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Kは思うのだが、本当の意味で必要なのは「周囲に迎合するのではなく、自分で判断する力」なのだろうと思う。
夏目漱石氏の言葉に
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
というのがあるが、この言葉は至言と言えるだろう。
多数派形成と云う意見に対して「少数派の意見であっても大切にしよう」という意見がある。この意見は「間違ってはいないが、正しいわけでもない」のだろうとKは思う。
少数派である事で即、間違った意見とは言えないが、少数派の意見は常に正しいのではない事もまた当然だろう。確率論で言えば「少数派の意見の方が間違っている可能性は高い」とも言えるだろう。
少数派の意見は「少数派である事を理由に無視もしくは間違いと決め付けないで、キチンと考えるべき」と云うのが「少数は意見を大切にしよう」と云う意味であろう。
逆に言えば「全ての人が、少数派の人の言い分を十分に理解したうえで、なお少数派に留まっている」のならば、その意見は「思い込み」に近いのだろう。
K的に言えば「憑き物憑き」と云う事になる。
多数派を持って、少数派を弾圧するかのような手法というのが、全ての悪の根源なのだろうと思う。
「事柄に対する人々の理解が不十分な時点での多数派・少数派にはあまり意味はない」のだろうと思う。
それは言い換えるのなら「事柄に対するイメージ」に対する評価であって、本質と云う部分について個々の人がどの程度の知識を有しているのかは非常に疑問である。
ただ、現在の趨勢とすれば「事を成したい者は、本質を悟られないうちにイメージによる判断だけで押し切ろうとする」という手法が主流となっている。
具体的な例を挙げるなら「日本国憲法は、古いし自主憲法でないから改正すべし」というような論法である。「憲法の何条のどの部分が現状に合わないので変えるべき」ならばある程度は本質に達しているが、そこには踏み込まないでイメージのみでの「改憲必要論」が一人歩きしているだろう。
どれだけの国民が「日本国憲法」を知っているのか?
仮に「象徴天皇」と「戦争放棄」くらいしか知らない人が多いとすれば、果たしてその人達に「改憲賛成」の投票をする権利があるだろうか?
それは「保存状態を全く調べもせずに、古いから捨てる」という考え方であるし、自分の創造した物以外の価値観は不当に低い評価をするという事だろう。
経年疲労・自主憲法論と云うのは「本質ではなくイメージ」である。そこだけはキチンと理解する必要性があるだろう。
その上で「審議に入る前での拒否反応」というのも「逆方向での同じ穴のムジナ」だろうと思う。ただ、こちら側には「権力側の卑怯な手法の経験則」という部分もあるので、一概には批判できない部分もあるだろう。
しかし、議論(審議)拒否という手法が、多数の国民の不信感を育てるという側面もある。
手法が問題なのである。
少数派として求めるべき事は「現実から逃避する事」ではなく「現実を認識した中で、一人でも多くの人に現状と真実を知らせ、認識してもらう事であり、その中で自分自身で判断・選択してもらう事」なのだろうと思う。
一定のグループの中で「グループの中の価値観によって、他者の意見を不当に扱い、もしくは排除しようという風潮が許され、議論によってではなく、イメージとか数に頼った手法によって、他者に不当なレッテルを貼ったりする事を許す」と云う事であるならば、それは、今の日本の構造を容認しているのと同じなのだろうと思う。
特に問題なのは「不当なレッテルとか排除論」という者に群れるという「価値感の迎合」という部分である。
ここでは、「自分の価値観を省みると云う部分の能力の低下」と「自分の判断力の放棄(他者の意見への依存)」が顕著にあらわれ易い。
「人は自分の見たいものだけを真実と考える」
と云う心理状況は容易く人を誘導する状況を作り出せるという部分もある。
創価学会が超巨大宗派になったのは「戦後の復興期の中で、苦しむ人が望む未来を提示し、時代は成長期であった」という背景があるのだろう。
人は「自分の考え方とベクトル(方向性)が一致する考え方」に対しては無批判で受け入れ「憑かれる」という部分がある。
その中では「自分がされたら拒否する」という手法を「他人にならしても良い」という矛盾にすら目を閉ざすという状況にすらなる。
一定のグループの中で容認される手法として「価値感の違う者への弾圧」を許せば、それは、より巨大な社会集団からの「少数意見への弾圧を許す」と云うことである。
それに気づかない行為が
『自分で自分の首を絞めている事に気づかない』と云う事なのである。