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(回答先: 文民統制の真相<4>『湾岸』トラウマ (東京新聞) 投稿者 天木ファン 日時 2007 年 8 月 24 日 20:41:20)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/sakimori/news/070823.html
悲劇の裏で同盟強化
グラウンドは怖いほど静かだった。
一九九五年十月二十一日、沖縄県宜野湾市の海浜公園で開かれた県民総決起大会。参加した八万五千もの人々は、米兵が起こした少女暴行事件への怒りと悲しみを共有していた。
ワイシャツの袖をまくり上げ、壇上に立った大田昌秀沖縄県知事は「幼い子どもの尊厳を守れなかったことをおわびしたい」と陳謝した。若者代表の女子高生が「軍隊のない、悲劇のない平和な島を返してください」と訴えると、涙ぐむ人もいた。
集会は米兵の綱紀粛正、日米地位協定の見直しや基地の縮小など、反基地運動への取り組みを決議して終えた。日米両政府が沖縄米軍基地の整理・縮小を協議する特別行動委員会(SACO)を設置するのは翌月のことだ。
「事件をきっかけに日米関係のあり方が見直される」。そんな沖縄の期待は見事に裏切られる。翌年四月、両政府は日米の軍事協力を極東からアジア太平洋に拡大する日米安全保障共同宣言を発表。同時に米軍と自衛隊が物や労力を融通し合う日米物品役務相互提供協定(ACSA)を締結、軍事同盟は格段に強化された。
実は、事件とは無関係に、日米関係を見直す動きがひそかに進んでいたのだ。
九五年九月上旬、東京・霞が関。外務省の会議室で、折田正樹北米局長とジョセフ・ナイ米国防次官補が向かい合っていた。後に延期されたが、二カ月後に迫ったクリントン大統領訪日の際に発表する日米安保共同宣言の文言を詰めていた。
共同宣言は、日米防衛協力指針(ガイドライン)見直しに言及し、日米安保体制を再確認する内容だった。
この時期、ガイドラインの見直しが浮上したのは、北朝鮮による核開発危機がきっかけだった。核開発を進めていた北朝鮮は九三年三月、核拡散防止条約(NPT)脱退を表明。米国は朝鮮半島有事が起きた際、自衛隊がどんな米軍支援ができるか、日本政府と非公式協議を繰り返した。
機雷掃海、米艦艇への洋上補給、負傷兵の捜索・救難。米国が示した支援要求は二千項目近くに上ったが、日本側の回答はことごとく「ノー」。怒った米側は、周辺有事で米軍支援が可能となるようガイドライン見直しを要求した。
折田氏は「朝鮮半島有事で日本は何もしないで済むはずがない。見直しは必要。これは日本の安全の問題だと思った」と回顧する。
大田知事は、米国の論文からガイドライン見直しの動きを早い段階からつかんでいた。ベトナム戦争当時、沖縄が米軍の前線基地と化し、地元の労働者が死体処理に従事させられた姿が脳裏に浮かんだ。
「周辺有事で日米が連携すれば、ベトナム戦争のような事態が再来しかねない」
沖縄の基地問題に注目が集まる中、日米両政府の作業は水面下で進んだ。「基地問題は重要だが、安保体制の充実もないがしろにできない」(当時の外務省幹部)との意識が働いていた。
九六年四月十七日、東京・元赤坂の迎賓館。クリントン大統領と橋本龍太郎首相が署名した日米安保共同宣言には「ガイドライン見直しを開始することで意見が一致した」と明記された。沖縄の少女暴行事件は、日米関係に何の変化も呼び込まず、自衛隊と米軍が一体化する最初の一歩がこの日、踏み出された。(肩書はいずれも当時) =おわり
<メモ>日米安保共同宣言 1996年4月、当時の橋本龍太郎首相とクリントン米大統領が署名した。冷戦期の日本防衛を主眼とした日米関係をアジア太平洋の広域的な同盟に移行させた。日米防衛協力指針(ガイドライン)見直しにつながった。
日米防衛協力のための指針(ガイドライン) 日米安保条約の円滑な運用のために作成された日米の軍事協力方針。新・旧2種類あり、冷戦後、97年改定された新ガイドラインは、日本防衛に加え、周辺有事の際の日米軍事協力に踏み込んだ。
=おわり(この連載は編集委員・半田滋、政治部・本田英寛、横浜支局・中山高志が担当しました)
制服組インタビュー 新日米ガイドライン締結時の海上幕僚長 夏川和也氏(67)
機能する組織 まず議論
「戦略の議論が必要」と話す夏川和也氏
――北朝鮮が一九九三年に核拡散防止条約(NPT)脱退を表明した。
「核開発しているとの情報があり、NPT脱退もあるかもしれないと思っていた。想像が現実になった。防衛庁だけでなく難民対策など各省庁が北朝鮮問題を検討するきっかけになった」
――九五年に沖縄で米兵による少女暴行事件が発生した。日米関係に変化があるとの見方もあったが、翌年には日米安保共同宣言が出され、日米関係が強化された。
「沖縄の事件は大変なことだと思った。事件は米軍基地問題の見直しを呼び起こした。ただ、基地問題にとどめるべきで、日米の枠組みは崩すべきではない。そこへ安保共同宣言だ。日米両政府は淡々とコトを進めていた」
――海幕長のときに日米防衛協力指針(ガイドライン)が改定され、周辺有事の共同対処が一部可能になった。
「ずっと前から(一九七八年合意の旧)ガイドラインに実効性があるのか疑問だった。いざというとき、日米でどう動くか具体的な取り決めがなかったからだ。日米連携の研究をやっていたはずだが、終わったのかどうか分からない」
――新ガイドラインでは日米間の調整メカニズムで協力態勢を議論すると書かれた。
「私が海幕長の時に後方支援をどうするか議論が始まり、次に運用について検討されたはずだ。制服組は与えられた任務をきちっとやらなければならない。権限、能力を与えずに『ほら、できない』と責められても困る。そのためには平素から議論が重要だ」
――北朝鮮の弾道ミサイル、核開発で国民は危機意識を持った。
「もともと自衛隊は朝鮮戦争をきっかけに生まれた。国民の軍事アレルギーから自衛隊は批判的な目で見られ、動いてはいけない組織とされてきた。ただ、私は北朝鮮の脅威より、国際貢献の積み上げが自衛隊を押し上げたとみている」
――海外活動を通じて、できること、できないことがはっきりしたからか。
「『ここまでやったから次はここまでやれる』という既成事実の積み上げが一番よくない。あるべき姿をまず議論すべきだ。例えば自衛隊の戦略は何なのか、と」
――有事法制など、自衛隊が行動するための法整備は進んでいる。
「他国の軍隊は『やれないこと』を明示しているから、やり方にさまざまな方法論がある。一方、自衛隊は『やれること』を決めて、あとは全部ダメだから、柔軟性に欠ける。法体系を見直さないと、必要なときに自衛隊は使えず、タイミングを逸することになる」 =おわり
<記者の一言>
新ガイドラインで自衛隊が米軍と連携できるのは周辺有事までだった。昨年改定された自衛隊法で、「国際安全保障環境の改善」のため、世界各地への進出が可能になった。アフリカや南米で米軍とともに行動する日が来るかもしれない。
編集委員 半田滋
2007年8月23日
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