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(回答先: 終わりにしたいのですが、真摯に答えてくださる彼岸桜さんに敬意を表して日も耐えます(笑) 投稿者 日 日時 2008 年 6 月 26 日 22:51:59)
>次回より彼岸桜さんへのレスを始めます。 とのことですが、私の私の先の投稿、 「銀河鉄道の夜」は現世とあの世の往還の物語 宗教がテーマの傑作 を誤解されているようなのでレスいたします。 >ダイナモさんのこのレスにはなんだか気が抜けてしまいました。 とは心外です。もしかしたら日さんは、『「銀河鉄道の夜」は彼の最高傑作の1つだと思います。』という言葉にとらわれているのかもしれません。その文章の直前に「そこには宗教的メッセージが込められていることが分かります。ここでは、その正否を問題とはしません。」との断りを入れております。つまり創作の背景をしらず、作品そのものだけで感じたなら、よく言われるように彼の最高傑作だということです。 別に私が主張を変えたわけではありません。先の投稿内容をよくお読みになりましたか。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という作品が、どれだけの宗教的背景をもって作られているかを述べたものです。この作品の中心テーマは「宗教」そのものです。日さんもご存知のように「ロマンチックな童話」などではありません。彼の創作活動の動機は、創作という手段による布教活動だと私は判断しています。 「銀河鉄道の夜」でキリスト教徒の青年と姉弟たちと、ジョバンニが「ほんとうの神様」をめぐって論争になります。とても重要な部分ですので引用します。 「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰(お)っしゃるんだわ。」 宮沢賢治はここでキリスト教は邪教だと言いたかったのでしょう。しかし作品中ではかなりオブラートにくるんだ表現になっています。とはいってもシニカルな表現「青年は笑いながら云いました。」がされています。彼のバックグラウンドを知る者ならばここで彼が邪教排斥を主張していると理解することができます。 さて、こう私が主張しても日さんとの間の意見の相違は埋まりそうにありません。日さんの主張を私なりに理解しようとするとこうなります。 作品に限らず、あらゆる事象に対峙するとき、「予断」や「偏見」を持たずに事象そのものと対峙すべし、ということでしょうか。このこと自体は良いことだと思います。しかし実践することは難しいです。誰も「予断」や「偏見」から自由ではあり得ないと思うからです。「予断」や「偏見」から自由になることは「理想」ではありますが、常に「予断」や「偏見」を持たずに対峙している、となると欺瞞と感じます。 人は「予断」や「偏見」を持ちやすいものだとの自覚の上に立って他者との対話なりを行なえば、その自覚がない人より実り多い対話ができると思います。日さんの主張は、私にとって「理想主義者」の言葉として受け止められます。「理想」は必要ですが、「理想主義者」では現実と切結ぶことはできないと思います。 作品の背景を探ることを「予断」と断定されるなら対話は無理です。 それでは。 |