★阿修羅♪ > 議論27 > 179.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
雑談版でも述べたが憲法と刑法には以下の規定がある。
憲法第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
刑法第9条 死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。
憲法の規定と刑法の規定が整合していると考えるなら、むち打ち刑は残虐な刑罰であり、死刑は残虐な刑罰ではないと刑法が規定していることになる。
たとえ話だが、このような場合、みなさんはどう思われるだろうか。
Aという人がBという人にむち打ちを行い、Bはみみず腫れを負う傷を受けた。この場合、AにはBに対する傷害罪が成立するだろう。傷害罪の量刑は最も重い場合で懲役10年、この場合は、はるかに軽い量刑となるだろう。罰金だけで済むかも知れない。一方、AがBを殺した場合、殺人罪で最も重い量刑の場合は死刑となる。
刑法では、むち打ちは残酷な刑罰だから禁止するが、人を殺すのは残酷な刑罰ではなく禁止する必要はないという。刑罰では残酷だからと禁止されているむち打ちの犯罪の量刑が軽く、刑罰では残酷でないと容認されている殺人の犯罪の量刑がはるかに重い。ここには大きな矛盾が存在する。無論、刑法が応報主義をとっていないので人を殺した者は死刑が当然という主張は成り立たない。誰かこの矛盾を、矛盾なく説明できる者はいるだろうか。いるなら反論してほしい。
死刑制度の是非を論じるとき、死刑制度による犯罪抑止力の有無、誤審の可能性、被害者遺族の処罰感情、などさまざまな論点が存在する。しかし、私はそれらの論点について論じることは死刑制度存廃を考える上で大きな論点とすべきでないと考える。最も大きな論点は、刑法の規定による死刑が憲法第36条で禁じている残虐な刑罰にあたるかどうかであると考える。
実際に執行するのは拘置所の刑務官であるが、彼らの精神的ストレスは非常に大きい。執行の晩は飲み明かさずにはいられないという刑務官もいるという。国民の多数の同意のもとで死刑は行われている。死刑執行のニュースを聞いても多くの人は深く考えることなくやり過ごしているのだろう。死刑は自分には関係ないと。しかし、死刑制度に賛成の者は、死刑囚を殺している者である。死刑制度に賛成という者は、刑務官だけに死刑執行を任せて自らは関係ないと言うことはできない。政府は国民の大多数が死刑制度に賛成だから死刑は廃止しないという。実際、死刑は多くの国民と国との暗黙の契約の上で存続している。辺見庸はこれを「黙契」と名付けた。
終身刑制度導入までの死刑執行の停止を願わずにはいられない。