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(回答先: Re: 「真実」は近づくことが出来るだけで、確認や証明は出来ません。 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 10 月 13 日 19:50:39)
Kotetuさん、はじめまして。
>「真実」とやらに、絶対基準があるかのごとくの発想が『ト』なのでありますな。
>多い少ないの問題ではなく、真実なるものに絶対基準があると思考すること自体が信仰なのですよ。
今回、俺は「絶対基準」というものは、完全なる客観性を帯びたものであるという認識で捉えております。そして「真実」とは、真理であり、そして客観妥当性のあるものという認識です。
つまり「真実」(真理)=「完全客観」(客観的)=「絶対基準」として言葉により表現したものとして理解しております。
人は何かを真実だと捉える時に、客観性を重視すると思います。例えばUFOのようなものを見たと誰かが言えば、その時に一緒に他の人がいれば、その人が同じ様に観えたかを気にすることでしょう。他の誰にもそれが観えなければ、UFOが観えたという人の事実は、真実ではなくその人の目の錯覚だったとするかもしれません。逆に、何も観えなかったという人の事実も、真実にはなり得ず、ただそのUFOを観るための知覚能力が無かっただけかもしれません。
ここでは何が「真実」と呼べるかは定かではありません。完全なる客観性が備わって、初めて完全なる真実(ここで言う真実や真理)と呼べるのではないでしょうか。
俺は、考察者K氏は、完全なる客観性を有する真実(絶対基準である真実)があるのかないのかを言っているのではなく、完全なる客観性、絶対なる基準を有するものが“あるのなら”、それを真実という言葉で呼んでみようということだとも思っております。
もちろんKotetuさんが言う様に、俺も真実を証明することはできないと思っており、そして「真実」(真理)=「完全客観」(客観的)=「絶対基準」とは、真実(真理)は何かと言い当てていることでも、証明しているものでも、知っているとすることでもありません。ただそれは、真実(真理)に近づく言葉であると思っております。矢印だと思っております。さし示す人差し指だと思っております。そして真実という言葉それ自体も矢印だと思っております。
考察者K氏は、「真実については、今のところ絶対基準なるものは示されているとは言い難い」としております。ここでの「真実」とは、氏の投稿文の流れから、主観的に真実とみなしているものと解釈しておりますが、つまりその主観的に真実とみなしているもので、絶対基準とは言い難いということであり、言い換えるならそれらは全て偽者の真実であるのではないかということだと認識しました。
考察者K氏の投稿文は、言葉の言い回し等で誤解を生む要素はあるとは思いますが、真実があるとか、ないとか、絶対基準があるとか、ないとか言うことには触れてはいないと思っております。そうではなく、ヒトザルが真実だと言ってるのは、主観的なもので、絶対基準じゃねーだろうし、ちょっとは疑ってみろよな!といったところだと思います。
一方、天蓬元帥氏の場合は、さらに論を進めて、より深く「真実」というものに近づこうとしているのだと思っております。
ただなぜ信仰という要素を天蓬元帥氏の方に強く感じたのかと言いますと、氏の投稿文の最後『そうした氏の努力に助けられつつ我々は探求し続けようではないか。「絶対基準」を』に観られるように、絶対基準の探求を勧めていることを主に注目しました。
考察者K氏と比較して、どちらも絶対基準への方向性に変わりはないですが、考察者K氏の場合は否定的に、天蓬元帥氏は肯定的にその方向性を示していると感じました。
どういうことかと言いますと、考察者K氏の場合は「自分の真実は間違っているのではという検証の勧め」、つまり言い換えるのなら「それらは絶対基準ではないのではないか」に対して、天蓬元帥氏は「絶対基準を探そう」。
つまり考察者K氏より、どちらかというと天蓬元帥氏の方に積極性を感じ、より信仰度は強いと判断したのです。
さらに、「絶対基準ではない」とするのは、思考を使って出来得ることであると思いますが、「絶対基準を探す」というのは、思考を使っては矛盾するのではないかと思い、それも判断の基準に加味しております。