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http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/visit/archive/news/20080319ddn005040066000c.html
平和をたずねて:南京−沈黙の深い淵から/1 記憶の封印を解く
《滞在とは夢、すぐ出発だ。一小隊が二百名位の敗残兵を捕虜にした。彼等は南京陥落を知らず逃げて来たものであらう。之を如何に処置するか副官に聞きに行った》
昭和12(1937)年12月14日の日記は、そんな書き出しで始まる。大隊の副官から「二百あろうと五百あろうと適当な所へつれて行って殺してしまへ」と指示された日記の主たちは、捕虜たちを揚子江岸へと連れ出す。その時の様子はこう描写されている。
《「面没子」の観念で諦(あきら)めがよいのか「救命 救命」といへばワアーっと喊声(かんせい)あげて拍手する》
そしてそのすぐ後にこんな場面が続く。
《膝を没する泥土の中に河に向って座らせた千二百人。命令一下、後の壕に秘んで居た重機(重機関銃)二、一斉に掃射を浴せた。将棋倒し、血煙、肉片、綿片、飛上る。河に飛込んだ数十名は桟橋に待ってゐた軽機の側射に依って全滅し濁水を紅に染めて斃(たお)れてしまった。あゝ何たる惨憺(さんたん)たる光景ぞ。斯(かか)る光景が人間世界に又と見られるだろうか》
日記の主は8年前に92歳で他界した元兵士。その長男(76)がいとおしげに見せてくれたその升目帳には、捕虜や民間人の虐殺、集落への放火、女性への強姦(ごうかん)など、南京攻略前後の日本軍による蛮行が赤裸々に描かれていた。
長男によると、昭和14年末に家に戻った父親は、揚子江が血で染まった話などをよくしていた。しかし敗戦を境に、戦争の話は一切口にしなくなったという。
「東京裁判が始まるとラジオにかじりついて聞いていました。聖戦と信じていたあの戦争が何だったのか、考えていたんでしょう」
銃創を負って帰国する時の日記には「憲兵の私物検査も形式だけで済む」とある。日記が見つかれば罰せられるとの自覚はあったのだ。戦後は、戦犯として訴追される物証にもなる。なのに父親は日記を処分しなかった。
湾岸戦争時、父親はこんな歌を詠む。
《白旗掲げ 続々投降の イラク兵に 南京戦の 捕虜を思えり》
日記は戦後ずっと戸棚の奥深く蔵され、誰の目にも触れることはなかった。10年前、南京戦の聞き取りに関西の市民有志が訪れるまでは。
自ら日記を取り出して彼らに見せた父親の行為に、戦場の真実を伝えたいとの意思を読みとった長男は、日記を活字にして私家本にすることを思い立つ。そしてワープロで起こした原稿を臨終の床にあった父親に見せた。
「涙ぐんで、両手でぐっと握ったまま震えていました。言葉は発せずとも、体全体で、よくやってくれたと喜んでくれました」
今なお政治家や有力メディアが「無かった」と主張する南京大虐殺。証言者が激しい非難や嫌がらせにさらされることも多く、元兵士たちは黙したまま次々と世を去りつつある。彼らの記憶の封印を解き、この国の記憶として共有することはできないのか。人生の最晩年を迎えた南京戦の参加兵士たちを訪ねる。(次回は26日掲載)
毎日新聞 2008年3月19日 大阪朝刊