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(回答先: これぞまさしく安藤昌益が語った「自然真営道」の世界。 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 8 月 18 日 13:25:49)
http://homepage3.nifty.com/shouhakudou/andousyouekinokome.htm
安藤昌益の米
中村 篤彦
1.昌益とどう向き合うか
先日、三月十日の朝日新聞夕刊に「安藤昌益の新史料発見」という小林嬌一氏のレポートが掲載されました。冒頭で「人間の平等を解き、封建制度を徹底的に批判し、……男女と書いてヒトと読ませる人間平等論。地中の鉱物を掘ると異常が起き……医学の基本は産婦人科にあり、不耕貪食は人間の最大の犯罪なり……と喝破した思想家で医者の安藤昌益」と昌益の現代性を紹介されてます。新史料はその昌益が医学を修めたとき誰について学んだのか、その師匠が特定できそうだというもので、私にとってはわくわくするような待望のニュースです。
この記事に書かれているように、ちょうど今から百年前、埋もれていた昌益の著作を発見したのは狩野亨吉でした。以来さまざまな研究や新史料の発見がありましたが、私のようなアマチュア昌益ファンが系統的に読めるようになり、全貌に接することができるようになったのは、一九八二年の『安藤昌益全集』(1)からです。寺尾五郎先生を代表とする安藤昌益研究会の執念の努力で農山漁村文化協会から刊行されたこの全集は、読みにくい昌益の漢文を読み下し、現代語訳までつけるといった徹底的な仕事で、しかも当時、発見されつつあった新史料をタイムアップぎりぎりまで収めてくれました。まことにこの全集で昌益は現代に蘇ったと言っていいくらいです。これから書いてゆくこのエッセイの引用などはすべてこの全集によります。
さて、本稿では、昌益が「米」についてこんなことを書いている、こんなことも言っている、と紹介していくわけですが、昌益のような巨人を相手にする二百五十年後の私たちが陥りやすいのは、知っておしまい、感嘆しておしまい、という空回り読書です。そりゃ知らないよりはいいし、誰だって昌益を読めばよくもまーあの時代にこんなことを書いたものだ、奇跡だと深々と感嘆するでしょう。それはそれでいいのですが、たとえば、左翼的な評者は昌益の平等主義を、なんと人権宣言より五十年はやく、『共産党宣言』より百年もはやく、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」に先立つこと百五十年、世界史的にみても誠に奇跡的と言いました。地球環境が第一の課題になった今日ではまた、鉱物を掘ることを戒めた昌益をとりあげ、エコロジーの元祖ではないか、と感嘆します。私にはなんとなく得心がいかない。自分のいまの立場を強化する文章を昌益の著作から見つけて、どうだ、という感じ。
私が昌益の「米」について何か書くなら、できれば次のようなことを意識しながら書きたい。それは十八世紀前半の江戸時代、封建時代のいきづまりの中で、「近代人」が生まれつつあった時代の知識人としての昌益を、それから二百五十年後、近代がいきづまり、大きな意味での「ポストモダン人」が生まれつつある現代のわたしたちが読むという態度です。こんな「米論」がある凄いだろーだけでなく、せっかく「米」を書くのだから、腹の足しになる読書をしたいのです。
(1) 農文協「安藤昌益全集」(全二十一巻二二冊別巻一)。これまで発見されている昌益の著作がすべて入っている。現代語訳つきなので読みやすい。特に第一巻は昌益の思想のエキスを集めてあるので入門者には最適。分売されている。
2.昌益とその時代
安藤昌益といっても、一部のマニア以外の方には馴染みがうすいと思うので、彼の生涯と時代背景を紹介します。こんど年表をみてあらためて驚きました。彼の生年は一七〇二年、又は三年と推定されてます。一七〇二年といえば元禄十五年、その年の暮れに、お馴染み赤穂浪士の討ち入りがあり、翌年には切腹を命ず、の裁定がおこなわれます。この決定をしたのが、幕府のブレイン荻生徂徠という儒者です。世論、庶民は圧倒的に四十七士支持でした。温情あるご処置を、というわけです。徂徠は「法治」を楯にして、温情派の声に同調せず、打ち首を切腹に減刑しただけで、事態を収拾しました。このことを一つの例としてとりあげ、仁義礼智信といった儒教的日常意識(理のある仇討ちは男子の本懐)から一歩脱けでた近代意識の萌芽を徂徠にみたのが先年なくなった丸山真男です。断固たる処置をせず、あんな討ち入りを認めていたのでは、徳川幕藩体制はもたない。いってみれば反乱から体制を守るための旧い意識の側からの窮余の一策ではあっても、この時の徂徠が当時の思想全部といっていい儒教とくに朱子学(後儒)の世界で、おこなった仕事はまことに革新的でした。
もうひとつ年表をみて気付くことは、朝礼暮改を地でゆくような、たてつづけに又繰り返し出されている、倹約令に代表される経済関連諸法案! です。武家は町人からの借金を年賦! でもいいから返しなさい、といった涙ぐましいお達しもあります。昌益の生まれた今の秋田県と青森県の境の大館のような地方(当時の新田開墾政策で北にひろがりつつあった、植民政策による米作の北進)でさえ、京や大坂との交流は盛んで、優秀な子弟は京に遊学することは珍しくなかったといいます。このように人や物や情報が、幕藩体制をこえて往来しはじめると、動いている人、働いている人に、武士階級はもうかなわない。弥縫策をいくら出しても体制はもう持たない。近世から近代へ移りつつあるのです。
昌益は一七六二年に六十歳で没したと推定されてますから、活躍したのは十八世紀前半。この時代に知識人の側から近代を用意したのは、先述した荻生徂徠と先輩格の伊藤仁斎が代表。ほぼ同じ文脈でもう一人挙げるなら、加藤周一が最近その短い生涯を芝居の脚本にしたりして何かと話題の富永仲基という天才がいます。医学のほうでは(昌益も一口でいえば儒医ですが)儒医から近代的な医者への先駆けをなしたのは、山脇東洋と吉益東洞が代表。みな同じ時代を呼吸していた人々です。ただ昌益はこれらの有名なオーソリティ達とは違って、ほとんど無名でしたし、今でも知る人は少ない。彼の息子だろうと推定される、安藤周伯という人物の名が、山脇東洋(昌益と同年に没)の息子の山脇東門の門人帳に載っているにすぎません。
3.なぜ昌益は忘れられたのか
どうして安藤昌益が無名だったかといえば、ひとつには彼の唯一の刊行された本である、印刷された「自然真営道」という意味で『刊本自然真営道』と現在いわれる書物も、その内容からいって、とてもあの江戸時代に流行するようなものではなかったこと。もうひとつは、彼の死後三年にしておこった、昌益一門にたいする迫害で書きためていた原稿が弟子たちによって秘蔵、秘匿されたこと。そのなかには発刊はされなかったが原稿又は弟子たちの写本として残っている「自然真営道」という意味で『稿本自然真営道』と呼ばれる書物(刊本のそれとは内容が大分違う)と、もうひとつ『統道真伝』という本があります。以上の三種類の本が昌益を語る資料のすべてといってよいのですが、発見されたのは、死後百五十年たった明治時代の後半になってからです。
前項であげた、儒者としての荻生徂徠や伊藤仁斎にしても医者としての山脇東洋や吉益東洞にしても、その著作は当時からよく読まれたし、発禁処分にちかい扱いを受けたわけでも、その一門が抹殺されるような迫害をされたわけでもない。吉益東洞の漢方医学の本などは当時の医療従事者が先を争って読んだベストセラーだったといわれてます。そうしたなかでは、思想的な内容では百五十年後に発見されるまでは、とても流布されるような内容でなく、革新的、革命的だった昌益は知られようもなかったし、一方、医者としての昌益は、山脇や吉益のように、当時の革新的、近代的な医者のはしりをゆくわけでもなく、いってみれば古くさかった。つまり思想家としては時代を超えすぎていたし、医者としては当時流行の、そしてその後の日本漢方の主流になった「古方派」ではなかった。そのへんが昌益が歴史に顔を出すのが遅れた理由だし、再評価されたとしても、思想家としてであって、医者としては現代の漢方家のあいだでもいまひとつ有名でない理由です。
言葉の説明をすこし。当時の主流である十二世紀以降の朱子学を中心とした儒学を「後儒」と呼ぶのは、伊藤仁斎らが儒学の原点・原典である『論語』にかえれという革新的な「古学」を提唱したから。同じように当時主流だった、十二世紀以降の医学を二人の有名な医者の名前をかぶせて「李朱医学」といいますが、これを「後世方」というのは、吉益らが、漢方の原点・原典『傷寒論』にかえれと叫んだから。これを革新的な「古学」にならって「古方派」という。つまり「古」は「後」よりも新しく革新的だということ。キリスト教の教義にがんじがらめの中世から、ギリシャやローマの人間性に還れというヨーロッパの「ルネッサンス」と同じ意味あいの潮流が大分遅れて、元禄時代の日本で起こったということです。
4.臨床家としての安藤昌益
第一項で、今から百年前の明治三十二年、安藤昌益の『稿本自然真営道』が狩野亨吉によって発見されたと書きました。その後『刊本自然真営道』と『統道真伝』が発見され、昌益の著作は大体そろいました。その後、狩野や渡辺大濤や丸山真男や少数の研究者が論文を発表しましたが、一般にはまだ知られていませんでした。この間、関東大震災のとき、東大図書館の所蔵となっていた『稿本自然真営道』百一巻のうち、八割くらいが焼失してしまいます。焼失した部分に昌益の医者としての業績があったのですが。昌益のような過激な危険思想でもおおっぴらに発表できるようになった戦後、昭和二十五年、カナダ人の外交官で日本研究家、戦後の日本の民主化にも影響力があったといわれる、ハーバート・ノーマンが岩波新書で『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』という本を書き、昌益はようやく一般に知られるようになりました。
同じ年の秋、『綜合医学』という医学雑誌に「臨床家としての安藤昌益」というエッセイが掲載されます。筆者は漢方界の大先輩、龍野一雄です。一部引用すると「たまたま浅田宗伯の『方函』という医書(明治九年)を読むうち、『安肝湯、安藤昌益伝、治小児腹膨張』という一節を見い出した。他に同名異人も心当たりがなく、且つは昌益という名もざらにある名ではないから之を以て自然真営道の著者安藤昌益と推定しても誤りではないであろう。浅田宗伯は頗る博学の人で用いた処方も古今和漢を通じて博採衆方を旨としているが、昌益の方を如何に見い出したかは手掛かりを得ない」。
つまり明治三十二年に狩野によって発見される前から漢方医なら誰でも読む有名な『方函』に安藤昌益という名は載っていたのです。おそらくこれが医学正史に唯一でてくる安藤昌益です。浅田宗伯は幕末から明治にかけての漢方界の最後の巨頭といわれる人で浅田飴をつくった人。『方函』という処方集には方剤を紹介したあと、その出典が書かれていますが、「〇〇伝」という書き方はここだけです。稿本自然真営道(震災で焼失してしまった医学の部分)を浅田が直接入手していて引用したのなら「〇〇伝」とは書かないで、ただ安藤昌益とあるはずです。
恐らく龍野先生はその年、岩波新書で話題になった安藤昌益からそういえばという形で思いつき、このエッセイを書かれたと想像しますが、結論は「手掛かりを得ない」でした。
それから二十年後、昭和四十四年に昌益研究者の山崎庸男は京大医学図書館の富士川文庫の中から、『真斎謾筆』なる古医書を見い出します。分厚い処方集で、そのなかには余人にはありえない昌益特有の用語や医説がいっぱい書かれていたのです。そして決定的だったのは、あの浅田宗伯が引用した安肝湯の記載がそのままズバリあったのでした。
5.古医書『真斎謾筆』の発見
昌益の医学分野の業績の発見についてまとめると、明治九年に発刊された『方函』という有名な漢方医学書に「安藤昌益伝―安肝湯」という記載がたしかにある。明治三十二年、狩野亨吉によって発見された「稿本自然真営道」(以下「稿本」と略記)の後半部分は医学書だが、関東大震災で焼失してしまい、残った目次だけから内容を推測するしかなかった。昭和二十五年になって「忘れられた思想家」として、昌益は一般にも知られるようになり、同年、漢方界から『方函』に載っている安藤昌益と忘れられた思想家の昌益とは同一人物ではないか、という指摘があった。
そして昭和四十四年、京大医学図書館から『真斎謾筆』という医学書が発見されました。その後の研究で内容をたどっていくと、「稿本」の焼失を免れた目次の後半部分とぴったり一致するし、漢文ではなく和文に読み下してあるが、昌益にしか書けない独特の表現が多い。さらに『方函』に紹介されている安肝湯(一〇種類の生薬から成る)と一〇種類の生薬までぴったりと一致している安肝湯の記載が見つかったのです。以上を証拠として、『真斎謾筆』という処方集は焼失してしまった「稿本」の医学書部分の一〇〇パーセントそのままではないにしても、写本であると確定されたのでした。「稿本」の後半の医学書部分、七五〇の処方が記載されている大部な漢文を読み下しながらコピーした努力家で、昌益への傾倒ぶりも伺え、自ら謾筆なる書名をつけた大変ユニークな真斎なる人物はまだ特定はされていませんが、昌益の百年後の人、十九世紀の前半に宇都宮、日光あたりに住んでいた医者と推定されています。この『真斎謾筆』の発見に続き、いくつかの写本が発見され、焼失し手掛かりのなかった「稿本」の後半医学部分は、大略復元されたのでした。
さて、それではいったい『方函』の著者、浅田宗伯は幕末から明治の初頭に「安藤昌益の安肝湯」を焼失前の「稿本」で読んだのか、『真斎謾筆』で読んだのか? これからは私の推測ですが、いくつかの理由で「稿本」そのものを入手していた可能性は低い。むしろ真斎よりも三十歳くらい若いだけで、同時代に生きた宗伯は、なにしろ当時の漢方界の巨頭中の巨頭でしたから、真斎その人と会っているか交信していた可能性がある。『真斎謾筆』には安藤昌益という名前は一切でてきませんから、その中の安肝湯に注目したとしても、「安藤昌益作と伝えられている処方」とは書けない筈だからです。
6.安藤昌益の生涯
前項まで安藤昌益の医学にまつわる発見物語にすこし深入りしすぎたので、話をもどし、昌益の生涯をわかっている範囲で簡単に紹介します。元禄十六年、一七〇三年、現秋田県大館市の豪農安藤家に生まれる。大館市の二井田に安藤家は現存し直系の十一代の当主は、三年前に訪ねた私と心よく記念写真におさまってくれました。私のようなファンは多いらしく慣れている様子でした。自宅の庭には一九八三年に再建された石碑があり、近くの温泉寺には古い墓石にたしかに「昌安久益信士」の名が読み取れます。さて誕生から以降四〇年の昌益の足跡は不詳ですが、禅寺の修行で学問の基礎を身につけたらしい。私事はほとんど書かない昌益の文章のなかに、自分が雨垂れの音を聞いた瞬間ある悟りが開けた感じがして先輩の禅僧に報告したら誉められた、という記載があります。その後、遊学の旅に出る。
彼の三つの著作から類推すれば、四書五経から仏典から、ひとくちにいって儒・道・仏全般の膨大な読書、医学でも当時までに日本に紹介されていた漢方医学の古典を読破しているようで、ごく最近の研究では、第一項で紹介したように彼が京都で師事したのは後世医学の味岡三伯であったらしいことがわかっています。とにかく一級の知識人であったようだ。その足跡は江戸から京・大坂、そして多分長崎まで届いており、京や大坂ではすでに自由の味を知っている豪商たちとのつきあいもあり、彼の『刊本自然真営道』の出版スポンサーになっているし、長崎では外国の知識もとりいれたようだ。四十歳代はじめに八戸で町医を開業し(八戸藩の家老を治療したという資料が発見されている)、診療の傍ら、私塾に集う八戸地方の門弟が一派をなし、遊学中に培った全国の門弟が一同に会する集会もひらいている。最晩年の五〜六年は、故郷秋田の大館にもどって安藤家をついだ。この間、先述の「刊本」の他に刊行はされなかったが、『自然真営道』百一巻(稿本)、『統道真伝』五巻、などの著作にうちこむ。一七六二年に六十歳で没した。
昌益は全国の門弟に深い思想的理論的影響をあたえたばかりでなく、近隣の農民にも強い感化をあたえたらしい。大館の二井田村ではかれの思想的な影響で無神論がゆきわたり、寺がつぶれかけたという。没後、農民と門弟たちは石碑をたて「守農大神、確竜堂良中先生」と刻んだ。無神論の確竜堂良中(昌益)も大神にされてしまった! 一方当地の代官、大越久衛門は「近年当村に徘徊致し、邪法を執り行い御人を相惑わし候医者正益」(正益=昌益)と書いており、支配側には迷惑なある種のコミューンができていたことを窺わせる。
7.昌益歿後と狩野亨吉による発見
幕藩体制がようやく強固なものになり、東北も江戸の支配下になった十八世紀の中頃、こんな危険な一派は存在を許されない。昌益の死後二年目、追悼の会を催そうとしていた弟子たちや農民に迫害が加えられる。すでに書いたように最近再建された碑文もその時打ち壊される。「入寺」というかたちで転向を強いられたわけで、じっさい昌益自身の墓も寺にあるわけだ。昌益の著作は八戸に運ばれ、弟子たちが「転真敬会」を組織して集会をかさね、昌益の教えを伝えようとするが何年ももたない。ここで昌益とその著作は歴史からぷっつりと姿を消してしまう。非常に狭い範囲の人達によって隠匿され引き継がれていたのだろう。最近「刊自」を読んだという江戸時代人の文章が見つかったり、江戸時代の測量関係の本のなかに昌益の名がちらっとでてくる例が発見されたくらいで、その後の人たちが昌益を知ったり影響を受けたりということは皆無に近かったようだ。その中で「稿自」の後半の医学書部分が真斎なる人物によってほぼコピーされ、明治初年に浅田宗伯に伝わったらしいことはすでに書いた。
著作は明治初年には篤学家といわれた東京北千住の橋本律蔵の手元にあった。それから何軒かの古本屋を通過し、ついに当時すでに一高や京大を退官して書物や絵画のコレクターとして有名だった狩野博士(夏目漱石『三四郎』の先生のモデルとしても有名)の手にはいる。博士は一読してこれは狂人の著作かと疑い、当時の精神医学の大家だった呉秀三に鑑定を頼んだりしている。その後あらめて読みなおし、大変な人物が江戸時代にいたと周囲にすこしずつ紹介している。その後お金に困った博士から吉野作造の取り計らいで東大図書館に八千円で譲渡されるが、その年の関東大震災で焼失してしまう。運よく貸し出されていて焼失を免れたものと、一部他から発見されたものが今日の「稿自」である。その後、大正十四年に『統道真伝』が、昭和初年には「刊自」が発見される。それにしても刊行された本もあり弟子たちが全国規模でいた昌益がぱったり歴史から消えてしまったのはどうしたことか? 狩野博士のような本読みでも投げ出したくなるような昌益の独特な漢文。江戸時代も明治、大正時代でもとても公表できるような内容ではなかったこと。そして中央の学歴? ある知識人ではなかったから、粗野というか荒々しい野人だったからか。内容的にはさほど過激でない「刊自」の発行部数もごく少数だったにちがいない(次項からはこんな昌益が「米」についてどんなことを書いているのか紹介していきます)。
8.人は唯米穀の進退なり
昌益の主要な三著作のなかには、百箇所をくだらない「米」への言及がある。ひろく「穀」とか「食」とか表現されている所もふくめればもっとおびただしい。その中には、特有の理論やものの見方の例証として米に言及している箇所、たとえば、かれの人間平等論には「米をつくって食べている農民は真の人だが、米もつくらず、他人が作った米をとりあげて食いながら、偉そうなことを言って、農民を支配し困らせている支配層やインテリたちは人非人である」といった表現が多い。同様に、互性とか進退とか、活真の自行とか、四行論とか、通横逆とか、あるいは医学批判とか、いろいろな彼の理論や見解のなかで「米」はたくさん登場するのだが、それについての解説は後まわしにしたい。それらについて解説しようとすると、「米」そのものよりもそれらの理論についての解説が主となってしまいそうだから。
それよりも面白いのは、ほとんど理論も前提もないようにみえる昌益の汎米論ともいうべき「米」への熱いオマージュ、「米はイコール人間だ。人間は米なのだ、米と人間は同じものなのだ」という断定にある。現代のわたしたちが昌益を読むとき、さきほどの理論に関連する米についてはそれらの独特な理論を真面目に評価すれば、その中の米もそれなりの納得できる。しかし、かれの「米=人間」という断定はまことに奇異であり、びっくりする。理論の例証に米が多く登場するのもこの断定が出発点にあるからこそとも思えるし、逆にこの断定はかれの理論から導かれる大きな結論なのだ、ともいえるのだけれど。
この小論では、まずこのびっくりものの「米論」を引用することから始め、考えてゆきたい。
「米がまだ人となる以前は米は原野に満ちていた。米の精が人となってからは、米は人の食べ物になった。人が出現して米を食い、丈夫になって米を耕し一粒の種米を数百粒に増やし毎日これを食べる。人が多くなるとますます米を増産しよく食べるために、米はみな人となり、人は米を全部食べないで一部を種とし、これを蒔いて耕して増産し食べては耕し、耕しては食べる。だから人はただ米の一生の繰り返し運動そのものなのだ。このため、人が多くなってからは米はことごとく人になってしまい、米はすっかり人になったのだから、人が多くなってからは原野に生ずる野生の米はなくなり、人が耕作する米だけになった。もしいま人が世の中から絶滅するようなことがあれば、こんどは人の精が米に環ってゆくわけだから、原野には米が盛んに発生するだろう。これが自然のサイクルなんだよなー。原野に米が再び生ずるのは人として再生するためなんだから」(統真)。
どうでしょうか。人が米を食べ続けているうちにだんだん米が人間を浸食して人間が米に化けてゆくというSF映画のCGのようにわたしは感じます。人は米化しちゃって、「米」が「米」を耕作し食べているようです。なお、引用の出典は『刊本自然真営道』は「刊自」、『統道真伝』は「統真」、『稿本自然真営道』は「稿自」と略称だけを示し、ページ数などは繁雑ですから省略します。原文を示すのも省略して、農文協の全集の現代語訳を参考にわたしが意訳したものでやっていきます。
9.昌益の人間起源論
前項の引用で、昌益は「米と人間のつきあいは深く、ついに米は人間となり、人間は米そのものになってしまった」と説く。だから「現在は野生の米は存在しないが、栽培の米が凶作などで絶滅するような事態が生ずるならば、米=人間なのだから、当然人間も消滅する。その時には再び野生の米が生じて、また人間になり、あらたな人間と米のつきあいがはじまるだろう」というのだ。日本には存在しない、野生の米をイメージする昌益の想像力には驚く。最近の米の歴史の研究では、野生の(昌益の言葉では原野の)稲が自生しているところにわけいって、一本一本穂をチェックして食べられる大きさになった米粒を、しかも落下してしまわないうちに、選って採取している南方の古代人たちを想像している。このやりかたでは一日かかって採取しても自分一人のカロリーを満たすのがやっとだったのではないかとも。昨年、畑で蕎麦を少し蒔いた私の経験では、実りの時期が一本一本ちがうので、仕方なく古代人のように採取したがこりゃ大変だ。もうすこし待ってと一週間後にいくともう落ちてしまっているし。熟する時期が揃うこと、なかなか落下しない品種を選ぶことが、採取から収穫へ、つまり農業への第一歩であることをしみじみ体験したわけです。余談はさておき、原野の稲と出会ったのはすでに人間になっている人間でした。じゃあその人たちはどこから生まれたのかといえば、昌益の嫌いな聖人も仏も答えていない。キリスト教など他の宗教も、そして近代の最大の宗教というべき進化論も、最近の遺伝子研究もなにも答えられないだろう。人類は米から発生したという昌益説は実にすっきりしてるじゃないですか! 私には桃から生まれた桃太郎くらいしか思い浮かばないが、日本にはこうしたフォークロアがあったのだろうか。世界には例えば「人は小麦の子供だ」というようなフォークロアがあるのだろうか? 御存知の方はどうか御教示下さい。近代人の先駆けの昌益がくりかえし「米穀は人なり、人は米穀なり」と断定するとき、それが比喩ならわたしたちにもわかるが、比喩を越えたかれの勢いを感じるので、いったい昌益はなにを考えとるんや、植物と動物が親子なんてと当惑するのだ。昌益は同じ「統真」のなかで、有名な挿絵を残している(三八頁参照)。米粒のなかに胎児とおぼしき絵が描かれており、米粒のヘタの部分が人間のヘソの緒に相当し、米粒の先端が頭に相当する。そのほか米粒のここの部分が左手になり、ここは右足になりといった説明があるのだ。なるほど人間が絶滅しても原野に稲がはえれば、その米粒から人間が誕生するわけだ。そんな「発生論」を昌益が信じていたのだろうか。まさかそれはないだろう。かれは当時としては産科の知識をしっかり持った時代に先行する近代的な医師であったことは確かだ。なにしろ生理の周期のいつころ性交しても子供はできないとか荻野式避妊の先駆けのようなことを書いているのだから。だけれどもそれはかれの言う原野の米がない状態、人間が米を耕作している時代の再生産サイクルであって、米や人間が絶滅したあとの発生論、大きな再生産サイクルについては想像力がはばたいてもいいではないか。
10.人の祖は米なり
米と人間の親子関係はさらにつづく。「この身体髪膚は父母の遺肉に似て、その実は五穀の精なり」(稿自)、「心は米食の気」(統真)などである。人間の肉体は米(五穀)の精であり、人間の心は米の気だというのだ。人間は米だ、といわれるより、精や気という言葉がはいっているから、ははーん、そういうことを言いたいのかと見当がついてくる。では米の精とか気に昌益がどんなイメージを描いているのかをこれから追っていこう。その前に近代人のわたしたちが、精や気を解説してわかった気になるのを避けるため、すこし寄り道をしたい。気や精が人間と米を貫通している感じといえば、米を食う人間が死んで土に還り、またそこから米が生ずるという自然のサイクルのことよね、わかったわかったとなりがちだが、そんなに昌益の述べるサイクルはお安くないのだ。米の精や気にこめる昌益の思いはとにかく熱い。現在のエコロジストと較べても格段の温度差がある昌益の力強い、切実な米賛歌の謎はなんだろう。
『古事記』にこんな記述がある。スサノウノミコトに殺されたオオゲツノヒメの遺体の「二つの目に稲種なり、二つの耳に粟なり、鼻に小豆なり、陰に麦なり、尻に大豆なりき」と。人は死んで土に還り、そこから五穀が生ずると解釈はできるだろうが、ホラー映画のようなグロテスクなこのシーンを思いうかべると、自分たちがようやく農業として収穫できるようになった食物に人々は「私つくる人、あなた作られた食物」といった距離感をとても持てなかったという印象をうける。「我つくる故に米あり」といった近代人の感覚ではこんなシーンは思いつかないだろう。身体の各穴にたいするそれこそ底知れぬ不思議、畏敬と作物の恩賜にたいする不思議、畏敬が区別なく同じレベルで感じられていたのだろう。生きることは即ち米が実ることであり、人の生死は米の生死であることが比喩としてでなく疑いもなく実感としてあったのだろうと想像できる。私たちにはいささかグロテスクに感じられるこのシーンも古代の人々には明るく、めでたい祝祭的な誕生、再生産の記述だったのだろう。死というものが近代人が恐れるようには全く感じられていなかったことにも気がつく。実は『日本書紀』には大和朝廷、皇室の始祖にされたアマテラスオオミカミ(彼女自身が他の神の左眼から生まれている!)が主人公になって同じエピソードが書かれている。そしてそのあとに「五穀のうち粟稗麦豆を陸田種子とし稲を水田種子とした」という記述が続き、稲は水田のもの、他の穀物に比べて特別なもの、という大和朝廷のつよい米指向がすでにあらわれているのだが、このことは後述する。
それから千年後の近代人の先駆としての理論好き理屈好きの昌益も、こと食物、米については平静でいられない。稲作にはまったく不向きな岩手や秋田で、古代人的感覚を濃厚に残して稲作に悪戦苦闘していた農民たちを目の前にして、この人たちを掬いとれないで、救いとれなくて、なんの知識人か、という強烈な思いがあったろう。これからいろいろみてゆく、彼の理論やイメージは近代を突き抜けてわたしたちの明日へのヒントに満ちていると思うが、それは人間と米というより、等号で示す方がふさわしい農民=米にたいする彼の必死なすがりつくような頬ずりしたいような肉感的な愛に裏打ちされていたと感じるのだ。
11.人は穀精なり
前項で引用した「身体髪膚は父母の遺肉に似て其の実は五穀の精也」(稿自)は同様の内容が「統真」にも書かれている。身体は父母から受け継いだものだから、まず怪我や病気をしないことが孝行の始めであり(「身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」。有名なパロディーは「寝台白布これ父母に受く、敢えて起床せざるは孝の始めなり」)、さらに立身出世して父母の名を上げるのが孝行の終わりである、という『孝経』を引用したあと、「一見正しいようだがこれは間違っている。現にいる父母をそのままただ父母だと思ってはならない。米を食べて精が満ち子を生むのだから父母は即ち米である。米は直耕してできるものだし、耕さなければ増産できない。米が食えなければ父母もないわけで、父母は米である。耕さないで米がなければ父母を殺すことになる」。
米である両親から生まれたおまえは身も心も米なのだから、両親が米でいられるためにも(米をたっぷり食べさせるためにも)米を耕すしか生きる道も孝行の道もないぞ、というわけだ。やはり「米」が「米」を耕しているようだ。青年米吉が両親の顔をじーっとみていると、ありゃりゃ米の顔になってくる。あわてて鏡を覗くと自分の顔もいつのまにか米顔だ。水木しげるの漫画的な米顔を想像する。米吉青年は出世を願って出奔するだろうか? それとも田へ出てひとつ大きな息をついてから、自分と同じ顔をしている無数の稲穂に分け入って、溶け込んで安心するのだろうか。そして原文では「倍生」と書かれている米の増産がここでも言われる。今でも冷害によく襲われる東北地方での倍生はきついが、それこそ官民あげての必死の目標だったことがわかる。
「直耕」という昌益の造語はただ「耕す」ではなく昌益思想の根幹的な用語で、いろいろに論じられているが、「米である人」にとっての当たり前のそれしかない生き方、呼吸をするように、構えなくても「自然に」米を耕してしまうこと、と私はイメージしている(ここでは深く立ち入らないが、「自然真営道」という彼の著作の「自然」はこの「自然に」という意味である)。
このように「人間=米」論からいえば従来の道徳律は間違っている、米を直耕する以外の生き方、立身出世などは認めない、と切って捨てるところが昌益の特徴。
同じ「統真」には「十月誕生の図解」というのがあって、赤ちゃんが逆さに母体から落ちている図がある。米は秋の収穫後、俵に詰められて米倉に保存されていても、一一月には早くも「粒中において出芽の催生を為し」、それから春に播かれて苗になり穂となり十ヶ月後には「実塾し自り落つる時至るなり」。人間も懐胎してから十ヶ月で出生する。米に早稲・晩稲があるように人には早産・遅産がある。胎盤は穀物でいえば籾殻である。「これ五穀と人身同一なる所以なり」と。
12.米粒に転定・人身具わる
前項の最後に紹介した米の成熟と人間の出産とのアナロジーについてもうすこし。米は収穫され脱穀されて玄米として米倉に貯蔵されるが、二ヶ月後、気候が寒くなり井戸水が温かく感じるころには早くも「催生」を為し、発芽の準備をはじめる。そこを起点とすれば成熟してはじけ落ちるまでには十ヶ月かかる。人間も受胎から十ヶ月で、母体をはなれる。昌益の挿し絵は赤ちゃんが逆さに母体から落下しているイメージである。立位の出産が普通だった当時のイメージとしては不思議ではないのかもしれない。これは「十月の数行を以て成就をなすこと万国全く一也」と世界中で通用する法則だという。
別のところでは「男女を以て人と為すは可なり。男女もとなにものぞ? 穂鞘の二穀は一活真の進退なる一穀の妙精なり」(稿自)とある。活真とか進退などの昌益のキーワードは後回しにして、穀類には穂穀と鞘穀がある。前者は米や麦、後者は豆類のこと。米作をしたことはないが、毎年豆類をつくっている私には十ヶ月は長すぎる感じをもつ。でもまあ私どもは豆が柔らかいうちに(枝豆のように)収穫してしまうことが多いので、完全にはじけて落下する、次に播く種ができるまで待てば十ヶ月近くはかかる。考えてみれば、穀類にかぎらず野菜類でも種までとろうとすれば結構時間はかかるので、種から種までの一周期は熱帯ならぬ四季のはっきりしている日本では一年なのかもしれない。一年生草とか二年生(越年)草とはいうが、半年生草という言葉は聞かない。
「胞衣は人間の籾殻である」とはなんだ。胞衣という医学用語は現代ではあまり使われないが、出産につづくいわゆる後産で娩出される卵膜や胎盤や臍緒のこと。これらは土に埋められるが、二ヶ月で腐熟して土に還る。そのころになれば次回の妊娠が可能であり「臍より芽出て人身を始む」。脱穀された籾殻は土にまかれて二ヶ月するとやはり土に還る。玄米が「催生」を為すのはそれからだ。それぞれのサイクルが「極まって」はじめてつぎの生産がはじまる。余計なことを言えば、籾殻を堆肥や畑にいれた経験のある人なら、籾殻はとても腐りにくく、二ヶ月くらいでは土に還らないことを知っている。産婦がたてつづけに妊娠しないのは授乳中は排卵が抑制されているからと今では説明されている。現代では胎盤は医薬の原料に使われることが多いが、当時は土に埋めていたのだろう。とびきり上等の堆肥である。とまれ、米を包む籾殻と胎児を包む胞衣はこの点でも同一なのだ。
「稿自」の焼失部分を補う資料の『自然精道門』には「人身を以て逆立にするときは穀種の形なり、穀種を以て順立に為すときは人身の形なり」とある。口から栄養をとって、胴や手足が成長していく人間を逆さにすれば、根から栄養を吸収して幹や枝を伸ばしていく穀類とおなじだ。逆さまに母体から落下している赤ちゃんはそのまま土に刺されば、田植えと同じ! というわけだ。
13.食とする所の物は、その物の親なり
前項まで「人は米であり、米は人である。米を包んでいる籾殻は胎児を包む胎盤である」という昌益の米論を紹介してきたが、もうすこし昌益の「米=人」を読んでいこう。「米はよく噛むとほんのり甘味があるが、きつい味はない、だから常に食して飽きがこない。真中の味というものだ。真中の人性とはこのことだ」(統真)。「米は飽きない」という幕内先生の言葉がここにある。現代の私たちにも実感としてわかるし、だからこそ主食なのだろう。いってみれば中性の味だ。それを真中の味、真中の人性と表現するのはどういうことか。「食をなすときはじめて人は人でいられる、だから人は人なのではなく、人は食なのだ、つまり食は人なのだ。特に人は米を食して人としていられるのだから人は即ち米なのだ」(統真)。釈迦を論難するところでは「釈迦よ、おまえはいろいろ説教しているが、穀を食ってしゃべっているのだから自分がしゃべっていると思うのは大間違いだ、穀がしゃべっているのだぞ」。だから「天上天下唯我独尊というのはおまえの言ではなく米こそが言うべきことだ」(統真)。
人は米である、ほんとか? そうさ何故なら米は人だからさ、というトートロジーを聞かされているようで、ちょっと勘弁してよという読者も居られるでしょうが、こういうかみつき方をされるとは釈迦もびっくりでしょうね。孔子もやられる「おまえは礼記など書物を尊がっているが、もっとも敬すべきは天下に唯一米であるぞ」と。何故なら、と「人」の発生論がこれまで紹介したのとは少し異なるニュアンスで述べられる。「天地が人を生ずる前に米をまず生じたのは、米がなければ人が生まれても、人より人を生じて人倫無窮に相続すること能わず」そして「米の精神真が凝り現れて人となり、米の体は人の食物となる」(統真)。人の発生以前に天地はまず米を発生させた。そうしなければ人が子孫をのこし永久に生活を続けることができないからだ。まず先に発生した米の精神の真なるものが凝縮して人が発生した。米の精神の真から生まれた人は、こんどは米の体を食料にして生活を続けることができる。天から米、米から人という二段階で人は生じ、人は米から「真」を受け継ぎ、具体的な栄養「体」もいただく。米は「真」も「体」も天からいただいたものだ。こうして天−米−人を貫通して、順番にそして逆向きに、伝えたり、頂戴したり、返したり(耕作)しているもの、それが冒頭の「真中」なのだ。引用した「無窮」という表現は人倫によりもむしろこの「真中」の天―米―人をつらぬいている運動性にこそ相応しい。
米の具体的な栄養、米の体は「味」といってよいだろう。「真中の味」を耕作し、いただいている「人」の人生が「真中の人性」というわけだ。
14.米の精が人に成り、此の身は米なり
米を耕し「真中の味」を賞味してありがたく頂戴する、それだけが「真中の人性」だというのはどういうことか? それ以外の生き方は「迷い」だからだ、と昌益流の面白い人生論と漢字論が始まる。「迷」という漢字をあらためて見ると、シンニュウ(聰)に米という字だ。
シンニュウは「道」とか「逃げる」とか「逝く」いう漢字に使われることからわかるように動いて去っていくという意味だ。だから「迷いは米が去っていってしまうという意味で、米という真の食がなければ精神が安定できるわけがなく《迷って》しまう。惑い、迷いは《真遠い》に通ずる、真から遠く離れてしまうことに通ずる。米は飯《まま》であり真である。故に米を耕し米を食らい、貪り食わざるときは迷いなし」(統真)。米から離れた人生は迷いであり《まま》(米=飯=真)を腹八分に食べているほかに真中の人性はないというのだ。以上「迷」の字解はもちろん昌益独自の漢字論で、通説ではありません。
もうひとつ、「人の身体は米の精であり心は米の気である」と以前に引用したが、「気」という漢字が古体では「氣」であるのはご存知のとおり。「米」が中にはいっている。「気」という漢字はそもそも米を炊いたときに立ち昇るなんともいえないおいしそうな「香り」「湯気」に由来する。これは通説で、このことは昌益も言及しているがそのあとが昌益流。「气」という字の右側のたて棒をまっすぐにして真ん中に移し上から通せば「生」という字になるというのだ。参ったなーすごいこじつけと思われるでしょうが、よくこんなことに気がついたと感心するばかり。「米」と人の「生」きかたは「気」を媒介にしてまったく不可分にしてひとつなのだ、というわけだ。
こういう漢字論を読んでいるとまさに惑い迷ってしまいそうですが、昌益はこう言います。「米の進退は父に退き子に進み、その子に進み壮んなれば大進して子を生ず。また父に退き子に進み、万万人皆是にしてただ米の進退なり。人の老するに順いて食減ずるをもって米の退くことを知るべし。人の壮んなるに順いて食の増すをもって米の進むことを知るべし。ただ米の進退は人の老壮なること明明にして、自ずから知ること常なり」(統真)。進退という昌益独自の言葉がありますが、米の気が強く作用する時期を「進む」、米の気が弱くなっていく時期を「退く」と解釈すれば難しい表現はありません。一番食欲のある壮年期(大進)に人は子供をつくり、自分はだんだん老いて食欲が減っていき、子供がまた食欲盛んになって次ぎの子孫を残すという米と人との循環運動をいってるわけです。そんなことは自分の人生を省みれば「自ずからわかることで常識ではないか」、わざわざ漢字論を持ち出すまでもないではないか、と言ってるのです。
15.飯は命師なり、飯は身師なり
東南アジアを中心とする水田稲作地帯では、稲の生育と結実、収穫、種籾の保存、そして再播種という「米の一生」を人の受胎、出産、成人となり子孫を残して死を迎える、という人の一生と同一視する人生観や世界観が、いろいろの農耕儀礼や祭り、農事暦などに観察されている。ヨーロッパ中心の麦作地帯でも、麦は人の母、といった伝統があるようだ。昌益が十八世紀前半に主張した「米=人」の思想は、もちろん大きくいえばそれらの一環だが、米を擬人化したとき、たとえば稲魂とか穀霊という言葉には、なにか含みがあり「尊い」感じがする。それに対して昌益のずばり「米気」は第九項で述べた「米粒の中に身体が具わっている」という図解のなかで、「米粒の蔕の端に『米気』留まるは、是れ天の北斗、人の陰茎なり」(統真)とあるようにとても直裁な表現だ。天=米=人の相関のなかで、あの小さな米一粒のなかの蔕の近くに、天の北斗七星=人のペニスが宿っており、それは「米気」のあるところだというのだ。
前項では「氣」や「气」などの漢字から昌益の米論を述べたが、この項ではイネ、コメ、ヨネなどの言葉(遊び)から昌益の米論を紹介しよう。稲については、「イネは命寿の根。イノチノネの始めとおわりのイネだ。なぜなら人の命寿は稲から生ずるからだ」(統真)、「イネは寿根だ、命根だ、米を食べているから居根できるのだし、米を食わずには居寝することもできない。米は飯根だからだ」(統真)という。米については、「コメとは此の命、此の身。コノメイ、コノミのコメである。米は是なり。是の字を分解すれば日の下の人である。コメはカミ、神である。コメの精はカミにしてコノミである」(統真)といい、米については、「ヨネは世根なり。人、ヨネを食ろうて人の世あり。故に人の世根は米なり」(統真)等々かなり強引なこじつけともいえるでしょうし、なんともユーモラスな感じもします。しかし単なる語呂合わせと読み過ごせないのは、「米=此の身」などが、先述のように「米粒のなかに此の身」が具体的に具わっている、図解までされているという強い裏付けがあるからで、ここに昌益ならではの独自性があるのでしょう。ふーむと感心していると、「飯、メシは身師、命師だ、わかったか」と昌益にダメを押されました。
16.安藤昌益と現代
もう一〇年以上前でしょうか、幕内先生と雑談しているとき、江戸時代に米に強くこだわった安藤昌益という人がいましたよねー、という話がでました。私はずっと安藤昌益に興味をもち、二〇年くらい前にでた安藤昌益全集も逐一購入していたのですが、なにしろ大部であり後述するように多方面にわたる一種「博物学者」的な人物の著作ですからそう簡単には手出しができない。そこで米なら米という狭い話題に限って昌益の勉強を始めようと思い、四年前から幕内先生が主宰する「季刊おむすび通信」に「安藤昌益の米」というタイトルで一五回にわたり連載しました(1)。以下の各項は、「日常茶飯事」に連載したそれにつづくものです。
安藤昌益という名前は私が中高生だった昭和三十年代には歴史の教科書に、二宮尊徳などとともに農業改革者として紹介されていましたが、皆さんの場合はどうですか、記憶にありますか?
安藤昌益なる人物は江戸の元禄時代一七〇三年、江戸幕府成立から百年後に生まれた人で、亡くなったのが一七六二年ですから十八世紀の前半の人といえます。戦争ばかりしていた時代から江戸幕府の強権で安定を得たこの時代は、支配者である武士階級が逆説的にもその支配力を弱めていく時代でもありました。テレビの時代劇によくあるように武士のトップの大名自体が(悪徳)商人に借金ばかりしていて、つまり「勃興しつつあるブルジュアジー」に頭があがらない。刀を振り回す機会のない食い詰めた下層武士たちは、長屋で傘張りをしたり、大道で易者をしたり、寺子屋で子どもたちに「読み書き算盤」を教えたり、金持ち商人の子弟に三味線を教えたり。なかには三味線の新内流しといって花柳界を流してあるく芸人になったり。現在では古典芸能になってしまいましたが新内の演奏者が今でも手拭いで頬被りしているのは、素性が知れたら恥ずかしい武士のプライドを保つスタイルだったのです。働かないで武士というだけで、偉そうにしていられない時代がきているのです。「近世」から「近代」への大きな転換期が近づいているのです。
昌益が著作に励んでいた十八世紀の前半に生まれ、アメリカの独立運動で名高いトマス・ジェファーソンは「科学の光の全般的普及が、人間の大多数は背中に鞍をつけて生まれたのではなく、幸運な少数者が神の恩寵によって正当の権利としてそれに乗るために長靴と拍車をつけて生まれたのでもないという解り切った真理を、万人の眼にすでにあきらかにしている」と述べています(2)。大名の子は大名であり、武士の子は武士であり、生まれながらに民の上に立つのが当たり前の世の中で、この真理はちっとも「解り切った」ではないわけで、いわば「神の法」から「人間の法・ヒューマニズム」への時代の転換は洋の東西を問わず長い時間をかけてなされてきたのです。
江戸幕府の開闢以来百年のあいだに日本の人口は一千万人から三千万人へ増加したといわれます。新田開発による農業の増産はもとより、工業もまたそれらを流通する商業も大発展、高度経済成長をしていた時代です(3)。その中にあって昌益は東北の八戸や大館を根拠地にして、農民だけが、米をつくっている農民だけが「真人」であり世の中の中心でなければならぬと断定しました。武士階級はもとより、「少数者が神の恩寵としてはじめから支配者になる」という制度を儒・道・仏の教義から正当化し権威づけをするインテリ知識人も、工業の担い手である職人も、商人も、歌舞音曲の類の芸能人もすべて「不耕貪食の輩」として否定しました。自分で耕さず農民の作った米を横取りして貪っている「不耕貪食」のこれらのひとたちは、「己れ民に養われて民の子でありながら民は吾が子と云えり。只狂人なり」(4)と断罪されます。民の作った米を食べてるから生きているのに、その民は吾が教えの下で生涯を送っている吾が子である、などとほざいているインテリ知識人は狂人だと罵倒しているのです。次項では、彼の著作などをもう少し紹介して、さっそく「昌益の米」について述べてゆきます。
(1) 前項までの一五項に対応。
(2) 『忘れられた思想家―安藤昌益のこと」(ハーバート・ノーマン著、一九五〇年)からの孫引き。原題は「安藤昌益と日本封建制の分析」。日本のみならず東西の歴史上の「平等思想」が数多く引用され昌益のそれと比較検討されている。この本により昌益の存在が一挙に有名になった。岩波新書で現在も入手できる。
(3) 安藤昌益研究会のHP、http://www006.upp.so-net.ne.jp/hizumi/に詳しい。昌益入門として最適。
(4) 昌益の著作「統道真伝」から引用。この本は岩波文庫が品切れなので新刊は買えないが古本で千円くらいで簡単に入手できる。もちろん「安藤昌益全集」にも収録されている。
17.世界は米穀の主る所なり
「転定(1)・日月・人・万物、心神・身行、悉く米穀の妙徳・妙用に之れ非ずと云ふ者無し。其の中、人倫は米穀の正体にして、転下(2)は唯米穀の一妙行なり。故に世界は米穀の主る所なり」。これは昌益の中期の著作といわれる『統道真伝』(3)からの引用です。少し意訳すると、「あらゆる事象は例外なく、すべて米の《妙徳、妙用》であり、わけても、人間・社会の本質や活動の一切は、イコール米の本質や活動のことである。つまり天下は米の《一妙行》といえる。だから世界の原理を主っているのは米だけだ!」となりましょう。
如何でしょうか? 『日常茶飯事』の読者の皆さんも、こうまでは言えないでしょう! なにしろ人間の一切は米とイコールなのだ、と昌益は断言するのですから。とにかく現代の常識ではついてゆけないほど、昌益の「米穀」にたいする思い入れは深く熱い。わたしたちの人生はすべて、「米の妙徳、妙用、妙行」であるという、この《唯米論》《汎米論》は一体どういう内容なのか? それがこれから述べてゆく「昌益の米論」です。
少し長くなりますが、やはり『統道真伝』から、米と人類の発生論を紹介しましょう。
「米穀、未だ人と成らざる則は、原野に生じ満満たり。已に米穀の精神、人と成りて後、米穀、人の食と為る。故に人出でて米穀を食し、壮身にして米穀を耕し、一粒を数百粒と為し、日々に之れを食ふ。人多く成る則は弥々耕して之れを食ふ故に、米穀は皆人と成り、人は米穀を食い殆して種と為し、之れを蒔き耕し多穀と為し、食して耕し、耕して食ふ。故に人は唯米穀の進退なり。此の故に、人多く成りて後は、米穀皆人に成り、米穀は人なる故に、人多く成りて後、原野に於て米穀を生ずること無し。只人に在るのみ。若し今世にも人皆絶無する則は、人精、穀に帰す故に、又原野に米穀盛んに生ずるなり。嘆、自然なるかな。原野に米穀生ずるは、人と成らんが為なり」。
ズバリ、人間は米という植物から発生した、という斬新かつ奇抜な発生論です。私にはそうとしか読めませんが、皆さんはどんな印象を受けましたか? 文意に飛躍があるので、逐語訳は難しいですから、このまま味わってください。敢えて私流に内容を要約してみると、以下のようになるでしょうか。
「原野の野生の米から生まれた人間は、やがて農業を習得し、米を増産するようになった。耕して作った米を消化吸収して(人のコメ化)身体が壮健になり、また農業に励むことができる。一方米の側からみると、人の身中に入り込んで人の肉体と精神となる(米のヒト化)からこそ、また増産され一粒の米粒が数百粒になることができる。このように人と米は浸透しあい、不可分のものであるから、《米穀は人なり》《穀精はただ人に在るのみ》と言えるのだ。従って人が米を耕作している間は野生の米はもう生えないが、もし人類が大凶作などで絶滅するような事態が起きたら、人に宿っていた穀精=人精は原野に戻るわけで、野生の米が再び出現し新たに人間を産むだろう」。
如何でしょうか? 不思議なことを言う人がいたものですねー。わたしたちは人間の為に米を育て利用していると思っています。米は人の為に奉仕する食料だと思っています。しかし昌益はそう考えなかった。そうは感じ取れなかった。米を美味しく頂戴する人間を「米に化する」、また人の血肉になる米を「人間に化する」と表現した。一方的に利用し利用される関係ではないだろう、と言いたかった。だから植物と動物が親子であるという、わたしたちが思いもよらない突飛な表現をしたのではないか。これが冒頭の「人倫は米穀の正体」、「米穀の一妙行」のスタートラインです。
(1) 「転定」はテンチと読み、「天海」のこと。回転して止むことなき天を「転」、下から大地を支え、動じない海を「定」、と表記する昌益独自の用語。人間が生活する大地はその間に挟まれた「中央土」となる。従って「転定」とは宇宙全体といった意味。
(2) 「転下」は上と同じくテンカと読み、天下のこと。
(3) 昌益の著作は前期の「刊本・自然真営道」、中期の「統道真伝」、後期の「稿本・自然真営道」の三部が主たるもので、この連載の引用もほとんどこの三著作からです。今後それぞれ「刊自」「統真」「稿自」と表記します。
18.食は、人・物ともにその親にして、諸道の大本
「人は米から発生した。米を食う《人はコメ化》する。人の栄養になる《米はヒト化》する」。以上が前項の昌益流「人=米」論でした。この項では直接「米」ではありませんが「食」について、昌益がどんなことを言っているかを引用します。「食は、人・物ともにその親にして、諸道の大本なり。故に転定・人・物みな食より生じて食をなす。故に食無きときは人・物、即ち死す。食をなすときは人・物、常なり。故に人・物の食は、即ち人・物なり。故に人・物は人・物にあらず、食は人・物なり」(統真)。
如何でしょうか。ここでの「物」とは動植物を指します。ですから「人・物」は人間を含めた生き物全体。「転定」は前回述べたように宇宙全体。そうするとこの文章を意訳すると「食は生き物の親であり本源である。宇宙も生き物も食から生まれ食を摂取する。当然、食なしでは生きられないし、食があってこそ生きていける。だから生き物の食物は自分自身のことであり、生き物の正体は生き物それ自体ではなく、食こそが生き物の正体なのである」。
これでもちょっとわかりにくい感じがすると思いますが、続けて昌益はこう言います。「分きて、人は米穀を食して人となれば、人は乃ち米穀なり」と。ですから意訳した文章はこう言い換えるとわかりやすい。「米は人の親であり本源である。宇宙も人も米から生まれ米を摂取する。当然、米なしでは生きられないし、米があってこそ生きていける。だから人の食物は《人=米=人》であり、人の正体は人自身ではなくて、米こそが人の正体なのだ」。
一見分かりにくく書いてある昌益のこの文章も、言っていることは「人=米」「米=人」なのでした。人と米が同化し溶けあっているイメージです。人が米を耕作して、実った米を貨幣・食用として利用する、というのが江戸時代も今も常識だし、当たり前の事実のようですが、それを昌益は許さない。「私作って利用する人、私作られ食べられる米」という一方的で人間中心的な関係ではないだろう、と言っているようです。
同じ『統道真伝』には「人=米」の生涯が次のように描かれます。「安食して耕し、耕しては食い、米進んで人と生り、米退きて人死り、人進んで米死り、人退きて米生じ、人の生死は米の進退なり。……人死すとも死に非ず、米に退きて乃ち人なればなり」。こういう「対句」が多い文章はリズムがあるから読みやすい。それも「生る」「死る」「進む」「退く」と運動性、ダイナミズムが強く感じられるのが昌益の文章の大きな特徴。「米進んで……」からの四句は、いろいろのイメージがあっていいところ。逐語訳をしようとすると頭が混乱します。すっきりした解釈を無理にしない方がよさそうです。ひところ「人面犬」というのが流行りましたが、「米面人」或いは「人面米」が自分自身を耕作して、実った自分自身を食べており、体の中の「米」や「人」のどちらかの要素が極大になったときは、その瞬間新たな「米」や「人」が生まれてくる、というのが私のイメージのひとつです。
前項の「米から人が発生した」という発生論を思い出せば、ここで述べられている米は「原野の米」なのか「耕作された米」なのか、などといろいろ想像を巡らすことができます。いずれにせよ「人の生死は米の進退」なのであり、人↓米↓人、という往還運動が人生そのものだ、ということでしょう。その運動の場を身体内のことともイメージできるし、現実の人と水田の米との間の運動でもいいでしょう。時間軸も人の生涯でもいいし、人類の発生と消滅でもいいでしょう。「人」や「米」も抽象化した「米の精気」「人の精気」と言い換えた方が想像しやすいかもしれない。
引用文の「死」は「死ぬ」ではなくて「死る」ですから、「帰る」又は「還る」というイメージです。最後の「人の死は死ではない。何故なら、米に還ってゆくだけで、その米は乃ちそのまま人のことなのだから」という昌益ならではの力強い断定、不思議な再生循環論を味わって下さい。
19.人の生死は米穀の進退にして、生死は一穀の進退
米から生まれた人は、米を耕作して米を食べ、やがて米に還ってゆく(人の死)。前項までに述べた昌益の以上の「人=米」論をもうすこし具体的に書いてあるところを引用してみます。
「米穀、人と成り、人の腹中に米穀を食らうは、是れ米穀が小転定なる人の腹中に退く、穀精満ちて子を生ずるは、米穀又人に進むなり。故に親の老して子の生ずるは米穀の進退なり。其の子壮んにして又子を生ずるは、又米穀の進退なり。人老して食少なく成り、終に死するは、米穀漸く退くなり。又失りて重病し、食すること能わずして死せるも、又米穀の退くなり。能く食し精盛んにして子を生ずるは、米穀進むなり。此の故に人の生死は米穀の進退にして、生死は一穀の進退なれば、生死は人の常なり」(統真)。
意訳すると以下のようになりましょうか。「米は人化する。人が腹に米を食うのは、米が人という小宇宙の腹に溶け込んでゆくことである。穀精が人に満ちると子供が生まれる。これは米が新たな人に化したのである。だから親が老いるのは米が人から退いていくことで、子が生まれるのは米が進んでいくことだ。その子がやがて又子を生むのも同じ米の進退である。人が老いて食が進まなくなり終に死ぬのも、不摂生して(失りて)重病になり食べられなくなって死ぬのも、米が人から退くからである。よく食べて精が満ち子を生ずるのは米が進むからだ。だから人の生死は米の進退のことだ。人の生死はこのように、ただ米の進退という客観的な自然の運動のことだから、人だけの問題としてジタバタするようなことではない」。
人の方からいえば、元気に米を食って子孫をつくり、老いや病気で米が食えなくなったらアウト、と分りやすい。一方、米からみると米(穀精)が人に満ちたり(進んだり)退いたりして人の生涯を操っているようにみえる。人類が大切な主食を人の生涯を決定する「精」とか「霊」とか見なし、擬人化された主食が人と渡り合い、或いは渾然一体となるようなフォークロアは各時代・各地で普遍的にあるようだ。しかしこの主食が農業以前の、与えられるだけの自然、採集経済の時期だったら、祈るだけだったろう。農業の発生(人類の文化の誕生といってもいいと思う)以降は、その主食を作っているのは他ならぬ人であるからややこしい。
人の生涯は米の進退運動というけれど、その米を耕作しているのは人なのだから、昌益の言葉を使うにしてもやはり人の生涯は米ではなく人の進退でしょ、と。別のところでは昌益はこんなふうにも言っている。
「父母は独り父母たるに非ず、米穀を食し精満ちて子を生む故、父母は乃ち米穀なり。米穀は直耕する所に有り、耕さずして倍生せず。米穀倍生せざる則は、乃ち父母無き故、父母は米穀なり。耕さずして米穀無き則は父母を殺す、孝に非ざる大罪なり。……人は米穀の精に生ずるなれば人の父母は米穀なり。……身体髪膚は米なり、父母は米なり」(同)。
生まれた子がどうして、自分のことを単なる人と思ってはいけないかというと、自分を生んだ両親がそもそも米なのだから、と言ってるのです。「米穀は直耕(ひたすら耕す)してはじめて倍生(豊作)する。豊作でないと米をいっぱい食うことができない=穀精が満ちない、だから親になれない。親孝行とは両親を親であらしめるために直耕に励むこと」となって論理的には何がなんだかわからなくなります。親と子の時間関係が渾然としている。耕す人と倍生する米が渾然としている。人=米=子は、ひたすら米=人を直耕するしかなく、倍生することだけが人=米=親に孝行できる、という迷宮です。
最後にもういちど「(親から与えられた)身体髪膚は米そのものだ、父母は米なのだ」と言い切る昌益はまことに力強いが手強い。
20.食は人・物なり
人は米から生まれ、米を増産して米を食って人でいられる。米は人を生み、人に食われるからこそ、人に増産されて米でいられる。「人―米―人―米」この無限の循環、或いは「米―人の融合」はなんだろう。ここで第一八項で引用してあまり触れなかった「転定」が登場します。転定はテンチと読み、昌益独特の表記で天地や宇宙のこと。その部分を再引用すると「食は、人・物ともにその親にして、諸道の大本なり。故に転定・人・物みな食より生じて食をなす。故に食無きときは人・物、即ち死す。食をなすときは人・物、常なり。故に人・物の食は、即ち人・物なり。故に人・物は人・物にあらず、食は人・物なり」(統真)。
「食」を「米」と言い換えれば、人や物(動植物)ばかりでなく、「転定」(宇宙)も米から生まれて米を食っている、というのです。どうも融合しているのは「米―人」ばかりでなく、「宇宙―米―人」が一体化しているようです。
「夫れ人は、天道運回して万物・五穀を生ずるは、即ち天耕の五穀の精気に生ず。故に穀を耕して、吾乃ち吾が物を食ふは天道なり」(稿本・自)。
この引用文の「夫れ人は」を「則ち」の前に移動すると文意が通じます。意味をおっていくと「天の道は運動回転して巡る。人というものは、その天の耕し(天の運回)で生じ五穀の精気から生まれたものだ。だから人は穀物を耕して吾=穀を食べるのが天道にかなっているのだ。」となりましょう。「人」の両親である「米穀」の更にその親は「天」なのでした。
天が祖父母、米が両親、人はその子供となります。もう想像がつくと思いますが、この「天」も人のご先祖というだけのものではありません。米と人が相互関係にあったように、天⇔米⇔人となっている筈です。
「転定と人身とは大小に自然の進退する一気なり。故に転定の気は転定の呼息なり。人気は人の呼息なり。転の呼息、人之れを吸す、故に人の吸息は転定の呼息なり。人の呼息、転定之れを吸す、故に転定の吸息は人の呼息なり。故に転定呼すれば人吸し、人呼すれば転定吸し、転定と人とは呼吸の一気なり。故に呼吸を塞がば人死す。死する則は、呼気、人真を乗せて転に到り穀に帰す」(統真)。
「大きい天」と「小さい人」は「進退する一気」で呼吸しあっている、というのです。天の気は天の呼気であり人はそれを吸い込みます。人の気は人の呼気であり天はそれを吸い込みます。こうして天と人は呼吸を通じて一気に貫かれています。もし天と人の間が塞がれて気のやりとりができなければ人は死にますが、人の最期の呼気が「人真」を載せて天に運びます。そして天から穀として生まれかわるのです。
こうして、天⇔米⇔人⇔天という循環が成立しています。人と呼吸しあっており、穀物を生み出す、こうした天の運動を昌益は先ほどの引用では「天耕」といってましたね。このように運回している、耕している天を昌益はしばしば「転」と表記するのです。
「転」は万物を生じている天であるし、「転―米―人―転」の「転」換点でもあるし、循環の「⇔」そのものという意味合いでいえば「転転とする一気」という意味合いもあります。
こうした転の運動や、人が米を耕したり、転と呼吸しあったりすることもすべて、「転定や人は直耕する」と昌益は言ったのでした。この項の冒頭で「増産」と書きましたが、ここまでくれば増産は「直耕」と言い直しましょう。
21.人は万々人が男女の一人にして自然なり
江戸時代を通じて間違いなくもっとも独創的な思想家の一人であった昌益は、自らの思想を表現する言葉を造語する大家でもありました。中でも有名なのは「直耕」です。人はひたすら真正「直」に「耕」していればよい。米を耕し、米を食べ、子孫を残し、天に還り、天が米を生じ、また人が生まれる。これが直耕です。すこし回り道をして、何故このように人の生涯を極端なまでに「直耕」に絞ってしまう必要があったのか、考えてみましょう。
彼の思索は、目前の農民の生活を見ることから始まったと考えられます。東北の八戸や大館で生活した昌益に見えるのは、耕作しても耕作してもいっこうに余裕のできない貧しい農民でした。飢饉の年には餓死者すら出る。江戸時代を通じて、江戸・大坂・京では餓死者は少ない。「御救小屋」などが設けられ幕府などが米を供出して行列する貧民に与えます。ある処にはあるのです。だいいち凶作は商人にとっては米相場を操り、しこたま儲ける絶好のチャンスです。現在の北朝鮮でも首都平壌で餓死者が出たとは聞きません。おかしいなー? 食べ物を作っている当人が飢えて、遠く離れた都会には米がある。そうか、耕さない連中が耕している人たちの米を盗んでいるのだ、と昌益は考えたのです。こういう子供のような無邪気な発想には、様々な政治思想や経済思想やそれらの施策を「そんな難しいことばり言うけど、盗んでいる事実を隠蔽しているだけじゃないか!」と一蹴する強さがあることは否定できないでしょう。子供に詰問されて立ち往生してしまう「真実の問い」に遭ったことはありませんか?
具体的にじゃあどうするのか? という政策立案の方にはあまり頭が向かわなかった昌益は、そうか、農民以外は「不耕貪食の輩」なのだ、と結論します。おまえは「耕しもせず貪り喰う輩」だ、と断定されれば現代の読者もちょっと退くでしょ。真実にはちがいないがそう言われても困っちゃう。
わけても昌益に嫌われたのは、「直耕を盗んでいる事実を隠蔽」するために学問に励んでいる知識人たちでした。ニックキ御用知識人のそもそもの始まりは? ここで辿り着いたのが、歴史に名を残す「聖人」たちでありました。当時の政治思想、支配思想は儒学がバックボーンでしたから、孔子をはじめ日本の聖徳太子に至るまで、次々と名指しで批判されます。支配思想を補完して、農民に「大人しく米をつくっていればよい」と吹き込むのは仏教で、これも仏陀から日本の空海にいたるまでとことんやられます。この方面の著作では「統道真伝」がいちばん痛快で面白い。こうして直耕の米を盗んでいることに気が付かないほど「洗脳」された「不耕貪食の輩」こそ、農民がいつまでも貧しい元凶であると、発禁ものの原稿を書き綴っていたのが昌益です。
不耕貪食の輩と、懸命に耕しても餓死してしまう農民、この不平等に我慢のならない昌益が考えたことは、一人残らず「直耕」する平等社会でした。孔子や仏陀が出現する以前には、そうした万人が直耕する平等社会があったはずだ。それを十八世紀前半のこの江戸時代に実現させねばならない。そんなことは可能か? 二十一世紀の私たちは、似た発想の平等主義で強制収容所や、文革の下放や、カンボジアのキリングフィールドなどを既に経験している。
昌益は考えた。人間が平等なのは、米を食わねば知識人も何もあったもんじゃないからだ。高邁な人生訓や哲学思想も米を食っているからこそ生まれる。仏陀も空海も霞を食っていたわけではない。
改めてこの読者に質問します。「どうして人は誰でも米(食い物)を食わねば生きていけないのか?」。子供にこう聞かれたら何て答えますか?
昌益の答えは簡単明瞭「それは貴方が米だから」です。もうすこし説明すると、これまで、そしてこの項の冒頭にも書いた人―米―天―米―人の巡回が人の正体だからです。そこに一貫して流れているものは「一気」です。実は、同一の一気が「人と米と天」という既成のものを後から巡って流れているのではありません。人も米も天もこの運回する一気によって形成されたのです。同じ一気から作られている、「人と米と天」はまったく同じものです。米にもコシヒカリやらまずいのやら種々あるからなー、人間にも、などと冗談を言ってる場合じゃありません。なにしろ誰もが天と同じものからできており、同じ構造をしているのです。
「天下の万民は同一」は掛け声の平等主義ではなく、昌益にとってはそれしかありようのない確かな現実だったのです。この現実を、自分たちの正体をわかってしまった者にできるとは「直耕」以外にありますか?「必要か」とか「可能か不可能か」とかいうレベルではないのですよ、と昌益は言っているのです。
22.人倫の万用は、唯一に米の行う所なり
前項の最後に、「人も米も天もこの運回する一気によって形成されたのです。同じ一気から作られている、『人と米と天』はまったく同じものです。『天下の万民は同一』は掛け声の平等主義ではなく、昌益にとってはそれしかありようのない確かな現実だったのです」と書きました。それでは昌益のイメージした現実の社会はどんなものでしょうか。
「自然の人は直耕・直織して、原野田畑の人は穀を出し、山里の人は材・薪木を出し、海浜の人は諸魚を出し、薪材・魚塩・米穀、互いに易得して、浜・山・平里の人倫、ともに皆、薪・飯・菜の用、不自由なく安食安衣す」(統真)。
直織は、安衣のために布を織ること。それぞれの地域で米以外のものを生産することも自然の人による直耕。それらを易得(交易)して万民が安食安衣する平等社会が描かれます。昌益はこのような社会を「自然世」といい、前回述べた「不耕貪食の輩」が出現する以前には実在していた現実だと述べます。そうかなー、そんなユートピアがあったのかしら、たいへん疑わしいと、私たちは思ってしまいますが、そうじゃないのです。
「これ、ただ米が人に成りて、此の世界の妙用を尽くす。……この故に人倫の万用は、唯一に米の行う所なり」(同)なのです。
米を食い物として利用するだけの現代人からみれば、昌益のユートピアはせいぜい「わるくない想像力」となってしまうし、ユートピアを夢見た思想家は封建時代に他にもいくらも居ました。昌益はまったく独自です。「米が人になって、この世界を動かしている。人間社会のあらゆる活動(人倫の万用)は、ただ米だけがおこなっているのだ」と言うのですから。
このような断言を荒唐無稽としか思えないほど、私たちは自然と切り離され、人間の力で世界を動かせる、なんでもできる、と思っている。いわば「唯脳」社会の「唯脳」人間になりきってしまっている。それで「万民が安食安衣する社会」をつくれたか? 唯脳的(近代理性的)に平等社会をつくろうとした二十世紀の社会主義の実験は失敗した。
脳の能力を過信して、人間だけはスペシャルと思い上がっている私たちに、昌益は「唯米」論をたたきつけます。私たちから見れば単なる空想にすぎないと感じられる牧歌的なユートピア社会の風景は、そこに生活している主人公が「人」ではなく、実は「米」なのだと指摘されて、絵柄が一変するではありませんか。
これまで何度も紹介した、「人=米=天=米=人」論は、そう考えると一層切実な力をもってきます。
「米穀無きときは、鳥・獣・魚・虫の肉のみを食うなれば、奇怪の乱病発して死す」(同)は、凶作で、ネズミとか、腐った肉でも食べるしかなかった農民を目の当たりにした昌益の言葉でしょう。肉食よりも米食を勧めたとも勿論読めます。米を食うしかない「米である人」が、その米が収穫できずに、獣肉しか食えない。凶作と餓死は「世界の妙用」以前の、そもそもの人間社会を否定する事態だと昌益は怒っているのです。
23.穀精は人、転定の精は穀なり
宇宙―米―人―米―宇宙と巡回している「一気」。その一気は、できあがった宇宙や人や米に、後からやってきて循環しているのではありません。そもそも宇宙全体が「一気の循環運動」によって生まれたものです。こうした運動のことを昌益は「直耕」というわけですから、一気は直耕して宇宙を生み出し、天地(昌益は宇宙のことをしばしば天地とか転定とか云う)の直耕が米を生み出し、米の直耕が人を生み出します。逆の回転をいえば、人が直耕して米を生み出し、とはじまるわけです。
これが「無始無終の活真の一気の直耕」なのですが、さらにつきつめて「その一気の運動はどうしてはじまったか、エネルギー源はなにか?」という質問に答えたのが彼の主著である「自然真営道」のタイトルそのものです。この「自然」は現代の私たちが使っている、宇宙・外界・環境の自然界のことではありません。あの時代にはそういう意味での「自然」という言葉はまだ無く(昌益よりも百年後、明治維新が近づいてくる頃になると、現在使われている自然=natureの用例が増えてきます)、「日月星辰」と呼んだりしています。同じ意味のことを昌益は「天地」とも呼ぶのです。
それでは昌益のいう「自然」は何かというと「自ずから然る」という動詞、または「自ずから然るように」といった形容句のニュアンスなのです。「自然真営道」は「自然が真に営む道」と思われがちですが、「自然」という名詞がまだなかった時代ですから、そういう解釈は適当でありません。主語は書かれていないが「一気」とすべきで、「一気が自ずから然る=真が営む、道」といったほどの意味とすべきでしょう。
つまり「活真の一気」は、「みずからひとりでにしかるべく」運動しているのです。いわば「自然している」のです。このようにして初めの「そもそものエネルギー源は」という質問は、はぐらかされます、無化されます。なぜだかわからないが原初運動ありき、なのです。夏の夜空を見上げて宇宙や人間の原初に思いを馳せれば、当時の科学であった儒学でいえば、太極から陰陽の気が生まれて運動が開始され森羅万象が生じたのですし、現代科学ではビッグバンですから、たいして変わりない。「ほんとうにはわからん」のです。
昌益は時代が動き、社会が動き、人間が活動する原動力を、「人間の技」「人間の業」とは考えなかった。なぜ私は生まれてしまい、なぜ此処にいるこの私が私なのだろう? それは活真の一気の「自り然る」運動のひとつの現われですよ、と言っているのです。
それでは、その一気とは何ですか?「自り然る一気」と言われても、これではあまりに抽象的で把握できない、実感がともなわない。昌益さん、もうすこしお願いします。
当時の「一気」はしばしば「穀気」といわれていました。とくに医者であった昌益が読んでいた医学の古典には「穀気」が多い。古人は、「外」では風に吹かれたり、寒暖を実感して「気」を感じ、「内」では、気分がわるくなったり、寒気がしたり、今朝はなんだか元気がいい、生気がみなぎっている、と感じたり、さまざまに「気」を実感していました。すぐに天気予報をみたり、体温計をだしたり、医者にかけつけたりする現代人よりも、ずっとさまざまな「気」を深く味わっていたことは容易に想像つきます。
穀気とは、気の古体字をみればわかります。气のなかに「米」がはいっている「氣」です。原義はお米を炊いているときにたち昇る、香りよくおいしそうな温かい湯気、これが「気」のはじまり「氣」です。宇宙と人のあいだを一気が貫通している様子は、お釜からたち昇るほかほかの湯気として見えたのです。そのくらい、農耕するものの主食である、米は「生きる」ことの直接的な「元気」のみなもと、「源氣」だったのでした。
24.人の飯を食ふこと絶えざる則は、之れより善こと無し
天―米―人―米―天と巡回している一気の正体は、じつは「米の気=穀気=氣」だった、というのが前項の結論です。このお米を炊くときの湯気=「氣」のはたらきは「直耕」ですから、天も人も米も直耕しています。この直耕が生み出すもの(生殖の道)を強調するときは、穀気はしばしば「穀精」と表現されます。
「転定の精に生ずるは五穀なり。五穀の精に生ずるは人なり。故に人は五穀を食ふて、五穀を耕す業は、人、自り知りて他の教ヘを待つ者に非ず。獣を食ふて血を飲む者に非ず」(稿・自)。
これは古医書に「人に耕作の道を教えたのは『神農』という伝説上の農業・医薬の始祖であって、それ以前には人は獣の肉を食べていた」とあるのに反論した部分です。「転定(天地)の精」「五穀の精」という「精」が使われています。五穀の精に生まれた人は教えられなくても穀物を耕す直耕を知っているし、またそれしかないのだ、と言っているのです。
「民に教ヘずと雖も、自然の人は米穀の精なれば、自り米穀を直耕し、生生し、転定と与に常行して私に怠ること無き故に、『神農』の教ヘを候つ者に非ず。故に『伏羲・神農』異前(以前)の世は、無始に直耕して安食衣す。故に神農より農業始まると云ヘるは、自然を知らざる妄偽なり」(統真)というわけです。
さて「自然の人は米穀の精」とはどんなことでしょうか。勿論これまで述べてきたように「自然の人は穀気そのもの」なのですが、「精」によって強調されるのは生殖の道です。
「人は穀精なり。穀は、転定・日月の精凝にして、自然真の自感、進気・退気の凝合する一真気なり。此の精凝、発見して人なり。故に人は穀を耕して穀を食ふなれば、人の真命・身心意・行道、悉く穀食の為る所なり。故に穀食を絶つ則は人無し。故に人の交合の念は乃ち穀精の満ちて発気するなり。人、交合の念有る故に、乃ち人の生命、性真なり。故に交合の念之れ無き則は、人死す。人死して穀に帰す、穀発見して人と為る。故に穀精中に自然真・転定・日月具はるは、人の交合の念なり。故に男女交合の念は生死にして、離絶すること能はざるは自然の道なり。妄りに過すを以て罪失と為る」(統真)。
いかがですか? どんなイメージが描けるでしょうか? 私流にすこし解釈してみましょう。「人が穀精であるのは、穀は天の精が凝集したもので、その精が発現したものが他ならぬ人であるからだ。従って人のすべての生命活動のエネルギーは穀食にある。例えば交合の念、人の性の衝動はじつは、『穀精の満ちて発気するなり』であって、この穀の発気が絶えることは人の死を意味する。勿論死んで穀に還れば、再び穀精が発現して人は生まれるのだが。つまり人の性の衝動=生殖の道は、穀精に具わっている「自然=ひとりする」の直耕であって、そうした穀精の生死に他ならない。人が自分の欲望のままに過婬するなどということは、天=米=人の直耕すなわち生死の循環から外れたことだろう」となりましょうか。
生殖の道が人の行為でなく、じつは米の行為、穀精の発現にほかならないというわけです。
「寿とは、飯中なり。「イ」「ウ」の中略なり。胃に於て飯在るうちは寿有り。胃に飯無きときは寿無し。故に寿は飯中と言ふことなり。飯は米なり。米は此身なり。米は神なり。身・神の米なるときは一切万事が唯米の一徳なること、自ら明らかなり」(統真)。
飯中を「イイノウチ」と読ませ、そのなかの「イ」と「ウ」を省けば「イノチ=寿」となる、という昌益得意の音韻論です。一切万事が「米=此身=神==メシ」なのです。なんだか楽しくなってきました。最後に同所からもうひとつ引用しましょう。
「然して『イイ』『ヱヱ』同音なり。故に飯・善同音にして、飯より又善こと無し。人の飯を食ふこと絶えざる則は、之れより善こと無し。聖・釈は金銀多く有ると雖も、飯無き則は善ことと言ふこと曾て之れ無し。『ヱヱ』『ヨイ』同音なれば、人、凡て善善と」。
25.穀は本自然・転定の精神の凝堅
前項では、「然して、イイ・ヱヱ同音なり。故に飯・善同音にして、飯より又善こと無し。人の飯を食ふこと絶えざる則は、之れより善こと無し。聖・釈は金銀多く有ると雖も、飯無き則は善ことと言ふこと曾て之れ無し。ヱヱ・ヨイ同音なれば、人、凡て善善と」と、まるで「ヱヱじゃないかヨイヨイ」という祭り囃子のような「米礼賛」の引用で終わりました。
こうした昌益特有の土の香りがする言葉遊びをもう少し紹介しましょう。
「イネとは、命寿の根(イノチノネ)の始めのイと終りのネだ。なぜなら人の命寿は稲から生ずるからだ。米は飯根=寿根=命根=イネだ。米を食べているから居根できるのだし、米を食わずには居寝することもできない」。
「コメとは、此の命(コノメイ)、此の身(コノミ)である。米は是なり。是の字を分解すれば日の下の人である。コメはカミ、神である。コメの精はカミにしてコノミである」。
「ヨネ(米)とは、世根のことだ。ヨネを食ってはじめて人の世がある。故に人の世根は米だ」。
「メシ(飯)とは身師、命師だ」(以上「統真」より抄訳)。
等々ユーモラスでいて、なおかつとても切実な感じがします。同書には、「穀中は人、人中は穀」という表現があり、「一真の氣」が貫いているありさまが図解までされています。この図は「米粒中に人そなわる一真の図解」です。
前回から述べている生殖を強調した「穀精」は以下のようにまとめられます。
「人は穀精なり。穀は、転定・日月の精凝にして、自然真の自感、進気・退気の凝合する一真気なり。此の精凝、発見して人なり」(同)。
ここで、昌益が「心」と表現しているものを読んでみよう。
「米を食すれば精盛んなる故に、人の心術・念慮・思惟・真・神・霊・魂・魄、無量の妙通、転(天)に至り定(地)に徹し、只只此の米穀の精力なり。若し米穀を食はざる則は、人死して心術無き故、一心と言ヘることも無し。故に極微細の米・諸穀なれども、之れを食ふ則は人身の心術・健達して、其の人の心神・妙通して転(天)に至るに広からず、芥子穀に入るに狭からず。穀の精神は人の心なる故なり。穀は本自然・転定の精神の凝堅にして、米・栗・稗・麦・秬・芥子・鞘穀等、此の精が人に成るなり。之れを食ひて人身・心神・真と成る故に、人の心神、大いに転定に通じて至らざる無く、転定を平呑するに咽に狭からず」(同)。
ここには「宇宙の大」と「芥子粒の小」が対照的に述べられています。簡単にたどると、
「人の心や念慮や思惟は米の精を食べて初めて発揮される。米穀の精力を食べなければ、心術や一心もありえない。たいへん微細な米粒であるが、これを食べて発現する人の心は広大な宇宙全体を覆うことができる。何故なら穀粒の精は本来、天地宇宙の精の凝集したものであり、これが人に成るのだからである。人が広大な宇宙と通ずるのは、天地を飲み込むことであるが、穀を飲み込めばいいのだから、狭い喉でも天地宇宙を飲み込むことができるのである」となりましょうか。
人の心が天地宇宙を覆うという気宇壮大なイメージの文章ですが、それは何と芥子粒のように小さな米粒などの穀粒の中にあったのでした。
26.昌益思想の現代的意義
前項では、「米を食べることは自分の体に宇宙=天を飲み込むこと」でした。「天は米を生み、米は人を生む」という、昌益のテーゼは言い換えると、米の中には天が凝縮されている。その米を作り食べる人間は天そのもの以外ではない。前項の米粒の中に人の赤ちゃんが入っている図は、米の中に人=天が凝縮されていることを示しています。従って人の両親は米である、人は米から生まれる、というわけです。
この項では、昌益がこのように《ぐるぐる周り》の「天=米=人」論を繰り返し強調した理由と、いま私たちがそれを読む現代的意味を考えてみましょう。
二十一世紀初頭の現在は、大きな歴史的尺度でいうと、三百年くらい前に始まった近代の成熟期・終末期といえます(日本も含めた所謂先進諸国にあってはすくなくともそう言ってよいでしょう)。昌益は江戸時代の元禄時代頃の人物です。それは日本における近代の勃興期です。商人が大名よりも金持ちになり、実際の力関係は「士農工商」という封建時代の建前にもかかわらず、「士」が「商」に頭を下げねばならない時代です。西欧にあっては、市民=ブルジョアジーが、それまでの「建前」を自由な経済活動の桎梏になると感じていた時代です。そうした封建時代の「建前」のバックボーンは西欧ではキリスト教、日本では儒教と一口に言ってよいでしょう。
自然科学の知識が、ガリレオの「それでも地球は動く」などのように、従来のいわばキリスト教・教会知識が事実と相違していたことを次々に暴き、たとえば日本では「解体新書」が、それまでの身体解剖図が事実と異なる「儒教・陰陽五行の図」であったことを暴きました。人類の発祥以来、時代地域によって形はことなるものの、社会生活を支配していた様々な建前=「天賦の規範」がこうして崩れてゆき、ここに人間中心主義=ヒューマニズムの時代が幕を開けます。これが近代です。
元禄時代の医者たちは、ほとんど皆この近代を受け入れました。古い衣を脱いで新しい近代的感覚を身につけました。人間の身体はあくまで「個々の人」であって、例えば「死」は仏教的輪廻ではなくて単なる個体の消滅です。その故障である病いは、規範で説明できるものではなく、あくまで「この人の身体」の故障ですから、近代科学の知識と道具を用いて修理工である医者がなんとかできるという確信です。こうして日本の前近代の医学であった漢方医学は蘭学を取り入れ、明治維新のあと、西欧近代医学に席を譲りました。
こうした流れの中にあって、昌益は以上のことを意識していたかどうかはともかく、近代的医者になることを頑として受け入れませんでした。それまでの医学医療の規範であった「陰陽・五行説」を捨てた近代的医者が誕生しつつあった時代に、彼は「旧さ」にこだわりました。二千年前に成立した漢方医学の古典の「陰陽・五行説」を捨てないで、それを「進退・四行説」に改変して漢方医学の存続を図ろうとしたのです。
そのときに彼がもっとも依拠したのが「気」です。気功や太極拳などでお馴染みの「気」は漢方医学でも勿論その「陰陽・五行説」のベースになっています。古人が実感として感じていた「気」(「病気」もその一種)を理論化したものが「陰陽説」や「五行説」であった、といってもいいでしょう。しかし陰陽五行説がかっちりと成立してしまうと、本来の生き生きとした「気・気感」は忘れられがち。昌益はそれをもういちど、人間を含む宇宙全体を、自然界では「風」として、身体の中では「脈」として、一貫してそれこそ脈々と巡っている「一気」として強調したのでした。仔細に観察すれば、その「一気」は「進・退の運動をしながら、四行に巡っている」というわけです。
この「安藤昌益の米論」には、その「気」が「天=米=人」のあいだを一貫して流れている様子がさまざまに述べられています。
つまり、昌益は人間中心主義=ヒューマニズムという近代人の考えに毒されなかった。人はあくまで天や米に生かされている、それどころか「人は天や米と同じものだ」と言い切ったのです。人間の自由が人間の独善となり、「近代ヒューマニズム」がこの先どうなるのか問われている現在、近代の初頭にあって、旧さにこだわった昌益の現代性がここにあるのではないでしょうか。
(昌益医学と、本稿で述べた内容の詳細に興味ある方は、昨年暮れに刊行された「安藤益全集補遺T・U・V」(農文協刊)をご覧下さい)
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