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(回答先: 私たちは正しい方向に進んでいかなければなりません。 投稿者 考察者K 日時 2009 年 1 月 17 日 08:25:07)
Kさん こんばんは。
私は何事も臨界点に達しない限り、事は流れないと思っています。
「しなければいけない」から、「する以外にもう道は無い」という所まで追い込まれなければ、体は動かないものだと思っています。この点においては、Kさんは既に臨界点に達している様子ですのでご理解いただけると思います。
その時、自己の内と外、どちらへエネルギーを注ぐべきか。目の前の現象を変える事にエネルギーを費やすのか、自己の内へ潜り、己を革める方向へエネルギーを費やすのか。
自分が臨界点に達したからといって、他に同調を求めても限界があると思うのです。「俺の鍋の湯は沸騰したぞ!さぁこのまま煙りとなって昇華しようではないか!」と他の鍋に語りかけても、沸騰し切れていない鍋、また沸騰しても「俺はこの湯でエキスを作るのだ!」と、違う目的を持つ鍋がいるのは、致し方ない事だと思うのです。
まして、他に煽動されて、自分が沸騰したと勘違いした「エセ臨界点」が生まれる危険さえあると感じます。この辺りをKさんは「ヌルい奴ら」と、毛嫌っておるのでしょう。
この世の人間の数だけのオーダーメードな物語があり、個人個人の持つリアリティが違う以上、臨界点の違い、目的の相違は致し方なしと諦観するしか無いのでしょう。
正当な理由なくKさんに異見してくる方々は、まだ臨界点に達していないか、エセ臨界点なのかも知れません。どっちにしても、こちらは諦観の姿勢で黙して語らずが第一の様に思います。
私は自分の尻も拭けないのに、どうして他者の尻をふけようか。まして、日本の尻拭きなぞ、考える由も無し。
自己の内にあるルサンチマンを、どう忘却してくれようぞ。
個の道を往かば、やがて大海に通ず。
自己臨界を迎えた者の良い点は、他に煽動されぬ事ではないかと思います。