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http://www.tokyo-np.co.jp/feature/sakimori/news/070819.html
「このままでは派遣できない。国連決議を取ってほしい」。二〇〇三年四月十六日夜、東京・東五反田の仮公邸。小泉純一郎首相はブッシュ米大統領に電話で訴えた。
一カ月前、米国がイラク攻撃を開始した。「日米同盟を強化する」。小泉首相は早くから、自衛隊のイラク派遣を固めていた。
問題は派遣の根拠だった。ストレートに日米同盟を持ち出せば、米国追従と批判され、計画が頓挫するかもしれない。「自衛隊派遣=国際貢献」と説明するには、国際社会がイラクを復興支援するとの国連決議が不可欠と、小泉首相は考えた。
さまざまな外交ルートを通じて、日本の意思が米国に示された。米国は国連でロビー活動を展開する。大規模戦闘が終了した後の五月二十二日、国連安保理で望み通りの決議一四八三は採択された。
国連決議をまとめた直後、来日したアーミテージ米国務副長官は、自民党の山崎拓幹事長に上機嫌で語りかけた。「決議が取れたんだ。特措法をつくってもいいじゃないか」。山崎氏は「首相や私が国連決議を必要最低条件としていたので、米国が必死になった」と振り返る。
ロシア、中国、フランスといった主要国が開戦に反対し米国が孤立する中で、真っ先にイラク戦争を支持した日本は、掛け替えのない伴走者と映ったに違いない。
五月下旬、小泉首相は「新法でやってくれ」と、福田康夫官房長官にイラク特措法の策定を正式に指示する。
だが、開戦の半年も前から、内閣官房のうち十数人の官僚による特措法策定の作業はひそかに始まっていた。首相官邸向かいにある内閣府の片隅に建てられたプレハブ小屋。きしむ廊下の先にある一室が作業場に充てられた。
官僚トップとして、五人の歴代首相を支えた古川貞二郎官房副長官は「武力行使が始まったら日本は何ができるのか、頭の体操をしてくれ」と指示を出した。
奇妙なのは外務省、防衛庁が外されたことだ。内閣官房の官僚の大半は各省庁からの寄せ集め。もちろん外務省、防衛庁からの出向者もいる。情報漏れを恐れた内閣官房は“本家”との相談さえ禁じた。
古川氏は「首相が正しい決断ができるよう準備しておくのが行政官の鉄則だ」としながらも、「福田官房長官には逐一、報告していた」と事務方の独走でなかったと強調する。
小泉首相が新法制定を表明したわずか二日後の〇三年六月九日、「人道・復興支援活動」「安全確保支援活動(米軍の後方支援)」を柱とする特措法案は与党に提示される。早くから準備していた成果だった。
誤算があった。柱の一つ「大量破壊兵器の処理支援」には、防衛庁から「自衛隊には処理能力がない」との異論が出て、法案からあっけなく削除された。
内閣官房が重要視したのは「大量破壊兵器は必ずある」と繰り返した米国の情報であり、自衛隊の能力は眼中になかった。手際よい作業とは裏腹に情報は偏っていた。
後に米国は「大量破壊兵器はなかった」と修正し、戦争の大義が揺らいでいる。イラク戦争の是非に言及していない国連決議をよりどころにした日本は検証のきっかけをつかめず、自衛隊派遣を続けている。(肩書はいずれも当時)
◇
(この連載は編集委員・半田滋、政治部・本田英寛、横浜支局・中山高志が担当します)
制服組インタビュー イラク派遣時陸上幕僚長 先崎一(まっさきはじめ)氏(63)
ヘリ派遣 真剣に検討
「米国にヘリ派遣を要請された」と話す先崎一氏
――イラク特措法が二〇〇三年七月に成立した。陸上自衛隊の対応は。
「イラク戦争をみていて、いずれ出番が来ると思った。(イラク特措法が国会上程される五日前の)六月二日、陸上幕僚監部に準備室を立ち上げ、内々に検討を開始した」
――アフガニスタン派遣には消極的だったが…。
「アフガン派遣は北大西洋条約機構(NATO)から要請があった。示された地域は奥地で、補給線が伸びきってしまう。この要請を断ったことがイラク派遣につながった」
――イラクではどんな活動を想定したのか。
「国連平和維持活動(PKO)の経験からも施設復旧や医療に限定されると思った。だが、ローレス米国防副次官からはヘリコプターによる航空輸送を求められた。陸自には砂漠でヘリを運用した実績がない。(〇四年一月に)人道復興支援を行う部隊を送り込む一方で、ヘリの派遣を真剣に検討した」
――えっ、ヘリ派遣を考えていたのか。
「その通りだ。大型のCH47ヘリコプターを持つ千葉県木更津の第一ヘリ団に準備を命じた。ミサイルからの回避訓練を開始していたが、政治決定がなく、派遣には至らなかった」
――米軍ヘリが何機も撃墜されている。派遣していれば、相当厳しい活動になったのでは。
「私がイラクへ激励に行った時のことだ。バグダッドから米軍ヘリで陸自のサマワ宿営地に向かったところ、ヤシの木立から銃の発砲を示す白煙が上がった。すると米兵二人がドアを開け、地上に向かって機関銃を構えた。応射はしなかったが交戦寸前。見えない敵を撃つのだから、自衛隊の武器使用基準では対応が困難だと思った」
――陸上自衛隊の撤収後、自衛隊法が改正され、海外活動が本来任務に格上げされた。
「サマワで一緒になったオランダ軍は、隊長レベルの判断で工事を発注できるカネを持っていた。海外活動を本格化させるなら、部隊長の権限の範囲で自由に使えるカネを持たせる必要がある。部隊に裁量権がないと危険な事態を回避する選択肢が狭くなる」
――イラク派遣で得た教訓や感想は何か。
「(1)他国の軍隊と対等に活動できることが分かり、自信がついた(2)半世紀に及ぶ教育・訓練、人材育成が間違っていなかった(3)地域と一体化するという陸自の伝統が生きた(4)五つある方面隊から多くの隊員を派遣したことで意識改革に成功した−の四点。自衛隊の海外派遣は国家意思の表明そのものだ。国にとって『自衛隊の力』が『外交の力』であると広く理解されたのではないか」
<記者の一言>
一九九二年の海外派遣開始から、陸上自衛隊の死者はゼロ。憲法九条の制約から、活動内容が限定されていることが最大の理由だ。
編集委員 半田滋
2007年8月19日
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