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(回答先: 犯罪を防止する為に死刑と終身自己批判の刑のいずれが効果的かと尋ねているのですが 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 11 月 29 日 18:49:39)
>ワヤクチャさん どうもです。
実は、水掛け論になりそうなので議論したくないというのが正直なところとして抱いている感想です。
Kは議論好きですが、相手がKに「教えてくれるものが期待できない。水掛け論をしたがっているわけでもない。」のですよ。
>【終身自己批判の刑で誰にでも犯罪者の自己批判の動画を見る事ができればこんな苦渋の生涯を送りたくないと思う人が多くいるのではないですか?】
人の価値観の問題で一概には言えないでしょうが、多くの人が「死よりは生を望む」でしょう。例外もあるでしょうが、「生より死を欲するのは、餓死とか苦しい死が待ちかまえている場合」くらいというのが一般的な状況だと思われます。
例外というのは「精神が異常になって正常な判断ができないような病気になった場合」などです。過労自殺はたいてい、鬱病になっています。
死刑囚というのは毎日訪れるかもしれない死刑執行の通知に脅えて日々を暮らすといわれています。
生が保証され、衣食住に心配のない状況なら少々の「自己批判の日々の苦しさ」などは慣れの問題でしょう。人間はすぐに適応して「それなりに快適に暮らすようになる。」と考えられます。仮に「生き地獄を演出するなら、それなりに残酷性を取り入れなければ、ほぼ100%近い確率で、終身刑より死刑の方がおそれの対象になる」と思われます。
これは、死刑の方が抑止効果があるということの論証として書いています。
しかし、「そんなことは断定できない」とワヤクチャさんなら主張されそうです。
Kがどのように説得力のある論理考証を示しても「やってみなければ分からない。」的な主張をして納得しなければ、説得されることはない。
その上で、あまり、説得力のないような強弁を繰り返す。
論理考証を示すのではなく、私は「こうだと思う。」と主張されるでしょう。
これでは、水掛け論にしかなり得ないのです。
Kの意見を正しいと強弁するつもりはありませんが、Kの示した論理考証を否定するのではなく、超えるのでもない論理考証を示すことなく「断定できない。から正解ではない。」と言うのを感覚論、感情論とさせていていただいています。それは根拠のない自分の主観の強弁ということです。
「犯罪者の心理の解明、それを徹底追求するのも価値はある。」という主張もされていますが、経験則から言うと、殺人の動機は結構単純です。
怨恨・復讐・自己防衛・ストレス解消・金欲しさ・やけっぱちの6項目くらいに集約されるのが、ほとんどであり、時間を掛ければ良いという事はなく、仮に時間を掛ければ「犯罪心理が飛躍的に向上するのなら、全ての犯罪は、軽犯罪も含め徹底的に解明されるまで拘留されるべきでしょう。単なる軽犯罪であってもです。
人間の研究など、一種のパターン化作業ですから、ある程度の情報収集作業終了後は「ほとんど解明が進むことは無いと思うのが正しい見方」だろうと思っています。
まあ、一部に例外があり、例えば「黙秘している背後関係がある」というような場合もあるでしょうが、僅かな例外のために「全ての死刑囚の一生の面倒を見る」というのは費用対効果的に無駄です。
言うなれば、ワヤクチャさんは「水が出そうもない地域で井戸を掘る」と主張されているのと同じです。Kがここを掘っても出る可能性は低いと主張しても、「掘ってみなければ分からない。」との主張を繰り返されているようなものです。
で、Kが「確かに可能性はゼロではないが、ではワヤクチャさんが水が出る可能性が高いと思う理由は?」と問うと、「出ないと決まってはいないから」と繰り返すだけ。
これでは、議論になりません。