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(回答先: 自己を省みることのない傲慢な営みの現れ 投稿者 haru 日時 2007 年 10 月 07 日 20:52:36)
haruさん、こんにちは。
>ブルジョワ民主主義という言葉を知りませんでしたので、調べてみました。以下の要約でよろしいのでしょうか?
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』については、haruさんが“民主主義”を批判するとき、どんな民主主義を想定してのことか不明であり、おそらくharuさんも明確に把捉されていないのではないかと想い、何かのインデックスの代わりにでもなればと考えて極一般的なものを提示させていただきました。
そこで、「ブルジョア民主主義の思想は賞味期限切れになっていて、制度疲労を来たしているのにも拘わらず、今日では民主化という大義に名を借りて地球世界の浄化(実態は破壊)に荷担している」とのharuさんの認識であるのならば、首肯でき得ないことでありません。しかし、その場合であっても“民主主義”全体を否定することはできないと思っています。何故なら、如何にその少なからざる部分を戦後に米国からもたらされたものだとは謂え、私もharuさんも近代民主主義の日本社会の中に生き、またその恩恵を受けてもいるからです。
ですから、このことを踏まえて、我々は新たな“民主主義”の形態(政体)が如何にあるべきかを探究していくのか、それとも全く別の思想に基づく体制を創出すべく模索していくのか、何れかの道を選択していかなければならないと考えます。それは同時に我々が問題意識及び当事者意識を自覚していくプロセスでもありますし、それ(自己を省みること)なくして人類の営為の行末は聊かも安寧ではあり得ないでしょう。
>わたしは、弱者救済ではなく、弱者尊重という思想が望ましいのだと思います。例えば、、許しとは強いものが行う事とか、、、。
私は“弱者”という言葉には、それを強調することによって殊更にその人自身を卑屈ならしめ、さらにはその状態を益々受け入れてしまうことも通じるように想われ、少なからず違和感を覚えてしまいます。寧ろ、私はキリスト教の信者ではありませんが、しばしばキリスト教者が使うような力が小さい者という意味での “小さき者”と云った言葉の方に心惹かれます。
畢竟するに、“小さき者”達によって、力の大きな者(権力者)の悪行が糾され、やがてその蛮行までもが赦されるのでなければこの世界が救済されることにはならないでのではないか、そう思っています。
また、会いましょう。