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(回答先: 天皇はなぜ参拝しないのかB(立花隆のメディア ソシオ-ポリティクス) 投稿者 gataro 日時 2006 年 8 月 17 日 16:56:19)
以下は http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060812_tomita_memo/index3.html から転載。
天皇は、日本国のシンボリスティックな象徴でしかないが、総理大臣は、リアリスティックな象徴である。小泉首相が言うすべての言葉、行うすべての行動は、日本国を代表する人間としての言行になるのである。それがそうでなくなるのは、小泉首相が純粋に私的な空間(トイレの中のような空間、あるいは少なくともメディアが絶対にレポートすることがないような空間)で行う私的な言動のみである。
靖国参拝のように、100%のメディアカバーがある中で行われる言行は、いかなる意味でも「心の問題」の論理で済ますことができない言行となる。それは必然的に国家を代表する公人の言行として、その行為それ自体が発するある種のメッセージを含んだ言行になるのである。
日本の戦後の再出発は戦争の清算の上にある
天皇は、そのような、その言行のすべてがある種のメッセージを必然的に含んでしまうという国家最高の公人が必然的に担わされなければならない、存在即メッセージとでもいうような性格を帯びた生活を長年にわたってつづけてきた関係上、自分の一言一句、自分のちょっとした行動の隅々まで気を配ることが習い性となっている。
だから国家を代表する立場から、言ってはならないこと、してはならないことは断じてしない。それが靖国不参拝の決意の根幹にあるものなのである。
富田メモの「それが私の心だ」のくだりが強調されすぎると、それがあたかも、天皇の心情的な決意のように受け取られ、小泉首相の「心の問題」論を補強するかのうような受け取られ方がなされかねないが、事の本質はそこにあるのではない。
日本の戦後の再出発は、すべて、あの戦争の清算の上に立てられたのだから、それを乱すようなことは、国家としてできないのである。
具体的にいえば、ポツダム宣言の受け入れ。その帰結としてのミズリー号上の降伏文書調印。またポツダム宣言受諾の結果として国家主権を全部占領軍のコントロール下に置き、国家システムのすべてを占領軍の命令によって変更していくことの受け入れ。そして同時にあの戦争を清算するための儀式としての東京裁判の受け入れ。その受け入れを表明した上で結ばれたサンフランシスコ講和条約、この一連の出来事のすべてが、どの一つも揺るがせにできない国家の戦争敗北の約束そのものなのである。それは受け入れるしか選択の余地がないものである。
戦争清算のシンボルであるA級戦犯を合祀して、そこに日本国を象徴する天皇が拝みに行くというようなことは、まさにそのような戦後国家日本の再出発の原点を乱す行為にあたるが故に、天皇としては何としてもするわけにはいかない行為なのである。
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