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2008.03.17 チベット「騒乱」の背景
管見中国(6)
田畑光永 (ジャーナリスト)
チベット・ラサでの「騒乱」が伝えられた。「 」つきで騒乱というのは本当のところがよく分からないからだ。たとえば中国のテレビで放映された画面というのを見ると、確かに「暴徒」が店や道路標識を壊したり、自動車をひっくり返したりする場面はあった。しかし、それは大勢の群集がいる場面ではなく、どちらかというと人気のあまりない情景の中でそういう行為が行われていた。テレビカメラがいるのに、そして「暴力行為」が行われているのに軍隊や警官の姿が見えないのだ。不思議な画面であった。
だからといって、それらの画面を「演出」と決めつけるにも材料が足りない。ただ、中国のテレビ画面にはチベット人「群集」やそれを弾圧する政府の「軍警」の姿はさっぱり見えない。それは「ごく少数の破壊分子の行動」という公式発表を裏付けるという編集意図ははっきりしている。
そこでこれまでの各種報道をまとめてみると、発端は今月10日(11日ともいう)からチベット仏教の僧侶によるデモが始まって、それが14日の「騒乱」に発展し、死者が出た。
僧侶たちのデモはそれ以前のデモに参加して逮捕された僧侶の釈放を要求するものであった(香港『明報』15日)という。
死者の数については、当初、中国の新華社は2人と伝えたが、15日にはそれを10人と増やした。インドにあるダライ・ラマの亡命政府は同日、死者30人を確認したと声明し、米政府系「ラジオ自由アジア」は80人以上との目撃情報を伝えている。
事件の第一報はチベット自治区責任者が14日、新華社記者の質問に答えたという形で伝えられ、それは「ごく少数の人間が暴行、破壊、強奪、放火を働き、人民大衆の生命財産の安全を危うくしている。これがダライ・ラマ集団の組織的、計画的、綿密に練られた行動である十分な証拠がある」というものであった。
これに対して、ダライ・ラマ亡命政府側は関与を否定し、民衆の自発的な行動であると反論している。ただ、ダライ・ラマ亡命政府が直接的に関与していたかどうかはともかく、デモを起した側は今年オリンピックが北京で開催されることを十分に意識していたのは間違いあるまい。胡錦濤が当時、自治区政府主席として戒厳令を布いて、強硬に弾圧した1989年の暴動も、その年の北京における民主化運動を意識してのものであった。
いずれにしろ、死者が少なくとも10人は出たというのは深刻な事態である。問題はそれが大衆の側の暴走によるものか、それとも大衆行動を弾圧する権力側の過剰行動によるものか、である。死者の正確な数とともに、この点が今後、目撃情報その他で明らかになるのを待ちたい。
さて、ここから先は今度の「騒乱」の背景について、自分の見聞からの私見をのべさせていただく。
私はチベットを二回訪れている。一度目は1979年、二度目は2004年である。79年は中国政府がチベットを公式に対外開放するにあたって、まず外交部が北京駐在外国記者団のチベット旅行を組織したのに参加したものであり、04年は大学の教員として学生を引率して行った旅行である。
いずれも一週間程度の、それもラサのみの見聞であるから、まさに「管見チベット」、それだけで物事を論ずるのは無謀であることは十分承知の上ではあるが、二度の訪問の強烈な印象だけは聞いていただきたい。
30年前の第一回の時のラサは文字通り歴史の中に眠っているようであった。ホテルなどは一つもなく、改革・開放以前の中国をご存知の方にはおなじみの「招待所」という宿泊施設があるだけであった。二階建てのこじんまりした建物で、各部屋には酸欠になった人のために酸素を吸うゴムの袋が備えられていた。何百人、何千人の鼻孔に差し込まれたかわからない吸入口はテラテラに光っていて、それを使うのには随分と勇気が要った。
道が舗装されていたという記憶はない。車もまれで、繁華街といえるほどのものもなかった。ラサで一番賑やかな場所はこんどの「騒乱」でもその舞台となった「八角街」といわれる商店街だが、そこは各地から出てきたチベット人であふれていた。さまざまな使い方もわからない生活必需品が売られていて興趣が尽きなかった。
ラサに滞在中、ホテル以外で口にものを入れたのは、郊外の農村を訪ねた折、絞りたてのヤクの乳を紅茶の葉と一緒にわかしたお茶を振舞われた時だけであった。外国人が食べられる食堂は一軒もなかった。
25年を経て再訪したラサはすっかり様相を変えていた。目抜き通りは舗装され、ゆったりと歩くチベット人を蹴散らすように車が駆け回っていた。有名なポタラ宮の前を走る道路の反対側には木立に囲まれた差し渡し数十メートルの池があり、その水面に映るポタラ宮の倒立像はカメラの格好の素材で、争って撮った覚えがあったのだが、その池はすっかり埋め立てられて、コンクリートを敷き詰めた広場に生まれ変わっていた。
ホテルは外資系を含め何軒もいい場所に建っていた。売店にはペットボトルの酸素ボンベが売られていて、ゴムの袋は姿を消していた。街の中心部には以前は見られなかったビルが立ち並び、ビジネス街が形成されていた。八角街はますます賑わっていたが、中身はそっくり入れ替わり、観光客のためのみやげ物センターに変身していた。そこではチベット人は観光客の影に隠れるように散見されるだけであった。附近には観光客向け「チベット料理店」が周囲を大型観光バスに囲ませていた。
そう、四半世紀の時が流れたのだから、ラサといえども変貌するのは当然である。いたずらに往時を懐かしむのは無意味であろう。ただ、私が強く印象づけられたのは、その大きな変化の主役がチベット人ではないということであった。
車に乗っているのも、ビルで立ち働くのも、商店街を歩くのも、「チベット料理店」のお客も勿論、大部分はチベット人ではない。場所はまごうかたなく昔と同じラサであるが、その地形の上に新しい都市が覆いかぶさっているのである。その新しい都市はまさに典型的な中国の地方都市である。主役は漢民族とかなりの数の外国人観光客である。その中にチベット人も住まわせてもらっているという格好であった。
チベット自治区政府のホームページを見ると、チベットの総人口は05年末で277万人余とある。ラサには1割弱が集中していると聞いたが、冬を除く季節には漢民族が大量に流入して、ラサではチベット人より多くなる。言うまでもなく観光客相手に商売をする人たちである。
07年の経済指標を見ると、自治区GDPは342億元、対前年比13.8%増。新聞報道では7年連続12%以上の伸びを続けているという(『朝日』16日)。しかし、そのGDPの内訳は第一次産業54億元、第二次産業96億元に対して、第三次産業は192億元である。第三次産業の比重は6割に近い。その中身は観光産業であり、担い手は漢民族である。
一昨年、中国は青海チベット鉄道を開通させた。あの高度地帯に鉄道を通したことは偉業ではあるが、それはいうなれば漢民族がチベットの自然を売り物に観光で儲けるための道具である。勿論、チベット人にそれが役立たないということではない。が、かりに役立つにしてもあくまでそれはおこぼれである。
中国政府はチベット人(この言い方も政府は忌み嫌う。あくまで「チベット族」である)も中国を構成する不可分の民族であるという立場だから、チベットを舞台に漢民族が儲けようと、それは中国のため、ひいてはチベット人のためということになる。それがどこまでチベット人に通用するか。今度の「騒乱」はその答えを示していると言えるのだろうか。