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(回答先: 立花隆さんの「メディア ソシオ-ポリティクス」の海外アーカイブを阿修羅のスレッドでまとめて保存してくれないかと、。 投稿者 ROMが好き 日時 2008 年 12 月 05 日 18:06:37)
第46回 衆院選自民圧勝で見えてきた小泉05年体制の危険な兆候 (2005/09/27)
http://web.archive.org/web/20051013081747/nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050927_koizumi/
2005年9月27日
先だって、多くの官庁にまがたる、多数のいわゆる高級官僚たち(局長級)と話をする機会があった。話題はおのずから、小泉政権の今後に向かった。
小泉首相の目先の動きははっきりしている。予告通り、郵政法案を通すことに全力をあげるだろう。そしてそのあと、内閣改造を行うのだろう。
小泉人事の常として、改造の方向性が読めない。そしてそれが読めないと、その先が読めない。
その先の何が読めないかというと、なにより、総理をいつまでやるつもりなのかが読めない。
小泉首相は一貫して、来年9月の任期がきたら辞めるといい、任期延長は絶対にないといってきた。
だが本当にそうか。小泉首相は本当に辞めるつもりなのか。
小泉首相は前言を翻す政治家である
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小泉首相の言を言葉通り受け取り、小泉首相は本当に来年9月に辞めてしまうだろうという人も、後述するように、さまざまな理由から少なくない。
第一に、小泉首相は、自分の前言に異常なほどこだわる人である。今回の解散劇だってそうだ。
「郵政法案が否決されたら解散するっていったでしょう!」
解散したあと、このセリフが何度も小泉首相の口をついて出た。
「来年9月に辞めます。任期延長はありません」
は、それ以上に何度も小泉首相の口をついて出ている。記者団に問われるたびに、何度も何度も同じ答えを繰り返している。
小泉首相の任期延長を求める声が、森派の森会長はじめ、周辺からたくさん聞こえるようになったが、小泉首相はそのたびに任期延長を断固として否定している。
ここまで何度も断固たる否定を繰り返した以上、前言を翻すことが何よりきらいな小泉首相が、それをひっくり返すはずがない、という意見がある。いずれ、自分の前言に縛られて、辞めざるをえない立場に追い込まれるのではないか。
その可能性は大いにある。しかし、それ以上の可能性としてあるのが、前言を翻す可能性だ、と私は思っている。
いまでこそ、解散劇の直後だから、「小泉首相は前言を翻さない人」というイメージが定着しているようだが、実は過去をさかのぼって小泉発言を検討してみると、小泉首相は何度も前言を翻している。
next: 例をあげだすときりがないので…
http://web.archive.org/web/20051013081747/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050927_koizumi/index1.html
例をあげだすときりがないので、ここでは、直近の例を一つだけあげれば、「8月15日に必ず靖国神社に参拝すします」のかねての小泉首相の約束は、選挙を目前にひかえ、靖国参拝した場合の(国内・国際両面の)マイナス効果へのおもんばかりから、破っている。とはいっても、私はこの判断(靖国参拝中止)自体は政治的に正しかったと思っており、約束を破ったのはけしからんというつもりは全くない。
むしろ、私がいいたいのは逆で、政治の世界は、いつもナマの政治力学に押されて流動していかざるを得ない世界なのだから、前言を翻さなければならない状況に追い込まれるのは、むしろ普通のことであって、そこに前言を絶対に翻さないことを鉄則としてもちこんだりしたら、命取りになる(自分で自分の首を絞める結果になる)こと必定なのだから、そんなことはしないほうがいいということである。
といっても、政治家は自分の言葉に責任を持たなくていいということではない。これまた逆であって、政治家の守るべき第一原則は、自分の言葉に責任を持つことである。約束を守ることである。それを忘れて、昨日言ったことを今日は忘れ、いとも軽々と前言を翻しつづける政治家がいたら、たちまち「あいつのいうことはまるで信用できない」という不評が立って、政治家失格になること請け合いである。
反射神経のよい政治家がテレビ時代を勝ち抜く
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前言を翻すためには、それなりの理屈が必要である。一般大衆を納得させることができるだけの理屈が必要である。
それが上手にできるかどうか(大衆を納得させられるかどうか。大衆が心変わりを許してくれるかどうか)で、政治家の器量が定まってくる。
小泉首相は、そういうこと(大衆の納得獲得)がとりわけ上手にできる政治家である。小泉首相の強さは反射神経のよさにある。
テレビ時代の今日、事前に考え抜いた演技をカメラの前で演じることによって、その場その場を切り抜けていこうと考える政治家はもうはやらない。はやらないというよりは、無理が出る。目の前の状況展開が早すぎるときは、状況に即応できず、ついボロを出してしまう。
テレビというのはこわいメディアで、たいていの演技は見抜かれてしまう。ウソをついたり、隠しごとをしたり、遅疑逡巡があったりすると、視聴者に簡単に見抜かれてしまう。
テレビ時代を勝ち抜くことができる政治家は、何かきかれれると、すぐには答を出さず、考えに考え抜いた言葉をゆっくりと繰り出す熟考型の政治家(かつての大平正芳がその典型)ではなく、きかれた質問にすぐ当意即妙の答えを返すことのできる、反射神経のよい政治家である。女性では、かつての田中真紀子がその典型で、小泉首相よりはるかにうまかったが、小泉首相はその後、毎日のテレビぶらさがり取材できたえぬかれているので、これが誰よりもうまくなっている。
next: 理屈はあとからドカンと…
http://web.archive.org/web/20051013085520/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050927_koizumi/index2.html
理屈はあとからドカンとやってくる
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たしかに小泉首相は、前言こだわり型の政治家ではあるが、そこにあまりに重きを置くと判断を誤ると思う。
政治は基本的に、「理屈さえつけば、何でもあり」の世界なのである。その理屈も、必ずしも「もっともな理屈」である必要はない。理屈が何もないのは困るが、「それなりの理屈があることはあった」といえる程度の理屈があればいい。これは、かつて民社党の有名なボス的政治家が、ある政治的大決断(大妥協)を下したあとに本当に使った言葉だが、
「理屈はあとから貨物列車でドカンとやってくる」
で済んでしまうのが政治の世界なのだ。
政治の世界ではときどき、後から考え直してみると、どうにも訳のわからない考え方が、突然主流になって、どんどん訳のわからない方向に押し流されていってしまうということが起こる。
たとえば、94年に、それまで宿敵同士だったはずの社会党と自民党が手を結んで村山政権を作りあげたときなど、いま振る返っても、よくわからない政権誕生劇だった。おそらく、あのとき政治の表舞台からは見えないところで進行していたウラ舞台の大きなドラマの核心部分が、まだ明らかになっていないから、よくわからないのだと思う。
最近、近現代史について書くことが多いからよくわかるのだが、歴史の大転換期において、ウラ舞台で何があったかが本当に見えてくる(ような資料が明るみに出てくる)のは、だいたい4、50年たってからなのである。それは別のいい方をすれば、当事者が基本的に鬼籍に入ってしまってからということなのである。
これは、昭和史に関する重要資料が次々に出てきたのは、昭和天皇が死んでからだったということをふり返ってみればすぐわかることだろう。
細川内閣から橋本内閣にいたる5年間(93〜98年)は、戦後政治の基本構造をなしていた55年体制(自民党と社会党が表では対立しあいつつウラでは談合して政治的利益を分かち合う体制)が、細川内閣成立によってはじめてこわされ、自民党はしばらくの間、政権中枢から切り離されていたが、再び、自民党中心の政治体制を再構築していった時期といってよいだろう。だが、あの間本当のところ、どのようなドラマが進行していたのかを知るに十分な資料はまだ表に出てきていない。おそらく、少なくともあと30年くらいたたないと、本当のところはわからないだろう。
next: 05年体制は本当に「政治の利権化構造」を…
http://web.archive.org/web/20051013085555/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050927_koizumi/index3.html
05年体制は本当に「政治の利権化構造」を解体できるのか
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小泉首相の今回の選挙のバカ勝ちの結果成立した体制をさして、「05年体制」と呼ぶ人がいる。そして、05年体制をもって、あの55年体制が本当に終わったといえると評価している。
この場合、05年選挙によって本格的に終焉をとげたものは、55年体制の中で築きあげられた、自民党中心の「政治の利権化構造」であると見るわけだ。
そういう側面もなきにしもあらずとは思うが、そういいきるのは楽観的すぎるような気がする。
長らく日本の政治をむしばんできた政治の利権化体質が本当にここで終わったのだろうか。政治というのは、国家をどう経営していくか、その基本方針を決めるポリシーボードの決定過程である。
それは基本的に税金をどう集め、どう使うかを決めるプロセスといってもよい。それは予算総額、約80兆円というとてつもない金額にのぼる。政府はわが国最大の経済活動体であり、その身動きひとつが、いかなる民間の経済活動体も比較にならないような大きな経済的インパクトを与えるから、ある意味で、政治(税金の使い方決定プロセス)は、必然的に利権化しやすい傾きを持っている。
別のいい方をすれば、政治というのは、利権の分配そのものという側面を持つから、放っておけば、いつでも腐敗しやすいのである。
政権基盤が安定するほど政治腐敗は起きる
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自民党の歴史を見ると、自民党が選挙で大勝し、政権基盤が安定し、長期安定政権ができたときほど、政治腐敗現象が起きやすい。
良心的な人々が政治権力を握れば、政治腐敗はなくなるなどというナイーブなものの見方は捨てて、誰が政権をとっても、政治権力はいつでも腐敗を起こしやすいと考えて、いつも警戒をおこたらないほうが、健全な社会を築くことができる。
いまの民主党は、ほとんどの政治活動費を国の政党交付金から捻出する「基本的にはクリーンな政党」になっているが、自民党はまだそうはなっていない。企業や業界団体から政治献金を集めては、独自の政治活動資金として使うという昔ながらの体質を残しており、それが政治腐敗と結びつきやすいということは、「日本歯科医師連盟(日歯連)ヤミ献金疑惑」事件を見てもわかる。
これから05年体制が、日本の政治の流れを大きく変える可能性を持っているというのはその通りだと思うが、それがどのような方向性を持っているかはまだ見えてこない。日本の将来にとっていい方向性なのか、よくない方向性なのかもまだ見えていない。
next: 政治の正しい評価は…
http://web.archive.org/web/20051013085645/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050927_koizumi/index4.html
政治の正しい評価は、結局のところ結果次第なのだから(政治学の常識として、政治責任はいつも結果責任でしかありえない)、これでもう、政治の利権化構造はなくなったなどという根拠のない安心感にひたらないほうがいい。
05年体制についていうなら、私はむしろ、そこにかなり危ない可能性が秘められていると思っている。それは、この選挙で小泉首相が衣の下にちらつかせたヨロイが、本質的に反民主主義的な色合いを帯びているということである。
戦時下の大政翼賛選挙と酷似した政敵抹殺の手法
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小泉政治をふりかえってみると、政権成立当初から、政敵を殺すことに熱中してきたという側面がある。
政敵を容赦なく徹底的に殺してきたから、ついに対立派閥は事実上ひとつもなくなり、小泉首相の一人天下になった。選挙が終わったあと、永らく日本の政治をウォッチしてきたある外人記者が、「これでコイズミは日本のエンペラー(皇帝または天皇)になった」
と評したというが、本当に小泉首相は、日本の政治地図の中で、それに近いポジションを占めるにいたったようである。
この選挙を見て、私が思い出したのは、東条英機首相が昭和17年に行った大政翼賛選挙である。当時、すべての政党が解散させられて、大政翼賛会に吸収されてしまっており、日本の社会から政治的自由はほとんどなくなっていた。国会が開かれても、議員には、政府を批判したり、政府提案に反対したりする自由は事実上なく、戦争遂行という大政を翼賛するために、政府提案になんでも賛成するロボット議員たることだけが求められていた。
それでも大政翼賛会ができる以前から議員になっていた政府批判派の議員が多少はいたため、東条は、それを選挙ですべて落としてやろうと考えて、当時の468選挙区のすべてに、翼賛政治体制協議会という政府御用の選挙運動団体を作り、そこが推薦する候補者を各選挙区に一名づつ立てた。その選挙運動を役所から警察までが支援して、ほとんど政府直営選挙のごとき状態にした。
next: 自由選挙の体裁を保つために…
http://web.archive.org/web/20051013085906/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050927_koizumi/index5.html
自由選挙の体裁を保つために、翼賛政治体制協議会の推薦を受けない人間も立候補することを自由にしたが、非推薦候補の選挙運動は役所も警察も徹底的に妨害して、落選させようとした。
そこまでしても、推薦候補は381名しか当選できず、非推薦候補の中から85名が当選した。非推薦候補の得票を全部合わせると、実に35%にも及ぶ得票を集め、東条の心胆を寒がらしめた。
反対派を完全封殺したあとに残るものは
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今回の選挙における、小泉首相の郵政反対派に対する扱いは、このときの東条の非推薦候補に対する扱いとそっくりである。
要するに、法の許す範囲で自民党ならびに政府が与えられる影響力を駆使して、すべての反対派議員の政治生命を抹殺しようとしたのである。
政治というのは、せんじつめれば、「あいつは敵だ。あいつを殺せ!」の一言に集約されると喝破したのは埴谷雄高だが、小泉首相は05年選挙においてそれをやってのけたといえる。そして、昭和17年の大政翼賛選挙以上の成功をおさめたといえる。
なにしろ昭和17年選挙では、非推薦議員が85名も残り、大政翼賛会による議員の完全制圧はならなかったのだが、05年選挙では、自民党内部にかぎっていえば、反対派は、非公認あるいは除名によって、完全に排除され、いまや18名の無所属(あるいは6名の新党所属)議員が残るのみである。
要するに自民党の内部は、完全大政翼賛会状態になってしまったのだ。その状態に国民大衆が無邪気に喝采を送っているというのは、危険な状態だと思った。昨日の小泉首相の所信表明演説に拍手喝采を送る小泉チルドレン議員たちの姿を見ながら、私は、いま日本の政治はとても気味が悪い状態になりつつあると思った。
立花 隆
評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。
著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。
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