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(回答先: 葛城政明は、「物々交換は貨幣なしには実現し得ない」という驚くべき定理を見出した/安富歩 投稿者 仁王像 日時 2012 年 8 月 19 日 16:49:18)
理論経済学者の松尾匡は安富氏の前著『生きるための経済学』で経済学が物理法則を無視(否定)していると指摘したことを、「そんなことは承知の上で、事態の本質を分析可能なように単純化しているにすぎない」、つまり近似していると開き直ったそうである。しかし、物理法則を無視して近似できるというのはムシがよい。物理法則を無視して近似できる範囲は存在しない(安富)。ただ物理法則を無視していることを明言した松尾氏を稀な存在と評価している。
安富氏は、今回は少し戦術を変えて、限界効用価値説では、熱力学第二法則を前提にしながら、それを否定する方法論をとっていて本質的矛盾を抱えている、と痛烈に批判している。
われわれは今、日本人の若手研究者たちによって、西洋伝来の経済学の根底に横たわる虚構が原理的に暴かれつつあることを眼前に目撃している。なんとスリリングではないか/仁王像。
『経済学の船出〜創発の海へ』の第三章の抜粋(要旨)
第三章 価値の源泉としての暗黙の次元
<効率性と有効性の差異>
経営学者のピーター・ドラッカーは、経済についてまともな思考を展開した稀有な学者であった。”それゆえ”「アカデミズム」の経済学からはまったく相手にされなかった。…ドラッカーを認めると、「アカデミズム」の経済学・経営学が荒唐無稽であることを、自ら認めることになってしまうので、そればかりはできないのである。「アカデミズム」というものは実のところ「大学業界」にすぎないのであり、真理を探究する人々の集まりである真の意味でのアカデミズムとは、ゆるい関係しかない。
ドラッカー思想のまともさの一つは、効率性の過大評価を批判している点に表れている。経済学も経営学も「最適化」が好きだが、これを否定されると、経済学者も経営学者も立つ瀬がない。しかもドラッカーの言葉には説得力があり、多くの経営者が信奉しているので、学者には嫌われるわけである。
ドラッカーが重視するのは有効性である。
通常の経済学や経営学は、ものごとの効率性を最大化すれば、それが正しいことだと考えている。しかし複雑で流動する世界において、そのような考えは役に立たない。というのも、状況を把握することすら困難であり、そのうえ状況は常に変化するからである。やり方が効率的かと問う以前に、やっていることが正しいかどうかを問わなければ、どうしようもない。
では正しい、とはどういうことか。この問いにドラッカーは答えを与えない。というのも、状況を抜きにして、何が正しいかを語ることができないからである。何が正しいかは、現場で人間が考えるしかない。「正しい」が明確に定義できない以上、有効性を明確に定義することもできない。それでも、有効性が事業の鍵を握ることに変わりはない。
ドラッカーの他の箇所でも指摘を念頭に置くなら、ドラッカーの言う有効性とは「経済社会生態系」に適応しつつ変革し、その形成・発展に貢献する、ということである。
生態系というものは、誰かが生きるということが、誰かが生きるうえで役に立つ、という形で形成されている。それは「善意」ばかりでなく、食う・食われるという連鎖としても構成される。
この観点から見た「有効性」を私は、次のように解釈する。
「有効性」の本質は、必要なものを、必要なところに、適切な形で届けることにある。届けられる「もの」は物質ばかりではなく、情報を含む。
(ドラッカーからの)引用文が明確に指摘するように、企業の目的は利益ではない。利益は企業が存続するたもの条件にすぎない。利益が出ないような事業は確かに継続できない。しかし利益は何をすべきかを教えてくれない。何をするかを決めたときにはじめて、その事業が利益を生むかどうかが問題になる。
この何をするか(を決めたあとで)利益が出るように、効率性を考えねばならない。有効性が主であり、効率性は従であるように、何をするかが主であり、利益が出るかどうかは企業にとって従である。
<価値説の概観>
有効性という概念は、価値の源泉とは何かという問いに、新しい光を当ててくれる。経済学ではもはやこのような問いを立てる人はいなくなった…。
経済学ではかつて「労働価値説」が主流であった。この背後には、労働は尊いものだ、という当時のイギリス社会の倫理があったのであろう。実際、リカードにもこのような議論の傾向があり、マルクスは労働価値説に基礎を置いて搾取の理論を生み出した。
この説は、単に人気がなくなったばかりでなく、異なる時間に投下された労働や、質的に異なる労働をどうやって集計したらいいのか、あるいは自然の恵みを無視するのはどうかetc多くの問題が指摘されている。
これにとって代わったのが「限界効用価値説」だが、じつは価値説ではなく、価値論抜きの交換比率の説明原理である。
それゆえ現在の経済学では、まともな価値論がない。これは驚くべきことであるが、事実である。
(中略)
限界効用価値説は、一方で熱力学第二法則を前提にしつつ、もう一方で熱力学第二法則を否定する。これは矛盾である。このような本質的矛盾を理論内部に抱え込んでそれに目をつぶるなら、どんな誤魔化しでも通用する。
実際、経済学者は、自分の議論に都合の悪いことは無視して、隠蔽するのがうまい。この隠蔽はだれよりも自分自身にたいして行われる。自己欺瞞に自己欺瞞を重ねるため、学問全体が矛盾に満ち、無意味なものとなっている。
私は価格決定の正しい理論を求める、ということ自体が、無理な相談だと考えている。私は、すでに述べたように、サリーンズの「平和条約としての価格」理論に従って、物品の交換比率は、それにかかわる人々が、なるべく納得するように決まる、としか言えないように思っている。
<おわりに>
生命が生き延びるための暗黙の力の発揮を「創発」と呼ぶ。この創発が実現されることにより価値が生まれる。有効な経済活動の本質は、創発を呼び起こすために必要なものを、必要な場所に届けることである。この「もの」には情報が含まれる。一方、市場というシステムは、人々が納得する水準に貨幣的価値=価格を定める。この水準に従って利益の出る活動が促進されることで、間接的に創発的価値の生成を助長するのが市場の機能である。ところが、創発的価値と貨幣的価値とは常に乖離する。この乖離を乗り越えて、創発的価値と貨幣的価値とを結びつけること、つまり、意味があって利益の出る仕事を見出して実現するのが企業の使命である。創発的価値と貨幣的価値との乖離は、社会を崩壊に導く危険性を帯びており、この乖離をいかに小さくするかが、経済制度や政策の目的であるはずだが、財政は往々にして放漫となり、この乖離を拡大してしまう。
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