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(回答先: 「絶対基準」と「主観」――“考察者K”氏の投稿「人は見たいと思うものだけを真実と考える」を手がかりとして 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 12 日 11:02:17)
HNとしては新参者で、今日の投稿制限となりますが、少し横レス入れさせて頂きます。
考察者K氏の今回の投稿を読んでみると、「見たいと思うもの」「見える(もの)」「信じるもの」と、人が考える真実についての言い回しはやや混乱している感もあるとは思いますが、最後の方で「自分の真実は間違っているのでは?という検証」を勧めているように、それは主観により真実であると決め付けた偽物の真実ではないかということを意味しているのだと受け取りました。
そして天蓬元帥さんの投稿で意味されたことは、その方向性をさらに発展させたような思想ではないかと感じました。それは以下の投稿文からも読み取れます。
>【今や再び哲学が、「主観」の批判が必要ではないか。ついでに科学の批判、「客観」の探求が必要ではないか。そして「主観」と「客観」とを統合する主体の再発見が。こうした地平で改めて問うてみようではないか、“個人における「真実」の基準”とは何だろうと。】
つまり、天蓬元帥さんは、「主観」を批判し、「客観」の探求によって真実が見出せるのではないかということだと把握しました。
そして「主観」と「客観」とを統合する主体の再発見が・・・と。「再発見」としているということは、以前はそのような主体を認識できていたが、主観に偏り過ぎたために忘れてしまったということでしょうか?(この辺りに入ると幾分信仰の香り漂いますが)
>【その答えに至る入り口として「個」を考えてみてはどうだろう。「個」とは何か?それは花であり実であり形を成す精粋ではなかろうか。そうだとして、花の「真実」、実の「真実」、形を得た精粋の「真実」を考えれば、そこに生成もしくは創造の秘密が見えてこないだろうか。】
そしてその真実に至る入り口としてまずは提示された「花」「実」「形を得た精粋」ですが、それらの「真実」を考えることが既に主観に依存したものであるようにも思われます。もし自分の主観を否定して客観を認識しようとするのなら、少なくとも「花」や「実」の主観というものも把握しなければならないとも思えます。それはどうすれば・・・。ただ、“考える”という人の思考というものを通じては、決して客観を得ることはできず、常に主観に依存せざるをえない状況であるとも感じます。
そしてその“考える”で得られる「生成もしくは創造の秘密」というものは、やはり偽物の真実という域を出ることはないように思えます。
>【最後にデカルトに倣って、以上のような思考を営む主体を考えてみてはどうだろう。もちろんデカルトは「主観」などというものに「真実」を求めたりはしなかった。彼が求めたのは幾何学の如き明晰かつ判明な推論であり啓示であった。そして、デカルト以後400年を経る今日の我々はさらにその先まで進まなければなるまい。】
「幾何学の如き明晰かつ判明な推論であり啓示」というのが、主観を否定したものかどうかが解りかねます。推論というからには主観の作用に依存するものではないでしょうか。また啓示というものが主観から離れたものとも思いませんし、そこに真実を求めるのは信仰的なのかもしれません。
俺は真実というもの、つまり絶対基準というものは「考える」とか「探す」とかいう主観の作用に依存しては見出せないのではないかと思っております。ですから絶対基準を探求しようというキャッチフレーズには、やや信仰的な要素を感じてしまうこともあります。
むしろ絶対基準の真実はないとしている考察者K氏のほうがまだ信仰的要素は少ないのかもしれません。