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(回答先: 再びの「ニーメラーの警句」 投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 7 月 16 日 07:30:25)
これは、独り言であるが・・・
【ナチスが共産主義者達を連行したとき、私は共産主義者ではなかったので、沈黙した。
ナチスが社会主義者達を連行したとき、私は社会主義者ではなかったので、沈黙した。
ナチスが労働組合員達を連行したとき、私は労働組合員ではなかったので、沈黙した。
ナチスが私を連行したときには、最早私には抗議する術が無かった。】
たしかに、各個撃破される状況下で「少数派の弾圧」という事には大きな問題がある。
個人・個人の抵抗力などは無きに等しく、個別に弾圧されるような場合には「注意が必要」である。
でも、逆の意味でも考える必要がある。
「ニーメラーの警句」の場合、それぞれの行為が「正しいか?正しくないか?」も思考するのでなければ、逆に「思考停止」と言えるだろう。
仮に
「オーム真理教が弾圧されたが、私はオーム真理教徒でないから沈黙した。」
で、次に「統一教会」「S学会」と続くような場合も考える必要がある。
もしかしたら、その一連の弾圧には「明らかな違法行為、武装宗教革命とか、世界滅亡予言の実現、人権無視の勧誘、脱会者へのストーカー行為、詐欺的商法などがあった。」のなら、それは「弾圧されて当たり前」とも言えるだろう。
今回の「君が代不起立」においては、ひのきみ運動を「私的な時間に行っていた」のに弾圧されたのなら【「ニーメラーの警句」】は的を得ている。
しかし、一種のサボタージであるなら「少なくとも賃金カットは仕方がない」
式典妨害を「営業妨害」と考えるなら「損害賠償も妥当」だろう。
要は「その行為を、どのように見るのか?」
それを「自分の頭で判断することが、大切」だろうと思う。