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(回答先: 平和をたずねて:南京−沈黙の深い淵から/2 「だから、堪えて下さい」(毎日新聞) 投稿者 gataro 日時 2008 年 4 月 19 日 21:25:43)
http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/visit/archive/news/20080402ddp041040017000c.html
平和をたずねて:南京−沈黙の深い淵から/3 耳を澄まし、心を通わす
南京戦に参加した元兵士の証言を収めた未公開のDVDを見た。語られているのは耳をふさぎたくなるような内容だが、事実から目をそらさぬために、そのまま紹介する。
「子供がおったら、親死なせてためにならんさかい、処分しておけちゅうもんやろ。そんで河べりには大きな倉庫があるねん。中にみな放りこんでん。そんでもう入らんようになってしもたら、閉めて蒸し焼きや」
「やっぱ飢(かつ)れてんねん。明日はない命やんけ。で、軍医さん、いっぺん調べよっていうんやわ、大事なとこを。『サイコ(性交)、サイコ』はするこっちゃ。『カンカン』ちゅうんは大事なとこ見してくれや。それをな、嫌がるわけや。1人2人(兵隊が)おってな、広げるわけや、無理やり」
「高校の生徒や、おなごの子や。部屋一つやっとんねん。我々兵隊は若いさかい、サイコ、サイコはつきもんやさけえ」
今は故人となったその老人は、早口の関西弁であっけらかんと話す。正面から顔をさらし、実名で。もう1人は仮名だが、やはり素顔のままカメラの前で語る。
「行軍中はすぐですわ。背嚢(はいのう)を横にやってね。銃剣は外せへん。いつ飛んでいかないかんか分からへんさけ。何て言うか、すぐそういう気になってまう。気持ちが荒れてしもてるからなあ。覚えとらへんけど(強姦(ごうかん)した相手は)50人じゃきかへんわ。(苦笑)きかへん。人間のすることちゃうねん。自分らかて死ぬか生きるかさかい。ほんまの畜生てえか、最低の動物みたいになっとったんや」
こうしたDVDが30人分ある。モザイクの入ったものもあるが、大半の老人は顔をそのまま出しており、生前、実名の公表に同意した人も多い。すべて関西の市民団体「日中平和研究会」の松岡環さん(60)が聞き取ったものだ。
松岡さんが元兵士の聞き取りを始めたのは、南京大虐殺から60年たった平成9(1997)年の暮れ。以来10年間に訪ねた相手は150人に上る。初回に紹介した日記の主もその一人だ。
「大抵、南京と言っただけでシャットアウト。言うことなんてない、帰ってくれって。だから、連絡せずにいきなり訪ねます。最初2時間くらいは、兵隊がどんな生活してたのかといった、おじいさんたちが話したいことを細かく聞いていくんです。それで口が回ってきたなと思うころ、初めて南京の話を切り出す。私が女なのも良かったんでしょう。こんなに一所懸命に話を聞いてくれて、ほんまの娘みたいだって言ってくれますもん」
松岡さんには、忘れられない元兵士との交流がある。亡くなるまで6年間通い続けた相手で、略奪や避難民の大量殺りくの話は早い段階で明かしてくれたが、強姦についてだけは固く口をつぐんでいた。
通い始めて5年後、食料徴発の話が出た折に松岡さんは軽い調子で水を向けた。「そういう時って女の子捕まえるでしょ。おじいちゃんは」と。
「そしたら、しましたなあって。強姦したのって聞き直したら、やりました、って」
4年前、その人は91歳で亡くなった。妻は夫が娘のように心を許した松岡さんに、陥落直後の南京から彼が送った手紙など、多くの遺品を託した。
私ももう一度、前回取り上げた元戦車隊の老人(92)を訪ねてみた。喜んでもらおうと、毎日新聞が保存する日中戦争時の戦車の写真を携えて。
彼は肺炎を起こし、老人ホームから地域の中核病院に移っていた。ホームの職員に「ぜひ写真を見せてあげて」と言われ、病院へ急いだ。
左腕に点滴、鼻に酸素の管をつけ、心拍をモニターする装置の横で彼は眠っていた。しばらく待って目を開けた彼に「僕が分かりますか」と尋ねた。声を出すのがつらいのか、黙ってうなずく。
一通り戦車の写真を見せた後、「話したくないことまでいろいろ聞いて、すみませんでしたね」と声をかけた。
彼は首を小さく横に振り、毛布の下から右手を差し出した。その手をギュッと握りしめる。かすれた声で彼が言った。
「ありがとう……ございました」【福岡賢正】<次回は9日に掲載予定>
毎日新聞 2008年4月2日 西部朝刊