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(回答先: 大衆は納得できる説明を求めている。大衆は「マスゴミ」に踊らされている「バカ」か? 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 5 月 20 日 19:26:01)
どもダイナモさん。
大衆の過半数は、件の献金について小沢氏自身が賄賂性を認識していたのではないかと疑っているとのことですが…。
下でも書きましたように、私は「政治献金が賄賂性を持つのは当然」と思いますので、小沢氏にその認識があったことは、疑うとか言うレベルではなく、「間違いなくあった」と考えています。
で、小沢氏が「何の賄賂性もないもの(違法性がないもの)だ」と言ったとすれば、それは「噓」でしょう。
しかし( )内のように「違法性がないもの」と言ったのであれば、これは噓じゃありません。
ダイナモさんは「違法性がない」=「賄賂性がない」と考えておられるのですか?
それと、もうひとつ。「賄賂性がある」=「賄賂である」と考えておられるのですか?
私は両方とも間違いであると思います。
政治献金は、たとえば将来その政治家が政府の要職に就いた時のことを考えて、「今、恩を売っておけば、なにかと有利になるだろう」との思惑で行う企業や個人が多いんじゃないでしょうか。
それは、広い意味で言えば「賄賂性」につながります。
直接、自社や自分本人に利益供与がなされなかったとしても、業界や団体に有利な政策を、その政治家が推進してくれると期待して献金する…というのも、やはり広い意味での「賄賂性」を持っています。
その意味では政党支持者が政党に送る献金にも、賄賂性があります。
経団連が巨額の献金を与党や与党議員に送っている事例も、労働組合の団体が野党や野党議員に送っている献金も、ある宗派の信者が関連政党に送っている献金も、みんな「賄賂性」のあるものです。
「政策方針に共鳴し、それを応援するために献金する」と言えばクリーンに聞こえますが、その「政策方針」いかんで得をする人たちと損をする人たちが居るわけですから、実態はやはり広い意味で自身への見返りを期待する「賄賂性」を持った寄付ということになるでしょう。
ここでいう「得をする」の中に、自分の政治思想が実現される、精神的、思想的利益までも含めれば、あらゆる政治献金に「賄賂性」を見出すことができます。
極論だと思われますか?
でも、ほとんどの人は多額の政治献金を受け取っている政治家に対して、やっかみ半分で疑念を抱きます。
どうやって手に入れたものか、誰が寄付したものか、献金した者の思惑は何か?…などには全く関心がなく、ただなんとなく「どーせ、やましい所のある金だろう」とイメージするのです。
だったら、いっそうの事「すべての政治献金は賄賂性を持っている」と認識する方が簡単でしょう。
その上で、どの程度までなら許容するか、あるいは全く許容しないかという事を考えるべきです。
賄賂性はあるが違法性のない献金について、その賄賂性だけを攻撃対象にするのなら、政治献金自体を否定せざるを得ない…という事に、大衆は気付くべきです。
「大衆の見方から正しい対策を導きだす」とおっしゃいますが、私は「賄賂性」という言葉の曖昧さを大衆が理解するように説明することが「正しい対策」だと考えます。
総選挙で民主党が勝利するためにはどうするべきか?…というような事は、民主党支持者ではない私にとって関心の外です。
そんなことは、民主党の幹部、議員、運動員、支持者らが考えれば良いことであって、私は民主党が勝とうが負けようが、どっちでも良いと思っています。
それよりも「政治と金」のスキャンダルが、単純にイメージ操作だけで、政局に対して大きな影響力を持ってしまう状況を、少しでも改善させる事の方が優先事だと考えます。
小沢氏が表に出てくれば、当然自民、公明は西松事件をネタに攻撃してくるでしょう。
そうすれば、民主党側も「政治と金」の問題について、イメージだけの話じゃなく、本質的な認識の問題に踏み込まざるをえませんよね。
で、ひょっとしたら、尾見氏や森氏、二階氏らが小沢氏に代わって大衆に弁明してくれるかも知れません。
そうやって大騒ぎすることで、大衆の政治献金に対する認識が少しでも進歩すれば、以後イメージ操作だけで政敵を追い落とす手法を、与党も野党もマスコミも使いにくくなります。
大衆は「バカ」じゃないんですよ。ただ「未熟」なだけです。
大衆の成長を期待せずして、政治の改善は不可能なのです。
大衆をののしっても何も変わりませんが、大衆の未熟さを不変事実として容認放置するならば、いつまでも暗黒政治が続き、国民は永遠に「被支配者」のままです。
「国民は自分達の程度以上の政府を得ることができない」
政治や世の中を良くしようと思ったら、まず自分や大衆が成長しなければならないのです。
大衆が成長しないことを不変の前提において、政治戦略を立てることは、政治の自殺であると考えますが、いかがでしょう?