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(回答先: それを論点錯誤の誤謬と謂います。 投稿者 如往 日時 2006 年 10 月 11 日 01:49:00)
>【それを論理学では論点錯誤の誤謬もしくは対象転位の虚偽と謂います。既知の通り、調理に完璧を期すべきではないかと問い掛けられた対象は料理人である考察者Kさんに外なりません。またそう投げかけたのはKotetu氏であり、私も賛同しているが故に引用させていただきました。そして、確かに私もKotetu氏も“客”の一面を有していますが、この場合は投稿する立場、すなわち同じ料理人としての観点からの或る特定の料理人にたいする物言いであることは明らかであり、そこに“被害者意識”と云ったような言辞を介在させるような事由がないことは明白ではないでしょうか。】
まあ、表題の「私に考察者Kさんのことを“カス”と呼ばせないで欲しいと思っています」や「但し、十年一日の如く考察者Kさんがその様な論法を繰り返されることに無惨さを覚えて今回レスするに到りました」「考察の基本的手法に準拠して理路整然と論を展開すべき」等々というのが、如往さんが被害者意識なのではないかと感じたところです。
つまり考察者K氏が自分の価値観と違う行動をすることに対して無惨さを覚えてしまうという自分の中に生じた“害”を何とか解消する為に、考察者K氏の行動に対してクレームを付けていると把握しての「被害者意識」発言ではあります。もちろん主観的な認識でしかありませんので、決め付けているというわけではありませんし、違うと言われるのでしたらそれでいいです。
俺が考える被害者意識というのは、相手の行為・作用により自分が何らかの害を被ったと認識して、その責任は相手にあると考える意識のことです。
例え同じ料理人だとしても、調理した料理人からすれば料理を食べて意見を言う他者(客)であり、そこに何らかの要求があれば、そこには何らかの“害”があったと私は思っております。
調理した相手の料理人に対して不愉快を感じたり、無惨さを感じるというというのもひとつの“害”であり、そしてその“害”は調理した相手の料理人に責任があり、それを直すべきだとか、カスと呼ばせるなと言ったような幾分高圧的にも感じる物言いは、提案という段階を逸脱した、被害者意識丸出し発言ではないかと感じただけです。
また何かを提案してあげたり、何かをやってあげたりすることも、それが相手からの要求によるものでなければ被害者意識の一つだとも認識しております。それは何かを提案すること、やってあげることで満たされなくてはならない何らかの害が自分の中に発生し、それを処理したということであって、それを相手のためを思っての行為だと感じていたり、感謝されてしかるべきだなどと考えたりすれば、無自覚に被害者意識丸出しではないかと考えます。
むしろ感謝されなければならないのは、その提案等を有難く受け取ってもらった方なのかもしれません。
>【『ブサイクと一般的に呼ばれる女の人でも、「私は美しいから、自分のことを可憐という名で呼んで」と言ってもいいでしょ。』というのが“被害者意識”に起因する代償行動であることを指摘したものです。】
俺はその女性の行為が被害者意識云々という意味においてそれを持ち出したのではなく、その女性がどんな名前を自分に付けようが一般的にはその女性の勝手でしょという意味において持ち出したものです。ただその女性をブサイクだと主観的な価値観で認識して、可憐という名前を使うことを取りやめるように要求するようであれば、それは被害者意識丸出し発言だとするものです。
そして今回の料理人発言が、主観的価値観を正当なものとして相手の意に反して振りかざすようなものであればそれは被害者意識丸出し発言ではないかということです。
また、俺がこの女性の例において、人はどんな名前を付けてもいいのだから、それを指摘する行為はダメだとか、主観的価値観で何かを押し付けてはダメだとかいうことで、これらを書いてはおりません。あくまでも認識のひとつです。
>【それはともかく、何故“被害者意識”という観点に固執されるのか】
別に固執などはしてはおりません。たまたま議論の論点になり得ることだろうということで持ち出したに過ぎません。だから如往さんに被害者意識をなくせというつもりも毛頭ありませんし、被害者意識が悪いことだということでもありませんし、ただそれは諸問題と呼ばれることの引き金の一つという認識でしかありません。またその諸問題も善悪の対象として把握した上での発言ということでもありません。
ですから特に固執して発言したものではなく、それは被害者意識なのだろうという単なる自分の認識を書いたまでです。
被害者意識をどのような価値意識で判断するかは如往さんや、これを読む他の皆さんの問題だと思っております。