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(回答先: 指導原理の構築について 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 7 月 12 日 09:43:03)
>【真理を追求する事と世の中を良くする事が同時並行で行われなければなりません。】
ケースバイケースでしょう。
もっとも、「世の中を良くする事」は「恒常的、継続的に行う必要性がある。」という事項ですから、常に何かと「同時並行」で行う必要があるので、表現は困難な部分もあるのですが「何が、世の中を良くする事か?」を「見極める」と言う事が「真理」であるなら、真理を見極めるまでは「一歩も動けない」のが理屈です。
例えれば、緊急医療においては「命を救う行為」と「病因の究明(正確な診断)」を同時並行に行う必要性があるのですが、「冷やすのが適切な患者に対して、暖める」とか「脳溢血・脳卒中の患者に脳梗塞・脳血栓」の治療を施すのは「命を救う行為」ではなく「命を奪う行為」となるので「まずは、病因の究明(=真理の追究)が優先」と言う事であり、もっと言うなら「真理の追究という行為が、そのまま、世の中を良くする行為」という事です。
>【真理の追求がそれ自体として追求される事の中にはマイナス面もあります。】
それは、理屈的には「あり得ません」
とは言え、人間は不完全な生物ですから、真理に至っても「間違う」という可能性はあります。
>【人間には科学が害をもたらす事が無いように管理する能力が必要です。】
その通りですが、それを「倫理」に求めるのは、正しいとは言い切れません。
それに「知恵」が伴わない場合には「善人が悪気はなく、使用法を誤る」からです。
>【貧しい国こそ生活の為に子供を多く産もうとする傾向は中々無くならないでしょう。】
生活の為に子供を多く産むのではなく(そのような場合もあることはあるでしょうが)、貧乏人の子沢山は「他に、有効な暇つぶし方法がない」から子作りに励むという傾向になるのでしょう。
つまりは「熱中できる娯楽」の問題でしょう。
>【生活を保障する政治が世界規模で行われなければなりません。】
生活保障というのは基本的に「働くことが困難な状況にある人」への救済であるべきであり、何でもかんでも、援助すれば良いという訳ではありません。
ただし、相互扶助・富の再配分というシステは、保障とは別の意味で必要であり、これは、世界規模での「世界政府」というような善意の第3者的な機関が行う必要があるとは思います。
これは、基本的には「援助を受ける為には収入に応じた原資金を拠出して、援助を受けた場合には原則的には返済義務を負う」という形態になるでしょう。
>【それは開発援助というような間接的なものではなく直接的な金と物の援助を個人に対して行うものでなければなりません。】
逆でしょう。インフラ整備のような包括的総合的な援助こそを基本に置くべきです。
そうでなければ、その国は長時間自立できず、「依存体質の国民を抱えるだけの国」と化すだろうと思います。
確かに「直接援助が必要な緊急の事例はある。」でしょうが、それは例外事例であり、本則は「開発支援」というようなものになった方が正しいでしょう。
>【その為に国連を動かすべきでしょう。
このように実践的に思考する事を中心に指導原理の体系を構築すべきだと考えます。】
結論部分の「理想」だけが「正しい思い」でも、途中の過程が間違いでは、0点なのでしょうねぇ〜