★阿修羅♪ > 歴史02 > 288.html ★阿修羅♪ |
|
台湾は中国ではないんだけど http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/288.html
(回答先: 中国大好き 投稿者 中川隆 日時 2010 年 2 月 13 日 21:20:50)
ほとんどの日本人が台湾人は漢民族であると考えている。実は、なによりわれわれ戦後の台湾人が「お前たちはもともと漢民族である中国人なのだ」という教育を受けてきたのだから、日本人がそう思うのも致し方ない面がある。しかし、これは間違いなのである。
■最新の研究結果―南島語族の起源は台湾 台湾では人口の八四%が所謂「本省人」で、一四%が戦後中国から渡って来た「外省人」、そして二%が原住民とされるが、これまで本省人は清国統治時代(一六八三〜一八九五)に移民してきた漢民族の子孫で、原住民はそれ以前に東南アジアから渡って来たマレー・ポリネシア民族(オーストロネシア語族=南島語族)と説明するのが常識だった。 そうした中、「マレー・ポリネシア人の起源は台湾だ」との研究結果が、一月下旬の米誌「サイエンス」で発表された。 これはニュージーランドのオークランド大学の地域言語学研究によるもの。東南アジア、太平洋地域での四百種以上の言語をコンピューターで分析し、簡単な動詞、動物、色、数字などの基本的な語彙の比較から、同語族の移動ルートを割り出したのだ。 その結果「南方民族は五千二百年前に台湾を出発し、東南アジアで約一千年滞留。その後の一千年以内の時間内でフィージー、サモア、トンガに至り、そこで約一千年留まった後、さらにポリネシアへ進出。最後はニュージーランド、ハワイ、そしてイースター島へと拡散して行った」と言う。ちなみにニュージーランドでは、マオリ族が定住したのは今から七、八百年前とのことだ。 研究グループによると「丸木舟を用いる優れた航行技術があったため、速いスピードで太平洋諸島に拡散できた。偉大な人類の移動の旅だった」とのこと。まさに壮大なロマンを書き立てる話である。 ちなみに最近のDNA研究からも、台湾を南方語族の起源とする結果が出ており、台湾の原住民にとっては誇りともなろうが、ここで台湾人全体が考えなくてはならないことがある。 ■台湾人は漢民族移民の子孫ではなかった 沈建徳氏はこれまで、統計学の観点から、台湾の人口の歴史的変遷を克明に調査し、台湾の「本省人」が清国統治時代に同化(漢民族化)させられた原住民の子孫であり、移民の子孫とするのは古文献上の記録の政治的捏造であることを突き止めた人物。その研究成果の正しさは、医学界での住民のDNA調査でも裏付けられているのである。 だがこの事実を台湾人がなかなか受け入れようとしないのは、国民党の中国人化教育の影響、そして原住民を蔑視する伝統意識(これも漢化の影響)などと言った理由考えられるようだ。 そのため血統上は異なっても、漢民族意識があるかぎり、台湾人は漢民族のままである。しかし台湾人は中国の漢民族との比較を通じ、自分たちが異質の存在であることを知り、台湾人意識(台湾人としての誇りの意識)を高めているはずである。日本人から見ても台湾人は、漢民族よりも正直でやさしく、開放的な性格を持っており、民族的なDNAの違いが感じられる。
著名な統計学者である沈建徳氏の著書『台湾常識』によれば、当時の台湾の人口は五〇万人だったという。今から一〇年ほど前までは、台湾では原住民のことを「山胞」、つまり山に住んでいる民族と呼んでいた。しかし、確かに三分の二は山でも、三分の一は平野である。住みやすい平野に人が住まなくて、山にばかり住んでいるなどというおかしなことはない。実は、当時の台湾人のうち二〇万人は山に、三〇万人は平野に住んでいたのである。 余談だが、当時の台湾でいちばんの資源は鹿だった。台湾産の鹿の皮がとても綺麗だったので、日本の武士は好んで兜の飾りにしていたという。 ●台湾に来たがらなかった中国人 オランダ人は台湾を統治するために、中国から労働者を輸入する。その数は七〇〇〇人から八〇〇〇人で、五〇万人のなかの八〇〇〇人だ。人口の一・六パーセントにすぎない。 鄭成功が清に負けて台湾に逃げてきたのが一六六一年であるから、オランダの統治は三八年間つづいたことになる。今、台湾人が中国人の子孫であり後裔であるという根拠は、鄭成功が多くの中国人を連れて海を渡ってきたことに求められている。しかし、一六六一年の台湾の人口は六二万人であり、中国からやってきたB成功一族と彼の軍隊はそのなかのたった三万人なのである。 その一族が台湾を統治したのは二二年間で、清朝によって滅ぼされた。当時の台湾の人口は七二万人になっており、そのとき清朝が連れてきた軍隊はほんの数千人だ。なぜ中国人が台湾に行きたがらないかというと、当時の台湾はまさに瘴癘の地だったからだ。瘴癘とは風土病のことだが、マラリアをはじめ猩紅熱、腸チフス、百日咳など、ありとあらゆる伝染病が台湾に蔓延していた。「台湾に一〇人行けば七人死んで一人逃げ帰る。残るのはせいぜい二人」という中国のことわざが残っているほどだ。 実際、清朝は二〇〇年間にわたって台湾を統治するが、その間、統治者は三年交替だった。三年交替の統治者で生きて中国に帰れたのはほんの数人、一〇人を超えていない。もちろん統治者としてやって来るわけであるから、いちばんよい食事、いちばんよい環境、いちばんよい住まい、つまりいちばんよい衛生状況を保てたはずだったが、その彼らがほとんど台湾で死んでしまうほど台湾の風土病は怖かった。 そして、一八九五(明治二八)年に日本が台湾を領土としたときの人口は二五〇万人だったが、そのとき、清朝出身者のほとんどは中国に引き揚げている。だから、このように歴史をたどってみれば、われわれ台湾人が漢民族であるという認識はいかに間違っているかがよくわかるのである。 ●税金のために漢民族になろうとした原住民 清は、いろいろな階級に分けて台湾人を統治した。漢人、つまり漢民族しか苗字を持っておらず、原住民のことは、野蛮人を指す「蕃」を使って「生蕃」「熟蕃」と呼んだ。この戸籍制度は、日本の統治時代まで使われている。 熟蕃というのは漢民族と一緒に住んでいる、人を殺さない原住民を指す。山に住んでいる原住民は首を狩る。そのことを「出草」という。自分が一人前の男であることの証明として人の首を狩り、狩った首はお飾りとして自分の家の前に棚を作って並べておく。この首の数が多ければ多いほど立派な男ということになる。私のなかでときどき血が騒ぐのは、その遺伝子のせいかもしれない。 生蕃には重税が課せられ、熟蕃はやや軽い。漢人はいちばん軽い。そうすると、熟蕃は競って漢人になろうとする。そこで、当時の清朝は「では、あなたの名前は林にしましょう。あなたは王にしましょう」と苗字を与えた。苗字のない原住民は競って苗字のある漢民族になろうとしたのである。生蕃もできるだけ熟蕃になろうとした。だから、台湾人が漢民族であるというのは統治者の政策によってつくられた虚像でしかない。要は名前を漢人風にしただけのことであり、表面だけを見て漢人と言っていたのである。 ●血液学からも台湾人は漢人でない 台湾の人口は、一六二四年の五〇万人から一九四五年にはざっと六〇〇万人になった。環境などを考慮すると、その成長率は非常に合理的な数字である。清朝統治の二〇〇年間には、台湾に渡るなという禁止令があった。それは、台湾が非常に長いこと海賊の巣になっていたので、人が増えることは好ましくなかったからで、できるだけ台湾に渡らせないようにしようというのが清の姿勢だった。 日本が統治した当時の人口は二五〇万人で、もちろん日本統治の五〇年間に中国から台湾に移住してきた中国人はほとんどいなかった。正常な人口の成長で、五〇年間で六〇〇万人になったのである。ただ一九四五年以降、台湾から引き揚げた日本人は約四〇万人いたから、総数としては六四〇万人ということになる。そのなかにもし中国人がいたとしても、ごくわずかなのだ。 血液学的調査でも、台湾人が漢人でないことは証明されている。台湾の馬偕記念病院の血液学の教授である林媽利先生は人間のリンパ球の遺伝子を調べて、すでに台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うことを証明しているのだ。 台湾人は漢民族ではなかったのだ。 http://kb-news.at.webry.info/200904/article_15.html 昭和二十年の八月十五日、日本が第二次世界大戦、つまり大東亜戦争に敗れた年、私たちが住んでいる台湾は、今まで祖国と言ってきた日本国から切り離され、選択の余地無しに中国人にさせられてしまいました。 外来政府は、謀反を起こしたという烙印を押し、四十年もの長い年月にわたり″戒厳令″という名目で殺戮を繰り返したのです。台湾全土の人民を震撼させたあの忌まわしい二・二八事件で殺された人の数は、当時の政府の圧力により報道されていません。学生、若者、医者、学識ある者、特に財産を有する者など、死者は三万人にも上ると言われていますが、確実な数字は今でも分からないそうです。因みに当時の台湾の人口は、六百万人でした・・・
この事件によって台湾人の人々が、二八日に市庁舎に押しかけたが、そのデモ隊に向かって支那人憲兵隊は市庁舎の屋上から機関銃にて、無差別に発砲し、多くの台湾人が殺害される。 その後、蒋介石の命令により支那本土から派遣された支那兵による第二一師団と憲兵隊が、台湾一般市民に対しての無差別的な発砲や、裁判官・医師・役人など日本統治下で高等教育を受けたエリート層が目標とされ投獄・拷問などにより虐殺される。 基隆では針金を台湾人の手に刺し込んで縛って束ね、チマキと称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込むという醜い虐殺もおこなわれた。この手に針金を通すというやり方は、支那人そして、それに事大して生きてきた朝鮮人など特有の残虐さを感じる。 この支那人による台湾人への虐殺事件によって、約二八〇〇〇人が殺害・処刑されました。 一九八七年まで継続していたこの時に発令された戒厳令下、支那人による白色テロと呼ばれる恐怖政治が永らく続く。そんな台湾において、「民主化」が実現するのは、当時の李登輝総統が一九九二年に刑法を改正し、言論の自由が認められるまで待たなければならなかった。
3月14日、警備総司令部により「粛奸工作」が開始される。「粛奸工作」の対象は、事件に直接関与していない者も多く含まれ、社会的指導者はもとより、危険人物と見られた民意代表、教授、弁護士、医者、作家、教師など、多くの知識人が逮捕された。意図的に日本教育を受けた知識人を根こそぎ粛清するかのようである。このため、台湾の知識人の存在は一時期の間空白となってしまう。 「二・二八事件」の関係者の逮捕は1949年になって緩和されるが、「要注意人物」の逮捕はまだ暫く続くのであった。国民党の発表によると、事件後1ヶ月に殺された台湾人は28,000に上る。これは50年の日本統治において日本軍によって殺戮された台湾人の数に匹敵する。また、有罪判決を受けて有期・無期の投獄に処せられた人数は計り知れないという。 国民党の台湾における「二・二八事件」に対する過剰な殺戮と鎮圧は国際社会の痛烈な批判を浴びた。国共内戦で劣勢にあり米国の援助が必要だった国民党は、米国の駐中国大使の抗議を受けると、蒋介石は米国の意向を無視できず、4月22日、陳儀を免職、5月1日に南京に召還した。余談になるが、陳儀は1950年に、中国共産党と通じたして反逆罪で逮捕、やがて処刑された。 日本統治下では「法の支配」、「法治国家」の精神を植え付けられ、国民党にもそれを期待していた。日本統治下では、いくら政府を批判しても、悪法とは言えども、治安警察法などの法によって裁判と処罰を受けていた。しかし、国民党は抵抗するものを手当たり次第に「鉄砲」で裁く事しかしなかったのだ。 http://tokyo.cool.ne.jp/masakim/Taiwan/History/history9.html
台湾の歴史をあまり知らない人にとって、ちょっと理解できない 実は僕は、日本に来て、一番うれしいのは、自由に台湾語で話せ ちょっと変でしょう?台湾で台湾語を話してはいけませんか。自 台湾では、1945年以前、中国語が話せる人はほとんどいませ 中国の統治者からみると、台湾人は日本人の奴隷になってしまい また、このような、「犬カード」と言われるものを、首に掛けさ そのせいで、大勢の台湾人はアイデンティティーが変わりました。 僕は高校時代までその差別について、あまり知りませんでした。 みなさん聞こえますか。「人間の言葉を話せ!」と叱られました。 前、本で読んだ「台湾人の悲哀」は、これなのかと気がつきまし それから他の人を啓蒙しようと、いろいろな活動をしましたが、 1980年代後半から、中国国民党は革命を避けるために自由化 また、台湾語の罰金は、もう必要なくなりました。なぜなら、み 選挙があっても、民主的のようになっても、台湾語で話す人は、 最近、『海角七号(ハイチャオチーハウ、かいかくななばん、ハ 台湾人が変わらなければ、いつか台湾語がなくなってしまうかも 残念ながら、外国の日本に来て、台湾人と台湾語で話すようにな
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/
since 1995
▲このページのTOPへ
★阿修羅♪ > 歴史02掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。 すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。 |