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最近の日本人は「自分で判断する能力が欠如している」と云う気がする。
先週、太田総理の番組で「世論調査を廃止します」という命題があったが、多くの人と云うより大半の人が「人の判断によって自分の判断をする」から、世論調査によるマスコミの情報操作なるものがまことしやかに問題にされる。
理屈の正しさではなく、多くの人が賛成しているから賛成と「勝ち馬に乗った雪崩現象的に優越が決まる」という部分がある。陣形上では「絶対に勝つとはずだった関ヶ原の西軍」は「本来なら小早川氏が寝返ってすら西軍が有利だった」とも言われるが、小早川氏の寝返りを見て西軍は総崩れ現象になり、更なる寝返りが続発した。
それでも毛利・吉川が動いたなら歴史は変わったのかもしれない。
結果的に毛利は「120万石の領国を、防長二国三十六万余石に改易される」
決断力がなかっただけで大損である。島津は「勇猛だった」と言われるが「結局は意地を張り通して損をしただけ」とも考えられる。もっとも、島津が決戦に参加しなかったのは結果論であり、参加しようと思ったら、西軍の総崩れが一気に来たという説もある。
話が横道にそれたが、兎も角、日本人には「自分で判断する力」が欠如しているのだろうと思う。それが、宗教依存やイデオロギー依存になり、一度依存してしまうと「依存先に依存しきる事によって、益々、自分の判断力がなくなっていく」という悪循環に陥ってしまう。
最近の公明党を見ていると「何のために政治家しているのだろう?」とすら感じる。
その党を「何も批判しないで、応援している創価学会員」は「何を考えているのだろう?」と思う。
最近は「他人の人権を考えない」という人が増えていると云う気もする。
「自分の人権」もしくは「自分の仲間の人権」は考えるが、自分の敵とか嫌いな人の人権には無頓着になる。例えば「自分の応援していない政党の応援者」が「人権侵害されていても問題意識は持たず」に、イデオロギーが「政策として力を入れている在日外国人などには過度の人権意識を持っている」
最近ではそれが行き過ぎて「差別特権」という部分まで膨れ上がってしまっている例も指摘され始めている。イデオロギーの「人気取り政策」の後遺症である。
この辺は、道徳教育の問題と言う部分もある。
他人も自分と同じように「嫌と思う感情もあれば、痛いとも感じる。同じ人間であり、自分にしないでもらいたい事は、相手にもしてはいけない」という当たり前の事を「今の教育では教えていないのではないか?」
教育改革は「愛国心」とか「必修科目」ではなく、自分で判断する能力を高め、人を思い遣る心を育て、倫理観とか道徳心を養うにはどのようにしたら良いのか?という方向で考えるべきだろうと思う。
ただし、Kの書いている事はKの意見であって、参考にするのはかまわないが、読者は「この先を自分で判断し、自分で考えるべき」である。
それが、出来なければ「所詮は他人の意見に依存して終わり」である。