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(回答先: それをやることによって得られると予測される「プラスの効果」のことですよ。 投稿者 考察者K 日時 2008 年 11 月 30 日 10:17:30)
レスありがとうございます。 合理性とは「その事をする事によって予測できるプラスの効果」と規定されているとのこと。了解しました。 例えば死刑制度の廃止を主張するならば、死刑制度を廃止することによって、このような具体的なプラスの効果が生ずる、ということを論証する必要がある、ということに帰着することになります。この場合の「プラスの効果」が誰にとってのプラスの効果なのか不明なのですがおそらく国民にとってだろうと推測します。あるいは被告にとってのプラスの効果も含まれるのかもしれません。また被害者遺族にとってのプラスの効果も含まれるかもしれません。間違っていたら御指摘下さい。 死刑制度の存廃を議論する上で、考察者Kさんの観点は一面的なものです。なぜなら死刑制度存廃をめぐる問題は功利的な議論には収まらないスケールを持っているからです。言い換えるならば、死刑制度を廃止したことによって、プラスマイナスゼロの効果しかなかったとしても死刑制度を廃止する理由はあり得るからです。 死刑制度の存廃をめぐる議論はこれまで少なくとも約30年に渡って行なわれてきたと認識しています。こうした膨大の議論の中で、死刑の犯罪抑止効果、冤罪の危険性、被害者遺族の応報感情への考え方、など考えられるあらゆる側面について議題として取り上げられてきたのです。そして今日に至るにも議論は平行線をたどっているのが現状です。したがって従来の議論を繰り返しても水掛け論になることは目に見えています。そのような無駄なことは行ないません。 死刑制度をめぐる議論は人権をめぐる議論に帰着するものと考えます。人権は数ある思想の中の一つの思想であると私は考えています。呉智永さんのように人権思想を批判する人もいますが。明治維新後の富国強兵・脱亜入欧の政策の中で日本は欧米から人権思想を取り入れました。当時はごく表面的なもの過ぎませんでしたがアジア太平洋戦争の敗北により、米国の統治化のもと現在の人権思想が憲法に明記され、国民もこれを受け入れ現在に至っています。明確な人権思想が米国から移植されたことで、日本国民は大きな恩恵を受けることになりました。たとえ例外的な事例があったとしてもです。 このことは事実です。もともとアジアには人権思想は存在せず、現在、人権を形だけでも保障している国々は例外なく、近代になってから欧米の人権思想を取り込んだものです。したがって日本も含めてアジア諸国での人権思想は欧米からの借り物であり、根本において欧米より人権に対して重きを置かない傾向がみられます。日本も例外ではなく、昨年12月18日の国連総会本会議で死刑執行停止決議が採択されましたが、日本は先進国の中では米国とならんで唯一決議に反対しました。世界の大多数が死刑制度を廃止する中で、日本政府の国際社会に対する死刑制度をめぐる姿勢は挑戦的ですらあります。日本政府は中国や朝鮮民主主義人民共和国などと共同署名した、死刑制度を今後も維持するという口上書を国連に提出しています。その論拠として持ち出しているのが国内世論の多数が死刑制度に賛成だからというものです。 人権思想が欧米からの借り物だから欧米の流れに追従する必要はない、といった主張は説得力を持ちません。日本文化のあらゆる側面においてほとんど全ては中国、朝鮮、欧米からの借り物です。それを日本文化だと錯覚しているにすぎません。 欧米の人権思想で優れた考え方があるのならそれを日本が取り込むことには何ら問題とするべきことではなく、むしろ積極的に行なうべきです。世界の流れが死刑制度廃止に向かっているが、日本は日本独自の道を行くべきだといった主張は偏狭な一国主義であり、国際社会の中の一国が取るべき姿勢ではありません。相対的に遅れを取ってしまった日本に国際的で先進的な人権思想を取り入れ、死刑制度廃止に向かうことは本来ならば自然なことであるはずのものなのです。それを阻害しているのが今の日本政府の頑なな姿勢であるわけです。 死刑制度を廃止し、その代わりに終身刑を設けるというのが私の主張です。こういうと、多数の終身刑の者たちを国民の税金で養うことは税金の無駄遣いだ、と主張する人が必ず現れます。そのような人には、税金が惜しくて殺してしまえという発想はあまりにも人の命を軽く見る発想だといってあげましょう。また終身刑は死刑よりも残酷ではないかと言う人もいますが、当人にとっては生きることが望みであり、死刑になりたいというものが仮にいたとしたら、精神的なケアが必要なケースです。 |