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(回答先: 平和をたずねて:南京−沈黙の深い淵から/3 耳を澄まし、心を通わす(毎日新聞) 投稿者 gataro 日時 2008 年 4 月 19 日 21:28:35)
http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/visit/archive/news/20080409ddp041040019000c.html
平和をたずねて:南京−沈黙の深い淵から/4 自分の青さが嫌になった
老人(92)は京都市でヘルパーに支えられながら一人で暮らしていた。昭和12(1937)年12月14日、歩兵として南京城内に入った人だ。「ご機嫌伺い」と称して、10年前から彼の元へ通い続ける松岡環さん(60)の案内で会いに出かけた。
「城門の前には大きな濠(ほり)がありますのや。橋あらしませんやろ。工兵隊がつるはしで死体を突き刺してね。引きずってきて、土嚢(どのう)代わりに濠を埋めてますねん。その上に板敷いて、連隊砲を引いて私らは入ったんです。グジュグジュブチブチ言うてました。(死体は)何千とありましたやろ。でなかったらあんだけの濠を埋められしません」
前日、彼の部隊が城門の手前で待機していると、日本軍に攻め込まれた城内から逃げようと、門から人々が群がり出て来た。それを門前に陣取っていた別部隊が片っ端から機関銃でなぎ倒した。工兵隊が土嚢代わりにしたのはその死体だという。
「出てくるとこは一方口でっしゃろ。機関銃2台で撃ったら皆死んでしまうがな。死ぬと分かってて出てくんのやから、無我夢中で。向こうは逃げるだけ。鉄砲撃ったりしません。兵隊もおったろうけど、城内にいた普通の避難民が多いですわな。女も男も、誰彼かまわんと撃ってますやろ。まあ皆殺しやね」
彼の部隊も南京戦後の駐屯地で、「子供だろうが年寄りだろうが全部殺してしまえ」との連隊長命令を受け、1カ月間掃討作戦を行っている。
その駐屯地の皆殺し掃討も城門前の惨劇も、「仕方なかった」と彼は言う。
「避難民には兵隊も交じってるんやから。向こうは兵隊の服なんて着てやしません。百姓の格好して銃隠してますのや。子供とかおばあさんなんかも、うかうかしてたら手榴弾(しゅりゅうだん)持ってね、寝てるとこ放ってくる。初めは年寄りや子供はかもたらあかんちゅうことでしたんやけど、晩にそんなんが襲ってきたんですわ。そやから皆殺せちゅうことになったんです」
周り中敵だらけの戦場に放り込まれた兵士にとって、身を守るための「正当防衛」だったというわけだ。確かに兵士にとってはそうかもしれない。だから個々の兵士は責められないと思う。だが、それほどまでの民衆の抵抗を招き寄せた原因は何だったのか。そもそも他国の軍隊に国土を蹂躙(じゅうりん)された民衆が、その駆逐に立ち上がることこそ「正当防衛」と呼ぶにふさわしいのではないか。
昭和20年に再度召集された彼は、東京大空襲直後に東京入りし、多くの死体の処理に携わる。
「防空壕(ごう)の中にいて、そこに焼夷弾(しょういだん)落とされて焼かれたら、まるで炭焼きみたいでっせ。立ったままペチャーンとなって。炭焼く時に立てて並べますやろ。それと一緒ですわ。ああいうことしたんは国際法違反や思うけどね。原爆落としたんも違反やわ。けどアメリカには一言も言わへんがな。おとなしい。つくづくおとなしい。日本は」
人は殴ったことは忘れるが、殴られたことは決して忘れぬと言う。ただ、殴ったことは棚に上げて殴られた痛みだけ言い立てて、共感は得られるだろうか。空襲や原爆投下の非を訴える彼の気持ちはよく分かる。しかしだからこそ、宣戦布告もせず中国の首都南京を占領したり、その後戦時首都が置かれた重慶に3年間にわたって空襲を続けるなど、日本軍が行った暴虐の非も、率直に認めるべきではないか。そう思ったら、口が滑ってしまった。
「日本がアメリカに謝れと言えんのは、日本が中国に心から謝っとらんからじゃないですか」
その場が一瞬凍った。ややあって彼が言った。
「それでもあんた、中国には相当金出してますわね。そうでっしゃろ」
取材を終えて家を出ると、松岡さんに諭された。
「あちゃー言うてしもた、思いましたよ。聞き取りする時、私は自分の意見は挟みません。気持ちよくしゃべってもらうのが一番だから」
個人を責めるべきではない。分かっていても、つい難詰口調になってしまう。それがまた、老人たちの口をつぐませる。
自分の青さが嫌になった。【福岡賢正】<次回は16日に掲載予定>
毎日新聞 2008年4月9日 西部朝刊