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露鵬は頑強に疑惑を否定している。
私はこの事件を”冤罪”ではないかと疑ってきている。
この冤罪?事件の切っ掛けは、南オセチアを巡ってのロシアとグルジャの戦争であると私は考えている。
◎最早臨終間近のブッシュ政権をロシアは本気で相手にしなくなった。
そしてロシア・プーチン政権をを決断力に欠けるであろうと推測して、カスピ海周辺の石油資源の支配権を巡ってのロシアへの勝利を願い、その第一段階としてのイラン政権の弱体化と崩壊をあわよくば実現しようと考えていた可能性のある米国を始めとする「凶悪の枢軸」の様々な謀略に対し、ロシアは断固たる反撃に出た。
それが南オセチアに対してのグルジャ侵攻に対するロシアの反撃であった。
これにより、イスラエル空軍と米空軍のイラン爆撃は不可能となった。
この様なロシアの積極的な対外政策の発露は米国を始めとする「凶悪の枢軸」にとっては思いがけないものであり、緊急に防衛策を講じなければならなくなった。
日本においては、ロシアと日本の関係が深まる事への妨害策を講じる必要が生じたと考えられ、その実現が図られたと考えられる。
◎今回の大相撲界におけるロシア出身力士の大麻疑惑は、
仮に、検査段階において贋の検査結果と贋の証拠品を前もって準備しておいて、それを彼らロシア出身力士のものとして発表してしまえば、容易にでっち上げる事は出来る筈だ。
これは方法としては随分と手の込んだ「謀略」である。
謀略工作の手法である。
世間一般の人々は、「たかが大相撲の問題にどうしてそのような手の込んだ謀略が必要なのか? それほどの問題ではない筈だ」と考えるだろう。
しかしこの問題は、
大相撲の問題ではなく、
外交上の政治的テーマが問題とされている筈なのだ。
朝青龍と白鵬の活躍により日本大相撲そして日本とモンゴルとの友好関係が大いに深まっている。
ロシア出身力士達の今後の活躍により、ロシアと日本との友好関係が構築されて深まる可能性がある。
さらにプーチン首相は柔道の達人であり、「人格形成は柔道に拠った」とまでの発言を行う人物である。
さらにロシアが映画「太陽」を製作した事も忘れてはならない事である。
この映画は昭和天皇をテーマとしていた。
言うまでもない事だが、大相撲と皇室との関係は明治時代から始まって深いものがあるようだ。
古代から伝統的に深い繋がりがあったものではないようだが、現在は繋がりが深い。
これは大きな問題なのだが、
大相撲を通じて、皇室とロシアとの関係が深まる事も有り得るのであり、
日本皇室を包囲しておきたい外国勢力は、他の外国勢力の接近を快く思わないであろう。
ましてや、それが潜在的な強敵と看做すべき相手であればなおさらである。
従って、なんとしてでも二人のいや三人のロシア出身力士達に「汚れた相撲取り」とのレッテルを貼って、大相撲から追放し、ロシア国家への嫌悪感を日本国民に植え付けようとしているのではないのか。
しかし、ロシアの最近の外交・軍事行動は侵略的な目的のものではなく、包囲策謀に対する防衛的な意味合いが強いものと考えられる。
露鵬と白露山の冤罪疑惑を晴らす努力が必要だろう。
彼らは「絶対にやっていない」と主張しているのだ。
この二人はグルジャ戦争に絡んだ北オセチアの出身者である。この事実からも今回のグルジャ戦争絡みのロシアへの嫌がらせの意味を含んだ”冤罪事件”の可能性が高いのだ。
さらに8月18日に逮捕された若ノ鵬についても、彼は「飲みに行った時に黒人とロシア人に大麻を勧められた」と語っていた事から、勧めた黒人とロシア人が謀略工作員であった可能性も考えられるのだ。
「政治的大謀略事件」の可能性が高い事件である。
背景を探らなければならない。
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2008/09/07/04.html
露鵬「やっていない」大嶽親方法廷闘争も
部屋前で会見に臨む(左から)大嶽親方、塩谷安男弁護士、露鵬
Photo By 共同
幕内・露鵬(28=大嶽部屋)は、それでも疑惑を否定した。相撲協会からA検体が陽性だったとの報告を受け、6日正午すぎに師匠の大嶽親方(元関脇・貴闘力)、弁護士とともに東京・江東区の同部屋で会見。あらためてマリフアナ吸引の事実を完全否定し、2日の抜き打ち検査が公平性を欠いていると主張した。大嶽親方は法的手段に訴えることを示唆しており、大麻問題は泥沼化の様相も呈してきた。
無数のフラッシュを浴びた露鵬の肩が怒りに震えていた。2日の簡易検査に続き、A検体の精密検査も“クロ”だったが「自分は大麻とかやっていないし、相撲が大好き。相撲を一生懸命頑張る。以上です」と潔白を主張した。再度、吸引の事実を問われても「絶対に吸っていません。結果は信用していない」と吐き捨てるように訴えた。
6日朝に相撲協会から精密検査で陽性反応を示したと報告を受けた師匠の大嶽親方は、顧問弁護士の塩谷安男氏と協議。正午すぎに開いた会見には塩谷弁護士も出席し、2日に行われた抜き打ち検査の方法、手順が不適正だったと主張した。
塩谷氏は(1)簡易検査は氏名を特定せず、先入観を与えないことが前提。今回は露鵬本人や周囲の親方、力士に陽性反応が分かるような検査方法だった(2)尿を採取するコップは任意で選択すべきなのに、一方的に手渡された(3)簡易検査で陽性反応を示した時点では大麻吸引と特定できないのに、その段階で警察に通報した――など公平性に問題があると指摘。露鵬によると、検査キットでの色の反応が他の力士と同レベルだったのに、大西氏から陽性を示す「薄い」色だったと断定され、精密検査では尿の入ったボトルに名前を書くラベルを張られた形跡もなかったという。
大嶽親方は会見後に国技館で行われた年寄総会に出席し、79人の親方の前で露鵬の気持ちを書面で代弁。「協会の検査はおかしい」と訴えるとともに「裁判で争います」と徹底抗戦の姿勢を見せた。B検体も陽性だった場合は、別の機関での再検査や提訴などの手続きに入る可能性が高く、協会員が協会を訴える異常事態に発展しかねない状況になった。
[ 2008年09月07日 ]
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn086.html
(前略)
古式大相撲
同じような目的を持つ、シンボリズムや文化的装飾の使用は、相撲の中では多く見られます。ここでは、平成 7年(1995)2月5日に行われた《古式大相撲》での儀式の事例を取り上げたいと思います。その分析は、シンボルをいかに操り、存在しない過去との虚構のつながりを拡げていったのかを、理解させてくれます。その目的は、目に見える形で、連続性を想起させることです。(写真・1 古式大相撲と相撲節会(省略))
古式大相撲は、昭和天皇に捧げる、『報恩古式大相撲』の儀式として開催されました。昭和天皇は、20世紀における相撲の合法化にとって重要な存在でした。主催は、報恩大相撲実行委員会、協力は、財団法人相撲協会、昭和天皇崇敬会でした。1200年前に行われていた相撲の再現として、マスコミに伝えられました。
ここでは、古式大相撲が行われた舞台の全体が見えます。この古式大相撲は、平安時代の相撲節会はこうであったのではないか、と描かれた絵巻をもとにしています。
しかしながら、この絵巻は明治時代に作られため、平安時代の相撲節会の忠実な描写であるのか、または、相撲の歴史を明治時代の先入観で変えてしまったのか、正確に裏付けすることはできません。(相撲を題材にした版画の中には、明らかに想像の産物であったものもあります。)
古式大相撲と一致しない点が、二点あることに、すぐ気づきます。まず、とりおこなった期日です。相撲節会は7月、七夕の日に開催されたのに、古式大相撲は2月に行われました。
次は、平安時代に行われた相撲節会が宮廷内の庭で行われたのに対し、古式大相撲は国技館で開かれました。古式大相撲の観客の存在は、相撲節会が平安時代の天皇と宮廷人のためだけであった、その閉鎖性と矛盾するものです。
全般的に言って、古式大相撲は、現在の相撲と相撲節会の儀式を一致させようとする、多大な努力の結晶です。その結果、現在と古いと想定される様相が混成されています。相撲節会の舞台を手本にしているにもかかわらず、現在の相撲をそのまま残した部分もありました。例えば、平安時代には土俵は存在しなかったのに、古式大相撲では存在します。どうしてでしょうか?
国技館では、土俵は床の下に収納することができます。国技館が相撲以外の他の催し物に貸し出される時には、土俵は収納されてしまいます。古式大相撲の場合もそうしたら、より相撲節会に近づいたことでしょう。しかしながら、実際には土俵は、まるで平安時代にも存在したかのように、そのまま残されました。というのも、土俵は、現在の相撲において、最も神聖なるものを象徴する要素の一つであるからです。現在のところ、靴を履いて土俵に上がることはできません。女性に至ってはもう、土俵を触ることすら許されません。神聖なる土俵が汚れてしまうからです。
そうはいっても、土俵は比較的新しいものです。相撲を取る場所は、江戸時代初期の頃は、明確に定まっておらず、偶発的なものでした。基本的には、《人方屋(ひとかたや)》と呼ばれる、相撲を見物しようとする人たちが周りを囲んで作る人垣が、現在の土俵の代わりでした。(写真・2 土俵の変遷(省略))
しかし、江戸幕府が再三に渡って相撲を禁止したため、見物人と相撲を取る者たちを離す境界線の設置は、必要に迫られました。相撲を取る場所は、当局に認められるために、統制され始めました。俵を間に置くようになり、17世紀後半には最初の土俵が生まれました。
18世紀には、様々な形態の土俵が試されましたが、確固たる均一な土俵ができるのは、江戸末期まで待たねばなりませんでした。卑俗な出自を忘れる必要から、寛政3年(1791)吉田追風に、当時の将軍・徳川家斉の上覧相撲のために、《方屋開》を考案させることになりました。
この儀式は、その後、明治天皇臨席の下での儀式の中で、また作り上げられ、後年写真で見るように土俵祭りとして、さらに作り上げられることになります。
神聖性は、江戸幕府による禁止令を乗り越える必要性から生まれました。宗教の中に何かを発見することは、相撲を行う許可を得、禁止令を受けずにすむ合法的な手段となりました。古式大相撲において、土俵をそのまま残すことは、やっとの思いで獲得した神聖不可侵の雰囲気を保証することにつながりました。(写真・3 館から吊り屋根へ(省略))
吊り屋根もまた、古式大相撲の儀式の間ずっとありました。もちろん吊り屋根も取り外すことができるのですが、そのまま残しました。どうしてでしょうか?土俵と同じように、吊り屋根も宗教性と古さの雰囲気を醸し出すのです。
もちろん、この吊り屋根は相撲節会においては存在しませんし、明治時代に描かれた絵巻にもその存在はありません。
吊り屋根の出現は、かなり新しいことです。20世紀の前半、《館(やかた)》または屋根は、次第に関心事となっていきました。その形式も変遷しました。
簡単なもの(小屋根)から、より洗練され東洋色が際だつ《入母屋(いりもや)》のようになりました。
昭和6年(1931)以降、皇室との決定的な提携を模索し、伊勢神宮の屋根を模倣する、吊り屋根に変わりました。
昭和28年(1952)、観客やテレビ・カメラの邪魔にならないよう、ケーブルで天井に吊り下げられることになりました。
また、古式大相撲では、土俵や吊り屋根だけがそのまま残されたのではありません。現在の職業相撲における構成員である、力士、行司、審判、呼び出しが相撲節会を模倣した役割を果たし、そこにまるで歴史的な連続性があるかのように見せました。雅楽演奏だけが唯一、相撲協会の関係者の手によるものではなく、専門家の助けを借りました。
まず、現在の力士達が相撲人を模倣しました。(写真・4 古式大相撲での取り組み(省略))
しかしながら、相撲人は、相撲を職業としてはいませんし、相撲部屋に住んでもいませんでした。彼らは毎年、強制的に徴発されたのでした。それにまた、取り組みは、現在の勝負制度に沿うものでもありません。当時は、仕切りも立ち会いもありませんでした。現在のようなまわしをつけておらず、《とうさぎ》と呼ばれる、形も素材も異なるものでした。その結び方もまちまちでした。それにもかかわらず、古式大相撲では、過去に存在していたかのように、そのまま使われていました。そしてまた、明治42年(1909)に義務づけられた大銀杏髷もそのままで、相撲節会の時代の髪型を尊重していません。
相撲節会では、取り組み時の進行役に当たる人物がいませんでした。先に倒れた者が敗者となりました。しかしながら、古式大相撲の取り組みでは、現在に倣って判定が行われました。行司が、現在幕内で行われているように、立ち会いを指揮しました。(写真・5 行司の装束の変遷(省略))
しかし、明治42年(1909)に国技館が建設された後、皇太子の訪問を前にして、行司の役割に威厳を与えることになり、それにふさわしい装いを探しました。
それ以来、行司は足利時代の烏帽子や直垂をつけることになりました。その結果威厳あるものとはなりましたが、時代考証で何世紀かの誤りが生じました。古式大相撲では、これを訂正することになりました。行司は、相撲節会における近衛次将の立ちを真似ていました。しかし、行司は、近衛次将の装いを特徴づける、弓も矢も持っていませんでした。その代わりに、その手は、江戸時代に大分入ってから導入された軍配団扇を持ったままでした。
そのあいまいさの極みとして、手刀がそのまま行われました。古式大相撲の時には懸賞のためではなく、橘と夕顔の花を受け取るためでした。しかし、相撲節会の描写においては、相撲人たちは立ち去る時、その花を髪に挿して行きました。それも、行司から手渡されたのでもなければ、ましてやそれを受け取る際、現在、行われている手刀を切ったわけでもありませんでした。
また別の問題は、審判にありました。過去に復活・・させるために、審判の問題はどうしたのでしょうか?その答えとして、彼らに烏帽子をつけさせました。相撲節会には審判に当たる者がおらず、唯一真似できる人物は、宮廷の庭に座っている《出居(いでい)》でした。(写真・6 古式大相撲での審判の装束(省略))
審判はえんじ色の《すおう》をつけ、いつもと同じように土俵下に陣取りました。審判の人数は、江戸時代に審判が生まれて以来、変化してきました。昭和5年(1930)審判が土俵下に座り始めるようになった頃、その人数は5人と定められました。この規定が最も新しく、古式大相撲でも、この人数が採用されました。
相撲における呼び出しもまた、比較的新しい役割です。呼び出しという言葉が最初に記録されているのは、江戸末期のことで、最終的に確立されたのは19世紀後半のことです。江戸時代初期の頃のその役目は、行司の役目と区別がつきませんでした。(写真・7 現在と古式大相撲での呼び出し(省略))
タッツケ袴と呼ばれるその興味深い服装は、江戸時代には専ら旅装として用いられたり、動きの多い下人が着けたもので、ポルトガル語のカルサオに由来するとも考えられます。しかし、古式大相撲では、呼び出しは烏帽子をかぶり、白い服装で現れます。
呼び出しの誕生は、土俵の出現と共にやって来ました。つまり、力士の名を呼び上げたり、土俵を作ったり、 その世話をしたり、太鼓を叩いたりする人手が入り用だったのです。
こうした役目は、相撲節会においては何ら必要ありませんでした。しかし、古式大相撲では、呼び出しは相変わらず土俵の掃除をし、塩と力水のそばを離 れませんでした。古式大相撲では、呼び出しは、相撲節会における《唱名ふしょう》と名を変えました。結局のところ、相撲人の名前をどうやって天皇に伝えたのかは、はっきりとわかっていませんが、古式大相撲において、力士の名前は、行司によって大きな声で呼び上げられました。
この日には、また別の儀式がとりおこなわれました。例えば、三段構え、神相撲などですが、これらもまた同様に、今まで申し上げたように、非連続性の観点から分析することができます。
古式大相撲は、新しい儀式を設定するための実験でした。この分析を通してみると、相撲における多くの儀式は、実質的に、望ましいものの集合体であり、望まないものを消去することで生まれました。出羽海理事長は当時、こう述べています。
「色々説はあるのですが、それを取捨選択して、一つの形にしたわけです。これを今後の基本にするつもりでいます」。
結論として
相撲節会を思い起こすことと、それを現在の相撲と合体させるために、混合させることとは別問題です。まず、相撲協会が独占している相撲は、国技の名称を継承していくためにも、『古くからのものであること』を必要としています。しかしながら、もし相撲節会を、従来語られてきたように表現すれば、そこから得るイメージは現在の相撲とはかけ離れてしまいます。その代わりに、常に現在から端を発しながら、相撲節会との虚構のつながりを探すのです。様々な儀式と結びつけ、色々なシンボルを挿入し、登場人物を他の登場人物にすり替えたりすることで、現在の相撲が古来から存続しているように見せるのです。こうして混成された儀式に、《古い》または《古式》という冠がつけられます。
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id324944/
原題: SOLNTSE/LE SOLEIL/THE SUN
製作年度: 2005年
別題:−
製作国・地域: ロシア/イタリア/フランス/スイス 上映時間: 115分
allcinema ONLINE(外部リンク)
解説: ロシアの鬼才アレクサンドル・ソクーロフが、20世紀の権力者を取り上げた『モレク神』『牡牛座』に続き、昭和天皇を主人公にした問題作。神と崇められ、戦争に翻ろうされた天皇が、終戦から一転して「人間宣言」へ至る苦悩と孤独を詩的なタッチで描く。昭和天皇役には映画、舞台以外にも多方面で活躍するイッセー尾形がふんし、桃井かおり、佐野史郎が共演。天皇ヒロヒトの人間的側面に迫る本作は、第55回ベルリン国際映画祭など世界各地で絶賛された。(シネマトゥデイ)
あらすじ: 1945年8月、待避壕(敵の砲弾などを避けるために掘った穴)もしくは生物研究所で暮らしていた昭和天皇ヒロヒト(イッセー尾形)は、自分を神と崇める側近たちに孤独を覚えていた。唯一の安らぎは生物標本を眺める時だけで、戦争終結に苦悩する天皇は日本が焦土と化す悪夢にうなされる。そして、連合国占領軍総司令官マッカーサー(ロバート・ドーソン)との会談の日が訪れる。(シネマトゥデイ)
インタビュー
2006年8月3日
『太陽』佐野史郎単独インタビュー
昭和天皇を主人公に描いた人間ドラマ『太陽』。神とあがめられた天皇が、終戦から「人間宣言」へ至るまでの苦悩と孤独を詩的なタッチで映し出している本作で、天皇の侍従長役を演じた佐野史郎に話を聞いた。
映画レポート「太陽」ソクーロフは昭和天皇を描いたのか? それとも日本を描いたのか?
これは後から聞いた話だが、この映画、俳優たちに左右逆で演技をさせて、それを鏡に映したその鏡の映像をカメラが写しているのだそうだ。すべてがそうなのかどうかは分からない。嘘かもしれない。でも確かに、変なのだ。 日本人が描くことの困難な昭和天皇の人間宣言の前後をロシア人監督が映画にし、昭和天皇に扮するイッセー尾形をはじめそれぞれの登場人物たちが、まるでかつての日本映画のホームドラマのような演技をして、静けさとそれ故の深い悲しみと微かな希望が画面を覆うこの映画、何かが狂っている。どことは言えない。これは「昭和天皇」を描いた映画なのか? それとも「日本」という国そのものを描いた映画なのか? タイトルの「太陽」とは何を意味するのだろう? さまざまなことが考えられる。天皇そのもの、沈みゆく太陽、その一方で終戦後の新たな日本の夜明け? しかも、この映画のほとんどが、仄暗い地下室の中。これはいつの映像なのだろう? ここに映っているのは何だろう? そこからは彼らの体温が感じられない。いや、感じられないと思うくらいの弱い体温が、そこにはある。それは希望だろうか? 絶望ではないだろう。世界中で戦闘が止まない人間世界の未来を、このロシア人監督は、この映画の昭和天皇の微かな体温の中に見ているように思う。(樋口泰人)(eiga.com)
[2006年08月03日 更新]
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