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ユダヤ教の“ゴイム・バージョン”:『リベラリズムの暴政』I・シャミール著:全訳
これは2006年12月末に発表されたイズラエル・シャミールの論文“The Tyranny of Liberalism”の全訳です。私からの補足説明と翻訳後記はこの翻訳の後ろに付けておきます。
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(訳者からの注記)
英語にあるfreeとliberalはともに日本語では「自由な」と訳されるが、liberalにはどうしてもある種の政治的な意味合いがこもる。したがってこの訳文中ではfreedomは「自由」と訳したが、liberalはそのまま「リベラル」とし、通常「自由民主主義」と訳されるLiberal Democracyは「リベラル民主主義」と翻訳した。
また同様の理由で、ideologyは「思想」とせずに「イデオロギー」とした。「思想」ならば例えばideaやthoughtなどもそのように訳すことが可能である。しかしideaとideologyは異なった使われ方をする。さらにideologyは単なる「政治思想」よりももっと幅広い意味を持つため、この訳文では「イデオロギー」という音訳をそのまま用いた。
なお訳文中の[1][2]…は脚注の番号を表す。
原文Urlは http://www.israelshamir.net/English/Eng7.htm
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リベラリズムの暴政 イズラエル・シャミール著
これは、2006年11月24日に国立サンクト・ペテルスブルグ大学国際関係学部で行われた会議「国際関係における宗教:リベラリズムと伝統」での講演内容である。
現代のリベラリズムは米国の支配的なパラダイムであり、欧州やソ連後のロシアやその他のあらゆる地域で主要な役割を演じているものである。この思想は世界的に広がる強力なマス・メディア・シンジケートによって敷衍されているものだが、それらのメディアは表向きには独立しているものの同一のメッセージを伝えるのだ。ジェイムズ・ペトラスはこれを《リベラリズムの暴政》と呼んだ[1]。《リベラリズムの暴政》とは、それが矛盾した用語の使い方でないにしても、一見撞着した逆説的な響きを与える。リベラリズムが、イデオロギーや宗教的多元論の判断というよりもむしろ自由を土台とする中立的なものとして、また反宗教的なイデオロギーというよりもむしろ自由として、その姿を現すように思えるためである。リベラリズムとはそれ自身がある一つのものであるということを否定するようなイデオロギーなのだ。リベラル主義者に質問してみれば彼はこう言うだろう。どのようなイデオロギーや宗教の支配にも反対するのだ、と。
この迷彩色の内を見抜く試みとして、近代ドイツの思想家であるカール・シュミットのいくつかの思索を適用することにしよう。彼はリベラリズムが強硬なやり方であると判ったのだ。1945年にドイツが敗れ占領された後で、カール・シュミットはしばらくの間、ソヴィエト支配地区と米国支配地区の両方に住んだ。そこは後にドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国に変わった場所である。各占領地での経験の比較を元にして、カール・シュミットは、米国のリベラリズムは軍事思想でありソヴィエト共産主義よりもなお妥協を許さぬ傾向を持つものであることに気付いた。米国人たちはシュミットがリベラル民主主義を信奉している証拠を見せろと要求した。一方でロシア人たちは決して彼に共産党宣言に誓いを立てるように求めなかったのだ。この個人的な体験によってシュミットは、近代米国リベラリズムが、イデオロギーの自由や好きな生き方をするといったパラダイムではなく、攻撃的なイデオロギーであり彼が非常に嫌った共産主義よりももっと危険かもしれないイデオロギーである、という結論に達した。シュミットは、権力の伝統的なバランスが最新の勝利者である英国・米国の空と海を渡る地球的支配によって脅かされるのを見た。その支配は一つの戦闘的なイデオロギーを基盤にしたものである。この理由から彼は冷戦を歓迎した。ソヴィエト連邦が米国のイデオロギー的な暴走を食い止める可能性を持つ唯一の力であると考えたからである。
近年のアフガニスタンやイラクに対する米国の侵略を眼前にし、リベラリズムが攻撃性に満ちた地球的なイデオロギーであるというシュミットの発見を他の多くの人々が共有するに至っている。それは軍事力によって世界中で実現されるべき特定の諸原則を要求する。それらの原則とは、肯定的あるいは否定的な術語で述べることが可能だろう。ちょうどレストランの客とカキがシャブリス・ワインとレモンの到着を異なる方法で叙述するようなものである。その多くはあなたが食べる側なのか食べられる側なのか、によっているのだ。2方向の観点からこのメニューを眺めることとしよう。
◍ 個人の権利、その一方で、集団の権利に対する否定
◍ 少数派の権利、その一方で、多数派の権利に対する否定
◍ メディアの非公的所有、その一方で、資本による世論形成の独占的な権利
◍ 女性の権利と保護、その一方で、家族の解体
◍ ホモ・セクシュアル、その一方で、結婚の尊さの否定
◍ 反人種主義、その一方で、シモーヌ・ヴェイユの言う「根を持つこと」への否定
◍ 経済的自立主義、その一方で、社会的相互補助(神学用語のアガペと慈善による)への攻撃
◍ 教会と国家の分離、その一方で、反キリスト教プロパガンダと公共の場でのキリスト教布教への攻撃
◍ 投票者のリベラルなパラダイムに対する一致によって制限を受ける政府を公的な選挙で決める事(“民主主義”)、その一方で、自律的な自己決定権の否定
カール・シュミットは一つの重要な仮説を採用した。あらゆるイデオロギーは宗教性を包み隠した政策である、あるいは彼の言葉を用いるなら、『近代的な政治信条が孕むあらゆる最も重大な諸概念は世俗化された神学の概念である』。共産主義とリベラリズムをこの洞察の光を当てることによって比較してみよう。
西欧に源があるにもかかわらず、共産主義はロシア正教によって形作られた社会の中にまず打ち立てられた。そしてそれは、世俗化された正教のあり方に見出されるであろう多くの特徴を持っていた[2]。詩人達がそれを最も感じていた。アレクサンドル・ブロックは、「12人の赤軍兵士」の冒頭でキリストを『熱血色の旗を持ち、銃弾にも不死身、猛吹雪をまたいで、白い薔薇の王冠に包まれ』と礼賛した[3]。ソヴィエト時代の後期に、ロシア人たちは『人は人に対して友であり、仲間でありそして兄弟である』というキリスト教の原則を叫んだ[4]。ロシアの共産主義者たちは先輩である正教徒達と同様に物質的な満足を忌み嫌った。そしてsobornost(包容性、あるいは教会における一致)と共感を、他のあらゆる美徳の上に置いたのだった[5]。
包容性と共感は、リベラリズムが嫌悪する諸思想によって共有される特徴である。先週(2006年12月第4週)のことだが、ホロコースト・カルトの大僧正であるヤッド・ヴァシェム記念館館長のイェフダ・バウアーは、テヘラン会議を相殺させるための演説の中で次のように言った。
『国家社会主義とソヴィエト共産主義、そして過激なイスラムとの間には大きな違いがある。しかし同時にいくつかの重要な類似点もあるのだ。それらの全ては宗教的あるいは準宗教的な運動であるし、またそうであった。疑う余地も無いことだが、ナチ・イデオロギーの準宗教的な信条がその政権の存在と政策の中心にあった。そしてホロコーストを生み出した中心的要素だったものがナチ・イデオロギーだった。一方でマルクス・レーニン主義はスターリニスト帝国の中にいる全員が忠誠を誓わなければならなかった準宗教的ドグマであった。同じことを過激なイスラムについても言う事ができる。[6]』
これは疑うまでも無く真である。あるいはカール・シュミットの言葉と対照させるならば、馬鹿馬鹿しいほどに当たり前、ということだろう。イデオロギーであるからには神学的な基盤を持っているのである。我々はバウアーが一つの重要なイデオロギーについて語っていないことに気付くであろう。過去にこの三つと戦い、そして今日さらに戦いつつあるものである。つい最近、50年かそこら前のことだが、マルクス・レーニン主義者たちと国家社会主義者たちとリベラルたちは、欧州の戦場でそれぞれの相違をぶつけあったのだった。どうしてリベラルのバウアーがリベラリズムに対して通行許可証を与えるのだろうか?
それは奥ゆかしさを意味しているのではない。バウアーのあからさまな省略は一つの重要な神学的メッセージを持っている。リベラリズムは超越性を要求するのだ。リベラルな者はリベラリズムを「通常の」宗教やイデオロギーの上に置くのである。どのような宗教的あるいはイデオロギー的な構造よりも高い場所に置くのである。リベラリズムを除く他のあらゆるイデオロギーの熟達者たちは、リベラルの眼から見ると「全体主義者」であり「狂信者」なのだ。この唯一の真理の保持者達が持つ傲慢な態度は、我々に旧約聖書のユダヤ的な解説を思い出させる。そこではあの唯一神の信奉者達が「異教徒」たちの上にあるレベルに昇らされるのだ。神学的にいえば、この優越の態度は我がoikouménè(世界;狭義にはローマ帝国が支配していた地域)である東西ヨーロッパおよびイスラム圏の3つの偉大な宗教に引き継がれている。しかしそれは血肉化されてはいなかった。正教徒は自らをイスラム教徒たちやカトリック信徒たちの上に置くようなことはしなかったのだ。しかし、近代のユダヤ教(古代のユダヤ教から他の見地で広く分岐したもの)は、その先輩達の不愉快な主張を保持したのだった。
バウアーがリベラリズムにある宗教的な成り立ちを語りたがらないことは、彼が覆い隠したがっているであろう何かを我々が知ることのできる鍵を与えてくれる。しかしここにもう一つのヒントがある。バウアーは先ほど述べた3つの運動に類似点を探し続ける際に、彼はそれらに共通した敵を提示するのだ。
『これらの3つはすべてユダヤ人をその主要な、言い換えると直接の、敵として狙いをつける。ナチスはユダヤ人を殺した。ソヴィエトは1952年にソ連のユダヤ人をシベリアに移送しようと計画した。その大部分が死なねばならないという明らかな意図を持ってである。過激なイスラム教徒によるユダヤ人に対する虐殺のメッセージは大きく明らかである。』
もしバウアーが、ソヴィエトとイスラム教徒に関する彼の断定と同じ程度にナチスについての主張を正しいと信じているのなら、彼の立場はホロコースト否定者としてテヘラン会議のトップと並ぶことだろう。もし彼が自らの主張を信じていないのなら、彼は嘘つきの誹謗者である。「ソヴィエトによるユダヤ人移送計画」はイスラエルによる捏造、3ドル札と同様の大嘘、完璧に暴露されたものなのだ[7]。もしスターリンとヒトラーがバウアーの話を1940年に読んだとしたならば、彼らは決して戦争をしなかったであろう。しかし我々にとって重要なことは、彼が、近代の共感と包容と共同を基盤にしたあらゆる動きを「反ユダヤ的」と見なしている点である。一方でリベラリズムはゲフィルト・フィッシュ(川魚をすりつぶして野菜と混ぜて団子状にしたユダヤの伝統料理)と同じ程度にユダヤ的なものなのだ。
では実際にリベラリズムとは何なのか? ある学者達はウェーバーに従ってリベラリズムを世俗化されたプロテスタンティズムであると記述する。他の者達はその反宗教的、反教会的な傾向に着目してリベラリズムを世俗化された悪魔主義と見なす。最近アレクサンダー・パナリム(現代ロシアの思想家)はそれを『非文脈化された異教の神々の神話とその非社会化された消費者たち』に基盤を置く偶像崇拝の一形式であると考えた。
シュミットの論法およびバウアーの証言を武器として、我々は次のように結論付けるだろう。米国海兵隊によってチグリスとオクサスを渡って持ち込まれた「リベラル民主主義と人権」の政策は世俗化されたユダヤ教である、と。マス・メディア、特にその支配者の中でのユダヤ人の圧倒的優越を考えるならば、それらが打ち出しているイデオロギーはユダヤの精神に極めて近い。その適応は古典的なユダヤの態度を保持している。そして「比類なきイスラエル」はこの「非宗教的」教団の教義なのだ。「比類なき」ホロコースト、あるいはパレスチナへの「比類なき」愛着、あるいは自由と多様性の「比類なき」愛などといったどのような形を採ろうともそうなのである。実際に、オランダでモスクが燃えてもイスラエルでキリスト教会が破壊されても、シナゴーグの壁に落書きが為されるときと比較すると何の感情も掻き立てられることは無いのだ。米国はユダヤ人に対する態度で同盟者の等級をつける。あのホロコースト寺院(いわゆる「博物館」)がホワイトハウスの隣に建っている。ユダヤ人国家への支持が米国の政治家にとって必要不可欠のものなのだ。バウアーはナチ勝利の恐怖の可能性について次のような言葉で書き記している。『ユダヤ人は一人も残らないのだろう。なぜなら彼らは皆殺しにされるだろうからだ。それ自体が歴史の終りを告げることとなるであろう』。言い換えると、バウアーの目に映る歴史とはユダヤ人のものなのである。ユダヤ人でなければ歴史も無いのだ。人類の残りは過去の記憶も将来の見通しも持たない羊に過ぎないのである。
世俗化されたユダヤ教はユダヤ教に対して何の反感も持たない。そしてそれがリベラルの主要な議論の中で保護を受ける唯一の宗教なのである。一部のロシア人たちがユダヤ人によるキリスト教に対する罵倒にヘイト法(人種や宗教の違いによる嫌悪をそそのかすことに関する法律)を適用しようとしたところ、彼らはユダヤ共同体ばかりかホワイトハウスからも欧州共同体からも同様に非難された。今週、ルバヴィッチ・ラビはメノラー(ユダヤ教の7枝の燭台)が設置されるまでシアトル空港からクリスマス・ツリーを撤去するように要求した。この空港は、その「文化人類学」上の専門的見解を否認しながら、ツリーを撤去したのである。ニューヨーク市の学校はクリスマスについて述べることを許そうとせずハヌカー(古代の対シリア戦争勝利を祝い神殿を清めるユダヤ教の祭り)やラマダンやさらにあの馬鹿馬鹿しいクワンザ(元日前7日間に行われるアフロ・アメリカンの祭り)だけを許した。それらの全てが多文化的なものである一方でクリスマスはそうではない、という理由からである。(メディアはやっきに否定しているのだがhttp://vdare.com/が対クリスマス戦争の良い情報源である。)キリストに対する言及があらゆる人権団体、ADL、ACLU(米国自由人権協会)そしてその他のPC用心棒どものネットワークによってはねつけられているのだが、彼らは決してユダヤ的な宗教シンボルに反対しないのだ。
ロシアの共産主義のような世俗化された正教が土地を征服するとき、彼らはその忠誠とその資源を被征服者と分かち合う。実際に、ソヴィエト・ロシアはその「衛星諸国」に対する供給網を作った。そして、キューバ、東ドイツ、ハンガリー、ポーランドやバルト海諸国を支えるためにその富を送った。1991年以降、元ソヴィエトの諸国は、ソヴィエト経済共同体内部に統合される以前には全く存在しなかった巨大な生産企業体とエネルギー企業のオーナーとしてそのまま残った。USSRを破壊したリベラルのプロパガンダ・スローガンで非常に成功したものの一つに次のものがあったのだ。『外国人を養うのはもうたくさんだ』。
世俗化されたユダヤ教は略奪と破壊のために土地を征服する。40年にわたるパレスチナのユダヤ人支配で、当局者によって唯の一つの建物も建設されなかったが何万という建物が破壊された。完全に世俗化されているとはいってもユダヤ国家は外国人への恐怖と嫌悪を体現している。一方でその同類であるペンタゴンの政策は世界的規模における同種の恐怖と嫌悪の別の形での表明である。イラクでの世俗ユダヤ聖戦は肥沃なメソポタミアを荒廃地に変えた。リベラルたちによって完全に支配されたハイチやマラウイなどの国々は世界の最貧国である。
あなた方は次のように言うかもしれない。ちょっと待ってくれ!何たる下らぬことを!ユダヤ教は偉大な一神教の一つだ。ユダヤ教徒たちは我々キリスト教徒やイスラム教徒たちと同じ神を信じている。ユダヤ教徒たちは無神論の破壊者に対する共同の戦いでの我々の同志だ。ユダヤ教は、グローバリゼーションやネオ・リベラル、消費主義、根の否定、家族と自然の破壊といった反霊性的、唯物論的、反宗教的なカルトとは何一つ共通点は無い。それはまったく別のものだ。ユダヤ教は霊性と家族の聖化と自然の保存を根源的なものとしている。ユダヤ共同体は、その共感と相互扶助、その伝統と神に一致する人々の一体感で有名なのだ。
これは根強い反論である。そして明らかにそれは、世俗化されたユダヤ教というリベラリズムの出自への追及を閉ざすものなのだ。しかし次の点だけは明白である。この反論は欠陥のある前提を元にしているのである。ユダヤ教は(ローマの神ヤヌスと同様に)2つの顔を持っている。一つの顔はユダヤ人に、もう一つはゴイムつまり非ユダヤ人たちに向かっているのだ。それはユダヤ人に対してとゴイムに対しての、二つの正反対の諸要求を行う。この点が一方の極にあるユダヤ教と、もう一方の極にあるキリスト教、イスラム教、仏教との間にある違いなのだ。これらの偉大な諸信仰はその一員になるように呼びかけることを除いてそれを知らない人に何の要求もしない。キリスト教会が非キリスト教徒から求める唯一のことはキリスト教徒になることである。ユダヤ教徒はゴイをユダヤ人に変身させたがらない。それはほとんど不可能であり、おおよそ禁じられており、間違いなく反対されていることである。しかしユダヤ教は、不幸にもその支配下に置かれてしまった非ユダヤ人に対してはっきりした要求を行う。その人はユダヤ人を真似てはならない。そしてそれゆえに、ゴイには信仰を持つことが禁じられている。その人は自分自身の宗教行事を祝ってはならない。その同胞達を助けてはならない。経済的な動物(エコノミック・アニマル)にならなければならないのである。世俗化したユダヤ教はゴイムのためのユダヤ教という傾向を持つ。ユダヤ人のためのユダヤ教はその聖礼の中心を持っているのだ。
さらに加えて、我々が述べてきたあらゆるリベラルな思想はゴイムのためのユダヤ教にピッタリ当てはまる。
◍ 集団の権利の否定。ユダヤ教においてゴイムは集団を作る権利を持たない。ユダヤ人は一つの集団として社会に参加する権利が与えられているが、非ユダヤ人は個々人としてふるまわなければならない。「あなたは個人としての権利を持ち、我々は集団の権利を持っている」という態度なのだ。ゴイムの共同体的な性格は打ち捨てられるべきものを見なされる。あのユダヤ国家の中でユダヤ人は集団として自由にパレスチナ人所有の土地を奪い取る。議論が許されるのはパレスチナ人が私的に所有する土地の没収に関することだけである。リベラルな世俗ユダヤ教では労働者の団結は壊される必要がある。取引組合は打ち壊されなければならない。しかし豊かな者達の団結は許される。民営化とはこのような集団の権利の否定なのだ。もし何かの資産が個人の金持ちのものでないのなら、それは易々と手に入るものなのである。
◍ 少数派の権利、そして多数派の権利の否定。ユダヤ教において非ユダヤ人の多数派は何の権利も持っていない。明らかにユダヤ人に対抗する権利は無い。そしてこれがリベラリズムに引き継がれている。1991年から1993年にかけてのロシアで、共産主義に対するリベラリズムの勝利はメディアによる多数派に対する非正統化を通して達成された。ロシア人たちは、ユダヤ人成り上がりどもの「啓蒙化された少数派」に反対する「獰猛で権力に従順な多数派」と呼ばれたのだ。西側世界の啓蒙化された議論には通常、ジョン・スチュアート・ミルやマディソンやアレクシス・ド・トケヴィルへの、そして「多数派の暴政」に対する恐怖への言及が行間に秘められている。
◍ メディアの(公共に対立するものとしての)民間所有、言い換えると、富裕層による世論形成の独占的権利。公的に所有される新聞は通常「フリー・メディア」と対称的に扱われる。あたかも富豪のユダヤ人に所有される新聞が国家や教会や通商組合に所有されるものよりも何かより自由なものであるかのように。
◍ 女性の権利とホモ・セクシュアルの権利。ユダヤ教はゴイの家族を認めない。これはリベラリズムに存分に引き継がれている。リベラルたちは特権階級ではない者の家族を信用しないしそれを打ち壊そうと願う。
◍ ユダヤ人にとっての反人種主義は現地人たちに対するその本性的な闘争の道具である。リベラルのパラダイムにおいて反人種主義はより安価な労働力の導入を許す。取引組合を覆し世界的規模で最低賃金レースを展開するためである。
◍ ユダヤ教は福祉というものをユダヤ共同体だけが持つ特徴であると見なし、ゴイムにはそのような相互の援助と保護のための慈愛という特典は許されない。リベラルたちは、それが自分達の会社や企業に奉仕するか、あるいは自然発生的な共同体を崩壊させ政治を人種主義化させるための特別な方法として移民者支援と人口統計上の変動を助長する政府の政策となるようなものでもない限り、福祉をどんどんと台無しにしているのである。
◍ 反キリスト教プロパガンダの自由。リベラリズムはユダヤ教とは争わないがキリスト教に対しては絶え間ない戦いを実行する。リベラルな米国で、判事達はカトリック教会をその教えのゆえに非難し、クリスマス・ツリーを排除して新たに削除が施された聖書を導入する。
◍ デモクラシー(民主主義)。リベラルのプロパガンダでは、もしあなたがリベラルな思想に賛成しないのならあなたの声が反映されることは無い。「多数派の暴政」に対する防御は奨励される。もしあなたがそれに賛同するなら、あなたが誰に投票しようが問題とはされない。どうせ結果は同じだからだ。彼らはイスラエルを「民主国家」と呼ぶ。そこにいるゴイムたちの大部分に投票権が無いにもかかわらずである。投票できる者達は「多数派のユダヤ人」によって力を持てないままにされ続けている。パレスチナでのハマスやベラルーシでのルカシェンコの民主的な勝利は違法と見なされた。セルビアでは彼らにとって喜ばしい結果が出るまで選挙が繰り返された。
◍ こうして我々は結論に達する。現代の米国リベラリズムは、キリスト教徒のための世俗化されたユダヤ教であり、その支持者が主張するような宗教的な圧力からの自由ではないのである。
どうして米国と英国がこの奇妙なイデオロギーを受け継いだのだろうか? 一つの解答が英国の歴史の中で発見できるだろう。UCLAのマーク・トーマス博士による最近の研究で次のことが主張される。5世紀から7世紀にかけてキリスト教化以前のサクソン族がブリテンを征服し、2百万人の原住民に対して1万人の侵略者による「アパルトヘイト社会」を確立させた。彼らは結果としては次第に原住民と混血し合ったのだが、『最初は少数派であった侵略アングロ-サクソン支配者は大人にまで育つ子供をより多くもうけることによってすぐに自分達の地位を確立させた。それは彼らの軍事力と経済的な強さによるものであった。彼らは同様に、アパルトヘイト・システムで結婚による交わりを禁止することによってこの国を文化的にそして遺伝子的にゲルマン化させ、ブリテン原住民達の遺伝子がアングロ-サクソン人たちの中に入り込まないようにしたのだ。その結果、ブリテンに住む人間はほとんどゲルマン起源の遺伝子を持ち原則的にゲルマン言語を話すのである』。このようにトーマスは書いている[8]。
こうしてブリテン人の一部は、アパルトヘイトと『ユダヤ的(Judaic)な』原則の適用に連なる進化論的戦略が成功を収めたという遺伝的な記憶を内に確立させているのである。ユダヤ人たちがこの薄汚さに著作権を持っているわけではないのだ。失われた種族の伝説に関するブリテン人の奇妙な口出しはサクソンというよりも古代の選民ヘブライ種族を取り扱うものである。ブリテンがカトリックでありキリスト教徒である間はこの傾向がチェックを受けていた。しかしやがて宗教改革が、旧約聖書のユダヤ的思考の輸入品大安売りとともにやって来たのである。その後引き続いて、オレンジ革命の最中にオランダからそのタルムード的解釈が輸入されてきた。カトリック信仰の手綱は外され囲い込みが伝統的な英国を貪り食った。この膨大な私的所有化(民営化)の動きの中で、土地所有者たちは土地を区切り私有化し、囲いで一般の人々を締め出したのである。ちょうどユダヤの先祖達のように、彼らは土着の非特権階層の集団的権利を無視した。旧約聖書の「ゴイム」に対するようにである。彼らはその戦略をアイルランドとウエールズに、そして後に北アメリカとオーストラリアに適用し、何百万人もの原住民達を絶滅させた。多くのブリテン人、アメリカ人、そしてオーストラリア人はその成功した戦略の記憶を持っている。そしてこれが彼らをユダヤ好みの政策と準ユダヤ的手段に走らせるのだ。
植民地作りと軍事支配によるカーストの形成はもちろんブリテンだけに起こったことではなかった。インドにはアーリア人の征服があり、フランスにはフランク族の支配がある。フランスは1793年の大恐怖政治の間にギロチン博士の国営カミソリでこの問題を解決した。そこでは青い血の貴族という考えが中産階級の革命家たちによって声高に叫ばれたのだ。今日でさえポーランドの貴族たちは、スラブ人である一般のポーランド人たちに対抗して、自分達は非スラブ系のサルマート人の子孫であると主張する。このポーランド貴族の「サルマート人」という主張(これは必然的に一般のポーランド人に対するよそ者としての蔑視を伴うのだが)は、ポーランドがどうして世界最大のユダヤ人コミュニティーの存在に寛容でありそれを育ててきたのかの重要な理由となっているのである。
優位に立つときにはいつでもそうだが、リベラルな世俗的ユダヤ主義は上層と下層のカーストの極端な差を作り出す。実際に米国では、6千万人の米国人が1日に7ドルで生活しており、一方で使い切れない何十億ドルもの財産を幸福な少数者が手にしている[9]。このことは支配的少数者が進化論的戦略を非常にうまく成功させたことを表している。それが非常に成功しやすい方法であるため、結論として被支配多数派たちはその成功を抑えるための過激な手段を採らなければならないのかもしれない。しかしその完全な絶滅は望ましいことではない。そのサイズを小さくしその排除論的主張を和らげ小さな生活圏を与えたならば、リベラリズムは、暑い部屋での換気口のように、あらゆる共同体社会で有用となりうる。我々は、我々を排除させることだけは許すべきではない。
【以下、脚注】
[1] Cultural imperialism in the late 20th century
http://www.rebelion.org/petras/english/cultural_imperialism.htm
[2] Red Easter
http://www.israelshamir.net/English/Red_Easter.htm
[3] Aleksandr Aleksandrovich Blok
http://www.poemhunter.com/aleksandr-aleksandrovich-blok/poet-35200/
[4] The New Gospel
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,895551-3,00.html
[5] Catholicity of the Church: "Sobornost"
http://www.orthodoxresearchinstitute.org/articles/dogmatics/savich_catholicity.htm
[6] (Windows Media オーディオ ファイル)
mms://207.232.26.152/events/bauer.wma
[7] ДЕПОРТАЦИЯ – МИСТИФИКАЦИЯ
http://www.lechaim.ru/ARHIV/125/kost.htm
[8] Britain 'had apartheid society'
http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/5192634.stm
[9] US income figures show staggering rise in social inequality
http://www.wsws.org/articles/2006/dec2006/ineq-d12.shtml
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【翻訳者による補足的注解】
ユダヤ人(およびユダヤ化された者達)の、『ユダヤ内部に向ける顔』と『外部(ゴイム)に向ける顔』の違いについては次の阿修羅投稿をご参照願いたい。
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http://www.asyura2.com/07/war87/msg/628.html
「アメリカだけではダメなのよ」親イスラエル派の活動
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http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/446.html
「ユダヤ人には愛を! その他の者には地獄を!」・・ブルックリン(NY)の元ユダヤ人学校生の告白(Cytations)
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またその理解のためには次の阿修羅投稿も重要である。
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http://www.asyura2.com/0601/war84/msg/185.html
http://www.asyura2.com/0601/war84/msg/186.html
イスラエル人の「軍隊的思考」と「被害者意識」
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本訳文の最後から2番目の段落にある「サルマート」に関して補足する。サルマートは紀元前5世紀から紀元7世紀にかけて現在の南ウクライナを中心にカフカス、カスピ海付近からポーランド南部にかけて住んでいた遊牧民である。その支配地域の一部が後に誕生したハザールのそれと重なっていることには興味が引かれる。下記を参照されたし。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sarmats Sarmatians
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4 サルマタイ
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【翻訳後記】
この『リベラリズムの暴政』で著者のイズラエル・シャミールが強調している点は次である。
●《リベラリズムはゴイムのための世俗化されたユダヤ教である》
しかし多くの現代人にとってこれは非常に理解し難いことだろう。
まず、我々非ユダヤ人がユダヤ共同体内部のことがらについてほとんど何も知らされていないからである。これに関してはその情報の多くをユダヤ人インサイダーからの告発に頼るしかない。しかし、先ほど採り上げた阿修羅投稿やギラッド・アツモン、ナエイム・ギラディなどからの「インサイダー告発」と照らし合わせてみると、このイズラエル・シャミールの取り上げる論点は非常に納得のいく事柄を多く含んでいる。(特に日本人にとっては先の小泉内閣で行われたことの意味を考える必要がある。車椅子の老人に「自活」を勧めて車椅子を取り上げたと聞く。その他諸々。)
次に、リベラリズムが必ずしも「ユダヤ起源」とばかり言えないからだ。その最初の潮流はむしろアングロ・サクソンたちかもしれないし、あるいは一部の人たちが主張するようにフリーメーソンであったかもしれない。しかし現在の世界で大きな津波となって方々を破壊し回るリベラリズムに関しては、確かに筆者の言う「世俗化されたユダヤ教」という面が非常に濃く現れているのではないか。
●リベラリズムについてこのように言うと、「リベラルな思想のおかげで世界はカトリック教会など巨大宗教のくびきから逃れることができたではないか」「全体主義(ファシズムやナチズム、共産主義)と戦って勝利したではないか」「それはシオニズムに対する武器ともなるはずだ」「リベラリズムが無かった方が良かったと言いたいのか?」等々の声が聞こえてきそうである。
我々はよほど注意しなければならない。リベラルな米国民主党の代表者であるナンシー・ペロシやヒラリー・クリントンはイスラエル・シオニスト「右派」との非常に太いパイプを持っている。そもそも米国民主党こそ本来のシオニスト本流の傍系なのだ。そしてそれとつながる米国左翼メディアの主要な活動は米国大資本の資金提供によって運営されていると言われる。(ナチズム・ファシズム、スターリニズム、バチカン、アングロサクソンなどとシオニズムの不潔な相姦関係については、ここでは触れる余裕は無い。)
シャミールがこの文章の中で採り上げている強力なNGO組織『ACLU(American Civil Liberties Union:米国自由人権協会)』は、ロシア革命と米国共産党(当時のメンバーの70%がユダヤ人)結成の後1920年に作られたが、その中心はやはり左翼のユダヤ人たちだった。現在そのメンバーの21.4%と幹部の27.3%がユダヤ人(米国人の中でユダヤ人は2%)なのだが、「右」のADLとともに「左」のACLUが、熱心な米国のキリスト教徒(親イスラエル系を除く)たちの怨嗟の的になっていることは言うまでも無い。
http://www.truthtellers.org/hate%20crimes/proselyte.html
"Religious Proselytizing" ? A Smear Term to Silence Christianity
筆者が改宗したキリスト教徒であるため、キリスト教に対する彼らの攻撃に憤懣やるかたない心情が見て取れるのだが、それを差し引いても、彼らがユダヤ教を擁護し他の宗教や文化を「楯」として使っている様子が窺える。
このACLUは9・11以後の米国の急激なファシズム化に対する反対勢力として最大の規模を誇っているのだが、例に漏れず、何一つ具体的・物理的な根拠を示すことなく9・11を「イスラム・テロ」と決め付けそれ以外の見方を排除する急先鋒の一つでもあるのだ。まさに茶番としか言いようが無いのだが、彼らは「米国の自由の守り手」として絶大な影響力を持っている。
http://www.aclu.org/safefree/general/26669res20060908.html
UPHOLDING FREEDOM IN CHALLENGING TIMES
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/06/21/AR2005062101485.html
9/11 Response Hurting Science, ACLU Says
ひとたび9・11を「シオニスト=ネオコンによる謀略」とでも言おうものなら、おそらくこの連中は血相を変えて口をふさぎにかかるだろう。「ネオナチ!」「陰謀論者!」「アンチ・セミティスト!」と叫びながらである。彼らは、「リベラリズムと民主主義」の擁護者を自認し、9・11の明瞭な事実を無視してその虚構を擁護し押し付けることで対テロ戦争の後援者となっている点で、ネオコン=ブッシュと何ら変わるものではない。一方が「左手」で他方が「右手」に過ぎないことは明白である。
ネオコンを持ち出すまでもなく、「リベラルな民主主義」が世界を地獄に変える極めて巧妙で危険な罠であり、その仕掛け人がユダヤ勢力であることはもう隠すことが不可能だろう。
またキリスト教徒グループの中にも多くの流れがあり、進んでこの政治詐欺に参加する者達もいる。プロテスタントの一部もそうだが、私に言わせるならばむしろ最大勢力であるローマ・カトリックが問題となる。彼らは冷戦中に「右のオプス・デイ」と「左の解放の神学派(=イエズス会)」を使って、現在の米国ユダヤ「右派vs左派」を超える血みどろの茶番劇を展開してくれたのである。(なお「解放の神学」はLiberation Theologyであり「リベラル化神学」でもあるのだ。)
シャミールは第2バチカン公会議でのカトリックの根本的変化とオプス・デイについてはあまり詳しくないとみえる。彼自身が熱心なギリシャ正教のキリスト教徒に改宗しているうえに古典的な教養も豊かなため、かえって以前の伝統的なカトリックのイメージが離れないのかもしれない。どうやら、リベラリズムと同様にバチカンがすでにユダヤ教の「ゴイムのためのローマ・バージョン」となっていることにまでは思い至っていないようだ。(オプス・デイの思想は「高級エコノミック・アニマル」のそれである。)しかしいずれはローマ自らがその正体を顕にすることだろう。
●最後に、読者諸氏の中には、最終段落でシャミールが「しかしその完全な絶滅は望ましいことではない」と語っているのを見て、ひょっとすると「腰砕け」という感想を持った人がいるかもしれない。しかし彼は、『ユダヤ性』の最も憎むべき悪徳の本質を《排除の論理》(言い換えれば《白か黒かの二者択一》)の徹底化であるととらえているようだ。これについてはこの『リベラリズムの暴政』にも展開されているが、以下の記事もご参照願いたい。特にその「第1回」と「最終回」に端的に現れている。
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http://asyura2.com/0601/holocaust3/msg/296.html
『米国:あるユダヤ国家』(イズラエル・シャミール著)全文和訳、第1回
http://asyura2.com/0601/holocaust3/msg/298.html
『米国:あるユダヤ国家』(イズラエル・シャミール著)全文和訳、第2回
http://asyura2.com/0601/holocaust3/msg/306.html
『米国:あるユダヤ国家』(イズラエル・シャミール著)全文和訳、第3回
http://asyura2.com/0601/holocaust3/msg/309.html
『米国:あるユダヤ国家』(イズラエル・シャミール著)全文和訳、最終回
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《排除の論理》つまり《白か黒かの二者択一》が徹底化され最もおぞましい形となっているのが『悪魔化』であり、そこに選民主義が投影されるならば『復讐の神』が登場してこざるを得ない。「人類に対する罪」を振りかざして悪魔化されたサダム・フセインをリンチ殺害した連中はもはや完全にこの『復讐の神』の虜となってしまった。彼らは立派な「ユダヤ化されたゴイム」なのだ。
イスラム教は本来他の宗教を排除するような心の狭い教えではなかった。それが『悪魔化』の論法を受け入れたのはひとえにキリスト教徒とユダヤ人のせいなのだ。特に近年はかなりの部分が「ユダヤの手の内」に入っているように見える。
先ほども申し上げたように、一見対立する「右」と「左」を使い分けて《排除の論理》を世界中に定着させようとしているのがユダヤ(Jewry)指導部の戦略である。世界中の民族や国民がこの論理に縛られている限りそれを支配することは実にたやすいことなのだ。このような『ユダヤ的精神構造』はJewry指導部にとって自家薬籠中の物、つまり最もコントロールしやすいものだからである。地上の人間達が分裂して戦い永遠に相手を『悪魔化』し『復讐』しあう状態こそ、「雲の上」にいる彼らの理想郷を永久に維持するための不可欠な要件だろう。シャミールはこの点を見抜いている。無くさなければならないのはこの《排除の論理》自体なのだ。
ユダヤ人の強烈な悪徳は程度の差こそあれ万人に共通のものだろう。世界がその悪徳で満たし尽くされ手遅れとなる前に、それを十分に観察し記録し告発し白日の元に暴き出し、それによってすべての人々が彼らの悪徳を反面教師として自分達の中からその猛毒を中和させることができるようにしていく必要がある。
その意味でこのリベラリズムのような、すでに我々の身近に迫っており、あるいはすでに半分身についてしまっている巧妙な破壊工作とペテンの正体を外に曝し出すことが、現在最も急務と言えるだろう。