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憲法9条、日本国憲法が平和憲法といわれる所以である。戦争放棄の条文である。
自民党を中心にした「改憲勢力」は基本的には「憲法9条を変えて、明確な自衛権を持ちたい」と思っている。
その理由は「自衛権を放棄した国家」というのは「理論的には長期存在が不可能」と考えるからだろう。
確かに、自由資本主義の競争原理世界においては、弱肉強食になる。
防衛力の放棄というのは「自ら弱者の方に位置する」という自殺行為である。
そもそも、「どんな理想的な憲法を有していても、征服され、憲法を変えられてしまえば、意味はない。」
良い憲法であるなら「それを守れる力を有してこそ」意味を持つのである。
これは、前時代的な考え方であるが、一つの真理でもある。
自らが「隙あらば」と考える者ならば「自ら、隙を作る」という考え方は理解できない。
人は「自分の価値判断を基準に考察を行う」
つまり、他人から「詐取」しようと考える者ほど、他人からの詐取を恐れ警戒するのである。
戦争と云うのは「もっとも愚かしい行為」であると「普通の人なら思う」だろう。
しかし、振り込め詐欺の増加ではないが、人間、自分が食えなくなれば「何でも行う」それが犯罪であっても「死ぬよりはマシ」と思う人は多いだろう。
「他人に迷惑をかけてまでして生きたくない」という価値観の人もいるだろうが、その方がむしろ少数派である可能性すらあるのだろうと思う。
戦争が起こり得る最終の決断は「抑止力を超えた危機感」によって判断されるのだろう。
今現在「どこかを侵略」などをすれば、国際世論を敵に回し、世界社会から村八分にされる。「その部分が抑止力」である。
実はこの抑止力はかなり高い。
現実問題として、仮に日本が孤立化したら、食料の自給率から言って「国は保てない」だろう。今現在、自給自足ができ「世界社会から村八分にされてもやっていける国」というのは極少数であろう。
それ以外の抑止力は「核の抑止力」「軍事力牽制による抑止力」というのがあるが、実際には機能していないのと同じである。核を持っている国に対して「核を持っていない国には抑止力はない」というのがガロア理論である。
これが正しければ、核所有国が核未所有国をドンドン植民地化しているはずだが、現在の流れは「戦力もない国が独立している」という流れである。
現在は「武力の抑止力より理性の抑止力の方が優ってきた」と云うことである。
倫理を伴わない権力者は権力を保ち難いという理性・知性が庶民サイドにも浸透してきたのである。
その抑止力を一歩進めるのが「貿易」等の日頃の繋がりである。
商人は多少腹を立てても、喧嘩してしまったら「商売に支障が出る」ので我慢する。
それは、お互い様であり、持ちつ持たれつであり、「国だって同じ」である。
そのように考えるのなら「憲法を改正してまでして、軍事力を強化するのは、時代に逆行している」と言えるだろう。
仮に日本が軍事大国として成長しても「アメリカには未来永劫勝てない」だろうし、中国をはじめとするアジアの周辺国を刺激するだけだろう。
どうしても、軍拡に進むのなら「アメリカを越える軍事力を有し、更に核を有すること」が必要であり、そうでなければ意味がないのである。
「相手が攻めてくる」という不安感による軍事拡張は「自分より強大な軍事力を有する国がある限り、決して解消せず、疑心暗鬼で眠れない」のである。
「アメリカは大丈夫」なんて誰も言えないだろう。実際、最近軍事行動を他国に対して行っているのはアメリカが多いだろう。
「北朝鮮」が危険というのも、北朝鮮が国として危機という背景があるからだ、周辺諸国が「援助する事」によっては危険は減少するだろう。
ただ、日本としては「拉致問題」があるので、一概には言えない部分もあるが、北朝鮮を援助し、友好関係を樹立できれば、「その方が拉致問題の解決が早まる」という可能性もあるだろう。
「相手が悪いのにこちらが低姿勢に出る必要はない」と云う意見は当然として理解できるが、変なプライドに拘るよりは「事件の早期解決に拘った方が結果論として良い」のかもしれない。
商人は頭を下げてナンボであり、日本は商業国でやっていくしかないだろう。
プライドよりは実益の方に思考を向けなければいけないと思う。
どうも、憲法9条を改正するのなら、「テロとの戦い」くらいにしか意味はないと云う気もするが、流石のテロ戦士も「日米の合同軍事行動の場を襲ってくる」ほど愚かではないだろう。
そもそも、アメリカ軍を襲ってくる者がいるのだろうか?
集団的自衛権?
日本と合同行動をしている味方の国の軍隊を攻撃して場合には一緒に反撃すると云うことと云う説明であるが、相手は宇宙軍か?
詭弁も良い所だと思う。