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(回答先: 管理職はこどもを死なせたいのか。 投稿者 東京音頭 日時 2008 年 7 月 15 日 23:22:12)
東京音頭さん、こんにちは。
meiさん宛のレスですが、多少は私宛の部分もあるかなと感じての横レスです。
>学校教育に国が介入して云々って、よく左翼の人がいいますが、介入しない義務教育なんてありません。国が介入するとなぜ、戦争なんですかね。
再度同じようなことが起きると断言できる人はいないでしょうが、日本には教育に国家が介入(1890年の教育勅語と1941年の国民学校令)して国民を戦争へと導いた歴史があるので、それが「国家の介入=戦争」と結びつくことにもなっていると謂ってもよいかも知れません。
>介入の度合いもいろいろでしょうが、学校に国が介入して生徒の思想コントロールができたのは、国のもっていきたい方向の基礎を親や社会の価値感が基本的に支えていたからでしょう。今もそうでなくては、生徒の思想コントロールは無理です。加えて、学校にはもはや権威はありません。教師をいうことは正しい、なんて思っている人は本当に少ないです。
直接的な介入の以前に社会がそれを受け入れる風潮を作っていた側面は否定できないと思います。しかし、すでに教師の語ることが正しいかどうかの問題ではなく、表面的にも一つの価値観に従がうことを求められていたのであり、その常態化が戦意の高揚へと繋がって行ったのは戦前のことを振り返ってみれば明らかでしょう。
>国家、国旗の掲揚は、いわゆる世界的な常識の範囲です。マオリ族だって、イギリスのユニオンジャックを憎んでいる人はたくさんいます。でも、ニュージーランドの国旗掲揚の際には起立しますよ。いわゆる国旗への敬意を表すためです。自分が尊敬するかしないかではなくて、国旗に対する敬意です。
「イギリスのユニオンジャックを憎んでいる人」が「ニュージーランドの国旗掲揚の際には起立する」のは、「国旗に対する敬意」というよりは、むしろ、マオリ族の人々の間には最早「ニュージーランド≠イギリス」との認識が根底にあるからではないでしょうか。
>そうした常識が通用しない一部の教師に、為政者が 理論で動いているのではない、そう宗教心で動いている人の怖さを感じるのではないでしょうか。思考がそこでとまっているというのかな。
例えば無批判に「国旗に対する敬意をはらうこと」を受け入れるのを常識とするようなことこそ、思考停止の状態を表象するものではないでしょうか。
>「国家権力の介入」 というお決まりの言葉で行動してしまう。いったいどう介入し、どうこどもが心を動かし、侵略戦争に加担するのか、自分の頭で、現場のこどもの実態を見て考えてみることもせずに。
「国家権力の介入」を実感する度合は、教師の役職によっても違ったものになるでしょう。しかし、それが生徒達にどう影響を及ぼすかと謂えば簡単に推断ができないのは確かですが、「学習指導要項」等に盛込まれるなどして徐々に浸透していくと想像するのは、それほど難しいことではないと思われます。
>最後に付け足しますが、管理職 イコール こどもを死なせたい と考えている、という発想には大笑いです。言い方が悪ければ、管理職はみなこどものことを考えていない、というのかな。こんなことはありませんよ。
「管理職 イコール こどもを死なせたい と考えている」というのが国旗掲揚や国歌斉唱の強制に反対する教師達の発想だとするのは、おそらく東京音頭さんの曲解でしょう。勿論、今の世にそんな考えを持つ管理職がいるとは考え難いのですが、戦前においては意識的・無意識的に拘わらず、戦争推進に荷担した管理職の教師が存在した事実は大先輩の話や自伝等によって容易に確認できる筈です。
>人々を抑圧する側とされる側2つに分けてしか見れない、変は見方です。
東京音頭さんがそう思われるのは、おそらく管理職経験の有無によるのか、もしくは経営的な力関係から離れた立場にあるからではないでしょうか。普通、人は外圧を現実的に受けたときに自分が被抑圧の状態にあることを意識したり、昇進するにしたがって抑圧力(支配力)が手中にあることを自覚したりするのですが、「抑圧」が「被抑圧」の解消に繋がらない“人が善い”人は大へん悩むことになるでしょう。しかしながら、それは個人的な問題にとどまらず、多少のアンジュレーションがあるのは当然ながら、社会の全体的な構図を解明するための一つの有効な座標軸であることには違いはないと考えます。
帰国されてから後の東京音頭さんが日本の教育界の現状とご自身の認識とどう折り合いをつけていくべきか、実直な東京音頭さんなればこそ、大へん苦闘されていることは理解できます。私は、その昔、10年間ほど私学でクラス担任や学生部に勤務したことがありますが、公教育における初・中等教育の仔細は存じませんので、東京音頭さんのレポは現場の実情を伝えるものとして非常に参考になります。
東京音頭さんが仰っている通りで、案外生徒達は現実的で気持ちは醒めているのかも知れません。しかし、それは他所に教育する側の人達のロボット化が静かに、だが着実に進行しているのではないかとの危惧を懐いています。少なくとも10年前からその兆候がありましたが、それは教育基本法の改定(2006年)によって露わになりました。
必ずしも戦争に駆り立てるようなものではなくとも、一般の教員や役職者のロボット化が進んだ機関が提供する教育の行末とは何なのか、私は余りよい未来を想像することができません。私の現在の専門は経営学(組織活性化)ですが、実際の企業経営においても人間(労働者)のロボット化は急速に推進されつつあるように思います。そして、こうした趨勢に抗うことに個人の力の限界を感じているのも事実です。けれども、「ニーメラーの警句」はいつも心の片隅において忘れずにいたいと思っています。
Auf Wiedersehen.
<参考URL>
「ニーメラーの警句」
http://www.asyura2.com/0505/senkyo14/msg/678.html