40. 2012年10月13日 14:31:48
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それは首里城の「琉球貢表」から始まった。平成16年、那覇の首里城に行ったときのことである。展示のひとつに、乾隆帝時代の清朝に琉球王朝が朝貢として贈ったもののリストであるという「琉球貢表」があった。なんとその正文は満洲文字で書かれていたのである。印刷されたようにきれいに書かれた満洲文字。その隣に、ガリ版刷りのように粗末な漢字の文書がある。
相手の公用言語に合わせて書かれたのが満洲語のものであり、漢文は琉球王朝用のものであったのは明白である。これを見ても何だろうと首を傾げるだけで見学者は誰もその意味を理解しないのであった。私は満洲文字というものがあり、清朝の第一公用語が満洲語であることは黄文雄氏らの著書で知っていたから、このことは論理的には当然のことのはずであった。 だが眼前の満州文字で書かれた公文書は衝撃的だった。乾隆帝は1735年〜1796年の治世、清朝の中興の皇帝。18世紀である。太祖ヌルハチから100年以上後の人である。満州族は漢族に同化していったと言われることが多い。ところが王朝成立の100年後にも満洲語は生きていたのである。このことからは宮廷をはじめとする北京周辺では満洲語が使われていたと考える方が普通である。 そして英語のmandarinは北京語のことであるが、北京官話とも訳され、元や清朝の宮廷で官吏が話していた公式言語だという。これらの事をつなぎ合わせると、論理的には北京語は満洲語であるという、従来の常識からすれば馬鹿馬鹿しい結論が導かれるのである。それを演繹するとそれには止まらない結論が導かれた。それが本論である。 もちろん私は言語学は何も知らない。それどころか中国語のイロハも知らない。本書は言語学などから導かれた結論ではない。各種の公刊図書を論理により推測したものに過ぎない。それ故に常識にとらわれないですむ。その結論は奇妙なものであった。だが本書の結論は現在の「中国」世界の現状を説明する一助となると信じている。 漢民族とは何者であるかを理解するのは、漢民族が少数民族を支配している、と言われる中国を理解するに益があると信じている。むしろ常識となっている中国の民族構成は、過去の歴史的経過やヨーロッパなど他の地域の歴史と現状と比較すれば、矛盾に満ちていると云わざるをないのである。 遠い昔から、漢民族は周辺の異民族から攻撃を受け、時には支配される。しかし、永い間に蛮族である異民族は、高い文明を持つ漢民族の文化の影響を受け、次第に漢民族化されてしまう。常に大陸の中央には不変の文化文明を持つ「漢民族」がいて、周辺民族を同化してしまうというわけである。 しかしヨーロッパなど他の地域が民族の争いを繰り返した歴史をみると、それはあまりに不自然なことではないか。外敵に繰り返し支配され、抗争を繰り返し民族の移動を繰り返しながらも、相変わらず不変の漢民族なるものがいる。支配されても支配しても、不変の漢民族がいる。そのようなことは歴史的にありえないのである。各種の民族に支配されたにもかかわらず、何の影響も受けず普遍の漢民族がいるなどということはありえない。 中国四千年の歴史において漢民族が一貫して存在した。実はそのような主張はギリシア、ローマに始まる四千年の歴史に、一貫して不変の「ヨーロッパ民族」が存在したなどと言うのと同様に、荒唐無稽であると考えるのがむしろ自然である。 なぜ漢民族に同化されるか。その答えを漢字に求める人がいる。しかしヨーロッパにしてもベースはアルファベットという共通の文字がある。漢字の表意文字という特殊性に注目する人もいる。しかし古典たる漢文を読めるのは古来支那人の中でも極めて例外である。現実に通用するのは北京語、広東語という漢字表記すら必要のない口語なのである。長い間、言語は表記手段がなかった。 漢文は中国の古代の言語の文字表記ではないという。単なる意志伝達の手段であるという。大多数の支那人が読めもせず、支那のいずれかの言語の文字表記でもないものが「漢民族」の連続性の保証であるはずがない。漢民族という言葉は各時代において、政治的に利用されているのに過ぎない。ある民族が大陸に居住する他の民族を支配して政権を取るための錦の御旗に過ぎない。ある民族とは、血族を中心としたパンと呼ばれる結社かもしれない。そのグループがわれこそは、支那大陸を支配する正統たる漢民族なるぞ、といって支配権を主張するのである。 異民族王朝とされる元や清の崩壊するときには必ずその手が使われた。しかし倒した当の本人たちは、単に現在大陸に居住するだけであって、漢民族であるという保証は何もないのである。単に現在の血族相続の王朝を倒して政権を奪おうという輩の集団に過ぎないのである。 よく考えていただきたい。支那大陸の王朝は、必ず前の王朝の一族を絶滅している。これを易姓革命と言う。しばしば禅譲という建前が使われるが、これは事実ではないことがよく知られている。日本の政権移譲が、おおむね平和裏に行われるのに対して、支那大陸における、前王朝の粛清は民族性の相違として扱われる。ところが、これを異民族による政権奪取として考えれば何の不思議もない。政権を奪った、新しい民族が旧支配民族を粛清するのは当然でさえある。そして被支配層においても、新興民族は支配民族として、旧支配民族を弾圧する。まことに全ての「中国専門家」は盲目である。 琉球貢表のことをもとに、北京語のルーツは満洲語ではないか、と言う説を要約して雑誌「正論」に投稿した。誰かの目に止まり何ら学問的根拠のないこの仮説を補強して、さらに発展させてくれる人がいないかと期待したのである。しかし反応は何もなかった。あまりに奇矯な説であったためであろうか。実は本論も同様なことを期待している。本論は公刊された図書を基に書いたもので、特別な研究や学識によるものではない。私はこの方面に何の学識のない者である。全て直感である。直感が正しいと信じているのみである。 付言するが後に訪れた時には「琉球貢表」の展示はなかったので問い合わせたところ、臨時展示であったとのことであり幸運だったのである。「琉球貢表」の写真撮影などについて管理センター職員に問い合わせたところ、「琉球貢表」が満洲語であることを職員は認識していた。しかるに展示には満洲語であるという説明が全くなされていなかったので、不思議がっていた観光客もいたが、皆それから先を追求するのは私くらいなものであったろう。 当時の支那が満洲人に支配されていたが故に満洲語が公文書に使われていたという事実は、中共政府は自慢したくない事実であろう。しかるに管理センターでは暗黙のうちに中共政府に配慮したのであろう。現代日本にはそのような中共政府に対する配慮で事実を隠蔽しようとする人間に満ちている。 http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub2.html 1章 支那
1.1 首里城の満洲文字 平成16年、出張で沖縄に行く機会があった。那覇泊で時間が取れたので、ついでに首里城に行った。十年位前にも首里城を訪れたが、当時も首里城の再建は成っていて、余り変わらないだろうとは予想さ れた。果たして風景は余り変わらないが、壮大で異様な形状に思えた石垣は左程とも思われない。最初の感動があまりに強いと、その印象が時間の経過とともに膨らみ、二度目に見た時は膨らんだ印象と現実の光景を比較することになるのでこのような印象の落差となって現れる。 正殿に向かって右の南殿が展示スペースになっている。二階の展示に「琉球貢表」というものがあった。清朝の乾隆帝に琉球王朝より貢物を贈った際の貢物のリストを含む公文書だというのである。二種類あり一通は漢字で書かれているが、もう一通を見て驚いた。漢字とは似ても似つかぬ、アラビア文字に似た、ミミズがのたくったというしかないような奇妙な文字である。 中国の王朝では文書に漢文を使っているに違いないという先入観からは意外であったが、黄文雄氏の著書に清朝の第一公用語は満洲語であったと書かれていたのが閃いた。これは満洲文字に違いないのである。今でも、条約などの公文書は相互の国の公用語で書かれるのが常だからである。 日付は乾隆二十七年 (西暦1762年)十月である。後日首里城管理センターに問い合わせると満洲文字だとの回答があった。漢文のものはガリ版刷りのような雑なものである。するとこちらが琉球王朝のものなのであろう。当時、日本でも公文書は漢文で書かれていたから左程不思議なことではない。東京に帰り図書館で「世界の言語ガイドブック」という本の満洲語という項を引くと間違いなく満洲文字であっ た。 満洲文字で書かれた貢表は活字で印刷されたように美しく揃っている。満洲文字はモンゴル文字を真似て創られたものだそうである。私が新発見に興奮しているのに、他の観光客は貢表を見ても首を傾げるばかりで、満洲文字などとは思い至らないのであろう。清朝で満洲文字が使われていたということの意味は大きい。清朝の宮廷で話し、かつ書かれた言語は満洲語であるに違いないと思い至ったのである。 序にも書いたように、このことは以前雑誌「正論」に投書した。投書はインターネットで公開されている。そのことを知ったのは「琉球貢表」というキーワードで何か新しい情報がないか探した。ところが引っかかったのは自分自身の投書だけだった。琉球貢表なるものに興味を持つものは私以外誰もいないのである。 1.2 支那とは 支那について語る場合、まず用語について述べなければなるまい。本書では中国という言葉は現在の中華人民共和国の支配地域に対する歴史的概念としては用いないこととする。ここでは歴史的概念としての「日本」に対応する言葉としては「支那」という言葉を用いることにする。支那については親中派日本人は差別用語として忌避して、中国と言うべきだと主張している。 しかし多くの論者が支那という言葉のほうが正当性があり、差別用語ではないと詳しく実証しているのでここでは、文献を紹介するだけにして(@)簡単に触れる。支那の語源は「秦」であり、これがヨーロッパでChina(英独語)でフランス語ではChineでシーヌと発音する。これが漢字で支那と表記されたものである。支那が差別用語なら欧米言語も変えなければなるまい。そして「中国」は中央の国という普通名詞であり、固有名詞にはふさわしくない。日本でも中部とか中国とは、位置関係からきた国内の呼称だから、日本から見て他国を中国という言葉を歴史的概念に当てはめるのはおかしい。 また現在の中華人民共和国あるいは中華人民共和国成立以前の支那大陸政権、国民党政府の中華民国を省略した言葉として中国と呼ぶこともあることとする。現在の中華人民共和国についてだけ述べるときは、中共と呼ぶこともある。 1.3 支那はヨーロッパである
支那大陸に国民国家は存在しない。現在の中国と言う国は多民族国家を自称している。国際法で認められた国家の中に多数の民族が居住しているという意味では、多民族国家といえよう。しかし米国のような意味での多民族国家ではない。 米国が多民族国家であるというのも、黒人奴隷を使った経緯を考えると多くの影がある。しかし現在の中国は漢民族を自称する民族の集団が、ウィグル、チベット、モンゴルなどの異民族国家を征服してできた帝国である。これに類似した最近の国家としては旧ソ連がある。 ソ連はロシア帝国の遺産を継承して異民族国家をかかえると同時に、バルト三国を侵略して併合した。同様に清朝崩壊後、約50年の内戦を経て、清朝の帝国を継承しチベットなどを再侵略して併合するとともに、今まさに台湾を侵略せんとしている。 支那大陸は古来、多数の民族による中原の支配競争と勝者による統一、再度の分裂と統一を繰り返している。ヨーロッパの歴史は複雑である。ギリシア、ローマの時代から現在に至るまで、ローマ帝国、神聖ローマ帝国などの統一と分裂を繰り返してきた。チンギス・ハーンによる支配もあった。ゲルマン民族の大移動があった。グレート・ブリテン島ですら先住のケルト族がアングロサクソンに滅ぼされて滅亡した。 このような統一と分裂の結果が現在の国民国家群である。おおまかに言えば、ゲルマン、ラテン、スラブ、ケルトなどの諸民族がいるが一民族一国家ではなく、ドイツとオーストリアのように、一民族が複数の国家を形成している。ラテン系といってもフランス人とスペイン、ポルトガル人とは明らかに異 なる。 このようなことは世界史の中ではむしろ自然である。支那大陸はそうではないのか。実は支那大陸もヨーロッパと同じなのである。漢王朝は周囲の異民族に滅ぼされて五胡十六国の時代が到来した。そのうち漢王朝の民族が形成した国家はわずかであった。支那大陸は非漢民族が主流となる国家群に分裂した。次の統一大王朝の隋は鮮卑族が樹立した王朝であるという。既に唐代に本来の漢民族の系譜は滅びたのである。 支那大陸の変遷はこのようにして中央にある統一国家ないし国家群が常に周辺の異民族に滅ぼされて分裂するか、統一支配されるかの繰り返しである。実は完全な統一と言える期間は、支那大陸でもわずかである。このような多数の民族の入れ替わりの模様はヨーロッパ大陸と同じである。このことを詳述すると本論の結論になってしまうのでここでやめよう。 ヨーロッパのように各種の民族が入れ替わり統一なり分裂なりした国家を作り、ある民族は駆逐されて別の地域で国家を形成するようなことを繰り返すのは、歴史としてごく自然なことである。あれだけの広大な地域に、漢民族という不変の民族が存在し、異民族支配をはねのけて常に「支那」あるいはいわゆる「中国」という国が存在するということは歴史的物理的に不可能である。それは幻想である。そう。支那というのはヨーロッパと同様地理的概念であって国家としての概念ではない。支那はヨーロッパである、と理解すれば現実が明瞭に見えてくる。 1.4 支那とヨーロッパの違い 支那は国家の概念ではなく、ヨーロッパのような地域の概念であると言った。だから統一支那というのはあるべき姿ではなく、ローマ帝国のように強権で統一された仮の姿である。しかし現在の支那大陸の現状は、共産党政権により軍事支配されて、多くの民族が圧政に呻吟している。かの大清帝国ですらそんな事はなかった。清朝における満州族の支配は比較的緩く、モンゴル、「漢民族」、チベット、その他の各民族はハーン、皇帝、ダライラマなどの伝統的な統治を通じて間接支配されていた。 現在の支那は中央集権により、各民族を圧迫し異民族言語である北京語などの「漢民族」の文化を強制するために、「中華民族」なる言葉さえ発明した。多くの親中日本人は無頓着だが、これは異文化の強制と言う恐ろしい意図が隠されている言葉である。これらの強権政策は国家として多数の異民族を無理して、直接統治しているためである。これを解消するのは支那の分割しかない。その前に何故支那はいったん適正規模に分裂しても再び帝国のようになってしまい、ヨーロッパのように歴史的進化とともに、帝国の時代から、適切な規模の国民国家に移行しないのか考えてみる。つまり支那はなぜヨーロッパのように、適切な歴史的発展をせずに、帝国の時代と分裂の時代を繰り返し、今もって古代帝国の時代に停滞しているのか考えてみよう。 1.4.1 地理的要因
まず第一は地理的要素である。ヨーロッパを常識的に、ロシアを除いた、ウクライナやバルト三国以西の地域と考える。これらの国々は互いに連携抗争を繰り返してきた地域である。これと中共と比較すると、明白な地理的特徴がある。平面形から見ても、ヨーロッパはスカンジナビア半島、イベリア半島、などの多数の半島とグレートブリテン島などの島嶼があり、変化に富んでいる。中共の領土は半島は少ない。大きく半島のように突出しているのは、旧満洲だけである。大きな島といえば海南島だけに過ぎない。 次に三次元の形である。ヨーロッパにはアルプス山脈があり、中共にはチベット高原がある。アルプスはスイスが独立した地域を形成し、チベット高原はチベットが、中共の時代に至るまで、支那の政権から直接支配を受けていないことから、大きな地域的障壁と言える。朝鮮半島も属国支配を受けたとしても、朝鮮が直接統治されたことが少ないのも、半島という地理的障壁によるものであろう。チベットが中共により歴史上初めて統治されることになったのは、軍隊の近代装備が地理的障壁を超えるのに有効だったというのは、チベットの不幸であった。チベットが無防備だったのは支那の軍隊がチベット高原で活動出来まいという、油断もあったのかもしれない。 こう考えるとヨーロッパが適正規模の国民国家に収斂したのは、半島や島嶼、山脈などによる地理的障壁によることが一因だったのは、これらの障壁が国境を形成している事でも分かる。逆にポーランドが東西の大国から繰り返し蹂躙されたのも地理的障壁が少ない事によるのだろう。北アイルランドが未だに紛争地域であるのも、同じ島内で国境を接しているのも原因の一部である。台湾が歴史的に支那政権に服従したことがないのは、地理的障壁にもより、日本時代に開発されて国民国家を形成する基盤ができていた事にもよる。逆に海南島はそのような時代がなかったために、支那政権により、海軍基地として活用されているのに過ぎない。 1.4.2 漢字
支那が帝国による統一支配を行う口実になっているもうひとつの要因は漢字である、と言ったら驚くだろうか。他の項でも言っている事も多いが、重複を恐れずに言おう。漢字を使うから漢民族、というのが日本では常識である。しかし考えてみれば、こんなインチキな民族の定義が大手をふってまかり通っているのが不思議ですらある。漢字を発明したのが漢民族で、それを継承しているから漢民族というのだが、それならばアルファベットを発明したのが古代ローマ人であるから、それを使っているのは古代ローマ人の直接の末裔だ、と例えればいかに馬鹿げているかがよく分かる。今ベトナムですら、便利さからアルファベットを使っている。 そもそも古代と言ったのは現代に生きているローマ人とは別であることを意味している。この例えが分かるように、ある民族が発明した文化遺産を継承しているのは、必ずしもその民族の末裔ではない。何故漢民族にだけこのような奇妙な定義がまかり通るのであろう。それは漢民族と総称される人々が言語、文化、DNAなどあらゆる要素において共通項がないからである。つまりドイツ民族とか大和民族とかのように定義できないからである。定義できないのに、漢民族を自称する人たちがいるから無理やり定義せざるを得なかったのである。 このように定義するのは、大和民族やドイツ民族というのと同様に、漢字を発明した漢民族が連綿と現在まで継続しているという幻想がある。他の項でも述べたが、日本の支那の専門家は、秦や漢といった漢字、漢文を発明した正真正銘の漢民族は、五胡十六国の時代の混乱で、事実上絶滅した。それなのに同じ漢民族が存在するかのように言う事自体おかしいのである。漢民族というものが、他の民族と同様な意味で定義できなければ、他の民族と同じ範疇での漢民族というものはない、というように考えるのが正しいのである。このように強引に漢民族を定義するから、支那大陸には漢民族の統一国家が必要だと考える、革命の指導者が輩出する。もちろん孫文や毛沢東もその輩である。 毛沢東は一時不便な漢字表記を止めて、ローマ字表記にすることを考えたという。ところがローマ字表記にしたとたん、福建語、広東語、北京語など、従来漢語の方言と言われていたものが、すべて異なる言語であることが露呈する事を知ってこの企てを放棄した。漢民族というのが幻想にすぎないことがばれるのに気付いたのである。そうすれば、統一支那政権の夢は霧散するからである。このように大陸の支配者は、漢民族とひとくくりにすることによって、より広大な領土を支配する口実ができるというメリットを考えているのに過ぎない。これはさらに中華民族という観念を発明して、言語も文化もすべて異民族であることが明白な、チベットやウィグルを支配する口実としている現状と軌を一にしている。いわば中華民族とは漢民族の拡大版である。極言すれば世界支配の口実ともなる恐ろしい概念なのである。 支那大陸に住む大多数の住人にとって、支配者が漢民族であろうが夷敵であろうが、日々の生活の安寧が守られれば良い。そうやって長い間彼らは暮らしてきた。清朝などはその典型である。ところがその時点での王朝打倒を画策した指導層などは違う。漢民族の統一国家が必要なのだと言うのだ。単に自らが大陸の覇権をとりたいのに過ぎない。嘘ではない。清末「漢民族」の知識階級は滅満興漢を唱えて清朝打倒を計画したのがその典型である。満州族の国家、清朝を倒して漢民族の国家を樹立するのだと。確かに彼らエリートは官僚になるための漢文の試験の科挙を通っていたから漢文に精通していた。 しかし彼らは北京語、広東語、福建語など各種の言語を話していたからお互いの言葉は全く通じない。そこで日本やアメリカで打倒清朝の革命の密談を巡らすのに、日本語や英語を使っていたというのだ。明治維新の日本で薩摩、長州、土佐の藩士は、互いの方言であっても通じる日本語で話していたというのと事情が異なるのである。漢字の恐ろしさは現在残る唯一の表意文字だという事である。あらゆる文字は元来表意文字から長い時間を経て、抽象化の過程で転化して表音文字となった。でなければ人の話す言葉を表記できないからである。日本でも漢字を輸入しながら日本語を表記するために、漢字から表音文字の仮名を発明した。漢文は意志の伝達手段であっても、話し言葉を記録する手段ではないのである。 だがなぜ漢字が現在まで表音文字にならなかったのだろうか。それは漢字が表音文字に熟成される前に、多数の古典が漢文によって書かれたからであろうと私は推定している。それは漢字が短時間で完成して、漢文という未熟な文章作成法のままに、それまで蓄積された思想が急遽記録されたからであろう。アルファベットのように表音文字に移行する以前に、四書五経と呼ばれる立派な古典が完成してしまったのである。だから支那大陸を支配した色々な民族は、ヨーロッパにおける公正の各民族が古代ギリシア・ローマの古典を文化文明の基礎として尊重したように、四書五経を尊重したのである。 これは漢文で書かれた古典を受け入れたのであって、漢字漢文を発明した民族の言語を受け入れたのではない。この意味で構成の大陸の支配民族は漢民族化したのではない。それはラテン語で古代ローマの文明を受け入れて発展させて栄えたヨーロッパ人は、自らのドイツ語フランス語といった言語は維持したのであって、ローマ民族化したのではないのと同じである。現代ヨーロッパ人とて古代ギリシア・ローマ人とは断絶があり、その断絶を橋渡ししたのがオスマントルコなどのイスラム系の王朝であった。元代ヨーロッパですら古代ヨーロッパとは決定的な断絶がある。その点は支那大陸においても類似している。 漢字を発明した漢民族が滅びて後、支那大陸を支配したいろいろな民族は、漢字を発明した民族とは言語も文化も関係ないのである。漢文が発明者の漢民族の使っていた言語とは異なることは、四書五経が古典として優れている事とは別な問題である。だから後の各支配民族がこれらの古典を尊重したとしても、彼らはオリジナルの漢民族の言語を習得して漢化したのではない。それどころか、外から来た異民族が北京などに首都を構えると、周辺の住民はこれに迎合して外来民族の言語風俗を習得した。考えてみれば支配者に大多数の被支配民族が迎合するのは世の常である。 そして弱体化した外来民族を打倒するのに、すでに定住していた民族の指導者は、自らを漢民族と自称して、現在の政権打倒の正当性の根拠としたのである。外来の民族が別な民族により、革命と称して支配の立場から追放されて大陸の一角に定住したとき、漢文は尊重しても、言語は元の民族言語を維持した。それは漢文が言語表記ではないため、いくら漢文を習得しても、自らの言語体系が壊れることがないためでもある。支那大陸を支配した外来民族が定住により漢化したというのは嘘である。現に北京語や京劇、辮髪、支那服というのは、満州族のオリジナルである。これが西欧では典型的な漢民族文化とみなされていたのは滑稽でさえある。 このようにして周辺の民族がその前の王朝を倒すたびに、各地に知識層は文章は漢文を使うが、各住民が元の民族の言語を維持する地域の分布が出来上がっていった。同様の経緯を経て、ヨーロッパにもそのような民族分布が定着していった。ヨーロッパではそれが各民族による民族国家の基礎となっていったのである。しかしヨーロッパにおけるローマの古典は、単に古典に過ぎなかった。同じアルファベットを使って、各民族の言語を表記していったから、民族の相違が言語の上でも明らかにわかる。ところが支那大陸ではその間の事情が異なった。 それは漢字が表意文字だったから、どの民族の言語を表記することはできなかったのである。多数の言語があったにもかかわらず、支那大陸では漢字以外はわずかに、チベット文字とモンゴル文字と、それに起源を発する満洲文字があるだけだった。その他の各民族は文字表記としては漢字による漢文しかなかった。しかも漢文は言語と関係がなく、文法がなく、習得が困難だったから、漢文を使えたのはわずかな知識層だったのである。つまり漢文を使う人たちが一部にいる「漢民族」とはいえ、漢字漢文が分かるのはごく一部だったのである。つまり自らの言語とは関係のない漢字を使う事は、庶民にとって何の意味もなかったし、漢字に代わる文字もなかったから、多数の民族のほとんどの庶民は文盲であるしかなかった。 しかしほとんどの民族には、文字といえば漢字しかなかった。この人たちを漢民族と総称したのである。そして前述のように、夷言語を話す異民族の清朝末期の革命の志士は日米で、日本語や英語を話しながら、「漢民族」の同志として革命を論じるという奇妙な光景が生まれたのである。彼らの密談の結論は、満州族を追放して漢字を使う漢民族の統一国家を作るべきだ、ということであった。彼らは漢字を使うという共通項だけで、無理やり多数の民族を束ねて、統一国家を作るということに何の疑問を感じなかったのである。表音文字のアルファベットが、民族の個性を反映することができたのに対して、表意文字の漢字は各民族の言語の個性を反映できなかったために、かえって漢民族による統一国家という幻想を生んだ。 しかし奇跡的なことが起こった。清朝末の白話運動である。まず北京語を漢字で表記するという運動である。その後広東語でも同様な事が起きた。漢文という異様な文章体系にだけ使用可能なはずの漢字で、話し言葉に近い文章を書くことを可能にしたのである。表音文字という漢字の特性からして、これはやはり奇跡に近い。しかし異言語は異言語である。広東語と北京語では漢字の読み方が違う。同じ漢字表記でも北京語と広東語では表記方法は同一ではないが、表意文字だけあって、全く違うわけではない。 しかし北京語と広東語では漢字の読みが違う。それは元の話し言葉が異なるからである。だから奇妙な事が起こる。つまり話し言葉を文字に書いても、同じような漢字で書かれるのに、全く異なる発音で読まれるのである。ヨーロッパの各言語は、けっこう同一の語源、たぶんラテン語などからきているため、似たような単語が多い。しかし似たようなアルファベット表記であれば似たような発音になる。しかし支那の言語では、同じ文字で別な発音がされる。 似た単語による異言語が多いヨーロッパでは多数の民族の国民国家に発展したのに、同じ文字で違う発音がされる支那大陸は、中共という唯一の中央集権国家に統一されている。それもこれも同じ漢字を使う、漢民族という幻想を共有しているためである。ために民衆は適正規模の国民国家を持てず、強権的な古代の帝国の支配に呻吟しなければならない。それもこれも、支那大陸の地理的特性とと、漢字というまれにみる不思議な文字の共有が原因である。 1.5 満洲と支那
私はここで念のため満洲と支那の関係について説明しておいた方が良いように思われる。私にとっては満洲と支那とは別物であり、満洲がいわゆる中国固有の領土ではないことは既に常識の範疇であった。戦前の日本人にも自明のことであった。昭和13年に創刊された岩波新書にも明瞭に支那と満洲は区別されている。しかし多くの日本人にとって確かにそれは常識ではない。 そして満洲と支那が民族的、地理的、歴史的にも別物であるという前提がなければ、前述した満洲文字が漢字と別であるという事実に対する理解も、それに対する衝撃もない。単に「中国」の一部地域で特殊な文字が使われていたこともあったという解釈に終わる。現に首里城で同じく琉球貢表を見ていた観光客親子は満洲文字を見て、変わった字だねの一言だけであった。ちなみに歴史的に満洲と呼ばれるのは、現在の中共の黒龍江省、吉林省、遼寧省の3省がほぼこれに相当する。清末にはアイグン条約などにより、ロシアに黒龍江省の北方の領域を奪われたから、この地域も歴史的には満洲である。 分かりやすいのは黄文雄氏や岡田英弘氏あるいは宮崎正弘氏らの支那関係の著書であり、これらを参照されたい。ここでは「満洲事変の国際的背景」Aによることとする。 満洲の地における固有民族はツングース族である。彼らは、紀元前四世紀頃から、すでにシナとは別個の勢力を持ち、粛慎、挹婁、夫餘、高句麗、靺鞨、渤海、契丹などの諸政権を樹立してきた。ことに一二世紀初頭、ツングースの一派女真が金を建国、長城を超えて北シナに侵入した。金は一旦元に追われたものの、元滅亡後、後金すなわち清国を興して全シナを征服、大移住を行った。以後三世紀にわたって全シナ四億の漢民族を支配したのである。 とある。長城とは万里の長城である。万里の長城は秦王朝以来支那の王朝の国境を定める防壁であった。支那においては殷周の都市国家以来、都市周辺に防壁を作って囲う習慣があった。万里の長城はこの延長で、北方民族の国との国境を意味していた。女真族とは満洲族とほぼ同義である。満洲族の王朝が粛慎や金という漢字で書かれているから、漢民族の一派だと誤解されやすい。 これは後の漢文で書かれた支那の歴史書の呼称である。ヨーロッパで古典がラテン語で書かれるように、支那大陸とその周辺の歴史は漢字漢文で書かなければならなかったからこのように表記される。漢文が古代中国語の文字表記ではないことは2章で説明する。米国、英国と書いたところでこれらの国は日本や支那とは関係ない国であるように、漢字表記された金という国は漢民族の国ではない。 ヨーロッパの言語が日本や支那の国を表記するのに、アルファベットを用いるのと同じことに過ぎない。現在の中共は確かにチベットや満洲を実効支配し、国際法上からもこれが認められている。しかしチベットや満洲が歴史的に支那の王朝の領土であるということはできないのは前掲書の通りである。 中共は中華民国の時代を経て実力で満洲族の王朝の清朝の版図を引き継いだ。戦前の中華民国は国際連盟にも加盟して認められていた国ではあったが、実態は北京政府、広東政府、張作霖の満洲といった具合に群雄割拠しているのが実態であり統一政府の実態はない。このことは戦前の日本の新聞で広東政府の誰々が、などと当たり前のように使っていたことからもうかがい知れる。 現在の日本人は忘れさせられたが、中華民国に統一の実体がないというというのは戦前の日本国民の等しく理解していた事実であった。だから1912年に清朝が滅亡して以来、1949年に中共が成立するまで支那に統一はなかった。蒋介石の中華民国は成立以来、一地方政権に過ぎなかった。そして台湾に移っても支那全土支配を主張したが、蒋経国、李登輝といった指導者を経て、実態は台湾共和国というべき国民国家が台湾に成立した。 日本の教科書では満洲事変による侵略を非難したとして教えられる、リットン調査団が国際連盟に出したレポートBも基本的な認識は支那と満洲は別個のものであるというものである。これに言う。 満洲ハ有史以来各種「ツングース」族居住シ蒙古韃靼人ト自由ニ雑居シタルガ優越セル文明ヲ有スル支那移住民ノ影響ヲ受ケ団結心ニ目覚メ数個ノ王国ヲ建設シ此等王国ハ時ニ満洲ノ大部分並ニ支那及朝鮮ノ北部地方ヲ支配セリ。殊ニ遼、金及清朝ハ支那ノ大部分又ハ全部ヲ征服シ数世紀間之ヲ支配シタリ。(原文は旧漢字使用) 韃靼はリットン調査団の英文ではTartar である。従ってタタール人又は正確に韃靼でよかろうと思う。いずれにしても、日本の満洲侵略を批判したとして戦後引用されるリットン調査団の報告書ですら、満洲は支那とは別個のものであると述べているのは注目すべきである。そもそもこの報告書では常にManchuria(満洲)とChina(支那)という言葉を常に区別しているのだ。 なおリットン報告書では次のように述べているのが注目される。 ・・・又一国の国境が隣接国ノ武装軍隊ニ依リ侵略セラレタルガ如キ簡単ナル事件ニモ非ズ。何トナレバ満洲ニ於テハ世界ノ他ノ部分ニ於テ正確ナル類例ノ存セザル幾多ノ特殊事情アルヲ以テナリ。 と説明する。何と満洲事変は侵略ではないとリットン報告書は語っているのだ。このことは一部では有名な事実であるが、多くの歴史家は原本を引用せずに一方的に侵略と決め付けている。リットン報告書による勧告は、日本の侵略を止めさせて無条件に満洲を中華民国に返還すべしというものではない。 中国の主権は認めるものの中華民国政府では安定した統治ができないということで、満洲の国際管理を勧告している。これは英米の意向に従った狡猾な話といわざるを得ない。それまで満洲の地には日露戦争で得た日本の権益しかない。国際管理ということは、満洲に権益を持たない英米、特に鉄道王ハリマンの満洲鉄道の共同管理を日本に拒否された米国としてはリターンマッチであったに違いない。 脱線ついでにチベットについても言う。チベットも現在では、国際法上中共の支配下にある。しかし独立国チベットの侵略は狡猾にも朝鮮戦争のどさくさにまぎれて行われた。チベットの鎖国状態がなおさら国際社会に情報が伝達されず、朝鮮で手一杯の米国の介入も許さずやすやすと中共は広大なチベットを侵略した。チベットから中共の侵略を訴えにインドに行ったチベット政府代表の中国による侵略の報告についても、ネールは耳を貸さなかったというD。日本ではネール首相を持ち上げるが、所詮自ら独立を保持し得なかった国の人。アジアの独立にも奔走した日本人とは比較にならない。 チベットは満洲族の王朝、清の版図であっても支那の王朝の歴史的領土であったことはない。むしろチベットが北京まで支配した時代もあったのである。清代には満洲族の皇帝がチベットの支配者や支那大陸の皇帝、モンゴルの支配者たる大ハーンを兼務していた。1877年英国のヴィクトリア女王はインド皇帝を兼ねて、英国のインド植民地化が完成したことと酷似しているではないか。 この意味ではチベット、モンゴル、支那は満洲族の植民地であった。もし満洲族皇帝の支配する植民地たる支那が、歴史的に満洲を支配する権利があるというなら、インドは英国を歴史的に支配する権利があるというべきである。これは単なるアナロジーではない。事実である。繰り返す。満洲は支那ではないことが理解していただけたと思う。私は怪しむ。多くの良心的と自称する日本人の多くがチベットの侵略を非難しもしない。それどころか前掲書に書かれたような中共のチベットにおける目を覆うような残虐行為を無視する。日本の「残虐行為」を非難する巨大な中共の公式施設。これに比べればチベットの訴えはマイナーなものに過ぎない。 誰の支援もないからだ。見よ東京芸大の元学長の平山郁夫画伯の中共政府に対する献身。日本に対する非難。その陰に多くのチベット国民が残虐な支配に苦しんでいる。彼らは誤った贖罪意識から、中共の暴虐に目をつむる。彼らには真の良心はない。前掲書に書かれた中共のチベット人に対する残虐行為は、私がここに書き得ないほどむごいものである。多くの日本人は目が曇っている。 http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub21.html 2章 支那の言語と文字 2.1 北京官話 mandarinを英和辞典でひくと、北京官話とある。北京官話とは清朝の時代に北京の宮廷で使われていた言葉であるという。要するに皇帝の使用した言葉である。王朝の皇帝がどのような言語を使っていたか。清朝は漢民族ではない満州族が支配していた。皇帝と重臣などの支配者は満州族である。皇帝は満洲語を話すはずである。もちろん皇帝の祖先は北京の外から来たのであるから、当時北京では満洲語以外の言語が使用されていた。そこに来た皇帝の先祖はどうしたか。わざわざ苦労して外国語である北京土着の言語を話すはずがない。 北京土着の言語と断ったのにはわけがある。単純に漢語とは言わないのである。それは別項でも書くように、現在漢語とくくられる言語には、北京語、広東語、福建語その他いくつもの言語があり、それらの間にはドイツ語、フランス語、英語、スペイン語といった程度の差異があるということである。つまりこれらの漢語には方言とは言い得ない相違がある。そして満州族が支配を始める以前の北京では、漢語と総称されるもののうちのいずれが話されていたかわからないのである。漢語といってしまったら、ヨーロッパ語というがごときわけのわからないことになってしまうのである。だから満洲族支配以前の土着言語と断る。 北京で皇帝は満洲語を強制した。当然であろう。周囲の土着民族は皇帝ととりまきの宮廷人と話すときは満洲語を話さなければならない。苦労して新しい言語を覚えなければならないのは、土着の支那の住人であって皇帝であるはずがない。土着の支那の住人と言ったのにも意味がある。後述のように明末の北京に住んでいたのは現在では漢族といわれるが、実際には殷周秦漢までの時代の本来の漢民族とは言い得ないからである。単純に当時北京に住んでいた人間を言うのである。 これは英国や米国に支配されたインドやフィリピン人が、支配者である英米人と英語を話すのと同じことである。北京官話は北京だけではなく、出先に北京から派遣された中央官僚の共通言語となったという。これも自然なことである。英米に支配されたインド、パキスタン、フィリピンといった国の公用語は、現在でもヒンズー語、ウルドゥー語、タガログ語といった土着の言語ばかりではなく、英語も公用語である。それはヒンズー語、ウルドゥー語、タガログ語は多数言語であるにしてもインド、パキスタン、フィリピンにはこれらの言語とは全く異なる言語を使う民族がいるからである。 これらの異言語を話す民族にとっては、ヒンズー語、ウルドゥー語、タガログ語を話すより英語を使うほうがプライドが傷つかないというのである。これは明治時代に日本に滞在した支那人同士が話すとき、日本語か英語を使ったという事情と似ている。支那には相互に通じない異言語が多数あるために、共通言語として皇帝の民族言語としての満洲語を使うことが便利だったのである。 とっくに結論が出ている。清朝における北京官話とは満洲語である。そして英和辞典のmandarinとは北京官話と同時に北京語ともある。北京語は満洲語であるという結論が論理的に導かれる。北京語は満洲語がルーツである。これを補強するのが1章で述べた首里城の琉球貢表の満洲文字である。清朝中興の祖、18世紀乾隆帝の時代でも満洲語が公用語として使われていたのである。満洲語は漢語の群れに消えたのではなかった。 なぜ異民族言語としての満洲語が北京語として土着したか。それは満州族が最後に支那の外から来て残留したからである。正確には最後に異民族言語として残ったのは香港の英語であるのかもしれない。もっとも北京語が正確に満洲語を継承しているとはいえないのであろう。フィリピン人やパキスタン人の英語は公用語であるにもかかわらずなまりが強く、フィリピングリッシュやパキスタングリッシュなどとも言われる。日本人は日本なまりの英語のジャパングリッシュを堂々と話せばよいと推奨する人さえいる。 最近のインド映画で「レッドマウンテン」というのがある。印パ紛争をインド側から描いたものである。言語はヒンズー語とDVDには表示されているにもかかわらず英語が混じる。下級兵士は数字以外は全く英語を使わないが、階級が上がると英語の混じり方が多くなり、幹部軍人に至っては完全な英語である。こんな言語の混淆の仕方もあるのだと考えさせられる。 北京の土着民族は努力して満洲語を習得し、なまりながらも満洲語は北京語として定着した。これが実情であろう。満とmanの音の共通性から、西洋人ははじめから北京語が満洲語だと理解していたからmandarinと命名したのである。西洋人はなぜ私のように満洲語を支那の異民族言語と理解しないのだろう。それは西洋人にとってはマクロにみれば満洲人もその他の支那に居住する言語も民族も、等しく支那大陸に居住する民族と言語の一つに過ぎないのである。 そして支那大陸の歴史と民族をヨーロッパのそれとアナロジーで見てみれば、むしろ正しいのだと思わざるを得ない。すると漢語と俗称される広東語、福建語、客家語なども実は単なる支那の土着言語ではなく北京語と同様の歴史的経過を経て土着して現在に至ったのであると。それは英語、フランス語、ドイツ語などヨーロッパの言語、ヨーロッパの民族が民族混淆の歴史的経過を経て、現在に至ったのと同様ではなかろうかと考えられるのである。 ここでひとつだけ注釈しておかなければならない。北京語は場合によっては北京における方言とされる。現在の中国語は、オリジナルは北京語であるが、清朝滅亡後に日本語や英語の影響を受けて、漢文ではなく口語の漢字表記が発明されたことによりできた言語である。魯迅などの行ったいわゆる白話運動によってできた標準語というべきものである。 この結果できあがったのが元は北京語ではあるが現在は「普通話」と呼ばれる言語である。この言語は口語の漢字表記ばかりではなく、改良された口語としても支那政府、当時の国民党政府に採用され、中共政府にも引き継がれて現在に至っている。日本における中国語の教科書では一般にこの関係を東京弁と標準語の関係になぞらえているが、この比喩は正しい。 現在の日本語の標準語とその表記方法も明治の文豪たちが中心になって完成したものであり、その基礎は江戸弁つまり古典落語で使われる言葉である。東京弁と標準語の差はかなり少ない。北京官話と普通話すなわちいうところの、中国語の差異も僅かであろう。「普通話」と広東語や福建語などの差異が方言の程度ではなく異言語に等しいのと全く異なる。このことを頭の隅において本稿を読んでいただきたい。 2.2 康熙帝伝 日本では、多くの場合、支那大陸に異民族が侵入して支配しても、いつの間にか漢民族の風習におぼれ、漢化していく、と言うのが一般的である。例えば代表的に中国ウオッチャーで中国にきわめて批判的な、宮崎正弘氏は「オレ様国家中国の常識」で次のように述べている。 清王朝は北京に乗り込んだときから漢族の文化に魅せられ、満洲語を田舎の言葉と恥じたのか、宮廷では使わずに、むしろ被征服民族の漢語を喋り、自らの言葉を重視しなかった。現在の中国語というのは「普通語」(標準語)のことで、それは華北で通用した中国語を満洲族の訛りで発音したのが北京語である。北京語は日本にあてはめると江戸弁である。つまり北京語と普通語は江戸弁と標準語の違いがある。 具体的にはこれから検証するが、華北で通用した中国語を満洲族の訛りで発音したのが北京語である、という見解は極めて不可解である。当時の北京とその周辺は『華北で通用した中国語」を話す人たちは満洲族より圧倒的に多かったであろう。満洲族が無理に中国語を話すのなら満洲語訛りがあっても当然だが、元々中国語を話す人たちが゛満洲語訛りになるのはあり得ない。まして満洲族は漢語に憧れているのだから、訛りは矯正されるのであって本来の中国語を話す人たちに影響を及ぼすことはあり得ない。さてこれから資料により、宮崎氏の主張を検証しよう。 「康熙帝伝」Dはフランス人宣教師ブーヴェが康熙帝時代に北京に滞在して、主に実際に見聞したことを書かれた物語である。内容はフランス人の北京滞在記といってよい。解説にも書かれているように、支那で布教する宣教師という立場から、王朝に対して評価が甘くなるという傾向になりがちであろうと考えられるにしても、外国人だから王朝の公式記録よりはるかに客観性があると考えられる。 康熙帝は1654年〜1722年の人である。康熙帝伝には清朝の宮廷でいかなる言語が使われていたか、生き生きと描かれている。康熙帝伝には韃靼という言葉がよく使われている。韃靼とは広辞苑(第三版)によれば「蒙古系の一部族タタール(塔塔児)の称。後、蒙古民族全体の呼称。明代には北方に逃れた元朝の遺裔に対する明人の呼び名。また、南ロシア一帯に居住するトルコ人も、もと蒙古の治下にあった関係から、その中に含めることもある。」とある。 康熙帝伝における韃靼はタタールの訳語であろう。タタールとは一般にはロシア人の言う、タタールの軛(くびき)である。すなわちモンゴルの恐怖の支配である。従って一般にはタタールとは蒙古と考えられるが、支那大陸の北方民族一般の呼称で、康熙帝伝で意味するところは前後関係からして満洲族の意味であろう。皇帝は満洲人だから満洲語を話すはずである。そして皇帝は韃靼語を話したと書かれているからである。 康熙帝伝に次のような記述がある。P95の注に 「宣教師の多くは漢語の研究に志したが、その至難なことに辟易して、この研究を放棄するのが常であった。しかるにヴィドゥルー師はこつこつ(漢字)として倦まず、ついに漢語を征服するに至った。」 とある。前段でみんな韃靼語は容易に習得したとあるが、これは前述のように満洲語のことである。現代でも西洋人にとって広東語などの「中国語」が満洲語より遥かに難しいとは考えられない。西洋人はもちろん支那人自身にすら習得が極めて難しいのは漢文である。つまり、ここでいう漢語とは漢文のことである。それはこの文に続いて 「・・・殊に康熙帝の第一子は書経の一節を示して、ヴィドゥルー師の学殖を試験し、その学力に敬服し、絹本に賛辞を書いて送ったそうである。」 とあることでもわかる。当時漢字表記の口語文はありえず、書経は漢文で書かれている。次節以降で述べるように書経などの漢文は広東語などのような、口語のいわゆる漢語とは関係のない文章だけの体系である。だからここでいう漢語は間違いなく広東語などの口語ではなく、漢文である。つまりここでも満洲語以外の言語が宮中で話されていないことが証明された。強調しておくが、皇帝は漢文を読めたが、満洲語以外の北京の土着の話し言葉を話すことができたと言う証言は、康熙帝伝にはない。 康熙帝は、書経の漢文を読んで見せたのであって、話し言葉としての漢語を喋ったのではない。この電気で分かるのは宮中では、漢人も含めて漢語は使われておらず、満洲語で会話がなされていたのである。康熙帝の時代は清朝中期である。段々満洲王朝の漢化が進んでいたのであれば、この時期既に皇帝は漢語を使っていなければならないがそうではなかった。ブーヴェはむしろ漢民族の満洲化が進んでいた事を示唆している。 現在インドやパキスタンでは土着言語の他に英語が公用語となっている。インドに支配者としていたイギリス人は僅かであったのにもかかわらず、である。当然であろう。どうして武力で征服した民族が面倒な土着言語を憶えなければならないのか。土着民族に支配者の言語を強制する方がよほど自然なのである。 *康熙帝伝・東洋文庫155・平凡社・ブーヴェ 2.3 漢文とは何か 日本では漢文について誤解がある。この誤解の糸を解きほぐすことが、支那大陸の歴史理解の重要な鍵である。結論から言おう。漢文は支那の言語ではない。漢文は支那の口語を文章化したものではない。古代中国語の文字表記でもない。最も原始的な表意文字という、誰にでも簡便に利用できる意思伝達手段である。 岡田英弘氏の「この厄介な国中国」Eを見てみよう。 (P122)あるフランス人学者は「漢文とは書くための言語だ」と喝破したが、それは明察である。漢文は中国で話されている言葉(中国語)とは全く無縁の言語体系なのである。・・・ たしかにラテン語は、はるか昔に廃れた言語ではあるが、漢文に比べればとても理解しやすい言語である。なぜなら、ラテン語には品詞の分類があり、活用語尾があり、また耳で聞いても理解できるからである。 あえて類例を用いて比較するなら、漢文は古代エジプトのヒエログリフと言えるかもしれない。 しかしそのヒエログリフにしても、当初は漢字のように表意文字として使われ続けていたけれども、やがてひとつの文字にひとつの音が対応するようになり、英語のアルファベットのように使われ、話言葉をそのまま表記することも可能になった。ところが漢文には、そのような変化が起きなかった。あくまでも孤立した「書き言葉」のままで、話す言葉とは無縁のものでありつづけたのである。 そして漢文が進化して話し言葉の表記法となるのを阻止したのは秦の始皇帝である。悪名高い焚書とは、実はそれまで私家版の本などで不統一だった、漢文の表記や表現を政府公式に統一したというのが真実であると書く。つまり標準の漢文表記や表現の文書をひとつ選定し、それ以外のものを全て焼却処分したというのである。 それは初耳の人には意外な事実かもしれないが、中国語の現代の書籍を読める現代中国人が全く漢文を理解できないことから意外なことではない。注意しておくが、現代中国人が漢文を読めないのは、ほとんどの現代日本人が源氏物語や枕草子を読めないのとは、全く意味を異にする。漢文の本質の理解は本書では重要なことだから、以下に敷衍する。実際に使われる漢文の表記の順序を無視して考えてみよう。「私」という単語と「行」という単語を使うものとする。ふたつの表意する意味を知っていれば、「行私」「私行」と書こうと「私は行く」と言おうとしているのはわかる。 ところが正確に言えば「私は行った」のか「私は行こうとしている」のか「私は今行っている最中」なのか区別がつかない。いやそもそも品詞がないのだからF、行という文字は行くという行為の動詞的意味とは限らず、行く事という行為の名詞的意味かもしれないのである。漢文は時制も何もないのだから意味は多義に解釈できる。このような原始的な表記手段なのである。漢文の翻訳は原文の数倍になる。それは意味が多義なので前後から推定して日本語を補足しているからである。 漢文の解釈がいくつか存在するのも、古代の文章のゆえではなく、漢文に文法がないことによるものである。そして科挙の試験のように難しい漢文の試験を行うのも、古典による文章例を記憶させることによる作文と解釈の統一を図るためであった。漢文が古代中国語でないとするならば、漢文による古典、いわゆる漢籍の位置づけも常識とは異なってくる。漢籍とは既に滅びた古代支那で作られた古典である。現代の漢民族と自称するひとたちと何の関係もないものである。 これは現代西洋人における現代語とラテン語による古典の関係とよく似ている。西洋人の教養ある人たちはラテン語を習得する。これは彼らの現代語とは関係なく、古代の知恵を教養として習得するに過ぎない。だからルネッサンスの時代にはラテン語の古典がアラビア人によって受け継がれていて、アラビア語訳されていたものをさらにドイツ語、イタリア語などに翻訳して読まれていたのである。ラテン語の時代と現代ヨーロッパ語の間には、アラビア語という深い断絶がある。 ずるい西洋人はそのことを無視して、あたかも古代ギリシア、ローマ時代と現代ヨーロッパが連続しているかのように「ルネッサンス」すなわち文芸復興であるという手品を発明した。実態は復興ではなく、異文明異文化を獲得したのである。支那大陸において本来の「漢民族」は古代ギリシア、ローマ時代の民族のように滅び去って漢籍という古典だけを残した。清朝においては皇帝はこの古典を普遍的教養として満洲語に全て翻訳した。これはラテン語の古典をアラビア語に翻訳した事業に似ている。 満洲人の努力は無駄ではなかった。「世界の言語ガイドブック」Oという本によれば、現代に満洲語を習得するメリットは支那の古典を満洲語に翻訳されたものから理解できることである、というのだ。つまり漢文は誰にとっても難しいが、通常の言語体系である満洲語によって古典を習得できるというのだ。満洲語により支那の古典を理解することは、ルネッサンスの時代にヨーロッパ人がアラビア語からラテン語の古典を理解したのに似ている。 ここでいう満洲語とは満洲文字で表記された本来の満洲語である。北京官話となって、その後白話運動により口語の漢字表記が発明された北京語とは、少し異なることは言うまでもない。漢文に文法も品詞もないということについては説明を要する。行という漢字は一般には動詞と解釈されやすい。それならば名詞があるはずである。だがないのだ。だから行という漢字は動詞でも名詞でもない。前述したように、行くという概念を表すのか、行くという行動を表す動詞なのかの区別はない。もちろん動詞ではないのだから、過去なのか未来なのか現在なのかの区別もない。 英語でもドイツ語でも名詞と動詞が同じ単語はある。しかし名詞か動詞かは文型から置かれる位置と格変化でわかる。インチキ漢文で考えてみる。「私行山」とかけば英語からの類推でSVOと考えて行を動詞と考える人がいる。だが漢文では決してそう教えない。山が私の後に来るのは動詞だからではない。古典に書かれた先例から行はこの位置に置くべきだと判断できるのである。 2.4 漢字について
漢字は現存する唯一の表意文字であろう。従って外国語を輸入する場合、表音文字ではアルファベットのように音声を一致させるだけだが、表意文字である漢字では音声を一致させるととんでもない意味の単語が出来上がることが多い。日本語のように「コンピュータ」とそもまま音で輸入するわけにはいかない。そして現在使われている「漢語」のうち、全てが漢字表記できるわけではない。例えば「世界のことば小事典」Nによれば、福建省や台湾、海南島で使用されている「福建語」には漢字表記がないという。しかも福建語を使っているのは四千万人もいるという。上海語の単語には音を借用した当て字として漢字を使っているために、単語の意味とは無関係な漢字を当てているものがあるという。 そもそも支那の口語の初めての漢字表記は中華民国初期の白話運動による北京語の漢字表記から始まった。多くの漢語で漢字表記がないのは、口語の漢字表記の困難さを示す。長い間漢字は漢文のために使われていたのであって、口語が漢字表記すなわち文字表記された歴史は百年程度しかない。口語で漢字表記がないものがあっても不思議ではない。繰り返すが、漢文は文章専用の漢字表記法であって、口語文に対する文語文ですらない。文語文のひとつである日本の漢字書き下し文体はあくまでも日本語の漢字仮名まじり表記法であって、日本語の一種である。漢文は中国における文語文ですらないのであることを銘記しておかなければならない。 文字の国といわれた支那で大多数が文盲であったのはこのようなわけである。長い文明を持つ国の中では他の諸国に比べはるかに、言語の文字表記が遅れたという事実が浮かび上がる。奇妙だが漢字をはるかに遅れて学んだ後進国日本ですら、紫式部の時代には既に漢文ではなく、日本語の文字表記が行われていた。漢字が珍重されるのは、古典として優れていたゆえである。漢文は中国語ではないから、漢文を珍重することは中国語を珍重することではない。 言語の文字表記という意味ではなく、古典という意味において漢文は西欧におけるラテン語のようなものである。ギリシア、ローマの文化はラテン語の古典がペルシアなどアラビア語文化を経由して現代ヨーロッパに伝わっているように、支那の文明にも断絶がある。唐、モンゴル、満洲などの各民族が間に入った断続がある。現代支那の言語は漢文とも古代支那語との連続性はない。ヨーロッパ言語がアルファベットを借用して各民族言語を表記するように、単に古代漢民族の発明した漢字を借用して、北京語、広東語などの現代支那言語を表記しているに過ぎない。ただ漢文が表音文字という抽象性を欠いた原始的表記法であったために、現代支那言語との落差が大きく、口語の漢字表記は困難であった。 漢字が発明されて以後、支那では長い時間の経過があったにもかかわらず、文化的熟成がなかったために、日本のようにかな文字という表音文字を発明することができず、相変わらず漢字漢文をそのまま使うということを、わずか百年前まで行っていたのである。世界の文明が進歩している二千年の間に、何の変化もなく相変わらず漢字漢文をそのまま利用し続けるのは、相対的には退化である。簡体字は単に字画数を減らしただけで、本質に変化はない。漢字が何万字もあるのも当然である。漢字は一語一語が単語だからである。例えば嶋という言葉をつくるときには、山と鳥を組み合わせてひとつの漢字にするのである。 山鳥と2字で書いてはならないのである。その点で嶋を島と略した日本人はあながち間違いではない。この点明治の日本人が西欧の概念を哲学、経済など2字の熟語にしたのは正統な漢字の使い方ではない。漢字の発明者ではない日本人は勝手にphilosophy、economyに対応する一字の漢字を作り出すことはできなかった。しかし複数の漢字表記により新単語を造語する手法は日本人の独創による新発明である。日本による造語の単語を直輸入している現代支那人は、漢字を発明した漢民族ではない無神経さで和製漢語を受け入れて恥じない。 2.5 漢文と支那の言語との関係
言語は口語と文語に分離しやすい。江戸時代までの日本の文語は源氏物語のような大和言葉によるものと、漢文調のものがある。また多くの古典や論文が漢文そのもので書かれていたから、三種類の文語があったように思われる。漢文は日本語ではない別の言語である。ただ日本では漢文を日本語の音で読み、不足する音も補足して読むから、文字として見ると外国の言語であるが、読みを聞いていると日本語となるという奇妙なことになる。漢文を読むときの音声の順に漢字を並べ、ひらがなを補足すれば、漢文調の文章ができる。候文もこの範疇である。 かつての日本語には複数の系統の書き言葉があったが、話し言葉と書き言葉に大きな乖離が生じていた。英語などの西洋の言語は書き言葉と話し言葉、すなわち口語と文語の差異は比較的少ない。そこで日本では明治時代に、西欧の言語が文語と口語の差異がないと考えて言文一致の運動がおきた。言文一致の文語のモデルとなったのが江戸時代の落語、古典落語である。言文一致の文章、つまり現代文語の成立の過程は二葉亭四迷の浮雲によく表されている。浮雲の最初は現代人からは違和感のある文章であるが、最後になるとほとんど現代の文章と変わりがなくなる。英語でも口語と文語は全く同じというわけではない。洋画の導入部の語りと本編のせりふの相違でそれがわかる。 現代の中国語の文章は現代日本文と同じ意味での文語であって漢文ではない。中国語の文章はやはり明治時代に白話運動として、日本の言文一致運動の影響を受けて成立したもので、漢文ではない。正確に言えば漢文とは全く異なる。だから現代中国語を読めるからといって、中国人は論語などの漢文を読めるわけではない。漢文を特別に学んだほんの一部の専門家が漢文を読めるだけである。これは現代の日本人が源氏物語が読めないのとは全く意味が異なる。源氏物語がもともと日本語の話し言葉を基礎としているのに対し、漢文は意味の伝達のために表意文字を並べただけだからである。たとえば「行東京私」とランダムに漢字を並べて「私は東京へ行く」という意味を表していると主張してもよいのである。これが漢文の本質である。 中国人が「私」「行」「東京」という漢字の意味を日本人と共有すれば、互いの話し言葉が理解できなくても意味は伝達できる。漢文のインターナショナルなゆえんである。日本人が中国に行って筆談が通じたと喜ぶ人がいるが、これは漢字発生時に使われていた原初的用法である。だが三つの単語だけだったからこんなでたらめができたが、ひとつの文章で使われる単語が多数になるとこんな芸当はできない。漢文が複雑な表現ができないひとつの理由である。 漢文を北京語なり広東語なりの発音で読んでも中国語とはならない。それは「私」など個々の漢字の意味が北京語、広東語などと異なるというレベルの事象ではない。漢字は元来一つの文字はひとつの読みしかない。北京語と広東語では同じ漢字を違う発音をする。しかし原則として北京語のなかでは同じ文字がふたつの発音を持つことはないはずである。ところが白話運動で作り出された北京語では、名詞などはともかく接続詞などは、口語の発音をその意味の漢字であてるために、使い方によって発音が異なるということにならざるを得ないのであろう。表音と表意を常に一致させることはできないからである。ひらがなのような完全な表音文字ですら「は」を使われ方により「は」と読んだり「わ」と読んだり使い分けている。 ここで漢字と漢文の面白い特性の例をひとつ。平成13年に佐世保の旧偕交社跡の記念館に行った時のこと。出征する兵士の遺書が漢字だけで書かれているものがあった。漢文かと思って読むとすらすら読める。私が漢文を読めるはずがない。よくみたら漢文ではない。漢文書き下しのような日本文の平仮名の部分を省略してあるのだ。だから一見漢文だが本来の漢文ではない。しかし日本人にはすらすら読める。しかしこれは漢字と漢文の特性を生かした漢字漢文の本来の使い方といってもよい。 漢字は表意文字だからそれを日本語読みするのは正しい。そしてそれを日本語の語順に並べて日本人が読めるようにするのは、古代のグローバル文字たる漢字の本来的な使い方である。実は現代の北京語の漢字表記も同じことをしている。つまり漢字をアルタイ語系の読みとアルタイ語系の語順に並べたもので、本来の漢文の語順ではない。そして先の日本語漢文とは異なり、発音の必要があることから、省略した平仮名に相当する文字を漢字で補っている。従ってこれは漢字を現代日本文の漢字と平仮名の二役に使っているのだ。 現代の漢字による漢文でない中国語の表記は、漢文ほどではないにしても口語を十分に表記できているものではないのであろう。例えば英語でも日本語でも、口語と文語に乖離があるのは事実である。しかし、インタビューやディスカッションの録音をともかくアルファベットなり漢字かな混じりの文に書き示すことは可能である。 もちろんそれはきちんとした文章にはなってはいないのだが。ところが中国語の漢字表記ではこのようなことは不可能であろう。漢字では話した音をそのまま書き下せないから、表記するとしたら口語をきちんとした文語に書き改めなければならないであろう。それほどに漢字表記は不便なものである。前述のように発明以来原理が一切改良されていないことが原因である。発明当時最新のテクノロジーであっても何千年も経てば時代にはるかに遅れるのは当然である。漢字漢文の不幸はあまりに早く発明されたことである。発明当初は文字は、記録ができ言葉でなく意志の伝達ができるという革命的なものであ った。 初期の発明だから直感で分かりやすい絵文字から発展した象形文字であったというのは、発明の容易さからであろう。例えばメールで使う(^^)が「笑い」の意味であるのは洋の東西を問わず分かるようなものである。漢字は絵文字がある程度進化した段階で改良をやめてしまった。岡田英弘氏はそれを秦の始皇帝の罪だと指摘するのだが。 ところが漢文自体は口語の言語に対応するものではないから、漢文で書かれたものは異言語の民族間でも意志伝達手段として便利である。漢文は特定民族のものではなく、インターナショナルなものとして使われていたのである。それこそ支那大陸では多数の民族が交易交流していたのである。漢文の表記法は四書五経などといわれる古典が書かれる時代に固定化した。古典は支那社会で普遍的なものとして尊重されることとなった。 古典が貴重なのは、本来伝えられている思想の内容であろう。だが支那では古典を尊重するあまり、漢文という表記法をも固定化してしまった。文字が発明されると初期の表記法が改良されて、民族の言語を表記する手段とはならなかった。日本ですら最初に漢字が紹介されて以来、万葉仮名など各種の苦闘を経て「日本語」を漢字仮名交じり表記するという画期的な改良をした。支那ではやっと明治時代に魯迅などの白話運動により、漢文を捨て口語である「漢語」を直接漢字表記するに至った。この間には絶対的な断絶がある。 日本でも同時期に二葉亭四迷などの文学者により口語文が発明され、現代文に至っている。だがそれ以前に使われていた、漢字仮名交じり文や源氏物語などの古文は日本語の文字表記である。明治日本では欧米の言語が口語と文語に日本ほど差がないことに刺激を受け、文語と口語の乖離が大きい日本語の改良を目指したのであった。だから中国のような文章表現の断絶はないのである。 漢字と支那の言語が関係ない事実を示そう。広東語四週間*に妙な記述がある。まず一ページ目に「音に対する漢字が無い場合には、□で示した。」とある。そこで巻末の「広東語語彙索引」を見ると確かに□が登場する。例えばbahngと発音する言葉の意味は「動詞で「もたれる」という意味だとあるのだが、漢字が□なのである。 もたれるという言葉に対する漢字は無いのである。48ページある索引に対して34の□が登場する。1ページに平均25個の単語があるから、約3%の単語に漢字が存在しない。これは驚くべき数字である。例外的に漢字が無いのではない。そもそも漢字の国といわれる支那に漢字で書けない単語が存在するのが、これまでの常識を超えているではないか。 予想されるのは動詞が多いだろうということである。その通りであった。しかし日本語の「場所」、「濃い」、「茎」などの形容詞や名詞にさえも対応する漢字が無いという奇妙なことになっている。これでも漢字が支那の言語と直接リンクするものではなく、強いて当てている文字に過ぎないことが分か る。ちなみに北京語を学ぶにはピンインと呼ばれるローマ字表記の発音記号を使わなければならないのはご存知だろう。ヨーロッパ言語はアルファベットを基礎にした発音記号で発音を表す。日本語は仮名を使う。漢字王国の支那は全くの外来のアルファベットを使わなければならないのである。 そして広東語はピンインは使えない。イェール大学が考案した「イェール式ローマ字表記法」が使われるというのである。そういえば中共政府の刊行する日本向け観光地図には、旧満洲、河北地域及び別章で述べる支那南方方言の使われる地域以外の大部分の地名表記はカタカナである。この地域には地名の漢字表記が無く、ローマ字表記しかないことを示している。 私は広東語に漢字表記できない単語が多数あることに驚いた。引用したのは入門書だから高度な単語になったら、漢字で表せない単語の比率はさらに増えるだろうことは容易に類推できる。前述のように、福建語にはそもそも漢字表記自体がないのである。これらのことは素人の私には驚くべき事実でも、支那言語の専門家には常識なのに違いないのである。私はこのことに何の疑問も感じずに、中国は漢字文化の国などと語る「中国」専門家の見識を軽蔑する。 余談だがレンタルビデオショップに行くと面白いことがわかる。ジャッキー・チェンなどの香港映画の言語である。音声に中国語と書いてあって、字幕に日本語の他に簡体字、繁体字と書いてある。または音声に北京語と広東語の二つが表記されているものがある。字幕はさきのものと同じ場合が多い。皆さんこの意味を理解できるだろうか。ビデオの言う中国語とは北京語のことである。そして北京語と広東語の二種類を併記する場合には中国語、広東語と書いては奇妙だから「北京語、広東語」と書く。字幕の簡体字とは北京語字幕のことである。同様に繁体字とは広東語字幕のことである。
これは北京語が簡体字で、広東語が繁体字表記されるのが一般的だからである。ご存知のように簡体字とは漢字が難しいため、中共政府が推薦する簡略化された漢字である。しかし日本人の省略した漢字に比べ、簡体字なるものは漢字とは言いがたいくらいに崩れているとしか思われない。だが繁体字の字幕の漢字をそのまま簡体字の漢字に置き換えれば、広東語字幕が北京語字幕になるのではないのに注意していただきたい。北京語と広東語では漢字表記法も違うのである。 だから広東語しか理解できないものにとっては、「中国語」の音声のビデオは繁体字すなわち広東語の字幕が必要なのである。ドイツ語のビデオに英語の字幕サービスのあるようなもので、北京語と広東語にはそれだけの言語の相違があることを意味する。そのことは両言語をローマ字表記するとさらに明瞭となる。ちなみにジャッキー・チェンは香港生まれで英語も話すが、母語は広東語である。そして巷間で売られている「中国語会話」のテキストとは例外なく北京語会話のテキストである。広東語を習いたかったら広東語入門の本を買わなければならない。 2.6 漢字が支那の歴史をわかりにくくしている
「漢民族」なるものは言語風俗からはフィクションである。漢民族に共通する言語も風俗も存在しない。ところが一般にはそのフィクションが事実として通用している。その原因のひとつは漢字、すなわち漢文というマジックにある。例えば女真族が立てたのが金王朝と表記される。すると金は明、清、宋、元などの歴代王朝と並列に並ぶ。このように大陸に存在した王朝、すなわち国家の名称は漢文では漢字一字で表記するという慣習がある。 こう表記してしまうと各王朝の支配民族が何であるかが、全く意識されなくなってしまうのである。今列記した民族の歴史は現在では漢文という文章言語で表されている。実はこれらの王朝の支配者がどのような言語を話していたかは不分明である。現在では「漢語」を使っていたということが暗黙の了解となっているが、事実とは異なるはずである。それは一般的に漢文が漢語の文字表記であるという誤解がなされていることによる。 漢文は支那における話し言葉と何の関係もないことは前項までに述べた。漢文書き下しの日本文であっても、候文であっても、古文であっても口語の日本語との関連性がある。漢文と広東語などの口語との関係はこのような関連性が全くないことを想起してほしい。支那大陸の各王朝の歴史が漢文で書かれていたということと、王朝の口語での公用語が漢語系であったかどうかということは対応しないのであ る。このことに気がついたのは、琉球王朝の琉球貢表であった。琉球貢表の正文は満洲文字で書かれていた。満洲文字は表音文字であったから口語と対応していたはずである。従ってこの時代の支那、清朝の公用語は満洲語であった。口語も文語も満洲語が公用語であったのである。 このことは既に黄文雄氏ら多数が指摘していることだから新事実でも何でもない。清朝での第一公用語は満洲語で、第二がモンゴル語、漢文および漢語は第三公用語に過ぎないというのである。琉球貢表からは公文書は満洲語で書かれていたことがわかる。貢表が書かれていたのは乾隆帝の時代で、既に18世紀である。「康熙帝伝」の項で説明したように、満洲人が皇帝である清朝の宮廷では満洲語が話されていた。 するとモンゴル人の王朝である元朝ではモンゴル語であったはずである。以前放送されていたNHKの大河ドラマでも、フビライ汗がモンゴル語を話していたから、現代中国でもそのことを認めているのであろう。漢民族の王朝とされる宋、明では何語が使われていたのであろうか。私の知る限りこれを説明する文献はない。謎なのである。 その謎があたかも漢民族というフィクションを成立させている。福建語のように漢語と呼ばれるもののうちにすら、漢字表記できないものがある。しかも彼らは漢文なぞ読めないのである。漢字を使う民族が漢民族であるとしたら、現在漢民族と自称する人たちには漢民族ではない者が多数いるということになってしまうのではないか。 北京語の漢字表記は西欧の進出を恐れ日本の勃興に刺激され、日本語や英語表記を参考にして白話運動により作られたものである。唯我独尊が二千年後崩壊したと悟ったときに始めて生まれた現象である。とすれば、白話運動以前の「漢民族」の大部分は口語の漢字表記もなく、漢文を読めなかった。漢文はごく少数の知識階級の独占物であった。とすれば支那大陸の大多数の住人に漢字というアイデンティティーはなかった。 現在の中国語講座などがアルファベットの発音表記を用いざるを得ないところをみると、いずれ漢字表記だけでは済まなくなるだろう。しかし、その暁には中国の言語、ひいては中国社会に画期的変化を齎すであろう。そのときに大陸社会の近代化が始まる。中国は中世社会すら経験していない。古代社会のままである。古代から中世に変化ができないものが近代に脱皮できようはずがない。 支那大陸は漢字に呪われている。漢文に呪われている。あたかも歴代王朝のほとんどが漢民族支配であり、例外的にモンゴルと満洲に支配されていたというフィクションに呪われている。現代では更にエスカレートして、チベットや満洲人まで含めて中華民族というフィクションまで作り出した。病は深くなるだけである。 漢滅亡後起こった隋唐は明らかに外来の異民族である。なぜなら戦乱飢餓、疫病で死に絶えた地域には外から人が来て定着支配するしかないからである。その外来の異民族も次の外来民族から襲われて追いやられる。そのように以前に定住した異民族が、その後やってきた後発の異民族支配を脱却して再度勃興することもあった。例えば、清朝打倒の標語として使われていた「滅満興漢」の「漢」とは単に支那に先住していた満洲族以外の民族のことである。そのような抗争の繰り返しによって大陸における言語地図は完成していった。 ところが漢王朝以前のいわゆる漢民族が牢固として中国全土に永住していて、そこに異民族が入ってきて漢民族に同化したり、異民族を追放して漢民族が復活して永遠に存在する、というのが支那大陸の公式の歴史である。そのようなことがありえないことはヨーロッパの歴史が示している。北京語、広東語、上海語といった支那大陸における多数の言語の分布は、大陸における民族抗争の結果を記録した年輪のようなものである。 ヨーロッパ大陸との大きな相違は、漢字漢文という異様な表現手段である。それが唯一の表記手段として存在したために、漢民族というフィクションが生まれた。どの民族も歴史を語るのに、多くの場合漢文を用いたからである。その意味に限定すれば漢字を用いるのが漢民族であるというのは正しい。それならば漢民族は単一ではなく、いくつもの言語風俗に全く共通性のない異民族の複合といった方が正確である。大和民族といった意味での「民族」とは全く意味が異なると言わざるを得ない。 異民族の痕跡を明瞭に残したのは元と清である。元は故地モンゴルに帰って現代まで存続し、固有の言語と固有の文字を持っているからである。清は現代に続く近い時間の出来事であり、まだ歴史の彼方に埋もれることはないからである。またモンゴル文字のまねとは言え固有の満洲文字を残したからである。漢王朝滅亡以後の外来民族は、広東語、福建語、上海語などの言語や料理、風俗などに民族の痕跡を残した。 それではなぜ漢文だけがそれほど珍重され永続したか。一般に誤解されているが、蛮族とされる周辺民族は、固有の文字を持たずとも優れたテクノロジーを持っていたから定住していた既存の王朝を倒すことができたのである。しかし人間の道徳や哲学というものは、テクノロジーの進歩と必ずしも関係が ない。現代人はテクノロジーは優れており、社会制度も経験により改善されているが個人の道徳や哲学という面で全て優れているとはいえない。むしろ退化していると言わざるを得ない面もある。道徳や哲学についての記述というのは古典で書き尽くしたと言えないこともないのである。必ずしも古典が書かれた時代に、その道徳や哲学が実践されていたというわけではない。 そのような優れた古典が珍重されたとしても不思議ではない。まして漢文には異言語間の民族相互のコミュニケーション手段として優れているという特性がある。そのことが文字を持たない多数の民族の跋扈する支那大陸で重用されたのである。繰り返すがその原因は表意文字の故である。表意文字は即物的であり、表音文字のような抽象性が少ない。それ故、文字の歴史の初期に発生しやすい。発声しやすいが故に古いのである。最古の文明の一つである黄河文明に表音文字が生まれるのは、作るのが即物的で楽であったからに過ぎない。 それは漢字の価値を低めるものではないが、表意であるゆえの障害も大きいのである。漢字に固執したことは現代に至るまで、漢民族といわれるひとたちに国民国家を発生させなかった一つの原因となり、古代国家の圧制の不幸を現在まで継続させている。 2.7 漢字の発音
漢字は表意文字である。だから何と読んでもかまわない。猫を訓すなわち大和言葉で読めば「ねこ」と発音する。音すなわち「ある時代の」支那の発音では「びょう」と読む。これは便利な機能である。「猫」という漢字を「ねこ」を意味する、ある言語の発音で読めば使えるからである。だから猫をcatと発音してもよいのだ、というのは極端な例えではないことが理解していただけると思う。 問題は猫と書いても各人がどう読んでいるか分からないことである。だから中国語会話のテキストはローマ字を使っている。日本人は仮名を発明することでこれを克服した。表意文字になじまない「は」「である」などや動詞の語尾変化、例えば「行く」などに平仮名を使って補った。発音は仮名によるルビなどで指示できる。表音文字であるはずの英語でも発音は発音記号を使わなければ正確にはわからない。アルファベットが完全な表意文字ではないことは、同じスペルでも英独仏語で発音が明らかに異なることでもわかる。 読みがわかりにくいのは日本文で使う際の漢字ばかりではない。特に英語の読みは独仏語より規則性が崩れている。英語でも母音の基本はa,e,i,o,uの5つしかない。なぜなら他に母音を表すアルファベットがないからである。aとeの中間母音があるが、中間母音はあくまでも中間母音であって、aとeとは全く別の発音ではない。 日本語にしても中間母音は意識せず使われている。aufというドイツ語は日本語表記ではアウフとアオフの中間の発音であるが、日本語の青(あお)に近い発音だと教わったことがある。「言う」と書いて正確に「いう」と発音したら硬すぎて不自然だが、「ゆう」と発音したらだらしなく聞こえる。実際には前後の関係で「いう」と「ゆう」の中間のどこかの発音で使っている。これに気がついたのはラジオ英会話の日英バイリンギュアルの講師が「言う」を常に明瞭に「ゆう」と発音していたのをだらしなく感じたためであった。 閑話休題。現代中国語の文字表記でも「私は」の「は」に相当するものを漢字で表記している。だから一見漢字だけで表記されているが、日本語の平仮名に相当する機能の漢字が使われている。漢文にはこのような機能をする漢字は一切使われていない。だから漢字表記の現代中国語と漢文とは全く別物なのである。 重要な問題は漢字の読みである。岡田英弘氏によれば(*p85)後漢当時はサンスクリットのbrahmaは音訳を使って漢字で「梵」と表記されるという。だから当時は「梵」の発音はbramという二重子音で読んだ。漢字の読みにも二重子音があった。ところが隋王朝で編纂された「切韻」という漢字の発音辞典では二重子音がなくなっているという。 切韻ではRで始まる漢字は全てLに変わっている。この原因はトルコ語、モンゴル語、満洲語などの北アジアのアルタイ語系の遊牧民族の発音が使われていたからだという。その後切韻は現在に至るまで、漢字の読みの基本となっているという。これは五胡十六国時代に漢語はアルタイ語化したという次節の黄文雄氏の説明と一致している。 そればかりか切韻を編纂したのは漢民族とは明らかに異なる鮮卑人であるというのだ。だから岡田英弘氏は秦・漢の中国人は二世紀末にほとんど絶滅したので、隋・唐の中国人はその子孫ではないと結論 する。岡田氏は指摘していないが、発音は変わっても漢字が単音節で読まれるという伝統だけは維持されたのであろう。なぜならbrahmaでは2音節になってしまうからである。brahmaをbramと読み替えて発音した理由は、bramなら単音節になるからであろう。 漢字一字を一単語と考えれば、単音節に限定するのは非常に発音の種類が少なくなり、同音の確率が高くなるからヒヤリングが困難となる。日本人の才覚はこの不便な原則を漢字の読みに導入せず、素直に大和言葉で読んだことである。例えば兎は英語ではrabbitであり単音節ではない。このように世界の言語では単語は単音節ではないのが主流である。in, atなどの接続詞に単音節が使われることが多いのは言葉の音の流れをスムーズにする機能があるためと思われる。 岡田氏は隋唐がそれ以前の漢語とは隔絶した言語となったと指摘する際にひとつの誤りを犯していると私は考える。すなわち支那大陸の各方言がともに、一律にアルタイ語系の発音となり、その後の出発点になったという点である。これによれば方言とはいうものの支那大陸の言語が同一の基礎に基づくということになってしまう。これは支那の言語の均質論である。支那の言語は均質ではない。 2.8 漢字が一音節であることの意味 漢字の発音は現在では読みが全く異なっても一音節という原則は変わらない。切韻の時代以前の四書五経の時代も全く読みが異なってもこの原則であるという。このことは漢字の古さに関わっていると思われる。漢字は基本的に一字一単語であると既に書いた。どの言語でも古くからある基本的な単語は一音節であるものが多い。英語のI、you、goなど。ドイツ語のIch、du、binなど。フランス語のJe、ne、pasなどである。 言語が未発達の時代にアーとかウーとか言って意志を通じていた名残なのだろう。だが一音節だと漢字の日本の音読みの同音異義語が多くて混乱するように、単語の識別が困難だという不便さが発生する。しかし前述のように、日本語以外は母音も子音も多いから、日本語で一音節の単語を使うときのような、識別上の不便は比較的少ないのである。 漢文は古代支那言語ではないとはいえ、個々の単語の発音が当時の古代支那言語と異なるはずはない。やはり古代支那言語の単語も一音節の同じ発音であったはずである。しかし現代「中国語」の漢字表記は漢文とは使い方の異なる文字を補って表記する。それは話し言葉を比較的忠実に再現しようとするからである。そこで現在過去未来や仮定法、その他の微妙な表現が可能になった。 2.9 アルタイ語化していた北方言語 「世界のことば」Gにこのような記述がある。「たとえば、中国語は元来、動詞が先行する言語であり、『私は北京に行く』は『我去北京』というはずだが、北京語ではむしろ『我到北京去』と日本語のように動詞『去』が後置されるのがふつうである。」 その通りだとすれば、北京語は日本語と同じ語順、すなわちアルタイ語系の語順を持つことになる。ただし、別項で述べるように北京語すなわち北京官話は多くの方言がある。「ふつうである」と書いてあるのは、そうでない北京語方言も稀にはあるということである。そして中国語の教科書、すなわち、ある普通話の教科書には、「他去北京」と書いて彼は北京に行くの意味だとある。これで行くと普通話を採用するときには稀な語順を持つ方言を採用したということであろうか。 この著者の誤解は「征服者として君臨したものの、文化的には漢民族に劣る満州人は、次第に自らの言語を忘れ、中国語を学ぶようになる。」と書くことである。それでは満洲族の民族衣装である、支那服が典型的な中国の民族衣装とされ、満州族の演劇である「京劇」を中国の伝統芸能としているのはなぜか説明できない。 もちろん満洲族の文化が優れ、それを中原に住む「漢民族」が競って取り入れたからである。このように満洲人やモンゴル人の文化はそれ以前の支那文化をほとんど追放してしまった。この著者の矛盾は「満洲語は中国語とは、全く構造の異なる、むしろ日本語に近い言葉である。」として、さらに北京語は満洲語の影響で日本語のような構造になってしまったと認めていても、北京語は満洲語ではなくあくまでも漢語だと主張する点にある。 更に岡田英弘氏によれば漢字の読み方である切韻もアルタイ語系に完全に置き換わったという。語順も発音も満洲語化した言語、これを常識ある人は満洲語と判断するのではなかろうか。漢字で表記された北京語これは満洲語の漢字表記というのである。もちろんこれは「漢文」ではない。 さらに黄文雄氏によれば H 四百年にわたる天下大乱と五胡の侵入によって北方漢語の基礎構造は、アルタイ語系に変わり、「雅言」が五胡言語の音韻に変わった。古代漢語のアルタイ語化である。 これは正しい。黄氏によれば、最初の漢語である「雅言」も夏人の言語を基礎として、各語族が物々交換するときに使った「市場語」。だから漢文もただの文字の不規則な羅列だけで、註解しないと意味がわからない、曖昧で不完全な表記文字体系であるという。 3章で説明するように黄河以北の支那北方地域は、五胡十六国の時代に漢民族が、北方民族から駆逐されて匈奴、鮮卑といった北方の非漢民族の居住する地域となった。 五胡十六国時代、隋唐以後は杉山徹宗氏の説によればI、漢民族は絶滅したのであり、東洋史通論の通説によっても、五胡十六国時代に漢民族は黄河流域を追放され南下したのである。いずれの説でも中原に漢民族はいなくなったのである。非漢民族が漢語を話すはずがない。 中原の言語は匈奴などの言語となり、アルタイ語系になったのである。ここにこの地域が同じアルタイ語系の満洲語を受け入れる素地はすでにあったのである。むしろ「南方中国語諸方言」(2.11 項)を押し付けられる方が受け入れ難かったであろう。北京官話すなわち北京語が満洲語をルーツとしているというのは奇矯なものではないのである。 2.10 支那の言語の種類
北京語を母国語とする人間が、広東なり上海に行って仕事をする場合、言葉を覚えなければならないが、そのためには語学校に行かなければならないという。日本ではそのようなことはない。東北や鹿児島の田舎で老人と話すのは困難だが、慣れにより克服できる範囲である。それは方言だからである。中国語の場合はそうではない。異言語だからである。 このような相違はどうして発生したのか。例えばフランス語とドイツ語はゲルマン系とラテン系の相違がある。異民族だから異言語である。英語は古ドイツ語から分化したものであるという。だが単に分化しただけではない。フランス語の影響を受けたのである。半分以上の単語はフランス語語源でもあるという。また英語への変化はそれだけが原因ではない。民族の相違がある。元々ベースとなる言葉がありそれを基礎に異民族が受け入れたために単なる方言ではなく異言語となったのである。すなわち異言語になるのは単に地域の隔離や時間の経過だけでは発生しない。元々の基礎となる部分に相違があるからである。 時間や地域の隔離だけが原因なら、そこに生じるのは方言というべき相違だけである。だから北京語などの言語間の相違は、地域や時間の隔離によるものだけではない基礎的な違いがあると見なければならない。基礎的な違いとは各言語を話す人たちの出自の相違すなわち民族の相違である。北京、広東、上海、福建などの言語の相違は、その人たちの民族の出自の相違によるものである。このことを以下の項で見ていく。 2.11 南方中国語諸方言の分布 現在の中共のいわゆる漢語圏とされる言語は、北方の「北京官話」と南方の「南方中国語諸方言」に大別される。まず南方中国語諸方言について検討する。「世界のことば」Gに漢語の分布図がある。これを現在の中華人民共和国の省と台湾の地図に重ねると面白いことがわかる。 呉方言;上海語・・・江蘇省南半分と浙江省 閩方言;福建語・・・台湾、福建省、海南島 粤方言;広東語・・・広東省、北部の一部を除く江西省 客家方言;客家語・・・広西省と湖南省の境界地帯、江西省南端の一部と福建省南端の一部 韓(字見つからず、仮字)方言・・・江西省と安徽賞南部 湘方言・・・湖南省北部 この本には圧倒的に多くの面積を占める、残りの地域の言語には言及されていない。チベット、ウイグル、青海、甘粛、内モンゴルなどは明らかにチベット語、モンゴル語、ウイグル語などの非漢語が使われている。しかし河北、山東、山西、河南、寧夏、陝西、湖北、貴州、四川、雲南などの地理的には中共中央部の大部分を占める地域の言語の種類が書かれていない。まさか全てが一律に北京語が使われてるというわけではあるまい。また一般に黒龍江、吉林、遼寧の旧満州国に属する地域は北京語を話すとされているがこれについても言及されていない。 またこの文献にも中国語の方言は言葉が異なり「もしも漢字という紐帯がなければ、中国はいくつかの言葉がせめぎあう今日のヨーロッパのような状態になっていただろう、と想像する人は多い。」と書く。これは認識の誤りである。支那が国民国家らしく統一されたのは歴史上現在が始めてである。黄文雄氏や岡田英弘氏らが指摘するように、統一帝国と言われる清朝や元ですら皇帝はモンゴル、チベット、満洲、「漢民族」地域などの複数の民族国家群の名目君主であって、統一的に支配していたわけではない。例えば清朝の皇帝とは支那に対しては清という王朝の皇帝であり、モンゴルに対しては大ハーンである。 支那人はモンゴルや満洲には住めないのである。この支配形態はヨーロッパの神聖ローマ帝国に似ている。国境の無いひとつの神聖ローマ帝国があったのではない。正確ではないがドイツ、フランス、オーストリアという支配領域があり、それらの代表として神聖ローマ帝国があった。別な文献にも中共と台湾の言語分布が示されているJ。「世界のことば」は地図の描き方が正確ではないがこちらの文献では、現在の省区分と正確に対比されている。これによれば、先にあげた6種類の言語は包括して南方中国語諸方言と呼ばれている。この文献に示された南方方言と地理の関係を以下に示す。 呉方言;上海語・・・江蘇省南の一部と浙江省 閩方言;福建語・・・台湾、福建省、海南島と広東省の東の一部 粤方言;広東語・・・広東省西部、北部の一部を除く江西省 客家方言;客家語・・・江西省と広東、福建省の境界地帯、他に福建省に散在するほか広く周辺各省に散在する。 韓(字見つからず、仮字)方言・・・江西省と湖北省の南東部の一部 湘方言・・・北西の一部を除く湖南省 以上のように両文献はほぼ一致する。後者の文献では省の区分と言語分布が重ね合わせてあり、より正確に読み取れる。Wikipediaによれば福建語の音は日本語の「音読み」に似ていて、北京語とは異なるために福建語は古中国語の残存が見られるという。例えば目・モクは北京語でイェン、福建語でバクという。走・ソウは各々パオ、ツァウという。子音からしても北京語は特異である。 だがこれには注意を要する。日本語の訓は遣唐使の唐代に輸入された発音である。別項で述べたように隋、唐の漢字の読みすなわち切韻はそれ以前の漢字の読みと異なり、二重子音を持たない鮮卑系の音声である。つまり古中国語といっても隋唐の時代のものである。このように「中国語」の発音には少なくとも隋唐以前と以後、そして北京語の三系統はあることになる。民族にも最低限これに対応する数の種類があるはずである。現在の漢字表記に隠された発音には民族の分布が隠されている。ヨーロッパとのアナロジーでいえば漢字でも簡体字と繁体字に分かれる。 例えばロシア語がキリル文字であり、同じアルファベットでもフランス語のアクサン・グラーブ、ドイツ語のウムラウトといった発音表記の若干の相違がある。発音に至ってはゲルマン系でもドイツ語のwが英語のvに相当するような相違がある。このように言語の表記発音分布でも複数の「中国語」とヨーロッパの各言語にはアナロジーがある。 2.12 北京官話の分布
北京官話に移ろう。北京官話系の北方言語の分布は前項の残りの地域のうち 河北、山東、南の一部を除く江蘇、南部の一部を除く安徽、山西、河南、寧夏、陝西、南東の一部を除く湖北、貴州、四川の東部、雲南の東部、江西の北西部、甘粛である。また黒龍江、吉林、遼寧の旧満州国に属する地域は正確に含まれる。 また北京官話はJ、 @北方官話・・・東北部すなわち旧満洲と北方(黒龍江、吉林、遼寧、河北) 原著によっても河北はどこにも入れそうもないので仮にいれた。原著では北方官話は黒龍江、吉林、遼寧の旧満洲国領だけ。 A西北官話・・・黄土台地とその西方地域(甘粛、寧夏、陝西、河南、湖北、) B西南官話・・・四川とその近隣地域(四川東部、貴州東部、雲南) C東方官話・・・南京とその周辺(江蘇、安徽、山東) 以上のように分布しているとされる。()内は私の推測である。北方官話がよりオリジナルの満洲語で、他の方言は満洲語が清朝支配以前の土着の言語の訛りで変化したものと私は推定する。フィリピン人のタガログ語訛りの英語が、タガログ語を母語としていた民族が英語を習得したためにできたようなものである。 2.13 支那大陸の言語分布と民族 前項までに見てきた、北京官話と南方中国語諸方言の分布から、民族との関係に映ろう。これまで見てきた言語の地域分布は土着言語の相違を反映しているものと考えられる。また南方言語内の相違は異言語であるが、北京官話内の相違は方言の範囲に止まると記されている。両文献をさらに分析するとさらにこれらの言語分布は歴史的経過を反映していることが分かる。北京官話は満洲語である。「世界のことば」の閩方言の「閩」とは広辞苑によれば、五代の十国の一。後梁の世、王審知が福州を都として建てた国。三代を経て南唐に滅ぼされた。 すると閩は10世紀初頭に福州を都とした国である。福州は現在の福建省の省都である。閩の言語が上海語のルーツとなる。その系統を探るには閩の民族を調べなければならない。いずれにしても漢王朝までの本来の意味での漢族が滅びた以上、これらの言語は古代漢語とは異なる言語であることは間違いない。呉方言の呉とは紀元前2世紀に蘇州を都とする蛮族の国の名称がルーツと中国の諸言語には書かれている。呉にはふたつあり、紀元前5世紀頃の春秋戦国時代に蘇州を都とする国と三国志の呉で南京が首都とある。 いずれも時代は一致しないが、蘇州も南京も上海の近傍で江蘇省南部にある。南京は官話を話すので、上海語圏の蘇州とすれば蛮族と言われた紀元前の春秋戦国時代の呉ということになる。とすれば当時の蛮族の言語、非漢語をルーツとした言語であろう。しかし同じ地域に時代が変わっても同一名の国家があったというのは偶然ではない。 例えば西フランク王国が後のフランスになったのはフランクがフランスの語源になったというべきである。ふたつの呉にもこのような歴史上の関連性があってもおかしくない。すなわち蘇州南京上海あたりの地域は「呉」と称されるべき地域であったのである。その意味でもし中共が分裂していくつかの国家群になったとしたら上海語を話す江蘇省南部の一部と浙江省に「呉共和国」ができてもおかしくはない。同一言語を話す国民国家という観点からは、コミュニケーションその他からもその方が住民にとって幸せである。 広東語は三をサームと読むというから、必ずしも全ての漢字の読みが一音節ではないのではないか。このように漢字の読みの原則も「漢語」の各言語に相違があるのに違いないのである。だから「漢語」には複数の異なる系統の言語の集合である。だから広東語と北京語を比較すれば、南方系と北方系の相違がわかると思うのである。 2.14 支那の言語の現代表記法
北京語広東語などの支那の言語の相違はドイツ語フランス語ほどのヨーロッパ言語の相違があり、方言と呼べるものではないと繰り返し述べた。これについて例証する。「私は日本人です」という言葉を北京語、広東語及び上海語で表記してみる。 @北京語(普通話) ・漢字表記 我是日本人 ・ローマ字表記 Wo shi Ribenren.
A上海語 ・漢字表記 我是日本人 ・ローマ字表記 Gno zhi Zhakbnnin. B広東語 ・漢字表記 我係日本人 ・Ngoh haih Yahtbunyahn. ここでは語順ではなく、発音を見る。漢字表記はほぼ3言語とも同じだが、発音が全く異なることがわかる。確かに漢字は表意文字としてしか機能していないことが分かる。それどころか、「〜である」に相当する漢字も、是と係という二種類の漢字が使われている。これでは漢字は表意の機能さえしていないことになる。もし漢字を廃止してローマ字表記しても3つの言語は機能する。もともと支那における文語は漢文しかなかった。そして漢文は口語の漢字表記ではないと言った。 ほとんどの支那大陸の住人は漢文が読めない。庶民は文字のない話し言葉だけの世界で生きてきた。ほとんどが文盲だったのはこのためてある。気の利いた一部の人が漢字の意味だけを知っていて、少しの字を並べて簡単な表現ができるといった程度であった。 表意文字の原則を通せば、同じ漢字でも言語が違えば発音が違うのは当然である。元々支那の書く言語の発音も、漢字の読みからきているのではないから、ローマ字表記でも間に合う。この点は西洋言語と同じである。支那の言語は漢字漢文とは関係なく発達したから、発音さえ表記できれば良いから、支那の言語の表記には漢字よりローマ字の方が適しているという倒錯したことになる。 一方日本語では多くの言葉を漢字の意味を使って作って取り入れてしまった。日本語の発音は母音も子音も圧倒的に支那やヨーロッパの言語よりも少ないから、漢字の「音読み」から作った日本語の単語の意味は発音だけでは認識しにくい。「貴社の記者が帰社した」というのは下手なジョークではない。従って日本語をローマ字表記すると意味が極めてわかりにくくなる。日本語には漢字仮名交じり表記が適しているのであって、ローマ字表記はなじまない。漢字を廃止した韓国でも同じことになると危惧している日本人識者がいるが、朝鮮語では日本語よりは母音も子音も多い。 したがってハングルによる表音表記は馴染むのかも知れない。ただ漢字ルーツの単語は本来の意味が分からなくなる。しかし実用上は支障ないのであろう。このように「中国語」はむしろローマ字表記が適していることを理解した毛沢東はローマ字表記の運動を始めた。 しかしすぐ気がついたのは、北京語、広東語、上海語などは別言語だということが明瞭になるということである。そしてこれらの言葉には地域性がある。するとこれらの異言語の地域はヨーロッパのように別の民族の別な国家であるべきではないかということになる。中華民族どころか、漢民族というのは複数の民族をまとめて呼称しているに過ぎない、いんちきな民族であることがばれるのだ。ちょうどヨーロッパ人と十ぱ一からげに呼ぶのと同じである。 すぐに毛沢東はローマ字運動を中止した。先の三種類の支那の言語を漢ローマ字表記すると全く別言語だと分かるが、漢字表記だとあたかも同じに見えるのだ。そこで漢字を使う漢民族という空想に戻れる。そしてモンゴルやチベットなどだけは漢民族にあらざる「少数」民族であるということにした。多数派の漢民族にわずかな例外である少数民族を抱えた中華民族という幻想。その幻想を支えたのが漢字である。だから中共政府にはローマ字表記は好ましくない。 しかし実態はローマ字表記の方が、はるかに実態にも合い便利である。従って支那の言語のテキストには発音を表記すると称してローマ字表記が使われている。このローマ字表記は英語などの発音記号とはやや性格が異なり、発音を表すばかりでなくベトナム語のように正規の文字表記となる可能性がある。永い間にローマ字表記が発音記号ではなく、本来の文字表記に移行する可能性すらある。漢字は簡体字を作らなければならないほど不便なものだからである。ローマ字表記は中共を解体する底辺からのきっかけになる。 繰り返すが、日本語の「しあわせ」をsiawaseとローマ字表記しても意味は分かる。ところが漢字から発明した「幸福」をkoufukuとローマ字表記したら、降伏、幸福、降服、口腹などの区別が困難になる。もちろん文脈から分かる可能性はあるのだが、なぜしあわせのことを「こうふく」というのか不明になってしまう。それは「しあわせ」を意味する漢字の幸の支那の読み方のひとつの「音」から借りてきた読み方をしただけだからである。 ところが支那で幸をkouと読むとすれば、支那のある言語でしあわせを意味する言葉をkouと発音していたから、しあわせを意味する漢字の幸をkouと読んだのに過ぎない。漢字がなくてもkouと話せば「しあわせ」の意味は通じていたのである。そして漢字の読みが支那の各言語で全く異なる。幸をどこかの支那の言語でkouと本当に発音するのかは知らない。これは単に例示として言っただけであることを付記する。 日本語では多数の言葉を漢字の意味から合成して、音読みした単語を多数発明してしまって、本来の日本語たるやまとことばの単語よりはるかに流通している。従って現在の日本語の文字表記にこそ漢字は必要である。 ところが支那大陸の言語の漢字表記はもともとの言語の発音に、該当する意味の漢字をあてているに過ぎないから、漢字が消えてローマ字表記となっても何ら支障ない。例えばコンピュータの訳語である「電脳」という言葉は、支那の各言語で発音が異なるのであろう。しかしどの言語で発音しても「電脳」は「電」という意味の単語と「脳」という意味の単語をくっつけたということは明瞭にわかる。だから「電脳」という漢字ではなく、ローマ字だけでも単語の発明者の意図は分かる。 繰り返すが、このように支那の言語の漢字表記に必然性はなく、ローマ字表記でも足りるのである。それならばなぜ漢字表記がなぜまかり通るのか。それは前述のように一面は中共の統一政策、独裁のための政策である。しかしそれを支えているのは圧倒的な文盲の多さであろう。教養のない地方の庶民にまで漢字表記を行きわたれば、漢字表記の不便さがわかり、ローマ字表記の便利さがわかるであろう。漢字の発音はローマ字で表記して教えられるのだから、多くの漢字の上にローマ字も覚えるよりは、いっそローマ字だけでよいということになるであろう。 現に漢字の不便さから簡体字が発明された。だが簡体字は表記の簡素化だけであって、何万という漢字を覚えなくても済むわけではない。これに比べ24文字覚えれば済むローマ字は一般庶民には何と楽なことか。また単音節が多い支那の言語では、ローマ字表記でもさほど長たらしくはならない。なぜ北京官話の文字表記の運動である、白話運動が満洲文字ではなく漢字表記によったのか検討する。辛亥革命をになっていたのは知識人だった。知識人は言語としてはメジャーな北京官話である満洲語を常用していたが、古典の教養として漢字漢文を理解していたのである。 さらに辛亥革命は滅満興漢を標語に行われていた。満洲人王朝打倒後の文字は、満洲文字ではなく漢字でなくてはならないのである。革命同志の言葉が北京語以外にも広東語、上海語と言葉が違っていたからこそ、同志の連帯を作るのは漢字というアイデンティティーしかなかったのである。そして漢字はかつての「漢民族」の古典に使われていたという、いんちきでも都合良い誇りもある。 実際には血統は本来の漢民族とは異なっていてもである。そのことは現代のヨーロッパ人が血統が繋がらない古代ギリシア、ローマの文化文明を自己のものであるかのように誇るのと同じ虚構である。実際には言語風習文化などで満洲人は支那の民族を同化したにもかかわらずである。なぜ満洲語ルーツの北京語が残ったのか。仕方ないであろう。 風習と同じく300年にわたって支配されて言語も同化してしまったのである。既に母語となってしまったのである。なぜ満洲文字が消えて漢字になったのか。それには他の原因もある。満洲文字はモンゴル文字から作られた比較的歴史の浅い文字だからである。もうひとつは清帝国全体としての文盲率の高さである。漢字にしても満洲文字にしてもどのみち識字率は低かった。そこに西洋文明を導入するために漢字による白話運動が起き、広く学校教育が行われた。空白地帯に漢字が流れ込んだのに等しいのである。 2.15 科挙は清帝国全土で行われてはいなかった 科挙は隋の時代に始められた。3章などで述べるように、本来の漢民族が絶滅した時代に始まったのには意味がある。官僚は文章の世界である。文章が書けなければ仕事にならない。支那王朝唯一の書き言葉は漢文である。四書五経の漢文を発明した民族にとって漢文はさほど難しいものではなかったのであろう。あるいは日常的には漢文で表しにくい、複雑な文章を作ることはしなかったのかもしれない。 しかし漢民族は絶滅して外来民族がその言語文化とともに流入定着した。その民族が言語を表記する文字を持たなければ、命令を伝達して支配する手段として漢文は官僚文として必要である。こうして新たに漢文を読み書きできる官僚を育てるために科挙を行わなければならなかったのである。本来の漢民族ではない隋唐以後には、漢文は難しい科挙により育成しなければならなかったのである。あるいは官僚の文章として複雑な文章を頻繁に作らなければならないから、四書五経の古典の学習を必要としたのかもしれない。 ところがモンゴル帝国の元が支配すると科挙を廃止してしまった。それはモンゴル文字を持っていたからだと私は推測する。モンゴル語を全土で使う第一の公用語としたからである。しかし漢文は旧隋王朝あたりの領域、元々漢字しかなかった地域では、第一公用語のモンゴル文字とあわせて、漢字が使われていたのであろう。その証拠に旧隋王朝の領域の支那に土着していた民族が宋を建国すると科挙は復活した。正確には元末からであるが。 すると再び北方から侵入した清帝国の場合はどうだったのだろうか。別項で述べるように、元と同じく満洲人も領土の2元支配を行っていた。英国のヴィクトリア女王がインド皇帝を兼務していたように、モンゴルに対しては大ハーン、支那に対しては清朝皇帝を兼務して君臨していた。従って正確には清朝とは支那だけにおける国号というべきであるが、現在では満洲族の帝国を現す名称が残されていないために、便宜的に清朝と呼ぶしかないのである。 そこでこの項ではモンゴルなどを含む満洲人の帝国を清帝国と呼び、支那に対する支配者としての王朝を清朝と呼ぶことにする。ここで使った「支那」とはどこを指すのであろうか。清帝国は明朝を倒して支那を支配する。支那に対しては明朝を継承したのである。従ってここでは支那は旧明朝の領土と民である。明朝では漢文が公用文として使用されていた。だから公文書に漢文を使うために科挙が行われていた。 さてここで私の仮説に入る。本稿自体が全て仮説と言えるのだから、あらためて宣言することもないかも知れないのだが。清朝で科挙が廃止されずに継続されていたことは知られている。しかしモンゴル、チベット、満洲ではそれぞれの文字があったから漢文の必要はない。 そして琉球貢表が立証しているように、対外的には第一公用語、公用文として満洲語と満洲文字が使用されていた。すると科挙が行われていたのは、漢文が使用されていた地域であり、清朝すなわち旧明朝の領土なのだというのが私の仮説である。それでは明朝の領土とはどの範囲か。 逆に科挙が行われていなかったと考えられる地域を、現在の中共の省などの区分で列挙する。まず旧満州国領、黒龍江、吉林、遼寧の三省である。次に新疆ウイグル、内モンゴル、チベットと青海も明らかに科挙は行われていなかった。河北省も北京の清帝国直轄として行われていなかった可能性が高い。四川、雲南、貴州省もあやしい。清帝国が元帝国と異なり科挙を支那に残したのは、自治の幅が大きかったことの他に、モンゴル文字が比較的古いのに対して満洲文字がモンゴル文字を元に作った新しい文字であったことにもよるようにも思われる。 ちなみに科挙の最高位として皇帝自らが行う殿試があるが、康熙帝伝でも康熙帝は満洲語を話すことができる他、漢文の読み書きができたことが書かれているから、殿試はできたのである。何も試験官は皇帝なのだから、受験者よりも漢文に熟達している必要がないのはもちろんである。 他の項で述べるように当時の読みは既に四書五経が書かれた当時とは別の、切韻と呼ばれる読み方がなされていたから、考えて見ると奇妙なものである。これは類似の読みをする欧州言語ですら、ドイツ語で書かれた文章をフランス語風に読んだら奇妙なことになることを想像していただければわかる。ドイツ語の文をフランス語風に読んだら、ドイツ人が聞いてもフランス人が聞いても意味がわからないのである。 Hitlerはよく知られているようにイットレルと発音する。ドイツ語では逐一発音するのに対してフランス語ではhを発音しないとか、末尾のtを発音しないとか様々な相違があるから、ドイツ語をフランス語風に発音すると滑稽なことになる。科挙はこのように四書五経を作った当時の漢民族が聞いたら笑い出すようなことを大真面目にしていたのである。 康熙帝が漢文を学んだのは価値ある古典としての漢文で書かれた古文書を読むためである。それは現在ではほとんど使われていないラテン語を教養としてヨーロッパ人が学ぶのとよく似ている。ラテン語はローマ帝国の公用語として使われていたが、その後いくつかの異なる言語に分化していって、現在では直系に近いラテン語が使われるのはバチカン市国だけであるといわれる。 現在ではラテン語は学術用語として使われている他、水族館をラテン語の水を意味するaquaからaquariumと造語したように新語を作るのに使われている。イギリス人とローマ帝国の住人とは血統も文化も本来関係がないのにもかかわらずである。これは日本人が特に明治時代に西欧の輸入言語を、漢字を使って造語したのと酷似している。 そして康熙帝などにとっても漢文の古典は異文化であったが普遍的古典として尊重したのである。満洲族にとって漢文は異文化であることは、清帝国では漢文の古典の全てを満洲文字を使った満洲語で翻訳させたことからも証明される。漢文は発生が古く、表意文字という特性のために他の言語の文語に比べると極めて不完全な文章だから、解釈の幅が広く著者の真意を読み取るのが困難であり自ら書くことも困難である。だから科挙という困難な試験があったわけである。 私がなぜ清帝国の全土で科挙が行われていなかったという仮説を強調するのか。それは科挙がチベットなども含めた全土で行われていたと漠然と考えると、既に清帝国の時代に清帝国の全土が漢字文化化されていた、すなわち漢民族化されていたという誤解がされかねないからである。 また支那すなわち清朝は清帝国の一部に過ぎないことを明示したかったのである。あくまでも科挙は清帝国の一部地域の限定版であった。中共がチベットやウイグルなどの旧清帝国の領域を領有するのは単に軍事的暴力のゆえんであって、歴史的正当性のゆえではないというのである。すなわち植民地インドが英本土を呑み込んだようなものである。満洲人は支那人に比べわずかであったから、呑み込まれても仕方ないと言うなかれ。英本土の人口と植民地インドの人口の比率を考えたら、そんな理由は成り立たないことは明瞭である。 2.16 北京語とは支那言語訛りの満洲語である。
2章の最初に述べたように、mandarinは北京官話と訳される。北京官話とは、北京の宮廷で使われる言語の事である。大雑把に言えば、現在の北京語すなわち、支那の標準語は北京官話をアレンジしたものであると言われている。北京官話が宮廷で使われている言葉であるとすれば、最後の北京官話は満洲語である。これまでに論じてきたように、少なくとも康熙帝の時代には宮廷では漢人といえども満洲化して、満洲語を話していた。康熙帝伝の宮中では、使われている言語と言えば満洲語と漢文しか登場しない。漢文とは繰り返し述べたように、四書五経のような書き言葉であり、広東語のような話し言葉とは何の関係もない。そして乾隆帝の時代の公文書は満洲文字を使った満洲語で書かれていた。 さらに難解な漢文の四書五経などの支那の古典は全て満洲語に翻訳されていた。この意味するところは明瞭であろう。現在の北京政府が普及しようと努めている標準語、普通話とは、満洲語を基礎としたものなのである。満洲語を話す漢人が、魯迅などの白話運動によって漢字表記ができるように改良されたものである。この事は日本でも明治期に、二葉亭四迷などによって、これまでの文語体しかなかった文章が、落語などの江戸言葉を基礎として口語文に改良され、これが基になって標準語が出来た経緯と似ている。いや、白話運動とは日本語の口語文成立の過程に触発されたものなのである。 繰り返し述べたように被支配民族は強制であれ自発的であれ、支配民族の言語を習得するものなのである。しかし土着の言語があるから、その言葉は土着言語の訛りがある。例えばフィリピンやパキスタンの英語はフイリピングリッシュとかパキスタングリッシュとか揶揄される。これはフィリピン訛りあるいはパキスタン訛りの英語、と言う意味である。我々が現在中国語と称している支那の標準語とは、支那訛りの満洲語を改良したものなのである。英語で北京官話の事をmandarinと書くのは満の音をなぞったものと私は想像している。 康熙帝以後の北京で満洲語が使われていたことを証明する資料はない。しかし康熙帝時代まで北京を首都として百年近く経つ。このころまでに北京の宮廷では満洲化した漢人が当たり前になるほど、満洲文化は普及したのである。当然満洲化した漢人や宮廷に出入りする漢人によって、これらの満洲文化は周辺地域に広く普及していった。この事は言語ばかりではなく、支那服や京劇が満洲文化オリジナルであることからも証明されるように、満洲化の傾向は康熙帝以後強まる事はあっても弱まる事はないと考えるのが自然である。さらにその後の乾隆帝の時代にも、公文書が満洲語で書かれていた事は「琉球貢表」で証明した。満洲人が漢化したと主張する人に聞きたい。支那服や京劇をあたかも漢民族文化であるごとく主張する現代中国人の倒錯をいかに説明したらいいのか、と。 東洋で英国やフランスの植民地だった地域は言語や文化まで宗主国に染まっていたのと同じことが支那大陸ででも起きていたのである。そう。支那は満洲人の植民地だったのである。孫文らが滅満興漢と叫んだのは、彼らの独立運動である、との意識の表れである。独立を果たしてもインドが公用語として英語を採用しなければならなかったのと同じ事情か中華民国や中共にも起きた。インドやパキスタンあるいはフィリピンではそれぞれ、ヒンズー語やウルドゥー語あるいはタガログ語がメジャーであるとはいえ、多言語国家国家である。そこでどの民族語に属さずに、既に習得もなされている外国語たる英語も共通言語としての公用語に採用されたのである。 このアナロジーが支那大陸でも発生した。漢民族といっぱひとからげにいっても、広東語、上海語といった多言語の地域である。そこで共通語として採用されたのが首都北京周辺で一般化していた支那訛りの満洲語を採用したのである。同時に、孫文などの辛亥革命の指導者はそれこそ満洲文化にどっぷり浸かっていたのである。袁世凱にしても漢人とは言え、清朝の軍人であったから、宮廷に出入りしていたから満洲文化が当然身に付いていたのであろう。同じく支那大陸を支配していたモンゴル人との違いは何か。モンゴル人は帰る土地を持っていたのである。すなわち朱元璋が反乱を起こして、元朝を倒すとハーンはゴビ砂漠の北方に逃げ、そこに王朝を移動した。明朝成立以後でもモンゴルの皇帝のハーンは存在した。モンゴル王朝は支那の支配を止めて故地に帰ったのであって、消滅したわけではなかったのである。 当然北京周辺には、モンゴル化した漢人はいたのであろう。しかし彼らは漢人の報復を恐れて家族ごとモンゴル人について行ったのである。モンゴル化した漢人のモンゴルへの帰属意識がいかに強かったかについては、明朝に投降を呼びかけられた南方の漢民族出身の元朝の軍人の多くが投降を拒否して処刑されたことからも分かる。彼らは南方にいたために皇帝ハーンと共にモンゴルについて行くことが出来なかったのであろう。一方清朝最後の皇帝の愛新覚羅溥儀は袁世凱に騙されて北京の紫禁城に残る道を選んだ。恐らくは故地の満洲の地がロシアに軍事占領されていたり、漢人が入植していたりして、もはや帰るべき土地ではなくなっていたからでもあろう。こうして満洲人は満洲化した漢人に混じって支那北部に土着していった。それがモンゴル語が内モンゴルという一部地域に限定される地方言語になったのとは逆に、標準語として採用されるようになったのは皮肉である。 インドやパキスタンで英語が公用語であるとはいっても、英語が通用するのは首都などの大都市周辺だけである。実際には香港では広東語が話されているように、標準語による統一が成立するとは私は思わない。現に日本で発行されている中国の反体制新聞の「大紀元時報」(平成22年8月12日付け)は、広東語擁護を掲げ市民抗議デモ、という記事を書いている。ここには「広東語は、海外の華僑圏でも広く使われている言語であるとともに、最も古い中国語の要素が残っている方言として、北京語を基礎とした普通話(標準語)が代表する文化とは大きく異なる固有の文化を育んできた」という興味深い記事がある。さらに「彭氏は、普通話は満洲族の言語の影響なども受けた北方方言の一つであるのに対して、広東語は二千数百年前の春秋戦国時代からすでに存在しており、文化的基盤が深淵である上、広東語のほうが真の中原文化を伝える言語であると述べた」と書く。私はこの主張を「普通話は北方方言の影響を受けた満洲族の言語である」とひっくり返しているのである。 大紀元時報の主張はあたかも、たかだか数百年の支配の歴史しかない満洲族の言語文化を拒否しているようではないか。そして滅満興漢の主張のようではないか。話を基に戻すと、支那大陸では二千年続いた北方民族の侵入の繰り返しにも拘わらず、言語の分化は強くなっているように思われるのである。そして北方民族の侵入と土着化による多言語化はむしろ満洲王朝は例外ではなく、多くの異民族王朝の崩壊に伴う一般的な現象なのである。つまり広東語や上海語などのいくつかの言語のうちの多くは、かつて倒れた王朝の民族の残滓である。つまり支那大陸の言語の分布はかなり民族分布を代表していると考えられる。その事はヨーロッパの現在とのアナロジーがある。つまりドイツ語を話すドイツとオーストリーはゲルマン民族であり、フランス人はラテン系の民族であると言ったように、言語と民族の分布には、全くイコールではないにしても相関関係がある。 こう考えると支那大陸に侵入した北方民族の興亡としては、満洲人は標準的な過程を経過したのであって、モンゴル人が例外なのである。現在漢民族と呼ばれる人たちのほとんどは漢字文化を成立させたオリジナルの漢民族からいえば、侵入者たる異民族だったのである。その点で満洲族が漢民族の一部である、と言われるのも逆の意味では当り前であろう。私がオリジナルの漢民族と考えているのは客家と呼ばれる人たちである。しかし客家語は必ずしも広東語など他の言語のようのような明瞭な地域分布がない。あるいは客家と呼ばれて中国各地に分布している場合が多い。つまりオリジナルの漢民族は外来民族に蹂躙されて、大陸の各地に分散したのである。このことは、ユダヤ人と似ているともいえる。外来民族が定住の地を得たのに対して本来土着とも言える民族が定住の地を持てないというのは皮肉である。 ちなみにモンゴル語だけが明瞭に非漢語であるとされるのは単純な理由である。前述のように、ともかくも北方に逃亡して支那大陸以外に民族国家を維持し続けたからである。だから内蒙古と書こうとも、支那にいるモンゴル人はモンゴル人であり漢民族ではない、とされるのである。別項でも述べたように支那大陸の歴史や言語はやはりヨーロッパとのアナロジーで考えるのが正しいのである。 http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub2-2.html 3章 漢民族滅びる
3.1 地形と国家 国境はアフリカのように、植民地の旧宗主国が人工的に分割したのでない限り、山脈や河川により区切られている。日本の江戸時代の藩や現代の県境についても同様である。すなわち藩の境界にしても戦乱を繰り返したことにより確定したものである。天然の障害が、文化的交流を困難にするとともに、戦闘の際に越えがたい障害ともなってそこが妥協点となるからであろう。 今、ヨーロッパの地図を見るとアルプスをはじめとする高山が多い。これに対して歴史的に漢民族が住んでいるとされる地域は、日本よりはるかに広大であるにもかかわらず、三千メートル級の高山は少ないばかりか、山脈と呼ばれるものはあるものの、連続していて障害となると考えられるものは少ない。これがヨーロッパに多数の国民国家が分裂して定着し、支那大陸が多数の国民国家に分裂して定着しない一因を成していると考えられる。同一言語の民族でもドイツとオーストリアが分かれているのも平地の民族と山岳民族という相違があるのであろう。山岳民族は地の利を生かして、平地民族の侵入を防ぐことができる。 フランスとドイツは異言語異民族であって、紛争が起こりやすいのは地形的障害が少ないからであろう。現に第二次大戦の際にドイツ軍は中立国のベルギー経由したのも地形的障害の少なさが電撃作戦を可能にするからである。朝鮮は半島という要因ばかりではなく、チャンパイ山脈などの障害があったことが、属国とは言っても中国に対する文化的独立性維持と異なる国家であることを可能にした。 中国が統一と分裂を繰り返し、適正規模の国民国家に収斂しない不幸の一原因は「漢民族」居住区の平坦な地形にある。軍事技術の優れた周辺の蛮族が中原に侵入して豊かな富を手にすると、漢民族地域ではない周辺地域に一気に膨張した。かえって中原より統一を起こした国家、宋や明にはそのような活力はないから、かつての漢民族地域より大きく拡大することはない。 唐や元、清といった周辺から起こった異民族国家が極端な膨張をして、世界帝国とも言える国家を樹立したのは偶然ではないのである。共産中国は、日本アメリカソ連といった国の軍事技術を利用して膨張し、再び清朝の版図を入手した。地形が中国を不幸にしている。 3.2 異民族の名前
井沢元彦氏が、愛親覚羅という満洲人の姓を説明するのに漢民族に同化したと述べた。これはおかしい。一字の漢字姓にせずして同化したとはいわない。 「東洋史通論」Kに次のような記述がある。 ・・・異民族の侵入を招いた。まず西方の巴族(氏)の李雄が四川の地をとり、帝を称し国を成と号し、ついで山西北部に居住していた南匈奴族の首長で晋軍の将校であった劉淵が、山西南部の平陽によって国を漢(後趙)と号し帝を称した。 まず気付くのは異民族であるにもかかわらず、名前が李雄や劉淵という漢民族風であることだ。実際に彼らが漢民族風の名前であった可能性は低いと考えるのが自然であろう。しかし、中国史に出てくる異民族の名前はほとんど漢民族風の名前で記録されている。これは漢字が表音文字ではないことにひとつの原因がある。 アルファベットやカタカナなら不完全ながら、名前を言語の発音に近く表記できる。ところが漢字は表音文字であるために、音を合わせると奇妙な意味を持つことになる。漢語ではコンピュータを電脳と訳しているが、読みは英語と全く異なる。ややこしいことに漢字は意味を表すのが目的なので、電脳と書いても北京語と広東語では発音が異なる。 中国で有名になったエドガー・スノーなどの西洋人も中国では漢字表記で呼ばれる。これはラフカディオ・ハーンが小泉八雲と自称したのとは少し意味が違う。日本では記録する際に元の名前と日本名を記録することができるが、漢語ではそのようなことは不可能である。あたかも漢民族風の名前をつけて歴史に記録するしかないのである。 文字を持たない民族も漢文で歴史を残すとなるとこのような手法しかないのである。例外はモンゴル族であろう。チンギス・ハーンなどである。これはモンゴル人がモンゴル文字という表音文字を持ち、しかも現在も固有の国家を持っているからと考えられる。満州族も歴史には愛親覚羅溥儀などという漢民族らしからぬ漢字表記が使われている。 だが彼らは本来固有の音の名前を持っていたのに違いないのである。だが満洲文字を失い、自らの固有の国家を失うことによって、漢民族と称される人たちの使う漢字表記に埋没してしまったのである。愛親覚羅溥儀という名前もいつか失われるのかも知れない。いつか溥儀などという名前だけで表記されるのかもしれない。 そのときはあたかも溥が苗字で、儀が名前であるように理解される。このようにして漢文で記録される歴史では、漢民族風の名前で記録されることになる。そして満州族は漢化したなどという虚偽の歴史が語られることになる。漢文で記録された歴史上の異民族が漢民族風の名前で表記されるのは、必ずしも事実を反映しているとは限らないであろう。 なるほど香港出身の中国人も、ジャッキー・チェンなどという西洋風の名前を本名以外に持っている中国人もいる。これは英国統治による影響であろう。それでも漢民族風の名前を失っているわけではない。漢文表記の歴史での人物が、漢民族風の名前を持っていることは必ずしも事実を反映していない。つまり当時そのような名前で呼ばれていたとは限らないのである。 周辺の異民族が支那本土で暮らすうちに漢民族に同化したというのは事実ではない。歴史が漢文で記録されたということに過ぎない。彼らの名前も言葉も風俗も文化も失われたわけではない。むしろ漢字を発明した、本来の意味での漢民族は異民族に埋もれ、事実上絶滅したのに近いといえるのである。 漢以前の記録の支那人の名前と隋唐以後の名前に差異はないか、漢以前は苗字二字以上ではなかったかを確認する必要があろう。現在の漢民族風の名前の付け方は漢王朝成立当時は蛮族と呼ばれていた周辺の異民族の風習ではないかを確認する必要がある。 3.3 清朝皇帝像の謎 私は故宮博物院紫禁城出版社の出している「清代皇帝像」という絵葉書集を持っている。太祖ヌルハチから始まり溥儀で終わる清朝皇帝12人の肖像である。溥儀が写真である他は全て肖像画である。何人かは生存中に描かれ、何人かは没後のものである。ひとつの特徴はこの手の肖像画にありがちな顔つきをそれらしく美男子やら威厳のある顔に変えたという形跡が皆無であることである。ヌルハチは眠そうな細い目をしているし、道光帝は極端に頬のこけた浅黒い逆さラッキョウのような貧相な顔であるし、威豊帝、同治帝は狐のような目つきである。 強いてよく描かれているとすれば、乾隆帝と次の嘉慶帝であろうか。それでも乾隆帝は目の落ち窪んだ様子までリアルに描かれている。とにかく皇帝らしく格好よく見せる誇張の様子が感じられないのである。もう一つの特徴はそれ以前の東洋絵画にあまり見られない写実さである。ヌルハチ像は線描を多用しているものの顔の立体感の表現がある。そして世代を経るに従って線描が徐々に陰を潜め、特に顔の立体感がよく描かれリアルになる。この変化が徐々に起きているところを見ると、生前描いていない像もそれほど後になって描かれていないことが推定される。 有名な若き乾隆帝の馬上の像の乾隆帝大閲図は郎世寧(ジョゼッペ・カスティリオーネ)はイタリア人で有名な馬上の乾隆帝を描いている。帝自身や着衣は写実的だが馬や背景の風景になるとそれ以前の支那の絵画の形式的表現を残しているように思われる。郎世寧は西欧絵画と支那の絵画の融合を図ったとされることが原因であろう。 画家は宮廷おおかえの絵師と説明されているから、絵師は必ずしも郎のような西洋人ばかりではないだろう。先に支那絵画との融合を図ったと書いたが、郎がベースとした支那の絵画は、それまでの支那のより細密で異なると思われる。郎は満洲族の絵画の伝統を引き継いだ可能性がある。 それまでの支那の絵画がお粗末だったとは言わないが、これらの歴代皇帝像は絵具の製造など高度なテクノロジーに支えられているのである。すなわち満洲族が蛮人と呼ばれるような低い文明で、武力だけで支那大陸を支配したという常識は誤りであることを証明する。そして圧倒的少数で最大の版図を築いたのは軍事技術にも優れていたことも証明する。すなわちそれまでの明代の支配者よりも高度な文明を持ったのが満洲族であったのである。 むろんこれらの絵画にそれまでの支那大陸の絵画との共通性があるのは、地域的近親性から不思議ではない。そして満洲族の文明が支那大陸の文明の発展形であったとしても不思議なことではない。現代の文明の覇者である米国の文明にしてもヨーロッパ大陸の発展形であるが、そのことが現代米国の文明の高さを否定するものではない。 米国の優れた軍事技術の多くはヨーロッパ特にドイツの技術の継承である。しかしその上にコンピュータやインターネットと言った独自の技術を生み出した。ハリウッド映画も同様である。もちろんヨーロッパやロシア、日本などの優れている部分もあるが、マクロに見れば米国の優位は疑えない。当時の満洲族あるいは元朝のモンゴル族は世界にそのような地位を占めていたはずである。 それどころか満洲族やモンゴル族は宋や明に侵入する以前から独自の優越した文明を涵養し、その力で宋や明を滅ぼしたのかもしれない。現に支那服や京劇などの中国文化とされるものは明らかに満洲族のオリジナルであり、むしろそれ以前の「漢民族」のオリジナルの文明文化の痕跡は少ないとさえ言える。 3.4 漢民族とは何か 漢民族とは一般には漢字を使う民族であるとされる。考えてみれば、それは他の民族の区分と比較すると実に不思議なことである。ヨーロッパ大陸の民族は東方のキリル文字を使う民族を除けば、皆アルファベットを使用している。だが彼らはアルファベット民族とか、ヨーロッパ民族と呼ばれることはない。 漢字は単に意志の伝達手段としての文字に過ぎない。アルファベットが表音文字としての普遍性を持ち、そのためベトナム語など全くの非ヨーロッパ民族の言語の表記にさえ使われる。同様に漢字も普遍性を持つために、朝鮮や日本などの異民族においても長い間公式文書に用いられてきた。単に表記手段として用いられてきたばかりではない。日本では漢字仮名交じりという簡易表記を発明していたにもかかわらず、公文書としては長く漢文そのものを用いていたのである。にも関わらず日本人や朝鮮人は漢民族とは異なる。漢民族を先のように定義するとこのような矛盾が生じる。 ここでヨーロッパにはアルファベットを共通の文字を使用する、ラテン系、ゲルマン系などという異種の民族がいるということを支那大陸に演繹するとどのようなことになるか。明らかに異民族とされる中国の少数民族、チベット族、モンゴル族など以外にひとくくりされる漢民族とは何者だろうか。漢民族もアルファベットを使うヨーロッパと同様、事実は複数の異民族に分かれていると考えた方が自然である。すなわちフランス語、スペイン語、イタリア語などのラテン系の言語の民族、オーストリア、ドイツなどのゲルマン系の言語を使う民族、オリジナルはゲルマン系の言語である英語を話すイギリスなどと比較するとどのようなことになるか。 漢民族といっても、北京語、上海語、広東語、福建語などの各種の言語がある。これらは一般には漢語の方言とされるが、その際は日本語などの方言と違い、先にあげたヨーロッパ諸民族の言語と同程度の差異があり、他の漢語方言の習得には慣れという程度では間に合わず、語学校に通わなければならないという。あるいはアメリカに居住すればネイティブの漢語ではなく、英語を共通の話し言葉として使用するほうが便利であるという。ヨーロッパの民族構成と言語も歴史の経過により複雑である。同様に複数の言語がある漢民族と呼ばれる集団においても、その民族構成は単純ではあるまい。 そして多数の異民族の侵入と征服、定住や移動という、ヨーロッパ大陸と類似した歴史を持つ支那大陸において、漢民族という単一民族が存在するというのは、むしろ考えにくい。中国人の作家柏楊氏は「醜い中国人」(カッパブックス)で中国では、外部から侵入した民族は定住すると中国の漬物甕文化に溶かされて腐食して異物に変質同化していく、と批判した。 これは倒錯した仮説である。この説によれば中国には古来、漬物甕のような不変のものが元々存在したということになる。つまり文明なり、文化が時間の経過とともに進歩しないで元の姿に戻るということだからだ。昔から不変の文明を持つ漢民族なるものがいて、異民族を同化するということだからだ。はヨーロッパの歴史からわかるように、このようなことはあり得ない。 日本人でさえ狭い地域で、多年かかって多数の民族が日本語という共通言語を醸成して単一民族と言われるに至った。それでも一部の人たちに言わせれば、日本人が単一民族というのは幻想であると言う。まして多数の言語が融合しない漢民族が単一の民族であるというのは、漢字の不可思議さが醸成した壮大なフィクションである。まして先に挙げた多くの漢語と呼ばれるもののうち、漢字で表記することのできるものは、北京語、広東語などごく一部である。また現代の漢民族の大部分は漢文を全く理解できないというに至っては、漢字を使うのが漢民族という定義は意味をなさない。 漢民族とは漢字を使用する民族である。とすれば単に漢字を借用して口語を表記しているだけの現代支那人は漢民族ではない。アルファベットを使用するヨーロッパ人がひとつの民族ではないのと同じである。ヨーロッパ人はギリシア文字から発達したアルファベットを借用しているのに過ぎないのと同様である。またベトナム語が現代ではアルファベットを使用しているのと同じである。アジアとヨーロッパの違いがあるというのは間違いである。ギリシア、ローマはアラビア文化を経由して隔絶している。 3.5 民族名の消えていく支那大陸史 支那大陸の歴史にはヨーロッパの歴史と異なり、固有の民族名というものがめったに登場しない。例外は満州族とモンゴル族だけである。あるいは登場しても瞬時に消え去る。すなわちみな蛮族か漢民族に分けられてしまう。しかも女真族というのが満州族というように勝手に変化するので固有の民族の連続性がわからない。 西洋史のようにアングロサクソンというように継続して存在しない。魏呉蜀などという異民族は後世の漢字名で呼ばれる。するとあたかも漢民族だけが普遍でその他は生まれてすぐ消えるように思わせてしまう。例えば北方の異民族が支那本土に侵入して魏という国を作る。そして周辺の国、呉蜀などと争う時代が来る。 その物語が始まった頃は魏が漢民族ではないなどということは忘れられ、あたかも漢民族の国家の如くなってしまう。中国の王朝は一字の漢字で表されるというのだ。イギリスでケルトが追い出されて別な民族に置き換わったなどというような歴史は支那では書かれない。異民族の侵入にさらされている歴史を繰り返すのに、支那大陸の中原を支配するのは常に漢民族という奇妙な現象となる。 そうではない。支那大陸では各民族は漢民族に同化したのではない。各民族は固有の言語風俗を維持しつつも漢民族を自称するようになったのに過ぎない。この点は各民族の出自を持つ皇帝が異民族を支配統一するのに都合がよかったのかもしれない。いずれにしても歴史が比較的新しい元や清においては満洲族やモンゴル族といった異民族支配の記憶が新しいために、異民族により支配された国家として正しく理解されているのはせめてもの救いである。 モンゴル人は王朝崩壊とともに原郷に帰ったためにモンゴルなる民族名が残った。しかし清王朝は辛亥革命により倒れても、袁世凱にだまされて北京に残り、故地満洲に帰らなかったために、満州族の名前は中共政府により薄められて、漢民族に同化したなどと吹聴されている。事実は満洲語が北京語として支那全土に強制されることにより、支那大陸全土が満洲化されようとしているのだ。 だから多くの異民族、広東、福建、上海などの民族は実は自らの民族言語を放棄せずにしたたかに生きていくであろう。支那大陸ではそのような歴史が繰り返されてきたのだ。だからチベットやウィグルなども含めた、統一中国における中華民族なる概念を創出しようなどという試みは失敗するだろう。いや失敗しなければ大陸住民にとって大いなる損失と不幸を現出する。ソ連ですらロシア人による異民族支配は失敗した。 ここでヨーロッパと比較してみよう。フランス人、ドイツ人は民族名ではない。にもかかわらず、歴史の経過のなかで固有の言語と文化を形成してあたかも一民族であるかのようにして国民国家を形成した。西ヨーロッパの本来の民族名はゲルマン、ラテン、アングロサクソンなどである。 支那においては越人、鮮卑、突厥など中原以外から侵入した民族が定住した。これらの名称は時代により異なる民族を指していることがあるから、ラテン、ゲルマンなどに比べると普遍性は少ないが、ともかくも支那の歴史においてはラテン、ゲルマンに相当する民族名と考えてよい。そして長い歴史の経過の中で広東語、上海語、福建語などの言語に分化するとともに、各々固有の文化を持ち、特定の地域に定住するようになった。例えば広東料理、北京料理など食文化の面でも固有のものに分化している。日本人はこの差異を軽視しすぎるのである。 これらの言語と地域の関係は2章で詳説した。するとフランス人、ドイツ人と呼称するのと同様に、広東人、福建人と呼称することができるのである。さらにいえばヨーロッパとの類推からは広東国、福建国という国民国家が将来形成されても不思議ではないのである。現在の中共は清帝国と同様に多数の異文化地域を強制的に統合し、さらに清帝国でも行わなかったように、中華民族という概念を創出して巨大な国民国家を作ろうとしている。このことは徒労である。モンゴル、チベットはもちろん、「漢民族」が住んでいると言われる地域においてすら、前述のように広東、福建、上海といった異文化が融合せずに対立している。 現在の中共の状況はヨーロッパにあてはめれば、国民国家出現前の神聖ローマ帝国のような統一ヨーロッパ帝国と似ている。本来の意味での漢民族が滅亡した後から現在までの支那大陸の千五百年の歴史は停滞と混乱の歴史であった。しかし停滞の底で秘かに固有の文化を持つ地域に分化して、将来の噴出を待つマグマを形成している。停滞は表面的なものであったのに過ぎないかもしれないのである。この意味でも支那はヨーロッパである。 3.6 満洲化した漢人
日本には、支那大陸には漢民族が定住していて、外来の異民族が支配しても長い間に漢民族に同化されるという定説のごときものがある。例えば、評論家の石平氏は次のように書くP。 大陸の漢民族は、その長い歴史において、侵入してきた外来民族によって支配されたことが何度もあるが、外来民族の建てた政権が崩壊してしまうと、漢民族自体は何も変わらず、そのまま生き延びてきたという実績がある。 しかもその際、変わってしまったのはむしろ支配者としての外来民族の方である。たとえば満州から中国本土に入って清王朝を作った満州族の場合、数百年にわたって漢民族を支配しているうちに、彼ら自身はその文化的純粋さと原初性を失って完全に漢民族に同化されてしまった。気が付いたら、独自の文化を持つ満州族というものはもはや存在しなくなっているのである。 昔から今までずっと漢民族が大陸にいる、という俗説を信じればこの主張は正しいかに聞こえる。だが、論理的に考えれば明らかにおかしい。紀元1世紀前後に漢民族なるものが成立したものとすれば、その時既に、漢民族なるものの、言語、風俗、文化なるものが完全に確立していて、その後全く変化がないのでなければこの説は成立しない。 つまり二千年前に現代と同じ漢民族の文化、風俗、言語を持っていたという奇妙な主張になるのである。そんなことはあり得ないのは普通の頭脳の持ち主なら分かるはずである。この主張は支那人が尚古の精神、すなわち昔の昔の文物や制度を尊ぶことを言うのと類似の主張である。古代には理想が実現されていたというのである。これは幻想であって現実ではない。これが間違いであることを閲していく。 康熙帝伝に次のような記述がある。 「朝廷の尊貴の子供達と韃靼人と『韃靼化した漢人』すなわち韃靼人の麾下に即する漢人の中で、・・・」 (P67)「パルナンは満洲人に仕える奉公人を二種類に分けて、次のように述べている。『これらの公子 (宗室の)たちに仕える奉公人を二種類があります。・・・かれらに賜わる満洲人、もしくは満洲人化した漢人であります。』」 (P182別注) つまり満洲人化した漢民族が満洲貴族に奴婢として使われているという驚くべきことが書かれている。一般には支那大陸の周辺民族は支那に定住することによって漢民族に同化するということが言われる。ところが黄文雄氏は逆に、「華化」は虚構、漢民族の夷化が真実、として漢人がモンゴル、日本、満洲などの風習に容易になじむ例をあげる。康熙帝伝はそれが事実であることをフランス人ブーヴェの証言で証明している。 前述のように、北京語のルーツは満洲語である。すると康熙帝伝の証言を適用すれば、現在、北京語を話す中国人とは満洲人ないしは満洲化した漢人ということになる。ハワイにいる日系二世や三世はほとんど日本語を話せない。特に三世などは全くだめである。だが容貌は全くの日本人である。彼らは日系であるというのは人種上の区別だけで、英語を話しメンタリティーもアメリカ人である。完全にアメリカ化している。日系というのは容貌だけのことである。 同様に満洲人化した漢人とは満洲人に等しい。康熙帝伝でブーヴェが奴婢でも満洲人と満洲化した漢人とを区別しているのは注目される。風俗と言語が満洲化していて外国人にもその区別がつく、という事は恐らく容貌上で区別がつくということしか考えにくい。つまり、同じ東洋人でも日本人とフィリピン人程度の容貌の差異が、当時はまだあったのではなかろうか。現在では同じ満洲語 (北京語)を話すもの同士が混血して区別がつかなくなっているのであろう。つまり北京語を母語として話すひとたちの居住する地域は、満洲人の居住区ということになる。ハワイの日系人と同様に、もとの民族のDNAは関係ないのである。 常識では支那大陸では異民族が侵入して王朝を建てても、長く定住化しているうちに土着の漢民族に同化して漢民族化していく、ということになっている。しかし康熙帝伝の証言は、逆に土着の民族が外来の民族に同化していったことを証明している。これを敷衍すれば、支那大陸の歴史はこのことの繰り返しであったと考えられる。 このように考えると、次のような仮説が成立する。中国には広東語、福建語、上海語など全くことなる言語を話す地域の区別が厳として存在する。歴史のかなたに忘却されているが、これらの地域は周辺から侵入した異民族が支那に王朝を作って、定住していった痕跡なのである。広東、福建、上海などの各地域に居住する漢語系の言語を用いる人たちを、通常、チベット、朝鮮、モンゴルなどのいわゆる少数民族と区別して、漢族と総称しているが、実は漢族などという民族は存在せず、それぞれの言語に対応した民族に分かれているのであろうと考える。 漢語族言語とひとくちで言っても、アルタイ語、タイ語、ベトナム語系など多数の周辺民族の言語の系統に分かれているという。もし漢民族なるものがいて、異民族を同化してしまって漢化しているのなら、全て同一の系統の言語に収斂しなければならない。そうではないのだから、もともと漢民族なるものが中原にいたとしても、結局は地域ごとに異民族に同化されたと考えるのが自然である。 それならばなぜ、分布した民族ごとにヨーロッパのように各々の民族国家を形成するように収斂しなかったかという疑問が残る。そのひとつの回答は、支那大陸ではヨーロッパのような封建制度が発生しなかったということであろう。封建制度とは日本の藩と同じで、統一国家だとしてもその中に、多数の半独立国を持つ、いわば中央集権の逆のいわば拡大した地方自治である。 類似民族ごとに半独立国をある程度束ねて、適正規模の国家を作る。ゲルマン系、ラテン系、アングロサクソン系、ケルト系など。ヨーロッパではさらに同系統の民族も、スペイン、ポルトガルあるいはドイツ、オーストリアなどのように分裂している。ならば中国はなぜ封建制度が出来なかったか。それは支那の統一志向で説明されることが多いように思われる。それならば統一志向がなぜ起こったかということを検討しなければならない。 それは地域の特性の相違に求めなければならない。現在でも支那大陸は地域格差がはなはだしい。上海、北京などで日本にもいないような高収入の者がいる反面、地方では極貧以下としか言えない地域が広がっている。一般には改革開放による外国資本の投資によるものとされている。しかしそれなら投資されるような好環境の地域と、そうでない地域の区別がはじめから存在したはずである。 中原と呼ばれる地域は、もともと天候や運輸などの好条件が揃っていたのではないか。だから古代文明が発生したのである。各地域にそれぞれの個性があり、各々の特性を生かして個々に発展する条件があれば封建制度は成立する。少なくとも地域格差がある程度少なければ、人はその地域で努力して定住する。中国は改革解放以前から移動の自由がない。その当時から放っておけば中原に集まってしまうほどの格差があったからではないか。支那大陸の住民は常に生活に好条件の整った中原を目指した。チベット人ですら北京を占領した。よい生活の出来る場所を目指したのである。 支那大陸の地形的生害の少なさが、それを容易にした面もあろう。これが中国における統一志向の正体ではないか。中原に行ってよい暮らしをしたい。そして中原にいたものを追い出して皇帝一族として居座るのだ。だから各々の地域で安住して封建国家を形成することはない。これがヨーロッパとの相違なのであろう。周辺地域にいるから文化文明が低いということではない。人は条件が悪ければ努力して技術開発する。そして戦争技術に長けた周辺民族が中原をめざすのである。 中央で安定しきって武に衰えた民族を倒す。中原を占拠した支配民族はその地の利を生かし、さらに自らの生存を安定させるために周辺地域を併呑して拡大する。すると力が拡大するから領域も拡大して統一王朝なるものに拡大する。その版図は力次第であろう。中央から追放された民族はどこかに逃れて、一地方民族として存続する。 その分布が現在のような多言語の地域として、例えば広東、福建等として存続している。中国の言語分布はこれほど統一されても混淆することはない。それは異言語すなわち異民族という対応がある程度あるからである。漢民族なるものがあり、異民族を漢化させるのであれば、ひとつの漢語になり、現在のように異なる系統の言語が常に存続するということはあり得ないのである。 中国の統一志向の正体は中央志向ということである。中共政府はそれを知っているのではないか。だから賢くなった政府は国民の移動を制限する。そうしなければ自分たちは滅ぼされてしまう。歴史からそう学んだのではないか。つまり支那大陸は過去の歴史に起きたような分裂をすることはあり得るのであろう。しかしそのことがヨーロッパのような適正規模の国家群に収斂することになるのだろうか。 ソ連はロシア帝国を継承した一種の帝国である。独立国を侵略併合して各共和国群を置く制度をとった。露骨に行われたのは第二次大戦のどさくさにまぎれて行われたバルト三国の併合やフィンランドやポーランド領の一部割譲である。この点は中共が清帝国を継承したのとよく似ている。朝鮮戦争のどさくさにまぎれてチベットを侵略し、最近ではフィリピンなどからスプラトリー諸島の領有を主張して一部を強奪した。 ソ連は崩壊してバルト三国などの多くの独立国が解放された。もし中共が崩壊したら、という仮説はソ連の例とは異なる。ソ連の崩壊はチベットや内モンゴルが独立したようなもので、単なる帝国の崩壊である。中共がヨーロッパのように適正規模の国家群に分裂するという仮説は、現在「漢民族」の居住地域と言われる、広東、福建、江南などの普通の省の地域までが言語風俗などの共通性にあわせて独立するという意味である。 現在のロシア共和国でもチェチェンなどの異民族地域をまだ抱えているが、その事情も中共の「漢民族」地域とは異なる。この地域はロシア共和国とは異なり徹底的に異なる「民族」の地域に等分されている。中共の解体とはこれらの地域毎に分裂するということであって、ご本尊のロシアを残したままチェチェンが独立することとは異なるのである。 3.7 中国文化のルーツ チャイナドレス、京劇、辮髪などはすべて清朝に起源を有する。京劇の化粧は明らかに明や唐、宋の時代とは異なるどぎつい趣味である。このように中国文化と理解している多くのものはほとんどが満州族のものである。そして現在中国古来の文化なり習慣として理解されているもののうち、本稿でいう本来の漢民族すなわち漢王朝以前に遡るものは少ない。有名な纏足は唐末に始まったといわれている。19世紀の支那人の風俗として有名な辮髪は満州族に強制されたものである。 唐の始祖安禄山は父がイラン系ソグド人(胡人)、母がトルコ系突厥人(705〜757)であったというH。そして唐王朝は民族国家ではなく、複合民族国家であるという。すなわち纏足は異文化を受け入れたのである。このことから唐は実は元王朝、清王朝がモンゴルや満州族による多民族国家であったように、それこそアラビア系民族による多民族国家であったということになる。 宦官のルーツではっきりしているのは秦王朝の趙高という者である。趙高は秦王朝の宮廷で権力をふるったとされる。宦官は珍しく漢民族ルーツであった。しかし宦官はそもそも家畜に対する去勢から始まったため、牧畜文化であるという説が強い。従って実は農耕民族であった漢民族のオリジナルではなかったのかも知れない。あるいは秦朝自身も西方から来た遊牧民族であるという説もある。 火薬や印刷技術の発明についても中国人の発明と簡単に言われるが、むしろ異文化交流のなかから生まれたものと言える。支那大陸をヨーロッパに例えたが、これらの支那大陸から生まれた発明を単純に中国人の発明とするのはおかしいのである。現に火薬は元朝のモンゴルで武器として発明されたのである。モンゴルの軍隊が強かったのは、このオリジナルの発明によるのも一因である。何でも中国人の発明とするのは、一部中国人の自尊心を満たすだけで科学技術や文化史研究の観点からは正確ではないと言わざるを得ない。 支那大陸がいかに異民族と言われる征服王朝の影響を絶大に受けているかを示す証拠がある。2章で述べたように中共の言語で北京官話を使う地域は、黒龍江、吉林、遼寧、河北、甘粛、寧夏、陝西、河南、湖北、山西、四川東部、貴州東部、雲南、江蘇、安徽、山東の16省にわたる。人口にいたっては「中共人民」の大多数であるとされる。 北京語のルーツは2章で述べたように満洲語である。だから北京語は旧満州の3省と北京を中心とする北方地域に分布する。複数の異言語からなる「南方諸方言」が北京語とは異なる言語として残ることができたのは、清朝の首都北京からの距離が遠かったためもあろう。 もうひとつ重要なのは、清朝皇帝とは満洲人に対しては「8部族の部族長会議の議長」であり、モンゴル人に対しては「大ハーン」であり、チベット人に対しては「チベット仏教の最高の保護者」、東トルキスタンには「ジューンガル帝国の支配権を受けついた者」、そしていわゆる漢字を使う「漢人」に対しては明朝皇帝の後継の「皇帝」という多元支配をしていたこととも関連するF。それは英国のヴィクトリア女王がインド皇帝としてインドを支配していたのと類似している。すなわち皇帝の直轄地域と漢字を使う人たちの地域は明瞭に分かれていたのである。だから北京の影響力が少なく、距離の遠さとあいまって南方では独自の言語が残存する要因があったのであろう。 距離による中央の影響力の低下という事は、フィリピンでも英語の影響が強いのは首都周辺であり、地方に行くと、多数の言語が依然として残されていて、土着言語の主力であるタガログ語で統一することはできないのと同じ事情であろう。フィリピンでは地方になると英語の影響力が少なく土着言語が残りやすかったのは、アメリカの支配が50年と短かったためもあろう。 それでも満洲語すなわち北京官話の影響は絶大であった。300年の長い支配があったため北京官話は比較的均質であり、4つの方言に分かれているだけだが、南方では6つの異言語が融合せずに残った。もとはいくつかの異言語の言語分布があったにもかかわらず、北京語の影響力で満洲語を基層とする方言という程度の言語差に統一されてしまったのである。方言は50年や100年では定着しないであろう。満洲王朝の影響は300年近くもあったのである。その影響の大きさの証拠が多数の話す「北京語」の均質性である。そのことは南方諸方言の方言とはいえない異言語性と比較すれば明瞭となる。 3.8 被支配民族が支配者の言語風俗を受け入れるのは当然
清朝で満洲語が話され、地元の支那人に定着して行ったということは、考えてみれば自然なことである。満洲人は支配者とはいえ漢民族に対して圧倒的少数だといわれる。しかし、そのことは、言語の影響を及ぼしたか否かということと何の関係もない。欧米の旧植民地では上流階級と知識層は全て旧宗主国の言語を話せる。 しかも植民地に滞在する宗主国の人間は圧倒的少数であった。それにもかかわらず宗主国の言語が植民地に普及したのは、ひとえに支配層の言語だったからである。米国は19世紀末にフィリピンを支配したが第二次大戦後独立するまで、わずか50年しかなかったにもかかわらず、英語はフィリピンの公用語のひとつになったのである。300年近く支配した満州族の言語が普及しないと考えるのがおかしい。満州族の少なさと北京への定住を言うなかれ。モンゴルは北京に定住し、少数であったにもかかわらず、モンゴルの言語風俗は「漢民族」化されなかった。 ただしヨーロッパの植民地において宗主国の言語が残存しているのが、上流階級、知識層であり、首都なり大都会の周辺である。満洲語が北京語として旧満州と北京周辺で話されているのと事情は類似している。皮肉なことに北京政府は、満洲語を全国に普及させようとしているがなかなかそうはいくまい。それならばモンゴル語はどうした、という疑問がわく。モンゴルの支配が終えてから明、清という異言語民族の支配があり、モンゴルは元朝崩壊後祖地に撤退した。モンゴル化した北京の支那人はモンゴル人とともに逃亡したのであろう。ベトナム戦争に負けた南ベトナムの人々の多くがアメリカをはじめとする世界各地に逃避定住したのと似ている。 しかも清朝でもモンゴル地域は支配され、中共時代にもモンゴル地域の半分は支配されたのであった。中国における異言語のひとつモンゴル語はモンゴル支配の残像として残った。満洲語も北京語として残った。満洲語が中国語の一部とされて、モンゴル語が明瞭に支那の言語と異言語とされるのはなぜか。モンゴル人が故地に帰り帝国を残存させたから、モンゴルという名前が支那の外に残ったから、モンゴル語は支那人の支配下にあってもモンゴル語なりモンゴル文化と指摘できるのである。そうすると満州族と同様に唐などの異民族支配時代の民族の言語風俗はどうなったのであろうか。 それは必ず残っているのに違いないのである。すると支那大陸における多くの言語、福建語、上海語、広東語などはかつての支配民族の言語であったのではなかろうか。すなわちこれらの言語を話すのは、かつての支配民族すなわち大陸の東西南北周辺にいた異民族が大陸を支配して、その後別の周辺民族に滅ぼされて残った民族の末裔なのであろう。 漢民族は漢王朝末に戦乱と疫病で民族としてはほぼ絶滅し、その後周辺から乱入したいわゆる蛮族に取って代わられている。すなわち漢民族はこのとき少数民族に転落した。その後は外来民族が支配し、その支配がまた周辺民族に取って代わられるという歴史を繰り返したのである。その結果、次々と各種の言語と風俗が各地に定着したのが現在の支那大陸の民族言語地図である。つまり支那大陸は各種民族の雑居する地域なのである。そして広東語の地域は広東語の地域であるごとく、決して地域が地域外と融合することはない。ヨーロッパの類似で言えば、広東語を話すのは広東族としかいいようがないのである。国民国家が成立するとすれば、広東国としかいいようがないのである。 それらの国が合体して中華人民共和国という帝国を構成している。毛沢東が江南の出身であったように、支配者は各地から競って次々と現れる。漢民族はいない。正確に言えばわずかに客家として残った。これが一つの仮説である。それではなぜ異民族の言語が残存したのであろうか。欧米の言語が東南アジアに残ったのと同じである。かつての支配者の言語であったことと、優れた文明を持っていたと考えられることである。満洲語が北京語として定着したのは長期間支配されていたということで十分である。満洲語は北京官話として地方に派遣された官吏の共通言語としても使われていたから普及しないはずはない。 北京語と広東語との相違は英語とドイツ語、フランス語ほどの大きな相違で、方言といえるものではないといわれる。だがヨーロッパ系のどれかの言語を話す者が、英独仏語を外国語として習得する事は、北京語広東語を習得するよりははるかに容易であろう。だからインド人やフィリピンが英語を習得するよりは、広東語を話す者が、北京語を習得する方が容易である。すなわち「漢民族」が満洲語を習得して満人化することは大いにありうるのである。 満州族の方が文明として優れていたと支那の原住民が考えていた証拠もある。支那服は満洲人の服装である。支那服が衣服として、高度な技術を持って作られているのは明瞭である。京劇も紫禁城の中の文物も満州族のものである。支那人はこれらの文化風俗を中国の文化遺産として誇っている。すなわち優れたものと考えている。これらのものを取り入れた原住民が、満洲語を取り入れるのは当然であり、現在も残存するのは当然であろう。満洲民族が漢民族に同化したのではない。北京語を話す漢民族と自称する人々は満洲民族に同化した人たちである。 そんなに満洲の支配がいやであったのなら、清朝を転覆したときに漢民族の言語風俗を取り戻せばよかったのではないか。それはできないのである。清朝転覆に奔走した孫文ら上流階級、白話運動を行った魯仁ら知識階級は何百年もの満洲人の支配で言語風俗まで完全に満洲化しており、取り戻すべき漢民族文化など既に持たなかったのである。地方の民衆はともかく、高度な知識を持ち学問に優れたもの、あるいは財力のあるもの、すなわち革命の原動力を担うことのできる者ほど満洲化していたのである。ちなみに辮髪は残らなかった。すなわち良いものと悪いものは選別されていたのである。 だから彼らの支那訛りの満洲語を北京語とし、満洲服を支那服と偽り、満洲という単語を駆逐忌避するしか、自らのアイデンティティーを満洲文化と区別することはできなかったのである。漢民族という共通した民族は存在せず、異民族が侵入するたびにそれぞれの地域に定住していった、異民族の複合であると規定すれば、中国人なるものの性格は理解できる。チベット、モンゴルなどの少数民族以外、すなわち漢民族と称される人々は概して、個人主義でエゴが強く、他人を信用せず、血族だけを信用するという、ヨーロッパや日本の現代人にあるまじき性格である。すなわち人間不信の世界である。 大陸の歴史は、常に異民族が侵入して王朝が交替することを繰り返した。元々は多数の民族の集合であり多少の戦乱はあっても、日本では多年の同化混淆の後に安定し一民族として融合する歴史を経過した。支那大陸で繰り返された戦乱は日本の戦国時代の比ではない。社会は安定する前にすぐに壊される、賽の河原の歴史を繰り返している。社会のルール、共通した常識やモラルというものが熟成されることがなかったのである。すなわち社会に埋没して安心して暮らせる社会が決してできることがなかったのである。もし漢民族という共通したアイデンティティーがあるならば、このような不幸な社会になるはずがないのである。 せめて広東語、福建語といった共通言語を話す社会の中だけで排他的に安定する社会を作ることができたなら、そのようなことはなかったであろう。共通言語を話す民族同士でも戦乱と統一の繰り返しの中で、共通したアイデンティティーを持つことが妨害された。だから他人を信用せず、血族だけに頼るという事が不幸な「漢民族」の唯一のアイデンティティーとなってしまったのである。彼らが安定した社会を構成するには言語風俗を共通する人々だけで個別の国民国家を構成するしかないのであろう。 しかし長い支那大陸の歴史を閲する限り、分裂したところでそこで安定することがなく、再び統一するといった歴史を繰り返している。すなわちヨーロッパのように国民国家を形成する方向に収斂するということはないように思われる。それならば、唯一あるべき姿は、いわゆる漢民族と自称する人たちの地域と、チベット、内モンゴル、ウイグルなどの非漢民族の地域を分離し、後者がいくつかの独立国となることである。自称「漢民族」の地域は勝手に戦乱と統一を繰り返していればいいと思うのである。 3.9 漢民族滅びる
杉山徹宗氏は次のように書くI。 時代は下がるが、特に三国時代 (三世紀)の末期、蒙彊の諸民族やチベット族が大挙して漢民族居住地に侵入し、いわゆる五胡十六国時代(四世紀から五世紀ごろ)を現出させるが、これによって、それまでの漢民族という人種をほぼ絶滅させ、異民族との混血による新たな漢民族を出現させたことは特筆すべきことであった。したがって隋(五八一〜六一九年)から始まる現在の中国人は、新種とも言うべき漢民族なのである。 これは驚くべき記述である。秦の始皇帝や孔子といった人たちが活躍し、漢字を発明した時代の漢民族は隋成立以前に滅んで、もはやいないというのである。なるほど中国には孔子の何代目と主張する中国人はいる。雪舟の息子が英国に行き、現地で英国人と結婚したとする。そのようにして英国で代々結婚を繰り返して残った人がいて、一方で本国の日本民族が絶滅したとする。すると英国に行った人の末裔が雪舟の子孫だと主張することは勝手だが、民族としての連続性から考えれば何の意味もないのである。紅毛碧眼で日本語を完全に忘れ、風俗文化も継承しないそのような日本人の末裔が、日本人の子孫であると主張することに何の意味もない。孔子の末裔とはこのようなものであろうと想像する。 「東洋史通論」Kには次のような記述がある。 五胡とは匈奴、羯、鮮卑、氏、羌の五つの異民族のことで、これらは西晋の衰亡に乗じて華北に侵入し各々国をたてて互いに抗争し約百三十年間に前後十八国(国名は略)の興亡を見た。その中、西燕は存立期間がきわめて短いために、また後魏(北魏)はのち諸国を平定して江北を統一したので、この二国を除き他の国々を五胡十六国と称する。ただし前涼と西涼、北燕は漢族である。 これは五胡十六国時代の説明である。18国あったうちのわずか3国が漢族であり、残りは漢民族以外の異民族だと言うのだ。その上、これら諸国を異民族の後魏という国が平定して、江北を統一したということなのである。ここにも漢民族の国家が滅びたことが書かれている。通論は杉山氏の著書と異なり定説をのせた教科書的なものである。通論には滅んだ漢民族国家の民はどうしたかと言えば、大量に南下して漢文化の南方への移植を果たしたとある。元来、揚子江流域は開発は進まず、土地は肥沃であったが農耕生産も少なかった、とある。 農耕生産がすくなければ、当然人口は希薄であったに違いない。そして漢文化が南下したということは、当時の揚子江流域には漢文化はなかった、すなわち漢民族はいなかったということである。地図を見るに揚子江は河口付近が平地であるだけで、すぐ上流と揚子江南部は山地であり黄河周辺とは地形が異なり人口が少なかったと想像される。 そして別項で述べるように、このころ南下したのは最初の「客家」と呼ばれる人たちである。そして客家は移住先に混じることなく、独自の文化を維持していたというのは定説である。つまり南部に新たに漢民族国家を形成することはなかった。つまり杉山徹宗氏の言う、漢民族も漢民族国家も絶滅したというのは正しいといえよう。漢民族は隋帝国以前に絶滅したということは、歴史を考える上で重大な事実である。漢字と古代中国文明を発明したあの漢民族は単に消えてしまったのか。その答えは次章にある。 中原にいた本来の漢民族は五胡十六国の時代を経て、彼らの言う夷狄により滅ぼされて言語も文化も異なる北方系の新しい王朝、隋唐の時代となる。正確に言えば秦自体の出自も地理的に言えば、春秋戦国時代にかつての周の西の外れにあったから、夷狄というべき西戎出身といわれる。いずれにしても殷周の時代あるいは秦漢の時代に中原を支配した民族を漢民族とすれば、その後漢民族は絶滅して新しい文化に置き換わった。かろうじて残ったのは漢字だけである。この経緯はギリシアローマが滅びて、彼らの文字の発展形であるアルファベットだけが残って西欧近代世界となった経緯とも類似点がある。現在のイタリア人もギリシア人も古代ギリシアローマの末裔ではない。 ちなみに古代ローマの末裔を主張しているのは文字通り現在のルーマニア、すなわちローメニアンである。宋の時代とて支那大陸に外から定住した非漢民族が前王朝を倒したに過ぎない。大事な点は、これらの非漢民族は支那で漢民族の言語風習を受け入れて漢化したのではないということである。漢民族は滅びて言語も風俗も絶えたのであるから。これらの民族は自らの言語風俗を維持したのは当然のことである。 四書五経の読み方は、作成された当時の漢民族の読み方から切韻というアルタイ語系の読み方に変わっている。これは英語の文章を勝手にドイツ語読みしたりフランス語読みするのに等しい暴挙である。風俗風習も同様で、隋唐以後は非漢民族の各種の民族が入れ替わり立ち代り支配するたびに、彼ら自身の風俗風習を維持し定住していった。 彼らは決して秦漢当時の言語風習を取り入れて漢化するなどということはなかったのである。こうして中国には各種の民族分布が出来上がっていく。モンゴルに支配された支那大陸はモンゴルが故地に帰ると、支那大陸に定住していたどれかの民族が有力となって、支那大陸を支配する。これが明王朝である。これを異民族を漢民族が追放したなどというのは間違いである。モンゴルにとって替わったのが滅びた漢民族でありうるはずがない。それは秦漢の時代に北狄、南蛮、西戎、東夷と呼ばれた民族が漢民族を滅ぼして中原と大陸を支配して定住したなれの果てである。漢民族の復興などというのは、支那大陸を支配するものの正統の象徴であって事実ではない。 我こそ漢民族の復興をなしたる者なるぞ。我が支配に従えというときのせりふである。だから歴史書は支配民族の出自を漢民族と偽って書かされるというのは既に常識である。あれだけ民族の支配被支配が繰り返された支那大陸で、常に不変の漢民族がいて周囲の異民族が漢化されるというのは、ヨーロッパ史のアナロジーからもあまりに馬鹿げている。第一蛮族に滅ぼされるのは蛮族が、野蛮どころか実は文明文化が優れていたからである。現在の米国は軍事力でもテクノロジーでも、文化でも世界を席巻している。テクノロジーが優れているから軍事力が優れ、テクノロジーが優れているから、それにより新しい文化を生むことができる。ハリウッド映画の特殊撮影はテクノロジーに支えられている。 王朝を倒したのは、倒した民族が優れたテクノロジーに支えられた軍事力があったからである。現に「漢民族」は征服者たる満洲族の民族衣装を支那服として取り入れてしまい、京劇として喜んでいる。征服者は優れているから征服者であった。2章でフランク王国とフランスの関係が支那史で関連のない王朝とされるふたつの呉王朝にもあるはずだと書いた。このような整理を行っていくと、支那大陸史は実はヨーロッパのような民族の離合集散が行われていることが発見されるはずである。 このような整理を阻んでいるのは支那史における統一願望である。大帝国とされる唐、元、清にしても統一が保たれているのは建前の期間の半分にも満たない。そう考えれば統一されていた期間は十分の一にも満たないだろう。統一は願望であっても例外であった。そして統一といっても現在の世界各地で見られるような国民国家の統一とは全く異なる。 元朝を例に取る。フビライハーンの帝国は元朝というから誤解される。フビライはモンゴルの元首である大ハーンである。そして支那の元朝の皇帝であり、チベットではダライ・ラマの庇護者として支配といった具合である。それぞれの領域に対して各々の伝統的支配形態をそのままにした君主として君臨したのである。このときの元朝の領域とは、2章で説明した南方方言の使われる地域と北方では河北、河南、山東、山西、江蘇あたりの各省の領域に限られる。そしてここに住む支那人は他の地域に住んではならないのであった。すなわち異国だからである。 さらに支那人の居住域ですら各地では言語が違う。言語が違うまま保持されるということはこれらの地域内の交流はなかったということである。モンゴルの帝国はこのような程度のものであった。さらに漢にしても隋唐にしても似たようなものであったし、各帝国が興ってから滅びる間の大部分は名目上も統一されていなかった。このように支那大陸の統一とは願望であって実態ではない。また2章のような現在の言語分布を考えると、奇妙なことがわかる。客家語は別かもしれないが、南方方言の地域は6つの互いに通じない異言語地域に分かれている。しかし北方方言の地域では地域内の言語の相違が希薄で、互いに何とか通じる範囲であるというのだ。 この明白に区分された南北の相違になぜ疑問を持つ人がいないのだろうか。この区分を地図にしたものを見ると実に不自然である。北方は北京官話で統一されているのに、南方は互いに通じない言語地域に細分化されている。これが奇妙でなければ奇妙なことはない。北方の北京官話の地域とは満洲と首都北京の周辺が主である。北京官話とは満洲人の王朝で話されていた言葉である。そして宮廷には多数の満洲化された漢人がいると書いたことを思い出して欲しい。 ハワイ旅行に行ったときに日系人のみやげもの売り場に若い日系人の若者がいた。普通に英語を話すが日本語は全くの片言。日本語で書かれたパンフレットを見せると漢字が面白いからくれないかといわれた。だが読めないのである。しかし容貌は全くの日本人だから日系人同士で結婚した何世かであろう。白人と混血してはいないから血統は完全な日本人である。しかしこの人は民族としては日本人ではないとしかいいようがない。言語も風俗も完全に米国化したのである。康熙帝伝でいう満洲化した漢人というのはこのような人たちであろう。 すなわち首都近辺の満洲人の支配力の強い地域では土着の支那人−漢民族ではなく、かつて北方西方から来て定住した、鮮卑トルコ系などの人たち−は競って満洲化した。元の出自が各種あり、地域の隔離があるから必然的に方言が生起する。しかし宮廷の満洲人やそのとりまきと交流するから、言語と文化は一定の範囲に収斂する。互いに通じなければならないからである。このように満洲と満洲王朝の影響力の強い地域では、三百年の間に満洲化する。三百年は長い。彼らは満洲人の支那服を着る。満洲人の北京官話を話す。満洲人の京劇を演じ、鑑賞する。血統から言える満洲人がどれ位いるかは問題ではない。中共建国直後満洲族は2〜3百万人と言われた。 それが満洲人を名乗ってもバッシングされないと分かると突然満洲人は一千万人を超えた。しかし彼らは言語風俗も漢民族と区別がつかないといわれる。そうではない北方の地域が満洲化したのだ。聞きたい。言語風俗のどこに孔子孟子の時代の漢民族の痕跡があるというのだ。すなわち現在、北京官話を話す人たちは満洲人である。南方の人たちは、はなから漢民族ではない。一部はベトナムなどの東南アジア系であろう。このことは言語にも証拠がある。繰り返して言う。漢民族は二千年近くの昔に滅びていない。四書五経を作った漢民族はいない。 「世界の言葉」Gは「現在の中国語の南方諸方言の基層に東南アジアや南島語の要素があることを指摘する学者が間々ある。その説に従えば、かつてこのあたりに住んでいた非漢族が後に漢語を習得した結果できあがったのがこれら南方方言ということになる。」と書く。これは筆者の意図とは反してこれら南方方言を話す人たちは漢民族ではないということを言っている。そもそも言語の基層が漢語ではないのに、なぜ漢語を習得したと言えるのだろう。この本の筆者は牢固として中国に入ったら言語は漢語に支配されると信じている。しかしこれらの言語は南方民族が自らの言語を発展させた結果に過ぎない。 例えば英語である。英語は古ドイツ語から発展したものである。言語の基層はドイツ語である。これはドイツ語と英語を比較することによって、両方の言語の理解に役に立つとされていることからもわかる。しかし英語は徹底的にフランス語の影響も受けている。英単語の60%までもがフランス語ルーツであるといわれている。これほどの影響を受けても文法の基本はドイツ語である。すなわち英語の基層はドイツ語にあるといえる。つまり言語の基層は失われないのである。 この地域は中原ではない。漢語ははなからないのである。別項で述べたように漢語を話す客家は北方から逃げてきて、土着民とは混淆していないのだ。そして2章で述べたように客家語は広東福建江西の各省にまたがる地域にわずかに存在するに過ぎない。これがオリジナルの南方語を大きく変容する影響があるとは考えられない。南方方言を話す民族は北方と同じく漢民族ではなく、東南アジア系であると断定せざるを得ない。この地域でも漢民族は存在しないのである。 3.10 軍管区と言語と中共の分裂 週刊誌・サンデー毎日の平成18年10月29日号の北朝鮮の核実験による金正日体制崩壊特集に面白い記事がある。金正日体制が崩壊した場合、中国は緩衝地帯を失いその影響で中国も分裂してしまうだろうというものである。分裂は人民解放軍の7つの軍管区の管轄に分裂するだろうというものである。軍管区は現在軍閥化して半独立国家になっていると言われるから、荒唐無稽なことではない。天安門事件の際も国際社会は各軍管区がどう動くかを注目したが、結局北京政府に従った。もしかすると北京以外の軍管区が離反して中国が分裂するのではないかと疑ったのである。 ちなみに中国における軍閥とは戦前の日本軍を指して言う軍閥とは意味が異なる。中国の軍閥とは頭目が私兵を雇用して、軍事ばかりではなく農耕など全生活にわたって一体化して共同体もしくは半独立国家化したものである。戦前の支那大陸は実際には多数の軍閥が群雄割拠する社会であった。蒋介石も毛沢東も張作霖も実態は軍閥の頭目であった。 蒋介石は英米から金をもらい私腹を肥やし、毛沢東はモスクワの指示で動く傀儡であったし、張作霖は日本の支援を受けて利用されていた。軍閥は戦争などで略奪して子分を養う、日本で言えば強盗集団であり、良くて戦国武将である。支那軍閥の様子はパール・バックの「大地」に描かれている。だが軍閥が分裂して独立するためには、言語との関係をチェックしなければならない。軍管区に異言語があまり混在するようでは、独立の条件としては厳しいからである。独立後、国内に複数の対等の勢力を持つ民族が並立するのは困難だからである。 2章では北京官話の分布を次のように推定した。 @北方官話・・・東北部すなわち旧満洲と北方(黒龍江、吉林、遼寧、河北) A西北官話・・・黄土台地とその西方地域(甘粛、寧夏、陝西、河南、湖北、山西) B西南官話・・・四川とその近隣地域(四川東部、貴州東部、雲南) C東方官話・・・南京とその周辺(江蘇、安徽、山東) 一方「中国人民解放軍」Lによれば、中共の人民解放軍の軍管区は @瀋陽軍管区・・・黒竜江省、吉林省、遼寧省 A北京軍管区・・・北京、天津、河北、山西省、内モンゴル B済南軍管区・・・河南省、山東省 C南京軍管区・・・上海、浙江省、江蘇省、福建省、安徽省、江西省 D広州軍管区・・・湖北省、湖南省、広東省、広西省、海南島 E蘭州軍管区・・・陝西省、甘粛省、寧夏省、青海省、新疆ウイグル F成都軍管区・・・四川省、雲南省、貴州省、チベット 軍管区の区分で注目されるのは、となりに本国というべきモンゴルがあり、独立志向の強い内モンゴルが中共政府の直轄というべき北京軍管区に入れられて監視されていること、独立地域というべき広大な新疆ウイグルとチベットが単独の軍管区を構成せずに、他の軍管区に入れられて、これも監視されていることである。 軍管区と言語の分布との比較でひとつの特徴は、2章で説明した漢語と呼ばれる言語のうち、北京語を除いた、南方中国語諸方言と呼ばれている6種類の言語、呉方言(上海語)、閩方言(福建語)、粤方言(広東語)、客家方言(客家語)、韓(字見つからず、仮字)方言、湘方言は、広州軍管区と南京軍管区に完全に包括されていて、軍管区の方がやや広い さらに詳細に見ると、海南島を例外とすれば、広州軍管区は広東語と湘方言の分布地域であり、南京軍管区には福建語、上海語、韓方言が含まれる。この境界は比較的明瞭である。客家語は両軍管区の中央にまたがって分布しているが、2章で述べたように客家語は土地との結びつきがやや薄いことを考えれば、客家語は例外と考えるべきであろう。 軍管区独立説との関係を見よう。新疆ウイグル、チベット、青海省と四川省西部、雲南州西部などの北京語でも南方中国語諸方言でもない、いわゆる非漢語の地域は、軍管区とは関係なく各々別途独立すべきものと考える。残りの北京語を使う軍管区では、旧満洲の黒竜江省、吉林省、遼寧省の軍管区は他の軍管区と隔離されていること、方言としてもまとまりがあること、旧満州であることを考慮すると、これも分離独立する要素があると考えられる。 さらに残った北京語を話す軍管区では方言という程度の差なので、長い間に軍閥としての軍管区内の結びつきが強くなっていれば、方言の区分ではなく軍管区での区分で独立する要素があるというのはおかしな話しではない。 南方方言の2軍管区は軍管区内での言語の差異が大きいと考えられるので、軍閥としての軍管区内のまとまりが、言語の差異を超えることができるかにかかっている。このように考えると、中共の軍管区による独立説は荒唐無稽とは言えない。中共の分裂は歴史のあるべき姿としてのヨーロッパ化である。しかし多くの暴動が現在でも起こっていることを考慮しても、中共が近いうちに分裂するという徴候があるとは私には考えられない。 中共の分裂は「あるべき姿」と書いたように、私の願望である。ソ連の場合にも私は同じ願望を抱いた。バルト三国などは明らかに第二次大戦のどさくさにまぎれて侵略されたのだし、ウクライナなどは明らかにロシアではない。だからいつか分離独立すべきだと考えた。ただ私が生きている間には到底あるまいと考えた点と、あそこまで多数の共和国が短期間に一気に分離独立した事は予想もできなかった。 中共の分裂の願望もそう簡単には成立しまい。歴史的に見て支那の元、清といった征服王朝は300年近く支配を続けた。まだ中共の帝国は60年程度の歴史しかない。歴代王朝の転覆は内部崩壊の場合には白蓮教などと呼ばれる民間の秘密結社の反乱であった。しかし当時と比べると武器の発展が著しく、政府軍の持つ武器と民間の武器の格差が著しい。 戦車や爆撃機の前に民間のライフルは無力である。実は秘密結社ともいわれる法輪功は簡単に弾圧されたではないか。軍管区分裂説の背景にはこのような武器の発展がある。軍管区は戦車どころか核兵器も持つから、軍管区が独立の意志を持つときは中共政府に対抗できる。民間による反体制運動より軍管区独立説の方が現実味はある。それどころか内モンゴルという内敵を抱える北京政府直轄の北京軍管区は、内部に反対勢力を抱える不安定勢力である。ただし現在の各軍管区には分離独立の動機が見当たらないのである。 しかしいつの日か中共は分裂する。その日を私は見ることはできない。しかし中共の分裂は歴史の予言するところである。しかし分裂が従来の歴史的パターンと異なり、ヨーロッパのような国民国家化として定着すべきであると考える。従来の弾圧と搾取と反乱の繰り返しから脱却し住民が真の幸福を得られる唯一の条件だからである。それはひとえに言語の問題にかかっている。 http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub2-3.html 4章 漢民族の末裔 4.1 漢民族の末裔 「客家」は広辞苑によれば、 中国の広東省を中心に東南部の諸省において、かつて華北から南下移住してきた漢民族の子孫として、原住民とは区別されてきた集団。独特の風俗を保ち、言語も独特の方言をなす。 とある。この説明も注意して読めば、現在の常識からは実に奇妙であることがわかる。現在の常識では広東省にいる人々は漢民族そのもののはずである。ところがこの説明では漢民族とは異なる原住民がいたというのである。そして華北から来た漢民族は、「原住民とは区別されてきた集団である。 独特の風俗を保ち、言語も独特の方言」を持ち続けたということだから、原住民と同化せず原住民も漢民族に同化せずに区別されて現在もそれを維持していると言っているのだ。それならば漢民族である客家とは現在でも異なる言語、風俗を持つ広東省の人たちは漢民族ではないという奇妙なことになる。 「日本大百科全書」(小学館1995年)によれば客家とは、 「原郷は黄河中流域の中原地方であることが知られる。紀元4世紀、東晋の時代以後、五胡乱華によって第一回の南渡を経験して以来、十九世紀後半の清朝同治年間まで五回(説によっては三回)南下移民を余儀なくされたとされる。」 とある。五胡の乱華とは五胡十六国の時代のことである。漢王朝が北方民族に滅ぼされて乱れた時代のことである。このとき南下したのは、間違いなく漢王朝支配下の民族、すなわち漢民族のことである。その後数回に渡って南下したのは純粋に近いのか、北方民族と混血、文化も混淆したのかは不明である。いずれにしても黄河中流の中原を原郷としたということは、漢民族の正統であると主張していることを示している。 「世界大百科事典」(平凡社2005年)によれば客家とは 「・・・独立心に富み団結力が強くて簡単に土着民と融和せず・・・もっとも代表的な客家語は、広東語と古い中原地方の漢語との2要素からなっている。」 とある。一方で中原とは広辞苑によれば、現在の河南、山東、山西の大部分と河北、陝西の一部の地域であるという。実はこれは実在が証明されている最古の支那王朝の殷の領域に等しい。漢民族とは殷、周、秦、漢の4王朝に渡る期間に熟成された民族で、最後の漢王朝の名をとったものと考えられる。周の領域も殷と重なって中原である。そして秦は戦国時代に周の一部、現在の河南あたりの領域を支配していた。 秦の始皇帝の焚書坑儒は悪虐で有名だが、これは漢文の表記方法が各流派に分裂していたものを統一するために、始皇帝が決めた流派以外のものを処分したというのが一方の真相だという説がある。すると漢字漢文はこの時代に完成したことになる。秦は数十年しか続かないからこの成果は漢王朝にすぐに引き継がれる。だから漢字漢文漢民族というわけである。歴史上の支那の初の王朝ではないが、秦は初の中国「統一王朝」とも呼ばれる。 それは現在のウィグル、チベット、四川、雲南、内モンゴル、甘粛などの諸省を除いた本来の支那本土を支配した初めての王朝であるということを意味している。すなわち漢民族の本土中原から一挙に支配を拡大したということである。しかし秦は現在のベトナム北部も支配していることになっており、ベトナムは明らかに言語文字なども明らかに異民族であり漢民族と同化していないことからもわかるように、これらの支配の拡大は中原の漢民族による異民族支配すなわち植民地に等しかったのである。そうでなければ広辞苑のように広東省に原住民がいて客家は独特の風俗を保ったということにはならない。 さてこれらの知識と先の3種類の辞書の表現を総合する。大雑把に言うと客家は漢王朝が滅びて五胡十六国の時代となると大挙して広東の方面に逃げて独特の風俗を保つ客家となった。漢民族は中原から追放されて滅びた。三国時代(三世紀)末にモンゴルやウィグル、チベットなどの民族が侵入して五胡十六国の時代となり、漢民族なるものは戦乱と飢餓で数千万の人口が数百万に激減した。これは事実上の民族の滅亡である。 五胡十六国の時代の18ヶ国のうち漢民族は3国に過ぎないといわれている。そして大多数は南方に逃亡した。中原に残った漢族はモンゴルやウィグル、チベットなどの異民族に吸収された。すなわち本来の漢民族としてかろうじて残ったのは客家である。正統の漢民族といえる資格のあるのは客家である。 これは知る限り誰もとなえたことのない私の仮説である。常識はずれの仮説であるとは百も承知している。だが論理的にはそう結論せざるを得ない。客家語とは漢時代の本来の漢語を基層として広東訛りの混じった言語のことであろう。漢民族の末裔は客家である。客家が独特の言語と風俗を維持したのは、中原の文明の始祖という誇りなのであろうと思う。他の支那大陸の諸民族は北方、南方あるいは西方から来た蛮族の末裔であると。 客家語とは地域との関係が、他のいわゆる中国語と異なる。例えば、北京、広東、上海、福建の各言語が主に使われている地域に定着しているから、言語の名称も地域名を使っているのに対して、客家語だけが客家というグループに使われていて、地域の名称を言語名に使っていない。そして客家は定住する地域を持たない。この点で客家はユダヤ人と似ていると言えなくもない。中原を追われ、かといってどこにまとまって定住するでもなく、新しく国を作るでもない流浪の民。 華僑の多くは客家出身であるという。華僑は世界各地に商売をしに散っていった。この点でも客家はユダヤ人と似ている。想像をたくましくすれば、ユダヤ人がパレスチナの地をあくまでも原郷としてこだわったように、客家は中原の地にこだわっているのではあるまいか。 私は客家を漢民族の末裔だと書いたのが奇矯な論理でないことを強調したい。通説に従っても、どれも客家は漢民族の発生した中原から北方の異民族に追放されて南方に逃げ、南方の土着民と混淆せず、独自の言語風俗を保ったと記している。それは単純に客家はオリジナル漢民族そのものの末裔だということではないか。 ただし前出の世界百科事典にも記されているように、客家が中原から南下した時期は漢末ばかりではない。Wikipediaにも客家は「・・・唐から元のころに華北から移住してきた人々の子孫・・・」と書かれている。五胡十六国の時代で支那の民族が断絶しているとすれば、唐から元のころに南下した客家は別系統である。すなわち客家全てがオリジナル漢民族の末裔とは限らないということになる。してみると客家とは、中原から逃避していった流浪の民の総称であろう。 4.2 その他の民族のルーツ Wikipediaによれば福建語は発声、語彙、文法の面で古中国語の残存が見られるという。しかし2章で述べたように、福建語の発音は古中国語といっても隋唐代のものであって、それ以前のものではない。そしてWikipediaにはかつて中原にいた漢族が南遷したため、その時代の中国語が中国南部や海外に残されたものだと推定している。しかし前述のように正確にはオリジナルの漢族ではなく、中原を一時期支配した隋唐の鮮卑族系の人たちのはずである。 Wikipediaによれば広東語は韻母のタイ語やチワン語などと共通する特徴があり、もともとはタイ語系の基層に古中国語がかぶさってできた言語であると推定している。そしてチワン語自体はタイ語と深い関係があり、雲南省、貴州省、広西省、ベトナム北部に住むチワン族の言語であるという。 広東語自体は文字通り広東省を中心に分布する言語だから、広東語、チワン語の分布は支那言語の最南端に属する地域に分布していることから、これらを話す民族は中原から来た満洲族、鮮卑、漢族などの人々でもなく、南方から来た民族であろう。そして福建語や広東語に代表されるように、これらの民族は元の言語風俗を維持して定住している。つまり支那大陸における言語の分布は民族の分布地図となっていると考えられる。 4.3 近代支那の指導者のルーツ
滅満興漢といわれるように、清朝崩壊以後は漢民族であると単純に考えられている。だが以上閲したように事はそれほど単純ではない。そこで清朝滅亡以後の指導者の出身地を確認してみよう。出典は「世界政治家人名事典」・日外アソシエーツ刊(亀戸図書館)である。また地域から言語も推定した。 @清朝末 康有為・・・広東省南海県、広東語または客家語
A国民党時代 孫文・・・広東省中山県、広東語または客家語・・・Wikipediaによれば客家 袁世凱・・・河南省項城県、北京官話 汪兆銘・・・広東省番禺県、広東語または客家語 蒋介石・・・浙江省奉化県、上海語 B共産党時代 毛沢東・・・湖南省、湘方言 林彪・・・湖北省黄岡県、北京官話 劉少奇・・・湖南省寧南県、湘方言 華国鋒・・・山西省交城、北京官話 ケ小平・・・四川省交安県、北京官話・・・Wikipediaによれば客家 胡耀邦・・・湖南省、湘方言 江沢民・・・江蘇省揚州、上海語 胡錦濤・・・上海、上海語 指導者はトップ以外にも思いつくまま無作為に選んだが、この分布には明白な特徴がある。すなわち共産党以前と以後とに出身地の重複がただの一人もいないことである。共産党以前は広東省が主流であり、共産党支配になってから毛沢東の湖南省主流に移る。 そして江沢民以後は上海を中心とした江蘇省に移るという傾向を読める。そして両方に共通するのはメジャーな広東省、浙江省(蒋介石)、江蘇省はともに海岸の豊かな地帯にあるということである。この経緯を要約すると辛亥革命は豊かな海岸地帯から生まれ、これに対する抵抗勢力の共産党は湖南省、山西省、四川省といった貧しい山間地から発生した。しかし改革解放で上海を中心とした海岸地帯が豊かになり、再び中心勢力となったのである。 言語について言えば良好な関係にあった孫文と汪兆銘は同じ広東語か客家語を話し、これと対立した蒋介石はこの時代では例外的な上海語の指導者である。毛沢東が北京語を話さなかったから毛沢東の言葉はわからないといわれたのは有名である。袁世凱は清朝末の漢族出身の軍人である。しかし北京語を話したはずだから、康熙帝伝の言うところの満洲化した「漢民族」であろう。 いずれにしても清朝滅亡以後、北京官話を話す有力な指導者が少ないというのは象徴的である。ケ小平は四川省出身だが四川省は北方官話と南方方言をも話さない地帯を多く抱えているので、北京官話を話さなかったのかもしれない。客家語の分布も少しあったので客家語を話した可能性もある。ちなみにWikipediaによれによればケ小平は客家だというから、それが事実ならば、間違いなく客家語を話したのであろう。 共産党初期の指導者が北京官話というのは似つかわしくない。袁世凱は清朝の軍人官僚出身であったから北京官話は当然であり、従って辛亥革命の関係者としては当然異端であり、自ら皇帝にならんとして失敗した。やはり民族出自はともかく清朝の末席にあった。このように言語や地理に地域的特長が出るのは支那が血族社会だからであり、背後に祖先の民族の繁栄をになっていると考えてよかろう。 共産党政権はかつての王朝のように世襲制度ではないから特定の民族支配は困難である。しかしやはり血族社会だからケ小平にしても江沢民にしても権力中枢にいる者たちは常に血族を国営会社の幹部にする措置を取るなど、かつての血族支配の伝統の残滓がある。しかしこのことが共産党政権の安定をもたらすものか否かは不明である。 いずれにしても中共政権は民族出自という観点からも、分析し直す必要があると考える。なお私には公刊された資料から支那の各指導者の使った言語を確認できなかったから、上記のような稚拙な推定となってしまった。誰か彼らの使用言語を教えていただければありがたいと思う。 4.4 支那大陸のヨーロッパ これから中国の民族分布を大胆に推測する。現在の中共の領土のうち、新疆ウイグル、チベット、青海、内モンゴルは明らかに言語も民族もいわゆる漢民族ではないことは明白である。さらに2章で述べたように、四川省西部と雲南省西部もいわゆる非漢語地域である。 すると残りのいわゆる漢語を話す地域の「漢民族」は均質なのであろうか。既に述べきたったように答えは否である。南方諸言語は客家語を除くと5つの言語分布地域に明瞭に分かれる。これらは歴史的経過で形成された国家内国家とでも言うべき領域に分かれているのである。客家語を話す人たちを除いたのは、客家語は地域との結びつきがやや薄く、人間に属すとでもいうべき性格から独立「民族国家」を形成しているとは言いがたいと考えたからである。 残りは北京官話ないし北方諸方言が使われる地域である。北方諸方言のうち東北部すなわち旧満洲は北方官話が使われているとされる。地図を見ればわかるようにこの地域は他の北方諸方言の地域とは地理的に隔離していること、旧満州であることなどから満洲族であるといってよい。定説では満洲族は漢民族に同化して事実上消滅したとされる。ところが2章で説明したように、言語の面からも満洲語は生きている。そして康熙帝伝で例証したようにこの地域では漢族、すなわち清末に流入した支那人が言語も風俗も満洲族化したのである。アメリカに住む日系2世3世が日本人の風貌をしていても、完全に米国人化しているように、この地域の人間は満洲族化した人たちである。 そして同じモンゴロイドだから混血しやすく、血統的にも混淆した新満洲族とでも呼ぶべき民族の地域である。残りの北方諸方言については推定する手段を持たない。しかし地域による方言の分布は3つに分かれて確かにあるのである。方言が発生して定着するには50年や100年では不可能であろう。 清朝滅亡から現在まではわずかに100年に過ぎない。清朝滅亡後に形成され定着した方言ではない。清朝が支配して満洲語すなわち北京官話を300年にわたって普及した結果、形成されたものが残りの北方諸方言である。なぜ方言に分化したか。それが鍵である。北方諸方言の地域における、方言の形成には言語の基層の相違に起因するものがあるのに違いない。すなわち北方諸方言は、差異は少ないとはいうものの構造などにも若干の違いがある。 その違いは北京官話を受け入れた元の民族の元の言語の差によるものである。受け入れた側の民族すなわち言語の相違が方言として残ったのである。同じ英語の訛りでもフィリピンとパキスタンとは異なる。フィリピングリッシュやパキスタングリッシュと呼ばれるゆえんである。それは英語を受け入れる側の元の言語に、タガログ語とウルドゥー語という違いがあったからであろう。それでも互いに英語としては通じるのである。このように北方諸方言の民族の差が方言の差として残ったのである。満洲族以外の3つの北方諸方言には3つの民族が潜んでいるというのが一つの結論である。 次は、なぜ南方諸方言が満洲語化せずに残ったかである。第一の要素は距離と言語基層の遠さであろう。元々ベトナムやタイ語と共通する部分もある南方の諸方言は言語の基層が満洲語と異なることと、北京から遠いことによって北京から来た役人が官話を話そうと、土着民族の言語にはさほど影響を与えなかったのである。 英国の女王がインド皇帝に就任したのと同様に、清朝の皇帝は単独の民族の長としてではなく、チベット、満洲、ウイグル、漢族、満洲族の五族の各々の皇帝なり大ハーンといった形態の異なる長に就任することによって五族を分割統治していたことは既に述べた。漢族すなわち漢文が使用される地域の民族、実は南方諸方言を話す6つの民族がまとめて自治区のようにして統治されていた。だからこの地域の言語は保存されたという側面もある。チベットが清朝に支配されながら満洲語を受け入れず、チベット語が保存されたのと同様な現象なのである。 以上のように私は中国の民族分布を推定した。現在の中共政府は北京語を普通話として全土に普及させ、「漢民族」の文化で全土を覆うことにやっきとなっている。ところがこれらの言語や文化は、実はオリジナルの「漢民族」のものではなく、満洲族のものであることは縷々説明したとおりである。従って中共政府が行っているのは実は中共全土の満洲化である。この試みは恐らく成功しないだろうことは支那大陸の歴史が実証している。 4.5 漢民族均質説の欠陥(文献にみる漢民族)
平成19年の1月に「漢民族とは何か」Mという著書を手にした。「漢民族はいなかった!?」という章があったので驚いたのである。もしかして私と同じ考え方の人がいるのではないかと考えたのである。私の従来の説に対する不満は次のようなものである。 現在の支那大陸の住民、いわゆる漢民族が漢字漢文を発明した人たちとは言語もDNAも異なることはほぼ定説といっていい。しかしその後がいけない。多くの文献においては新しい均質な漢民族が現在定住しているかのようにいうのである。ここで均質というのはすべて同じ性格を持っているという意味ではなく、漢民族といっても言語や風俗が個人によって大きく幅があるということは認めるのだが、ヨーロッパの国々のような地域によるまとまりがなく、ある範囲に様々な人が雑多に住んでいるということである。 多くの場合、チベット、モンゴル、ウイグルなどの従来より異民族と考えられている民族の居住する地域以外に住む者をまとめて漢民族と称して、雑多ではあるもののあたかも上記の意味において均質な漢民族がいるかのようである。 例えば岡田英弘氏は次のように述べる。F つまり秦・漢の中国人は二世紀の末にほとんど絶滅したので、隋・唐の中国人はもはやその子孫ではなかったわけである。 岡田氏らは以前よりこのような説を唱えており、私の説の重要なひとつの基礎になったのである。岡田氏らの説には、漢民族王朝の民が王朝崩壊の際の戦乱や飢餓、疫病で激減しそこに外部から異民族が入ってきて入れ替わるというのだから説得力がある。そして秦の始皇帝から清の宣統帝までの二千百三十二年間のうち明瞭に非漢人とわかる皇帝の在位期間の四分の三であると結論する。さらに ・・・皇帝制度は中国文明の本質ではあるが、その皇帝は非漢人のほうが圧倒的に多いのだから、中国文明は漢人の専売特許ではない。 なるほど。でもどこかおかしくはないか。秦・漢の漢民族は絶滅したのだから、その後は漢民族ではないはずである。岡田氏は隋・唐以後の漢民族をどう定義しているのであろうか。岡田氏は明言しない。そこで文脈から読み取る限り、王朝の外部から侵入して王朝を倒したものを非漢人としているだけなのだ。 そして王朝の内部に以前より定住していて王朝を倒した者を漢人と判断しているのに過ぎない。これはおかしいのである。外部から侵入しても長い間定住すると漢人になってしまうと言っているのだ。これはよく言われる漢民族に同化するという俗説を基礎にしているのに過ぎない。 繰り返し述べたように、例えば清朝の持ち込んだ満洲民族の文明は、支那服や京劇など、明瞭にわかっているだけでもそれ以前の「漢人」の文明を駆逐して入れ替わっている。決して満洲族は漢民族に同化して漢人になったのではない。岡田氏の卓見も従来の説に引きずられている。黄文雄氏はさすがに漢民族文明が異民族を同化したのではなく、その逆であると述べる。しかしそこから先の展開がないのである。 そこで私は安達氏の説を閲してみようと思う。この本は戦前から戦後の支那に関する文献を渉猟しているのに、現代中国にはおおまかには5つくらいの方言があると述べるような杜撰さがある。おそらく彼にはモンゴル語、チベット語、北京語、漢語といったおおまかな分類しかないのだろうか。これが間違いである事は既に述べた。 「漢民族とは何か」は明らかに不定見である。「漢民族はいなかった」の章では冒頭で、「漢民族なるものはいなかった」というのが現在における小結論であるとし、漢民族という言葉は一種の記号論的用語であるとする。要するに漢民族という概念は実在のものではないというのだ。しかしそれに止まらず「漢民族とは何か」という本書のメインテーマを何と「現在の中国人を形成している人びととはだれだったのか」と問い直すというのだ。この言葉に多くの「中国」民族論の重大な欠陥がひそんでいる。 これはソ連が崩壊した現在、「ソ連民族とは何か」という疑問を追及しているのと同じであると言えばわかりやすい。崩壊したロシア帝国に代わってロシア帝国の版図を回復しようとして、周辺のバルト三国やポーランドなどを次々と侵略して成立したソ連の住民をまとめて定義することの滑稽さは現在では容易に理解できるだろう。 現在の中共の領土は、支那大陸の歴史のうちの一時期を占めるに過ぎない清王朝の版図を清朝崩壊後の50年近い内戦の時期を経て、チベット、ウイグルなどの周辺国家を侵略して成立した。中共の指導者は「漢民族」を自称するが、漢民族の支那王朝がチベットやウイグルを支配したことはない。このように周辺の民族を侵略して成立した現在の中共の民族を普遍的に自明な、中国人として定義しようなどというのは、ソ連民族とは何かを問うに等しい愚挙だということはわかるはずである。 あとがき やっとあとがきに達した。しかしこれは始まりであって終わりではない。何回も述べたように私から見れば、支那大陸の歴史は奇妙な理解をされているとしか言いようがない。私は以前から「中国史」は日本史のように単一民族と言えるような国の変遷の歴史ではなく、ヨーロッパの歴史に近いものではないかということを漠然と思っていた。 常に漢民族なるものが大陸に存在していて周辺民族を同化していくというのは歴史の力学からもあまりに不自然だからである。そのことを簡単に「中国はヨーロッパのようなものである」と簡単に指摘する識者はわずかであるが、いるにはいた。しかしそのことを誰も掘り下げないのである。 そして首里城で「琉球貢表」を見るに至り、一挙に疑問が吹き出た。中国史はおろか歴史の専門家ではない私が雑誌「正論」に投書すれば、この疑問を専門的に補強して展開してくれる人が現れると期待した。しかし期待は外れて私の考えに賛同してくれる人は誰もいなかったようである。それどころか反対意見の投書すらなかった。 そこで自分で考えるしかなかったのである。その結果がこれである。しかし専門家でもなく時間もない私の「研究」はあまりに不完全で不整合で齟齬が多く荒削りなのは間違いない。だが私の直感は大筋において間違いないと確信している。だから私の考えを理解して引き継いでくれる人が出るのを望む。そんな人がいるとしたらその筋の専門家ではないだろう。専門家はあまりに常識に囚われ過ぎている。 始まりであるというのにはもうひとつの意味がある。これを本格的に書き始めたのは平成18年の夏だった。この文章はそれと比較してすら内容もボリュームも大幅に変化している。今後も変化するはずである。その意味でも始まりの途中である。 引用文献
@雑誌「諸君」平成13年11月号「支那は差別語にあらず」高島俊男 A満洲事変の国際的背景・渡辺明・国書刊行会 Bリットン報告書・昭和7年・中央公論付録・訳及び原文 C中国はいかにチベットを侵略したか・マイケル・ダナム・講談社インターナショナル D康熙帝伝・東洋文庫155・ブーヴェ・平凡社 Eこの厄介な国中国・岡田英弘・ワック文庫 F誰も知らなかった皇帝たちの中国・岡田英弘・ワック文庫 G世界のことば・「朝日ジャーナル」編・朝日選書・1991年 Hそれでも中国は崩壊する・黄文雄 I中国4000年の真実・杉山徹宗・祥伝社刊・平成11年 J中国の諸言語−歴史と現況・S.R.ラムゼイ著・高田時雄他訳・大修館書店・1990年 K東洋史通論 L中国人民解放軍・矢吹晋・講談社選書メチエ・1996年 M漢民族とはだれか・右文書院・2006年 N世界のことば小事典・柴田武・大修館書店・1993年 O世界の言語ガイドブック2(アジア・アフリカ編>東京外国語大学語学研究所編・三省堂1998年 P雑誌「正論」平成19年8月号・東方人記・石平 http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub2-4.html
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