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(回答先: 雑談を交えて 投稿者 kanon 日時 2008 年 1 月 08 日 23:11:41)
ジョン・コルトレーンの「ジャイアント・ステップ」がお勧めです。
>主観と客観が同質でなければ客観性の根拠は措定できない理由を述べますと、カントが「物自体」と「現象」を区別したことからも伺えるのですが、現象は人間が理解できる範囲での世界であり、人間がこの世界を構成する上で、時間や空間といった概念を使用し、共通するカテゴリーから主観を働かせることで世界を成立させるという認識になります。したがって、客観的理解とは、概ね多くの主観の共通認識になりますね。
思考は取り合えずは主観であり思考が主観の枠から脱出する事は不可能だと思うのですよね。多くの人々に真理だと認識されている事柄は「最大多数の共同主観」というようなものでありそれを客観と呼んでしまう傾向が人間にはあると思います。「だってみんなが世界は平らだって言っているよ。」というようなものです。
>>主体とはあらゆる人間の主観から免れた神の位置にいるのです。自ら神の位置において他者の言説を批判しているという事なのです。従って私は客観という言葉を排し複数の人間の間で一致した共同の主観を構築するしかないと思っております。
>どうでしょうか?主観と客観の二元論的な対立ではなくて、客観の等価形態としての主観の表出であり、ヘーゲルで言えば主と奴の関係、マルクスで言えば、貨幣がすべての商品と交換可能な位置になるので、主観、客観を切り離さなくても同一性は担保されると思いますが。
済みません。この文章についてもう少しご説明いただけませんでしょうか?「客観の等価形態としての主観の表出」とはどのような意味なのでしょうか?「主観、客観を切り離さなくても同一性は担保される。」とは?客観世界を想定した上で人間の意識に現れた現象は客観世界の反映だという事でしょうか?私には客観世界の想定自体が「命がけの飛躍」のように思うのですが。人間の認識がついには及ばない事柄を前提にしていると思うのです。つまり「神はいる。」と根拠なく信じる事と同じに見えるのです。