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(回答先: アメリカのポピュリズム 投稿者 まとおせ 日時 2007 年 12 月 25 日 21:28:15)
まとおせさん、こんにちは。
「ポピュリズム」と聞くと、私には真っ先に思い当たるのが“大衆迎合主義”です。嘗て大衆を政治の主体と見做すことの危さを指摘したのがホセ・オルテガ・イ・ガセットですが、後にとりわけ戦後の日本において「ポピュリズム」は“大衆迎合”のニュアンスを含意して、大衆に阿った政治家の主張や行為を批判する場合に用いられました。これには批判する側(=対立する勢力)の一定の価値観が関与しています。
米国での「ポピュリズム」はそれとは違った発生と発達の過程があったことについてはご紹介の通りですが、これにも大衆の側の主張(価値観)が関与していますので、「ポピュリズム」の汎用性ある定義に当て嵌まるかは疑問の余地があると思います。
ところで、私は「ポピュリズム」は“操作主義”の一種と捉えることが可能ではないかと考えています。つまり、“大衆”の名辞を冠するならば“大衆操作主義”となり、“大衆”を操作対象にすることでは大衆は固より大衆以外の存在である第三者も操作の主体となり得ます。問題は操作対象である“大衆”が自らが制御(操作)主体にあるのではなく、なかなか“大衆”の視界に入っては来ない第三者によって操作されるような事態が生じたり、そうした社会が現出しつつあることではないでしょうか。そして、この社会的所産の一つが民衆の自発的服従性であり、それがまた今日の“大衆操作主義”もしくは「ポピュリズム」を再生産する素因にもなっていると謂えるかも知れません。
今後の「ポピュリズム」の行方を占うならば、その全貌の如何は大衆がこの“操作主義”をどこまで許容してしまうのか否かにかかっているのではないでしょうか。そして、それが完成の域に近接すればするほど個の意味は霧散していくことになると推測しますが、必ずやどこかで揺り戻しがあることを期待したいと思っています。
また、会いましょう。