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(回答先: その時、馬に神が宿った4 _ カンパニー 投稿者 中川隆 日時 2010 年 9 月 03 日 23:13:44)
20世紀の名馬 ライスシャワー
http://www.youtube.com/watch?v=aXvP9ggoRkA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=38a2fzCB6N0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=r3ow-HbBv1E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DGfsq6bn6bw&feature=related
ライスシャワー 天に駆けた最強のステイヤー [DVD]
ミホノブルボンの3冠を阻み、メジロマックイーンの春の天皇賞3連覇を阻んだ馬。
関東の刺客と呼ばれ、敵役を割り振られた馬。
ふてぶてしくて、気まぐれで…そんな悪役のイメージと、実際の彼とは対照的だ。
小柄で、真面目で、かしこい馬だったと言う。
このDVDを見ると、やはり「強い」馬、「速い」馬ではなかったように思う。
記録のかかった大レースで皆の期待をぶち壊して勝つくせに、普通のレースで惨敗する、とよく非難されていたが、この馬は極限の気力で走る馬だったのではないか。
大レース、能力を超えて、気力で頑張る馬だったから、そのダメージも大きかったのではないかと。
感動したのは、復活の春の天皇賞。
自ら動いたロングスパート、ふらふらになりながら粘りきった。
もしかしたら、あそこでふりしぼった気力は、命すら縮めるものだったのかもしれない。
このDVD。いつも彼の側にいた厩務員さんのコメントは出てこない。
あの宝塚の後、引き綱を持って号泣していた。
昔話ができるほど、まだ思い出にはできないのだろうか?
ライスシャワーはいい奴だった。 ちょっと頑張りすぎる奴だった。
私は彼の走る姿を見るのが好きだったので、あの宝塚の後、しばらく競馬を見なかった。
競走馬は命がけで走っているということを、思い知らされた瞬間だった。
このDVDを見て、真っ黒な小さな馬がただただ懸命に大きな馬に食い下がり、最後、ねじ伏せる瞬間を思い出した。
90年代前半に大活躍し、宝塚記念で無念の骨折、予後不良となってこの世を去ってしまったライスシャワーは、めずらしいほど人間くさい性質がある変わった馬だったそうです。
ライスシャワーはなんと、競馬のレースで勝った負けたをやたら気にする馬だったそうです。
当時の関係者も「この馬はレースで勝った、負けたがわかるらしい」と言っていたくらい。
レースで勝った直後の日は、厩務員さんなど人が通るたびに馬房から首をぬーっと伸ばして出してきて
えへん!
今日は勝ったんだぞ!
すごいだろ!
と人に対して威張るような自信満々な態度を見せていたそうです。
レースで電光掲示板入りもできないくらい惨敗だったレースの後は、もういじけて馬房の奥でしょぼんとしていたそうです。
あとライスシャワーは現役時代の夏の放牧シーズンで大東牧場に放牧されていた時、ライスシャワーに会いに見学にいらしていたファンの方に写真を撮られるのが大好きだったと言います。
カメラを見せるとライスはにゅーっと首をのばしながらカメラに対してカメラ目線になってじーっとカメラを見つめていたそうです。
なのでこの馬はいつもカメラ目線で映っていてとても写真写りがよかったそうです。
ライスシャワーが夏期休暇をとった大東牧場の当時の牧場長:深谷登氏の証言
「ライスは目立ちたがりやでね、人が来るのを喜ぶんだ。
特に写真をとられるのが好きでね・・・」
牧場にマスコミやファンがくると、ライスシャワーは気になってしかたがなかったそうです。
だれかがカメラを向けるとその前で立ち止まり、ポーズをとる。
だから、ライスシャワーの写真はほかの馬よりもきれいに、よく写っているものが多いと競馬関係者の間では言われています。
しかも、後で自分の写真を見せられると、ライスシャワーは照れくさそうに喜んだそうです。
「ライスはどうも、カメラがどんなものなのかを知っていたらしい。」
http://www.geocities.co.jp/Outdoors/6952/H_story_A001.html
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1. 打倒 ミホノブルボン
名馬を訪ねて 第1回 ミホノブルボン
http://www.youtube.com/watch?v=15PQTkTmphk
20世紀の名馬 ミホノブルボン
http://www.youtube.com/watch?v=zNtj7LAlyT4
http://www.youtube.com/watch?v=siE_AaLJ2L0&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=TV_Ph1fW5Wk&feature=related
1992年 日本ダービー
http://www.youtube.com/watch?v=DJpgItIgZk8&feature=related
日本ダービー(Gl)当日、ライスシャワーの人気は単勝11410円で、18頭中16番目だった。
人気薄もここに極まれりである。
それもそのはず、春になってからの着もろくに拾えない戦績。
それに加えて馬体重も430kg、これは春になって減る一方で、デビュー以来最低の数字だった。
ライスシャワーに見向きもしない一般ファンの注目は、当然のように1番人気のミホノブルボンただ1頭に集中していた。
こちらの人気は単勝230円である。無敗の5連勝で皐月賞(Gl)を制した栗毛の超特急に向けられたファンの興味は、もはや彼が真の王者への戴冠を果たすか否かに絞られていた。
スタートとともに飛び出したミホノブルボンは、自らの戦いをすべく先頭に立ってレースを引っ張った。
後は、ゴールまで逃げ切るのみ。
それがミホノブルボンの競馬だった。
まさに我が道を往く、最強馬のクラシックロード。 他の馬にその影を踏ませはしない。
それに対し、ライスシャワーはミホノブルボンを見ながら馬群の先頭で競馬を進めた。
その位置は、好位というよりも2番手といった方がはるかに分かりやすい。
直線に入っても、ミホノブルボンは突っ走る。
躍動する筋肉の塊に、距離の壁などありはしなかった。
その往く道は、栄光のゴールのみ。
止まるどころか逆に後続を突き放しながら爆走するミホノブルボンの、史上8頭目となる不敗のダービー馬への道を阻む者は、誰もいなかった。
だが、その遙か後方でも、凄まじい死闘が続いていた。
少しでも順位を上げようと仕掛けてきた後続馬に対し、ライスシャワーが激しく抵抗し、2番手を死守していたのである。
いったんは2番手に上がってきたマヤノペトリュースに対し、いったん交わされたはずの小さな馬体が懸命に抵抗し、逆に差し返そうとしていた。
結局、ライスシャワーはミホノブルボンから遅れること4馬身、マヤノペトリュースと2頭並んでゴールした。
ゴールの瞬間、16番人気のライスシャワーはほんのハナ差、5番人気のマヤノペトリュースより前に出ていた。
人気薄でのダービー2着という大殊勲は、勝ったのがガチガチの本命馬であるにもかかわらず、馬連が29580円をつけるという形となって現れた。
しかし、ダービーはミホノブルボンの強さだけが圧倒的に目立つレースだった。
距離の壁がささやかれながら、皐月賞よりさらに差を広げ、4馬身差で圧勝したミホノブルボンの強さの前に、史上2頭目となる不敗の三冠馬という夢がいよいよ現実のものとなりつつあった。
ライスシャワーに対しては
「展開に恵まれた」 「フロックだ」
という声が一般的だった。
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1992年 京都新聞杯
http://www.youtube.com/watch?v=JhyIxWd4S58
菊花賞(Gl)に直結するトライアルとして知られていた京都新聞杯(Gll)。
ここでもミホノブルボンは逃げた。
鍵になると見られた同じ逃げ馬のキョウエイボーガンが出遅れて単騎逃げとなったことから、ミホノブルボンの逃げを阻む者は誰もいなくなった。
無敗の二冠馬は、正確に200m−12秒のラップを刻む精密機械のような走りでレースを支配し、その支配を終わらせることなくゴールまで突き抜け、そのまま戦い自体に終止符を打ってしまった。
この日は3、4番手から次第に押し上げていったライスシャワーも、直線で差を詰めたものの、ミホノブルボンにはまたも及ばず1馬身1/2差の2着に終わった。
ライスシャワーにしてみれば、スプリングS(Gll)を手始めに、ミホノブルボンとは4度戦って4度とも敗れたことになる。
しかし、このレースの中から、結果とは全く別の捉え方をした者もいた。
7連勝で臨む菊花賞(Gl)、そして三冠への展望を問われて
「あの馬が怖い」
とライスシャワーについて語ったのは、ミホノブルボンを管理する戸山師だった。
勝つには勝った。だが、戸山師は、自分がそれまで抱いていた不気味な感覚が間違っていなかったことを悟っていた。
京都新聞杯(Gll)を経て、得体の知れない不安ははっきりとした恐怖に変わった。
マルゼンスキーの肌にリアルシャダイがかかった長距離の血。
頭が低い姿勢とテンポのいいピッチ走法が物語る、彼自身の明らかなステイヤー資質。
そして、夏を越して、ダービーの時には4馬身あった差を、一気に1馬身半まで詰めてきた成長力。
ミホノブルボンについて一貫して「距離の壁はない」と言い続けていた戸山師だったが、彼自身3000mがミホノブルボンの適距離でないことは、誰よりもよく知っていた。
成長したライバルの姿を目の当たりにした戸山師は、ダービーから約半年の時を経て、さらに距離が伸びる菊花賞(Gl)で、果たしてこの馬に勝てるのかをを思うと、薄ら寒さを感じざるを得なかった。
ダービーの時点ではライスシャワーのことを「大したことないと思っていた」という小島騎手も、このレースで初めて戸山師が危惧することの意味を知ったという。
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1992年 菊花賞
http://www.youtube.com/watch?v=bON0bpsZSIg
http://www.youtube.com/watch?v=8cUsmIsHExI
打倒ミホノブルボン。そして、その先にある菊の大輪。
そんな野望を現実のものとするために飯塚師や的場騎手は、菊花賞本番を目前にして、ライスシャワーにこれまでにないハードトレーニングを課した。
ハードトレーニングといえばライバルのミホノブルボンの方がその代名詞だが、連日坂路を繰り返し繰り返し追われるミホノブルボンに対し、ライスシャワーは2頭の僚馬を並べて追いまくられた。
これは、ライスシャワーのスタミナを強化し、闘志を引き出すためだった。
そして迎えた菊花賞(Gl)、ライスシャワーの馬体は完全に仕上がり、馬の走る気も充分だった。
この日の1番人気は7戦7勝、無敗の三冠に王手をかけたミホノブルボンで単勝150円である。
ミホノブルボンにとっては地元の関西で、京都競馬場のスタンドを埋め尽くしたファンは、誰もが無敗の三冠馬誕生の瞬間を見ようという期待に胸を躍らせていた。
大観衆の重い期待と、当事者の不安。それぞれの思いを秘めて、ファンファーレが鳴り響き、戦いの幕はまさに開こうとしていた。
スタートとともに順調にゲートを飛び出したミホノブルボンだったが、すんなりとハナを切ることはできなかった。
キョウエイボーガンの松永幹夫騎手が外から出鞭を入れ、強引に先頭に立ったからである。
キョウエイボーガンは先頭に立った後もペースを緩めることなく、ハイペースでレースを引っ張った。
ミホノブルボンは戸惑った。
4歳になってからのミホノブルボンは、一度も前に馬を置いたことがなかった。
常に先頭を走り続けるために坂路でのスパルタ調教で鋼鉄のような肉体を作り上げたミホノブルボンにとって、他の馬の背中を見ながら走ることは屈辱以外の何ものでもなかった。
ミホノブルボンは、行きたがった。
先頭を走りたい、と口を割った。
別のレースならば、小島騎手も行かせたかもしれない。
しかし、この日の小島騎手には、3000mという未知の距離が重くのしかかっていた。
馬の行く気に任せれば、最後に脚をなくしてしまう。
その不安が彼の手綱を抑えさせ、その結果ミホノブルボンは完全に折り合いを欠く結果となった。
こうして無敗の二冠馬が苦しんでいる時、ライスシャワーはいつものように好位からレースを進めていた。
的場騎手の目に他の16頭の姿は入っていない。
ただ、慣れない2番手で明らかにペースを乱しているミホノブルボンの姿があるのみだった。
このレースについていうならば、的場騎手がマークすべき相手は他に考えられなかった。
これぞ的場均の競馬、騎手人生の真骨頂。
ゴール板の前でミホノブルボンより前を走っていれば、結果は自ずからひとつしかない。
ミホノブルボンを前に置き、常に一定の間隔を保ちつつ競馬を進めた的場騎手の視線は、ただ一点だけに集中していた。
そして彼の手元は、ライスシャワーとつながった手綱の凄まじいまでの手応えに震えていた。
予想どおりの有利な展開、―そして、予想以上の手応え。
京都の難所は、第2コーナーから第3コーナーにかけての長い長い上り坂、そして第3コーナーから第4コーナーにかけての、これまた長い長い下り坂である。
ただでさえ消耗を誘う長距離レースで、その坂は馬たちの背中に重くのしかかる。
真の実力馬にとってさえつらく苦しいこの難所を、自らの実力を超えた無謀な逃げを打ったキョウエイボーガンが、無傷で乗り切れるはずはなかった。
坂の入り口ではまだ充分にあったキョウエイボーガンとミホノブルボンとの差は、第3コーナーでは大きく縮まった。
そして、キョウエイボーガンは下り坂で力尽き、ついには為すすべもなくとらえられていった。
ミホノブルボンは、ようやく待望の先頭に立った。
しかし、淀の坂はライスシャワーにとっても勝負の刻の到来を告げる合図となった。
ミホノブルボンが動いたのを見て、的場騎手の手も動いた。
そして、的場騎手の手応えは、その時確信に変わった。
「これなら、勝てる! 」
それまでミホノブルボンだけに照準を定めてその様子を厳しく観察していた的場騎手は、ミホノブルボンが折り合いを欠いていたこと、そしてそのせいで小島騎手の手応えもよくないことを既に見抜いていた。
それに対してライスシャワーはどうか。的場騎手の指示に鋭く反応し、それまでためていた末脚を爆発させようとしているではないか。
晩成の血が、ステイヤーの宿命が、ついにここに花開いたのである。
第4コーナーを回って直線に入ったミホノブルボンは、三冠へ向けた最終局面を迎えつつあった。
皐月賞では、ダービーでは、ここからもう一度脚を使って後続を突き放してきた。
その脚がもう一度甦れば、夢の三冠は現実のものとなる。
しかし、この日のミホノブルボンには、いつものような二の脚がなかった。
これまで乗り越えてきた距離の壁に突き当たったのか、それとも道中折り合いを欠いたことの影響か。
その走りは、それまでのように余力さえ感じさせる強い走りではなく、限界に挑むぎりぎりの走りだった。
そんなミホノブルボンに非情にも襲いかかったのは、ライスシャワーとマチカネタンホイザだった。
ともに好位からレースを進めた2頭はともにステイヤー適性を生かし、限界に挑むミホノブルボンを、さらに危険な領域へと追いつめてゆく。
そして、歴史の証人となるべく京都競馬場に集結していた大観衆から、ついに悲鳴が上がった。
外からライスシャワー、内からマチカネタンホイザの2頭が、あえぐ二冠馬をとらえたのである。
ミホノブルボンが負ける。無敗の三冠の夢が、今この瞬間に消えようとしている。
ライスシャワーが前に出た。 ミホノブルボンを置き去りにして。
長距離を走ってなお衰えない末脚こそがステイヤー・ライスシャワーの切り札だった。
狙った獲物をとらえるべき時期を、その研ぎ澄ました視線で測った上で、勝機とみるや一気に置き去りにする騎乗こそが、的場騎手の真骨頂だった。
人馬一体のライスシャワーの前に心身ともにうち倒される寸前のミホノブルボンは、ライスシャワーだけでなくマチカネタンホイザにも差されようとしていた。
しかし、ミホノブルボンは信じられないほどの粘りでマチカネタンホイザを差し返した。
限界を超えた走りの中で彼を支えていたのは、もはや無敗のままに二冠を制した意地と矜持だけだった。
能力の限界を超えてなお燃え続ける、あまりにも重い誇り。
だが、その誇りをしても、ライスシャワーの背中はとらえられない。
ライスシャワーの背中とともに、…三冠の夢が遠ざかっていく。
ライスシャワーはミホノブルボンに1馬身1/4差をつけて、ついに先頭でゴールした。
勝ちタイムは3分5秒0、見事な菊花賞レコードだった。
ミホノブルボンはマチカネタンホイザを差し返したものの、抵抗もそこまでで2着に敗れた。
その瞬間、ミホノブルボンの不敗伝説は終わりを告げた。
負けるべからざるミホノブルボンが、負けた。
無敗の三冠の夢は、うたかたと消えた。
京都競馬場を埋め尽くした大観衆は、予期せざる事態に言葉を失った。
彼らはミホノブルボンが無敗の三冠馬となる瞬間を見に来たはずだった。
それがこの結果である。
戦いを終えて凱旋するライスシャワーに対してスタンドの大観衆が投げかけたのは、まばらな拍手と、戸惑いに満ちた視線であり、普段のGlの勝者を包むものとは全く異質の空間が、京都競馬場を支配した。
だが、それこそがライスシャワーの成し遂げた仕事の大きさを物語ってもいた。
夢に酔っていた人々をたちまちのうちに冷厳な現実の世界へと引き戻したライスシャワーの走りは、人間たるスタンドの大観衆をしてその場では受け入れがたいほどの衝撃を与えたのである。
そして、このレースがミホノブルボンの最後のレースとなった。
その後ジャパンC(国際Gl)を目指しての調教中に故障を発症したミホノブルボンは、そのまま2度とターフへ帰ってくることはなかった。
ライスシャワーに敗れたことで競走生命まで燃え尽きてしまったかのような現役生活だった。
http://www.retsuden.com/vol32-05a.html
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2. 打倒 メジロマックイーン
N23 メジロマックイーン引退特集
http://www.youtube.com/watch?v=UubGGhTVGl4&feature=related
1991年 天皇賞(秋)
http://www.youtube.com/watch?v=EpkqX4rW-gg&feature=related
1992年天皇賞(春)
http://www.youtube.com/watch?v=WahaBVZO93E&feature=related
1993年 宝塚記念
http://www.youtube.com/watch?v=f_DuB3xq8qQ&feature=related
1993年 京都大賞典
http://www.youtube.com/watch?v=EpYl3Zj-mCA&feature=related
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1993年天皇賞(春)
http://www.youtube.com/watch?v=5G_yZ0uujpQ
当時の競馬界には、飯塚師、的場騎手、そして当時のすべてのホースマンたちが畏れ、そして敬う絶対的な王者がいた。
その王者の名前は、メジロマックイーンといった。
メジロマックイーン。
日本有数のオーナーブリーダーであるメジロ牧場が送り出した最高傑作。
4歳時に菊花賞(Gl)制覇、そして5歳時、6歳時に天皇賞・春(Gl)連覇を果たし、祖父メジロアサマ、父メジロティターンに続いて天皇賞三代制覇の偉業を達成した名馬の中の名馬である。
先に挙げた勝ち鞍からはステイヤーとしての姿が想像されるが、この馬は5歳時には天皇賞・秋(Gl)で後続に6馬身差をつけて1着入線を果たしており(他馬への進路妨害のため18着降着)、スピードとスタミナとを兼ね備える距離不問の名馬だった。
メジロマックイーンは、前年に史上初めて天皇賞・春(Gl)連覇を達成したものの、その後骨折して長期休養を強いられていた。
しかし、1年近いブランクを乗り越えて産経大阪杯(Gll)で復帰すると、ブランクなどなかったようにたちまち5馬身差のレコードで圧勝し、王者健在を世に広く知らしめたのである。
復活なった王者が次に目指すものは、当然のことながら前人未踏の天皇賞・春(Gl)3連覇、まさに天を握る覇業しかなかった。
また、記録と野望に賭けるのは、メジロマックイーンだけではなかった。
メジロマックイーンの鞍上たる武豊騎手は、1991、1992年とメジロマックイーンで天皇賞・春(Gl)を勝っただけでなく、1989年にはイナリワン、1990年にもスーパークリークでやはり天皇賞・春(Gl)を勝っている。
そのあまりの強さに「平成の盾男」と言われた武騎手にとっても、この年は天皇賞・春(Gl)5連覇を賭けた戦いだった。
老練の王者と若き天才。
この絶対的なコンビにとって、天皇賞・春(Gl)の舞台となる京都芝3200mは最も得意とする戦場であり、死角はどこにも見い出せなかった。
ライスシャワーは、この最強の敵に戦いを挑まなければならなかったのである。
▲ ▼
『鬼神となりて』
しかし、ライスシャワー陣営には、強敵への畏れはあっても、勝負への諦めはなかった。
最強の敵を倒さずして、何が最強馬か。
この戦いも、最強を目指すサラブレッドの宿命に生きるライスシャワーにとって、なんとしても越えなければならない壁だった。
飯塚師は、ライスシャワーが勝てる可能性を少しでも高めるために、菊花賞以上のハードトレーニングを課した。
「怖いのは故障だけ」
そう漏らしながらも、メジロマックイーンを倒すためにはそうするしかない、とばかりに連日ライスシャワーを激しく追いまくった。
「故障に負けるようなら、王者に勝つことなどできはしない」
そう言わんばかりの厳しい調教だったが、ライスシャワーもそれに懸命に応えた。
小柄な黒い馬体は、一度追われるたびに引き締まり、黒光りを増していった。
この時期のライスシャワーについて、的場騎手は次のように語っている。
「まるで馬に乗ったんじゃなく、猛獣みたいな、馬じゃない別の生き物に乗っているみたいだった。
下手に怒らせたら、指や足を食いちぎられるんじゃないか。そう思わせるような眼をしてた」
「まるで獲物を見据えるような眼をしてて、馬ってこんなに怖い生き物だったんだ、と思ったね」
まるで自分が倒すべき敵がいることを知っているかのように、戦いだけを見据えていたライスシャワーは、あるいはこの時競走馬としてのピークを迎えようとしていたのかもしれない。
『鬼の棲む戦場』
天皇賞・春(Gl)当日、京都競馬場に姿を現した王者メジロマックイーンを迎えたのは、大観衆の歓呼の声だった。
前年の菊花賞でミホノブルボンに託した無敗の三冠馬の夢をうち砕かれた関西のファンにとって、天皇賞・春(Gl)3連覇を目指すメジロマックイーンは、砕かれた夢に勝るとも劣らぬ希望だった。
パドック、本馬場入場、そして返し馬…。単勝160円という圧倒的支持を集めたメジロマックイーンへの、レースが近づくたびに増してゆく大声援は、まさに天皇賞・春(Gl)3連覇、武騎手の天皇賞・春(Gl)5連覇への前祝いのようだった。
だが、ゲート入りの段階で思わぬトラブルが起こった。
15頭の出走馬のうち1頭が、ゲート入りを嫌がったのである。
その1頭だけが、押しても叩いてもゲートに入ってくれない。
その影響で、発走時間が3分ほど遅れてしまった。
出走馬がレース直前にゲート入りを嫌うこと自体は、競馬全体で見れば、そう珍しいことではない。
しかし、Gl級の馬ならば、強い精神力と百戦錬磨の経験を兼ね備えているはずであり、そんな醜態をさらすことなど滅多にないし、またあってはならないはずである。
いわんや、その1頭がメジロマックイーンであるなどという事態を、誰が想像できただろうか。
あるいは、百戦錬磨の経験を持つ王者は、比類なき賢さを持つが故に、感じ取ったのかもしれない。
この日に敵となる馬の中に、1頭猛獣のような眼で自分だけをにらみ据えている鬼がいることを。
単勝520円の2番人気にとどまったライスシャワーと的場騎手は、そんなトラブルがあっても何事もなかったかのように、ただ静かに戦いの時を待っていた。
ファンを驚かせた前走比マイナス12kgの馬体重も、完璧に思えた菊花賞をさらに越える究極の仕上げの結果にほかならない。
当日のライスシャワーを見た飯塚師も「これは凄い」と震えたその肉体と闘志は、半年前にミホノブルボンを破ったのと同じ舞台で、王者との決戦のみに集中していた。
彼らはまるで暗闇の中の静水のような、言い知れぬ殺気を漂わせていた。
▲ ▼
『敵はただ1頭』
メジロマックイーンの持ち味は、スタート直後から好位の中でも特に前の方、いつでも先頭をうかがえるような位置にとりつき、勝負所で先頭に立つや、決して抜かせることなくゴールへなだれ込む競馬である。
ゲートを嫌がる馬はスタートで立ち遅れることも多いが、ここはさすがにメジロマックイーンで、発走時のトラブルなどなかったかのように2番手にとりつくと、レースを作りにいったメジロパーマーを前に置き、自らは好位に陣取った。
しかし、その後ろにぴたりとつける形で、ライスシャワーも好位につけた。
単に前の方というだけではない。メジロマックイーンを見て動くことができ、さらに圧倒的1番人気を背負ったメジロマックイーンに、無言のうちにさらなる圧力をかけるという意味でも、その位置は絶好位だった。
レースは、メジロパーマーが大逃げを打つ形で、淡々と進んでいった。
メジロパーマーもメジロマックイーン不在の間とはいえ、前年に宝塚記念(Gl)、有馬記念(Gl)のグランプリ連覇を達成した老巧な逃げ馬である。
早すぎず、遅すぎないペースは、他馬が仕掛けどころを誤れば逃げ切られてしまう絶妙の戦いぶりだった。
もっとも、京都競馬場に限っても8度目のレースとなるメジロマックイーン、そして関西を本拠地として「天才」とうたわれる武豊騎手も、京都の戦い方は熟知していた。
「ゆっくり上がって、ゆっくり下れ」が原則とされる京都の坂だが、武騎手は上り坂で次第にペースを上げると、メジロパーマーとの間隔を詰めにいく。
だが、メジロマックイーンの動きを見て、それまで虎視眈々と戦機をうかがっていた漆黒の馬も動いた。
ミホノブルボンを差した刺客が、王者に圧力をかけながら上がっていったのである。
長く苦しい淀の上り坂を上がり切ったとしても、その先に無情に待ち受ける下り坂は、長丁場に疲れた馬たちからさらにスタミナを奪っていく。
その下り坂で、ライスシャワーはあえて動いた。
長い長い坂を越えて、第4コーナーを回った時も、先頭はやはりメジロパーマーだった。
グランプリ連覇の逃げ脚は、まだ余力を残していたのである。
道中からこの馬を捉えるために上がってきたメジロマックイーンもいよいよ並びかけようとするが、メジロパーマーのスタミナも尋常ではなく、激しく競り合いながらも互いに前に出ることができない。
だが、そんな2頭をあざ笑うかのように、その外を弾丸のように駆け抜けていく馬がもう1頭現れた。
京都競馬場に、再び悲鳴があがる。
「また、またあの馬か!? 」
472kgのメジロパーマー、500kgのメジロマックイーンを、並ぶまもなく撃ち抜いた小さな黒い影は、わずか430kgのライスシャワーだった。
しかも、脚色が全然違う。
メジロマックイーンは最強の王者ではなかったのか。
それも、一番得意なはずの京都芝3200mでメジロマックイーンが敗れるなんてことが、あっていいのだろうか?
メジロマックイーンも、天皇賞・春(Gl)3連覇の野望に賭けて踏ん張った。
いや、踏ん張ろうと努力はした。
しかし、メジロパーマーより前には出たものの、これを一気に置き去りにするには至らず、完全に抜け出したライスシャワーとの差を縮めることはできない。
逆に、ライスシャワーの方が引き離していく。
▲ ▼
『関東の黒き刺客』
ライスシャワーはメジロマックイーンに2馬身半の差をつけて、先頭でゴールした。
京都芝3200mを駆け抜けた3分17秒1の勝ちタイムは天皇賞・春(Gl)のレコードだった。
メジロマックイーンも従前のレコードを上回るタイムで走破したものの、ライスシャワーにはさらにその上を行かれたのである。
王者にとって、それは惜しむことすらできない完全なる敗北だった。
京都の大観衆が、またも沈黙した。
メジロマックイーンが敗れた。
最強の王者が、その最も得意とするコースで、完膚無きまでに叩き潰された。
ミホノブルボンの夢をうち砕いたのと同じ、あの関東から来た黒い馬に。
メジロマックイーンの天皇賞・春(Gl)3連覇の偉業も、武騎手の天皇賞・春(Gl)5連覇の野望も、すべては関東の黒い刺客の前にぶち壊されてしまった。
京都競馬場を埋め尽くした11万の大観衆は、まるで半年前と同じように、目の前の信じられない事態に言葉を失った。
「関東の刺客、ライスシャワー! 」
そう叫んだ実況の台詞は、そのまま京都競馬場の大観衆、そして関西のファンの心の叫びを代弁していた。
レース後に的場騎手が
「馬もこの大一番を分かっていたんでしょう」
と語った通り、この日のライスシャワーはどの馬を倒し、何をすればいいのかを知っているかのようであった。
ライスシャワーにとって、第107回天皇賞・春(Gl)は、心技体とも完璧の状態で臨み、そして栄冠を勝ち取ったレースだった。
http://www.retsuden.com/vol32-07a.html
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3. 伝説のロングスパート _ 的場均の大勝負
この馬は、関西の刺客、黒い刺客、壊し屋、稀代のステイヤーと色々呼ばれてきました。
現在でも熱狂的な固定のファンがいる珍しい馬です。
競馬漫画家の先駆け「よしだみほ」さんはこの馬をこう表現していました
「レコードブレイカー」と。
つまり「記録を破る人(馬ですが)」です。
分かりやすく言うと、他人(他馬)の偉大な記録誕生をブレイクするのです。
そしてこの馬の凄い所は、なんと競馬史上に残る記録を2回も破ってのけたのです。
要は単なる嫌われ者ということですね。
事は、ライスシャワー4歳のダービーから始まります。
18頭中16番人気。当然私も完全ノーマークです。
調度この世代にはかの有名なミホノブルボンという無茶苦茶強い馬がいました。
新潟3歳ステークス11着、皐月賞8着、NHK杯8着のライスシャワーなんて誰も気にもしていません。
そのライスが先行なんとか粘りこみなんと2着。表舞台に出た瞬間でした。
まあ当然観客の誰もが3万馬券を作った張本人ライスをフロック視していました。
そしてミホノブルボンは驚異的な強さで2冠馬になっていました。
ところが夏にどう言う訳か馬が変わってしまいました。
セントライト記念2着。そして菊花賞トライアル京都新聞杯でもミホノブルボンの2着。
段々とブルボンとの差が詰まって来ています。
ここにきてようやくブルボンの陣営も注目するようになったようです。
そして迎えた菊花賞。
このレースはミホノブルボンの史上5頭目の3冠達成という記録がかかっていました。
そして誰もがその3冠を疑わなかったことでしょう。
ブルボンには4代目3冠馬皇帝ルドルフ(シンボリルドルフ)の後を継ぐ能力は十分にありました。
なにせここまで無敗ですから。
しかし。そこには恐るべき落とし穴がありました。
そう。まさかのライスシャワーのステイヤー(長距離)適性。
ステイヤーに関してはこの馬、普通の馬のレベルをはるかに超えていたのです。
ゴール前、悠然と3冠に向う王者ブルボンの後ろからなにやら黒い影が迫って、瞬く間に交わしてしまったのです。
結果、ブルボンまさかの3冠ならずの2着。
3冠当然とわざわざ京都まで遠出をしてきた人たちでごった返す場内が異様な空気に包まれ、そして一部からブーイング。
後に「競馬最強の法則」という雑誌は、この日のことを「日本が一番しらけた日」と掲載しました。
まずこれがレコードブレイク記念すべき1回目です。
そして、半年が経ち5歳の春。嫌われ者は春天(天皇賞春)に出走することになりました。
春天は3200mのもっとも長距離GIです。
この時期は、菊のブルボンに負けず劣らない恐ろしく強い馬がステイヤー界にはいました。
競馬知らない人でも聞いたことはあると思います。
その名もメジロマックイーンと武豊。
なんと2年連続、天皇賞春制覇。そして3年連続をかけて大勝負に来ていました。
当然3年連続同一GI制覇なんてJRA始まって以来の大事です。
これは競馬人気にも拍車をかけることが出来るほどの一戦。
しかもマックイーンに衰えはまったくない。未だ全盛期を思わせるような強さです。
まあ今回はさすがにライスもおとなしいだろうと言うのが大方の予想です。
いやマックイーンがステイヤーで負ける姿なんて誰も予想していませんし、期待していませんでした。
が! またやってしまったのです。
直線見事な差し切り。あのマックイーンを2着に追いやってしまったのです。
またしてもレコードブレイク。
ここで杉本清さんの実況も後押しし、「刺客」という言葉が植え付けられました。
また、ライスのコンビ、的場均騎手も燻し銀。何事ににも動じずせっせと自分の仕事をこなすまさに口数の少ない職人。
しかも当日は2枠の黒色。
これで「黒い刺客」となったのです。
以上が、「レコードブライカー」ライスシャワーの半生であり黄金期です。
そしてこの後、またしても期待を裏切るスランプに陥ります。
あのマックイーン、ブルボンに勝った馬が、オールカマ−で3着、秋天で6着、JCで14着、有馬記念で8着。
年が明けても京都記念で5着、かなり格下の日経賞ですら勝てない2着。
挙句の果てこの後、骨折。
なんと9ヶ月も戦線離脱することになり、
「これほど期待を裏切られた馬は初めてだ」と言われるようになります。
復帰後、最初の有馬記念でナリタブライアンの3着。
これでみんなよし復活した!と思ったのもつかの間・・・・・・
京都記念では1番人気6着、去年よりもさらに格下相手の日経賞では1番人気6着・・・・・・・・・
もう完全に沈黙していました。
http://aho-dori-web.hp.infoseek.co.jp/raisusyawa-.htm
競馬界屈指の悪役を演じたライスシャワー。
圧倒的1番人気の馬を蹴散らすのが快感だったライスシャワー。
競馬史上に残る記録のかかったGIレースで、その記録を阻むのが得意だったライスシャワー。
日本競馬史上2頭目シンボリルドルフ以来の無敗の三冠馬、日本競馬史上5頭目の三冠馬への挑戦をした3歳最強馬ミホノブルボンを淀の菊花賞の舞台で1馬身4分の1差をつけて快勝した3歳の秋。
日本競馬史上初の春の天皇賞3連覇に挑んだ現役最強馬メジロマックイーンを菊花賞と同じ淀の舞台で2馬身半差をつけて圧勝した4歳の春
どちらのゴールも望まれないものでした。
競馬ファンのため息と悲鳴を耳にしながらのゴールでした。
罵声を浴びせられるのには慣れているライスシャワー。
「ライスシャワーこそ最強だ」という声があがる中、93年の春の天皇賞以降、ライスシャワーは大スランプに陥ります。
93年 3着 1番人気 オールカマー(GV)
93年 6着 1番人気 天皇賞秋(GI)
93年14着 7番人気 ジャパンカップ(GI)
93年 8着 5番人気 有馬記念(GI)
94年 5着 2番人気 京都記念(GU)
94年 2着 2番人気 日経賞(GU)
94年 3着 4番人気 有馬記念(GI)
95年 6着 1番人気 京都記念(GU)
95年 6着 1番人気 日経賞(GU)
既に燃え尽きたライスでしたが…
95年の春の天皇賞。 大好きな淀の舞台にライスシャワーが帰ってきました。
大スランプに陥りながらも、懸命に復活を目指して競馬を続けるライスシャワーに、競馬ファン達は、いつしか声援を送るようになりました。
95年の春の天皇賞は、前年(94年)に史上5頭目の三冠馬に輝いたナリタブライアンの一人舞台になるはずでしたが、阪神大賞典後に故障(股関節炎)を発生し出走を回避。
http://keiba-yosou-douga.sblo.jp/article/3122799.html
____________
1995年 天皇賞・春
http://www.youtube.com/watch?v=Sr1E6bqFa5Q
さあ、完全にライスシャワー先頭だ!
ステージチャンプ!ステージチャンプが2番手に上がった!
ライスシャワー! ライスシャワーとステージチャンプ!
いや〜、やったやった〜!
ライスシャワーです!!
おそらく、おそらく、メジロマックイーンもミホノブルボンも 喜んでいる事でしょう!
ライスシャワー!
今日はやった〜!
勝ち時計3分19秒9!
ライスシャワーです!
----- 杉本アナの実況 ( 1995年天皇賞・春 ) -----
ライスシャワーに対する厳しい見方は第三者だけではなく、飯塚師や的場騎手たちも、ライスシャワーの調子は戻っていないと見立てていた。
7歳という年齢は明らかに競走馬としてのピークを過ぎていたし、現状も2年前にメジロマックイーンを差したときの出来を100とするなら、ひいき目に見てもせいぜい70程度でしかなかった。
しかし、飯塚師は諦めてはいなかった。2年前の出来に戻すことは無理でも、せめてそれに近い状態には戻したい。
そんな思いとともに、調教ではまたもや壮絶な追い切りを繰り返した。
ライスシャワーは、本気になると「目が吊り上がった」という。
菊花賞(Gl)の時然り、2年前の天皇賞・春(Gl)の時もまた然りだった。
「あの目をもう一度取り戻すことができれば…」
肉体を2年前に戻すことができないなら、せめて精神、闘志だけでも2年前に戻してやりたい。
そんな思いの結果が、既にピークを過ぎたライスシャワーへの厳しく激しい調教となった。
的場騎手は、天皇賞・春(Gl)本番が近づくに連れ、ライスシャワーの目が吊り上がり始めたことに気が付いた。
「あのころ」と同じ目は、ライスシャワーの心が「あのころ」に戻りつつあることの証明だった。
ようやく戻り始めた戦う姿勢をレースまで持続させるため、飯塚師はライスシャワーの京都競馬場入りを直前まで待つという工夫もした。
こうして天皇賞・春(Gl)当日、飯塚師が連れてきたライスシャワーは、肉体こそ二年前には及ばぬまでも、久々に精神力と闘志を甦らせていた。
「これなら勝ち負けに持ち込める」
当日のライスシャワーを見て、飯塚師は自分たちの努力が形となって現れていることを確信した。
ある競馬評論家は、天皇賞・春(Gl)当日の解説で
「今日の出走馬の中で真のステイヤーといえるのは、ライスシャワーだけです」
と評した。ステイヤーに不可欠な資質は、肉体だけではなく不屈の闘志も含まれる。
いったんピークが過ぎると立て直しは難しいサラブレッドの中で、明らかにピークは過ぎていたのに、2年間まったく眠っていた闘志の炎をもう一度燃え上がらせようとするライスシャワーは、確かに稀代の精神力を持った馬だった。
しかし、ライスシャワーの最も良い時を知る人々は、ライスシャワーに全盛時と同じレースをさせたのでは勝てないことにもはっきりと気づいていた。
第111回天皇賞のスタート直後、的場騎手が中団に控えた判断は、やはりライスシャワーの全盛期との状態の違いによるものだった。
全盛時のライスシャワーならば、長い間いい脚が使えたし、ミホノブルボンやメジロマックイーンのロングスパートに付いていくためにもなるべく前に付けた方が良い結果が期待できた。
しかし、ピークを過ぎた現在のライスシャワーでは、道中ずっと好位に付けながら、さらにゴール前でロングスパートをかけるだけの持久力は残っていないだろう。
的場騎手はそう考えたのである。
だが、そんな的場騎手の手綱も、いったん燃え上がったライスシャワーの闘志を完全に抑え込むことはできなかった。
飯塚師の渾身の仕上げで甦った闘志は、ライスシャワーに懐かしい京都競馬場での自分の走り方を思い出させたかのようだった。
彼は、まるで鞍上の作戦が不満であるかのように手綱をぐいぐいと引っ張って、とにかく前に出たがっていた。
的場騎手は、懸命にライスシャワーをなだめながらも、その手綱を通して復活の予感を確かに感じとっていた。
最初こそ的場騎手の手綱に従っていたライスシャワーだったが、淀の坂を迎えると、ついに自らを抑え込むことができなくなった。
ライスシャワーは京都競馬場の難所、長い長い上り坂で、自ら敢然と上がっていったのである。
淀を知り、淀で最も輝いた馬ライスシャワーが、自らの意思のもとに勝負を仕掛けていった。
的場騎手は、ライスシャワーがぐんぐんと伸び始めた時、
「まだ早い」
と思って、いったんは手綱を押さえようとした。
しかし、3年間もの間をともに戦った戦友のことである。
彼はすぐにライスシャワーを止めることは不可能であることを悟った。
栄光の後、何度も地獄を見てきたライスシャワー。2年間勝利から見放され、その間には大きな骨折まで経験しながら、ついにここまで甦った戦友が、思い出の京都競馬場で、思い出の淀の坂で、勝つために自ら動いたのである。
的場騎手には、ライスシャワーを止める手綱がなかった。
ライスシャワーはみるみるその位置を上げると、坂を上りきった第3コーナーでは早くも先頭に立った。
下り坂でも他の馬を引っ張って、先頭で直線に向かっていく。
その戦法は、それまで好位で我慢しながらマークした相手が動くのを待って勝負に出てきたライスシャワーの勝ち方にはないものだった。
それだけではない。京都・芝コースのセオリーにすらない。
それどころか、第3コーナーで先頭に立つことは、京都においてはむしろ最後に脚をなくす必敗の方程式とされていた。
スタンドからは、ライスシャワーの進出に合わせて大喚声が沸き上がった。
だが、それはライスシャワーの復活を確信する歓喜の声ではなく、勇敢な…というにはあまりにも無謀な動きに対する驚きと失望の声だった。
しかし、冷静になって考えてみると、ライスシャワーにとって、これはこの日勝つための唯一の戦法だった。
無名の馬が逃げてスローペースとなったこの日の展開では、直線での瞬発力勝負とならざるを得なかった。
しかし、直線ヨーイドンの瞬発力勝負になれば、ピークを過ぎたライスシャワーでは、100%負けてしまう。
では、どうすればよいか。
自らのスタミナを生かすため、自らレースの主導権を奪いに行ってよどんだレースの流れを断ち切る。
そして、他の馬たちの体力を削りながら、無理矢理にでも極限のスタミナ勝負に持ち込む。
それが、後世に「最後のステイヤー」と呼ばれることになるライスシャワーの、自ら選び取った選択だった。
この日の「仕掛け」は、まるでライスシャワー自身が勝ち方を知っているかのようだった。
第4コーナーでなお先頭にいたライスシャワーは、直線に入るとすぐに、ゴールへ向けて懸命のラストスパートをかけた。
すると、ライスシャワーの鬼気迫る走りに気圧されたかのように、他の馬はみるみる引き離されていった。
メジロマックイーンが引退し、ライスシャワーが長いスランプにあえいでいる間に、競馬界は大きく変わりつつあった。
ステイヤー軽視という時代の流れがいよいよ完成に近づき、いつしか真のステイヤーは姿を消していたのである。
ステイヤー不在の長距離レースでは、消耗を防ぐために道中はずっと緩やかな流れとなる。
このころはもう、たとえ長距離レースであっても勝敗を決するのは極限のスタミナではなく、直線での瞬発力、ということが当たり前のようになっていた。
そんなレースが幅を利かせる時代に生き、そんなレースに慣れきっていた他の馬は、本当のステイヤーが作り出した極限のスタミナ勝負の前に、なすすべもなく沈んでいった。
ライスシャワーは、こうして直線半ばにして完全に抜け出した。
後続との差が何馬身なのか判断に迷うほどの差が開き、誰もがライスシャワーの復活、2年ぶりの勝利を確信した。
しかし、その時。大外から、もう一つの黒い影がライスシャワーに迫っていた。
ライスシャワーのステイヤー適性を疑う者は誰もいないにしても、年齢的な衰えについてはまた別の話である。
7歳になったライスシャワーの持久力への不安は、鞍上の的場騎手もの胸をも苛んでいた。
上り坂でライスシャワーの行く気に任せて進出させた彼の頭では、後続への不安が渦巻いていた。
前半は中団で控えていたとはいえ、第3コーナー前から掟破りのロングスパートをかけたライスシャワーの脚は、果たして最後まで続くのか。
脚をなくしたところで一気に襲ってくる馬は、本当にいないのか。
そして、的場騎手の不安は、残り100m地点で現実のものとなった。
それまで抜群だったライスシャワーの手応えが、突然悪くなったのである。
過酷な長距離レースをこのような強引なレース運びで最後まで押し切ることは、世紀のステイヤーであるライスシャワーをしてもやはり不可能だった。
そんなところへ津波のように押し寄せてきたのが、ライスシャワーと同じリアルシャダイの血を引くステージチャンプだった。
この馬は、前年の日経賞(Gll)でもライスシャワーにゴール直前で強襲をかけて差し切っている。
この日ステージチャンプ鞍上の蛯名正義騎手が狙ったのも、日経賞と同じ勝ち方だった。
ライスシャワーと同じステイヤーの血を持つ者だからこそできる、効率的だが残酷な勝利。それは、ライスシャワーがすべてを賭けて作り出したステイヤー優位の流れを利して最後にその成果をかっさらう、というものだった。
的場騎手は、背中に気配を感じた。
ここまできたら、彼にできるのは力の限り追うことだけである。
ライスシャワーも踏ん張った。
しかし、ステージチャンプの脚色はライスシャワーを完全に凌駕していた。
2頭はほぼ並ぶ形でゴールに入線したが、ゴール板を一歩過ぎたところでは、ステージチャンプがライスシャワーをいとも簡単に置き去りにしていった。
ステージチャンプの鞍上では、勝利を確信した蛯名騎手がガッツポーズまでしていた。
しかし、ゴール板でハナ差前に出ていたのはステージチャンプではなくライスシャワーの方だった。
当時年齢的な衰えを隠せなかったライスシャワーが、まだピーク時の実力を維持していたステージチャンプをなお抑え切った原因はどこにあったのだろうか。
それは、歴史に残る強敵と数々のスタミナ勝負を展開してきたライスシャワーの経験と気迫が、血統こそステイヤーのそれを持っていながら、本当の意味でのスタミナ勝負を経験することなくここまでやってきたステージチャンプの能力を凌いだからなのかもしれない。
ライスシャワーにとって2年ぶり2度目の天皇賞・春(Gl)制覇は、2年ぶりの勝利でもあった。
そして、ライスシャワーにとっては、この日が生涯最後の勝利となった。
http://www.retsuden.com/vol32-11a.html
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4. そしてライスは風となった
1995年 宝塚記念
http://www.youtube.com/watch?v=klv9ltzBKJk&feature=related
的場均
「そうそう、天皇賞からここと、ライスシャワーはいい顔してたよ。
目が澄んでね。
今でもそれははっきり覚えている。」
かつて獲物を見据えるような眼で敵を睨んでいた関東の刺客が、2年という時を経てたどりついたのは、この優しい視線だった。
http://www.retsuden.com/vol32-13.html
天皇賞の反動は大きく、陣営は疲労回復のために秋までライスシャワーを休ませ、それで調子が戻らなければレースに出さずそのまま引退させることも考えていた。
しかし第36回宝塚記念のファン投票で1位に選出され、またこの競走が当年1月に発生した阪神・淡路大震災の震災復興支援競走と位置づけられたことにより、出走が決定する。
レースでは後方を進み、第3コーナーで人馬共に前のめりに転倒する。
左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症しており手当ての術が無く、予後不良と診断された。
トラックが直ちに用意され現場まで直行し、その場に幔幕が張られた中で安楽死処分となった。
最期の様子は明らかではないが、遺体を運ぶ馬運車を最敬礼で見送る的場の写真が残されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%BC
二度目の天皇賞・春(Gl)制覇を果たしてGl勝ちを三つとし、「功成り名遂げた」といってよい実績を残したライスシャワーだったが、種牡馬入りの話は不思議なほどに出てこなかった。
もちろん、ライスシャワー陣営の人々が種牡馬入りを考えなかったわけではない。
しかし、種牡馬入りの道を模索したライスシャワー陣営の人々に対し、馬産界の反応は冷たかった。
ライスシャワーの種牡馬入りの話を持ち込んでも、断られ続けてしまったのである。
ライスシャワーが5歳時に天皇賞・春(Gl)を勝った時には、高額のシンジケートを組んで種牡馬入りする話が馬産界の方から持ち込まれたこともあった。
しかし、その話は5歳秋の惨敗続きで立ち消えになり、ライスシャワーの種牡馬としての可能性の評価は地に堕ちていた。
それはある意味仕方のないことかもしれない。
5歳春当時、ライスシャワーが現役最強馬となる可能性を秘めていた時に比べると、その後惨敗を繰り返したことで評価が落ちるのはむしろ当然のことである。
しかし、ライスシャワーにとって悲劇だったのは、2年ぶりの復活勝利が彼自身の評価を上向かせる材料とは見てもらえなかったことだった。
「ライスシャワーは、天皇賞・春と菊花賞を絶対能力ではなくステイヤー適性で勝った」
というのが、ライスシャワーに対して下された馬産地の評価だった。
ミホノブルボン、メジロマックイーンという最強級の名馬を破ったライスシャワーは、5歳時には、これらのレースを絶対能力で勝ったと思われていた。
なればこそ、ミホノブルボンやメジロマックイーンを超える絶対能力を子に伝えることを期待されて、高額なシンジケートによって種牡馬入りする話も持ち上がっていたのである。
しかし、その後情勢は大きく変わった。5歳秋から6歳にかけて長いスランプに陥り、7歳の天皇賞・春(Gl)にしてようやく復活を果たしたライスシャワーへの評価は「長距離向きのステイヤー」というものに過ぎなかった。
この時既に、競馬界の流れはスピード化の一途をたどり、もはや誰にも押しとどめようがない時代のうねりとなっていた。
レースの編成から長距離レースは減り、レースの展開は、ステイヤーの実力発揮を妨げるスローペース症候群が蔓延しつつあった。
スピード豊かな種牡馬が歓迎され、アメリカからどんどんスピード競馬に対応できる種牡馬が流入する反面で、真性のステイヤー、それも内国産種牡馬であるライスシャワーのような馬への需要は、ほとんどなくなろうとしていたのである。
ライスシャワー陣営の人々は、悲しかった。
彼らは、ライスシャワーの不人気を時代の流れとして恬淡と受け入れるには、あまりにもライスシャワーの長所を知り過ぎていた。
距離が伸びれば伸びるほどに勢いを増す末脚と長距離適性、自らの故障を短期間で治す並はずれた賢さ、そしてどんなに疲れていても真面目に走り抜く気性。
そして、ライスシャワーは競走馬として自らの限界に挑み続け、サラブレッド多しといえど、我が国では数年に1頭くらいの割合しか出ないGl3勝という輝かしい実績を残した。
そんなライスシャワーだったからこそ、彼らは後々までの幸福な馬生を約束してやるために、種牡馬として成功させてやりたかった。
そうした時にライスシャワー陣営に飛び込んできたのが、宝塚記念(Gl)出走馬を決するファン投票でライスシャワーが1位を突っ走っているという知らせだった。
これならば、出走の意思さえ表明すれば、夏のグランプリ・宝塚記念(Gl)に優先的に出走することができる。
宝塚記念は、例年ならば阪神競馬場の芝2200mコースで開催される。
しかし、この年は阪神大震災があった影響で阪神競馬場も大きな損傷を受けて改修工事が施されている最中であり、急きょ京都・芝2200mコースで開催されることになっていた。
2200m。通常中距離に分類されるこの距離は、ライスシャワーにとってお世辞にも適距離とはいえない。
しかし、裏を返せば、この距離で勝つことができれば、長距離でしか勝てないと思われているがゆえに低迷していた種牡馬としての評価も大きく変わってくるはずである。
宝塚記念への出走が予定される顔ぶれも、多くは天皇賞・春で破った相手だった。
小回りの阪神開催ならば勝ち目はないにしても、この年に限っては、得意な京都競馬場での開催である。
飯塚師、的場騎手、馬主、その他ライスシャワーを取り巻く人々のすべてをして、この年の宝塚記念の条件は「これならば」と思われた。
そして、ライスシャワーの宝塚記念出走が決定した。
だが、次なる戦いへ赴くことを告げた的場騎手に向けられたライスシャワーの眼は、かつて的場騎手をして「猛獣のよう」と言わしめた射すくめるような厳しい視線とはうって変わった、優しく澄み切った眼差しだったという。
流れゆく風はさわやかに、夏の到来が近いことを告げていた。だが、風の行方を知る者は、誰もいない。
『最後の戦い』
第36回宝塚記念(Gl)が開催されたのは、天皇賞・春から1ヶ月半後のことである。
この日のライスシャワーは、パドックから何となくこれからレースを走るという気迫が感じられなかった。
また、的場騎手も、ライスシャワーにまたがった時から「何かがおかしい」と感じたという。
だが、その感触の正体がなんなのか、その時の的場騎手には分からなかった。
案の定、レースが始まってからのライスシャワーの行きっぷりは良くなかった。
菊花賞の、そして2度の天皇賞・春で感じた手応えは、やはりなかった。
いくらゴーサインを出しても動こうとしないライスシャワーに、的場騎手は第1コーナー時点で早くも
「今日は勝ち負けどころじゃない。無事に回ってこさせるだけこさせよう」
と諦めにも似た気持ちを感じた。
しかし、自らがみたび栄光に輝く舞台となった淀の坂にさしかかったところで、ライスシャワーは何を感じたのだろうか。
坂を上がるライスシャワーの中で、何かが燃え上がった。
第3コーナー付近で、ライスシャワーはまたしても動いた。
的場騎手の意思ではなく、自分自身の意思で。あるいは、戦いに生きる宿命がライスシャワーにそうさせたのかもしれない。
皮肉なことに、ライスシャワーに戦いに生きる宿命を教えたのは、的場騎手だった。
加速するライスシャワー。そして…。
場内を包む、大レース特有の期待に満ち、張りつめた空気が、悲鳴と絶叫によって切り裂かれた。
加速しかけたライスシャワーが突然前のめりになり、的場騎手が放り出されたのである。
的場騎手を振り落としても、ライスシャワーはまだもがいていた。
左前脚を地に着けることができないまま、崩れ落ちるように倒れるライスシャワー。
何が起こったのかは、誰の目にも明らかだった。
そして、これから何が起こるのかも。
左前脚第1指関節開放脱臼。
しかも、脱臼した箇所より下の部分の骨は、粉々に砕け散っていた。
淀を愛し、淀で輝いた最後のステイヤーに待っていた結末は、故障のあまりの酷さで馬体を動かすことさえできず、その場で安楽死処分がとられるという、あまりにも悲しい最期だった。
すべてが終わって、ライスシャワー陣営の人々がとぼとぼと引き揚げようとしていると、的場騎手が突然妙なことを言い出した。
「ライスが死んだはずがない。もう一度見てくる」
そして彼は、まわりの人が必死で止めているのになおライスシャワーの方へ戻ろうとした。
もう目を閉じて、冷たくなっているライスのところへ。
http://www.retsuden.com/vol32-13.html
ライスシャワーを担当していた川島厩務員は「俺の息子が!」と叫びながらライスシャワーの元に駆けつけ、ライスシャワーの馬具を胸にかかえいつまでも泣き続けた。
落馬後、的場自身も全身を強打し重傷だったが、這いずるように亡骸に駆け寄った。
「僕の体の痛みは時間が解決してくれるが、ライスはもう戻ってこない」。
今でも的場はライスシャワーの話をすると大泣きすると言う。
http://ameblo.jp/waseda-mba/entry-10073785844.html
的場均
的場はGIで勝利してもウイニングランをしなかった。
これは的場曰く「全力で走った後の馬をまた走らせるのはかわいそうだから」ということだった。
また、ゴールした後は無事に馬を止めることが何より大事だという理由で、ゴール後にガッツポーズをすることもなかった。
彼の優しい性格を物語るエピソードである。
また、レース終了後は必ず当日騎乗した馬の全ての馬房を訪ね、丁寧に馬の体調を気遣っていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84%E5%A0%B4%E5%9D%87
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