークス、ブリーダーズゴールドカップ、ユニコーンステークス)[149]

2007年産
エクスペディション (小倉記念)[150]

2008年産
フェイトフルウォー(セントライト記念、京成杯)[151]
ナカヤマナイト(オールカマー、中山記念、共同通信杯)[152]
バウンシーチューン(フローラステークス)[153]
オーシャンブルー(金鯱賞、中山金杯)[154]
マイネルメダリスト(目黒記念)[155]
メイショウヨウドウ(東京ジャンプステークス)[156]

2010年産
ケイアイチョウサン(ラジオNIKKEI賞)[157]
ウインプリメーラ(京都金杯)[158]
マイネルミラノ(函館記念)[159]

2011年産
ツクバアズマオー(中山金杯)[160]
トゥインクル(ダイヤモンドステークス[161])
ステイインシアトル(鳴尾記念[162])

2012年産
ココロノアイ(アルテミスステークス、チューリップ賞)[163]
キャットコイン(クイーンカップ)[164]
ウインガニオン (中京記念[165])
グランシルク(京成杯オータムハンデキャップ)[166]
パフォーマプロミス(日経新春杯、アルゼンチン共和国杯、鳴尾記念)[167]

2013年産
グッドスカイ(新潟ジャンプステークス)[168]
クロコスミア(府中牝馬ステークス)[169]
ルックトゥワイス(目黒記念)
ワンブレスアウェイ(愛知杯)[170]

2014年産
スティッフェリオ(福島記念、小倉大賞典、オールカマー)[171]
クレッシェンドラヴ(福島記念、七夕賞)[172]

2015年産
ステイフーリッシュ(京都新聞杯)[173]


地方重賞優勝馬

2005年産
トーホウカイザー(だるま夕日賞)[174]

2009年産
サウスパシフィック(六角川賞、高千穂峰賞、阿蘇山賞、雷山賞、中島記念)[175]

2010年産
マイネヴァイザー(ヴィーナススプリント)[176]
レオニダス(道営記念)[177]

2011年産
シュテルングランツ(東京記念)[178]

2013年産
サンエイゴールド(はまなす賞、サファイア賞、オパールカップ、かきつばた賞、せきれい賞2回)[179]

2014年産
ウインハイライト(東海ゴールドC)
母の父としての主な産駒
太字はGI(またはJpnI)競走。

クリスマス(父バゴ:函館2歳ステークス)[180]
ライオンボス(父バトルプラン:アイビスサマーダッシュ)[181]
アランバローズ(父ヘニーヒューズ:全日本2歳優駿、ゴールドジュニア、ハイセイコー記念)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A4%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89#%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E5%88%B6%E8%A6%87

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