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(回答先: kanonさん、はじめまして、雑談トリオのメンバーのワヤクチャです。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 1 月 07 日 21:46:39)
ワヤクチャさん。
はじめまして。ご返信ありがとうございました。
>ベースを担当してます。Kさんがピアノで最大幸福さんがドラムです。アドリブ満載のフリージャスを目指してます。ライバルは山下洋介トリオです。冗談です。
ジャズはあまり聴いたりしませんが、ジャズ好きの知人によるとジャズのコード進行が身体に快感を誘うと語っていました。ちなみにギャクは嫌いではありません。(笑)
>判断する主体自体が客観的でなければ対象にした言説も客観的かどうか分かりません。従って客観的である根拠は無限に証明しなければなりません。それは不可能です。よく「客観的に見て」などと気軽に書かれていますがあれはある言説が主観に過ぎないと判断した上で自らがより客観的にその言説を判断できるという思い込みである場合が多いと思います。「客観的に見て貴方の意見は間違いだ。」というのは「私から見ると貴方の意見は間違だ。」という意味の場合が多いです。「他人から見て」というぐらいの意味にしかなっておりません。
主観と客観が同質でなければ客観性の根拠は措定できない理由を述べますと、カントが「物自体」と「現象」を区別したことからも伺えるのですが、現象は人間が理解できる範囲での世界であり、人間がこの世界を構成する上で、時間や空間といった概念を使用し、共通するカテゴリーから主観を働かせることで世界を成立させるという認識になります。したがって、客観的理解とは、概ね多くの主観の共通認識になりますね。
>主体とはあらゆる人間の主観から免れた神の位置にいるのです。自ら神の位置において他者の言説を批判しているという事なのです。従って私は客観という言葉を排し複数の人間の間で一致した共同の主観を構築するしかないと思っております。
どうでしょうか?主観と客観の二元論的な対立ではなくて、客観の等価形態としての主観の表出であり、ヘーゲルで言えば主と奴の関係、マルクスで言えば、貨幣がすべての商品と交換可能な位置になるので、主観、客観を切り離さなくても同一性は担保されると思いますが。