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(回答先: ぼけ仙人さん、返事を書きましたが気が付いていないようなので 投稿者 縄文ビト 日時 2006 年 11 月 07 日 05:59:37)
縄文ビトさん、気がつかず済まんかったのう。ボケとるもんで勘弁してほしいのう。
じゃが、何か勘違いしとらんか?
縄文ビトさんは観念論とか唯物論に話をすりかえておるが、ワシの話はそんなものどうでもいいわな。あるものはあるというとるだけじゃからのう。
大体がじゃて、ワシは唯物論とか唯物論者とは決して物申しておらんがのう。唯物思考するとか志向するとか言うとるんでな。目に見えない世界を否定する方向でものを見とる人を指しとるだけじゃろうて。そう言う表現の合間を消されても困るんじゃて。
文脈と意図を読む必要があるじゃろうぞ。
科学的な思考を積み重ねることを否定はしとらんじゃろうて、それにあそこでは宗教の話しなぞしとらんしのう。
じゃから会話になっとらんのじゃて、縄文ビトさんは自分の言いたい部分だけで対話しとるわな。しかも、自分の知っている部分だけで、人の言を評価しておってもしょうがないわのう。そしてそれを唯物論じゃというても虚しいわな。
それは、それでまあワシは拘らんが、縄文ビトさんも時間の無駄じゃないのかのう。
絵を良く知る人と絵に全く興味がない人と、なぜピカソの絵が良いかを論じておるようなもんじゃぞ。そうした思考回路の人には無理なんじゃて、と言っても突然分かる場合もあるからのう。ワシ自身がそうした回路にあったことを言ったじゃろうて、残念ながら縄文ビトさんの期待するような論説でもって、説得力ある説明なぞないと思うぞ。現在の科学ではのう。
自分とは全く相容れない世界があると言うことで十分じゃわのう。
じゃが物理学の最先端では、神の存在を認めた方が合理的だとする意見も出てきておるようじゃかのう。
また、唯物論展開で科学が極まれば、そこに意思や愛があることがいずれ分かるだろからのう、唯物論的科学もどんどん深まればいいわな。じゃから否定はしとらんぞ。道が高まり行けばのう。
霊界はない、死後の世界はない、死んだらそれまで、とする考え方の恐ろしさを言うとるわけじゃし、霊界等を否定する人がワシに文句を言っても、ワシは「そうですか、お好きにしてください」としか言えんぞ。じゃが、霊界は無いと断定する事実や証拠もないじゃろうから、ワシから見ればそれを言い張るのも観念論じゃと思えるわさ。
現代ではまだ事実と認定できないとか言うのもいいかもしれんが。
また、無いと否定する人は「地獄へ落ちるぞ」と言われても、せせら笑うだけじゃろうしな。それでいいんじゃないかのう。まあいずれにしても、万人に納得させようとは思っておらんし、そんなことできんわな。
分かる人が分かれば良いし、人生の一つの考え方として受け止めてもらってもいいわな、当然、阿呆者として無視するのも自由じゃわさ。
と言え、あくまで仮定の話じゃが、縄文ビトさんもいずれ霊界へ行くでな、これだけの対話でも霊界に行った時、何らかの参考になることは間違いないんじゃわさ。それで良いじゃろうて。
なにやら縄文ビトさんは、宗教の話しにこだわっとるようじゃが、結論から言えば必要悪のような存在じゃとワシは思うとるがのう。
本来、いつも言うとるように、生きとし生けるものが調和し弥栄え行く世界、人々が思いやり、和合し、助け合って行く社会であれば必要のないものじゃろうて。
しかし、人の心に我や自己愛があり、怠け心や優越欲求などもあるによって、神はこの世が混乱することも想定し、人が正しく人生をわたるための道しるべとして、聖者を選び、人の言葉として伝えようとしたようじゃて。
そして、この世が魂向上の学びの場であるが故に、個々の思想、行動などを自由として、思い思いに人としての時を楽しみ、苦悩しながら、試行、探求を重ねながら、自分の道を見出すことが求められており、人生の答えを明確にしてないんじゃて。(自分で探せということじゃわ)
ところがどっこい、人が人として正しい道を歩かないにようにする役割もあって(これを悪の御用と表現するが)、彼らは、偽宗教をつくったり、正しい宗教団体にもぐりこみ邪魔したりもするわな。こうして、本物さえ簡単には見分けられんようになってしまったわさ。
が、それも魂の磨きの材料じゃわな。学びの至らんものは引っかかるし、しっかり学んだものは簡単に見分けられるようになるわさ。それも自己責任じゃて。
しかし、正しい教えは多くの宗教の経典に残っとるわな。虎穴に入らずば虎児を得ずのごとく、どこかで学びを始めんと全く無知となり、かえってやつらの思う壺じゃて。宗教の奥にある真理は、単純明快じゃが、頭の中だけでは何ともならんぞ、五感で納得し、腹に落ちんといかんのじゃから、体験し、苦悩し、求めて、涙してしか手に入らんぞ。ちょっとやって分かる、理解できる世界じゃないと思うぞ。とは言え、始めの一歩は必要じゃわのう。
「生きとし生けるものが調和し弥栄える」。これも宗教としても良いわなあ、教えの根本じゃからのう。そのように皆が生きたとしたら、それだけでも多くの争いごとが無くなるじゃろうて。「霊界、先祖、輪廻転生、因果応報」これは宗教原理じゃぞ。この世の摂理、真理じゃからのう。かつては、それが当たり前のことじゃったから、明文化されとらんが、言葉の端々に出てくるじゃろうて。
このように本来単純明快な話なんじゃて。こうした言葉をメガネにしていろいろな教えを覗いてみれば、おのずから、ある程度の判別はできるはずじゃないかのう。また、宗教と教えの基の意じゃが、観念じゃないわのう。物質が心とモノで構築されているいじょう、現実の世界に反映される方法論も併せ持っておるぞ。
そして恐らく、宗教といっても、縄文ビトさんとワシでは概念が相当違うと思えるがのう。どうじゃろか。
縄文ビトさん。
自己欲が強く、人を支配しようとする輩は、宗教がなければないで別の手段を用いるだけじゃて。それに、もうすでにある現実世界に我々は生きとるでな。リセットできんし、人生の目的はそこに無いから、リセットの意味も無いわさ。
イルミナティーやら宗教団体を利して世界に悪を撒き散らす連中やら、金で人を縛り苦しめる連中やら、いろいろな許せん連中ばかりじゃが、問われておるのは、自分自身の心なんじゃて、そして最小宇宙としての家族のあり方、状況なんじゃて。
そして幸せは論理じゃのうて、実感、実体験の中にあるわさ。