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(回答先: Re: 度を越した「悪文」である。切れ味の悪さは「天下一品」である。 投稿者 短足鰐 日時 2008 年 7 月 02 日 21:54:03)
短足鰐さん、こんにちは、はじめまして。
短足鰐さん特有の遣り方で松浦氏のスレに応じられていることには学ぶべき点が多いと感じています。
ところで、松浦氏と私との間のコネクションのベースは目に見える形になってはいませんので、当を得た論評が可能かどうか甚だ心許無いものですが、専門分野ではあらぬ量子力学への言及はできる限り避けつつ、雑感めいたものを少し述べてみたいと考える次第です。
>>「原理的に物象性は蓋然性を持たぬ絶対概念であり、仮説とは無縁であるために、純粋な物象論が仮説になる可能性も等しく存在しない」。
>これは大層な高言である。仮説でない哲学・思想は、天によって天下されるのであろうか。その真実性・信頼性は何によって保証・担保されるのであろうか。「ただ信じる」ことによってのみか。これは宗教でありカルトであろう。(竹内薫氏は、自然科学でさえ、現時点での仮説の集合体である、と謙(へりく)だっているのだ)。
雑駁な推論が許されるのならば、それには例えばギリシャ語で叙述されたもの、あるいは概念規定されたものは同一言語で解釈されるべきであると云ったようなことが前提にあるものの、「ただ信じる」ことを強要している訳ではないと思いますが、物象性が蓋然性を含意しないことの説明がなされていないのは事実であり、一般的に不親切と受け取られても仕方がないかも知れません。
>>「物象性が全く解らない人に説明しても意味がないのは自明であり、…自ずと数は限られる」。
>これも輪をかけた高言である。松浦氏は、孤高の哲学者・思想家(あるいは科学者)を自認しているのであろうか。
物象性に関する私の理解が松浦氏のそれと同値であるとは到底考えてはいませんし、極最近までマルクスや廣松渉の物象論の範囲に止まっていた物象性に関する理解の枠組みを改めて広げる必要に迫られたほどですから、おそらく限定数に入ってもいないでしょう。
>これらの文章はいわゆる悪文である。読んでいると具合が悪くなる人もおいでだろう。文章力が全くない、というのかあるいはご本人の思想が混濁(大混乱)していて表現のしようがないのか、これらが入り混じっている風なハチャメチャな文章である。
馬鹿丁寧でくどいところばかりが目につき、律動感とは程遠い拙稿と比較するまでもなく、松浦氏の文章は断じて悪文ではないと思います。混濁(大混乱)しているというよりは引き出しの数があまりに多過ぎるためなのか、それにしたがって仔細に及ぶことの煩わしさが断定調に反映しているのではないかと想像しています。
>相当、後ろにのけぞっている人であることは十二分に確認することができる。
>高級言論風の装いに幻惑されたり有り難がったりする御仁もいるのではないだろうか。
確かに高所からの発言との印象は否めないでしょう。しかし、そうしたことを脇においても松浦氏の言説を拝聴したいと思うのは、私が提示しようとしているIssueを先取りするかのようにポイントをおさえた回答が齎されているからに外なりません。逐語的な解説に及ぶのは松浦氏の本意ではないのかも知れません。しかし、公の掲示板ということを考慮に入れるならば相当な妥協の産物とならざるを得ないと、内心ではそう思われているのではないでしょうか。それが却って仰け反った物言いと受け取られないとも限りない事態を招いていると考えます。
しかしながら、松浦氏が辞去を表明された現在、阿修羅板上に構造論的物象論にたいする理解を深める術を見出せなくなったのは大へん惜しまれることではあります。
Auf Wiedersehen.