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(回答先: 物理次元の苦楽ではなく、自らの自由意志かどうか 投稿者 オリハル 日時 2007 年 1 月 06 日 16:16:36)
>オリハルさん どうもです。
「結婚しない自由」は認められるか?
と問われた時、オリハルさんの意見では「認められる」となるのでしょう。
今回のオリハルさんの主張は「働かなくても食べられる社会」で良いという「自由主義に振った意見」です。ほとんど哲学の領域でしょう。
「何の社会貢献も行わない人が、社会から守ってもらえるか?」
社会と言うのは「人の集団」ですから「あの人は社会に参加していない」と言う印象は「社会(集団)の方にも、その人とは関わらない自由の行使権」が発生するという個人の意見は自由であり、その集積として「その人を守らない」という結論を得るだろうと思います。
仮に「村八分状態」になった個人が「働かない自由を行使すれば、飢え死ぬ」でしょう。
多分、「働かなくても食べられる自由」はないでしょう。あるのは「働かないで飢え死ぬ自由」だろうと思います。
その上で「結婚しない自由」を認められるか?と考えれば「認めるなら、人類は滅んでも良い」と言う意見と同じであり、これは「人類に対する背信だ」と言う事になります。
子供を作って「育てずに捨てる自由が認められるか?」
これは、自分の自由と自分の子供の生存権の比較であり、誰にも「他人の権利を侵してまでの自由はない」としなければ社会が成り立ちません。それでも「自由権の方が優先されると思うのなら、社会から離れるべき」でしょう。
では、子供を誰か(片方の親など)に押し付ける自由は認められるか?
これは、我が侭であり、自由ではないでしょう。子育ての義務と言うものがあると仮定すれば、他人だけに「義務を押し付ける」のは他人の権利の侵害でしょう。
「子供を作らない自由」を訴えるなら「性欲を修理する権利を放棄すべき」であり
これは
「働かない自由」は「食料を得る権利の放棄」と背中合わせだろうと考えます。
これは、無制限の個人の自由の追求は「社会にとっては悪」と言うことなのです。
自由を追求するなら「社会と言う集団にいられる権利を放棄してから」と言うことです。
社会貢献とは「自分のできる範囲で社会のために何かをする」という事です。
健常な人であれば、一定の労働は義務でしょう。ただし、働けない事情(子供の看病等)は考慮されるべきでもあります。
すなわち「働かざる者、食うべからず」は仕方がないだろうと思います。
常識と言う盲点に潜む、破壊しても良い「思い込み」とは別の存在でしょう。