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下の返信から導かれた意見になります。
客観的な意見とは
http://www.asyura2.com/07/idletalk28/msg/587.html
投稿者 kanon 日時 2008 年 1 月 05 日 15:46:51: FUgy0.1v81/ao
kanonさん、はじめまして。
考察者Kという人物から、ニート予備軍のように言われている子どもですが、どうぞ宜しくお願いします。
私は最近、とくに賑わわせている3人に対して、煽りと取られても仕方ないことを、あえてやっていました。
ただし、そんなことで受け入れられなくなるほど器の小さい人間ではないと思っているし
本来こんなところで終わらないと期待しているのもあるから問題ないでしょう。
みんな動機が薄くて投稿しない中で、この熱心さを評価しないわけにはいけません。
考察者K氏とは特に面白い議論ができるんじゃないかな。
よくわからない憑き物がついているようだから、憑依しないように気をつけてください。
幻想に誘う度が非常に高くユーモアもある、自称カスなおじさんとのことです。
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私は、学問の全体性の低下を回復するために
新たな思想を自分たちの手で創造していこうと考えています。
それには今までの思想をもっと見直していくことも必要です。
脱構築でぶっ壊しまくった結果、どんな創造も意味がないかのようになり
理想を追求する姿勢が欠け、社会を良くしようとする動機も全くといっていいほど消え去ってしまった世の中。
それはもうそろそろ終わりにしませんかって。もっと自分が動かないといけないなって。
何に対しても意識をもたないことには始まらないので、なるべくそういう意識をもたせるような投稿をしていきたいです。
どちらかというと新たな思想を導くため
日本思想中心に東洋哲学からのアプローチの方を重視したいと思っていますが
西洋哲学から、いろいろ見出していくのも大切です。
ヘーゲルの思想はマルクス主義に多大な影響を与えているからか
散々に叩かれて、見捨てられてしまているかのようですが
それをあえて捉えなおそうとする姿勢には感心します。
個人的なものを重視するとしても共同体と関わりあいながらしか人間は生きていけません。
ヘーゲルは理想を国家に求めましたが、善悪は別に愛と独立性が共存する社会っていうのにロマンを感じます。
どんなものにも長所と短所があるから止揚しよう(洒落みたい)っていうのは
和辻哲郎のいう「間柄的存在」(社会から孤立も埋没もしない生き方;人間関係を重視する)にも見られますが
単純にはいかなくとも、よくないと考えられているものを見直し、よいものにしようという姿勢にはやはり好感がもてます。
これから、希薄な人間関係をもっと積極的に見直していく上でも、こういった思想が求められるのかもしれません。
さらに「知」を追求することで、社会へ関わるのに立派な動機をもたらしもするからこそ
ヘーゲルの思想はやはり重要な意味を帯びているように感じられました。
様々なな西洋哲学は、ヘーゲルの思想を前提にもしているし、多大な影響を受けているではないですか。
だから、それが無意味であるとなった時、何も残らなくなったのもわかる気がします。
これからは破壊を反省し、創造へ転換する。少しづつでも回復させていければいいのではないかな。
ただし、観念的な思想全般に当てはまりますが、それだけでは駄目なのだとも思っています。
観念的な思考は、それを用いない人間との対話を拒絶しがちだからです。
用いようが用いまいが、どちらが優秀ということはありません。
せっかくの意見が、ある思想を用いるもの同士の対話だけに終わってしまい
お互いの納得だけで満足し、大勢に理解されないのは残念なことです。
こういった対話は賢い方々に多いわけで、理解できない人を疎外しています。
どうやら普遍的な思考に繋がっていかないよう感じるからか、観念的なやりとりに虚しさを覚えているのかもしれません。
だから、観念的な知により客観的な判断ができるようになるかは疑わしいと思います。
また、普遍的な思考など存在しないと最初から切り捨てることもいけないのではないかと。
それを求めていく姿勢は大切だと思っているし、そこから新たな考えも生まれてくるはずです。
むしろ、いわゆる知識人よりも一般人が自然に身に着けた知のほうが
観念的な知よりも普遍的であるように感じられ、非常に鋭く感激することも多いと言える。
一般人をなめてはいけない。それを理解した上で考えをどんどん深めていきましょう。
本当に賢い方々なら、率先してやっていけるのではないですかね。
どんな人間であっても関係なく、その人に応じてわかりやすく語ることが。
そして、相手の能力をどんどん引き出すことも。
もちろん抽象的、観念的な知や思考の大切さも認めた上で言っているのですが
それに捉われてすぎてしまうと自己を疎外してしまう恐れがあります。
対策としては、そういう思考をしながらも
過去の体験や現実の行動を絡めることにより思考にふくらみを与え
自分の言葉で語っていくことが大切なのでしょう。
そうやってバランスを取りながらやっていくと、いろいろな人に上手く理解してもらえることになります。
そこから客観性も見出すことができ、普遍的なものに繋がっていくことで
個人だけでなくみんなのために有用な財産を多く生み出していけるはずです。
ちなみに感情的な批判をする人であろうが
何か気づかせてくれることはあるわけだから
誰でも大切にしたいなって思っています。
本来、主観も客観もバランスよくいれていくのがいいのです。
「感情」+「論理」から真の「知」が生まれるとでも言えないかな。
みんなが個人的に中庸を目指すのも難しいだろうし、混沌とした投稿から正反合に導ければいい。
だから感情的、大いにけっこう。多少きつい表現大いにけっこう。
例え自分には意味がないような投稿でも他人にとってはどうかわからない。
意味不明な文字列の類じゃないなら自由が認められないとおかしい。寛容さと柔軟な対応が求められる。
「宝」はどんな小さいことにも隠れているもので、それを見す見す捨て去るのはもったいない。
何でもないような投稿から偶然<真実>への扉が開かれるかもしれないのだから。