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『米国:あるユダヤ国家』(イズラエル・シャミール著)全文和訳、第1回
このイズラエル・シャミールの文章『米国:あるユダヤ国家(原題:A Yiddishe Medina)』は、9・11直後、2001年の秋に書かれました。ただ冒頭の部分は2006年6月に付け加えられたものです。
米国とイスラエルの関係は以前から様々な議論を呼んでいますが、自らユダヤ人であるシャミールは、米国は当初からの「ユダヤ国家」である、と喝破しています。それは単に指導部にユダヤ人が多いばかりではなく、根本的な国家のありかた、国民の精神構造そのものが「ユダヤ」である、という意味です。
おそらくこのシャミールの文章は、近代と現代の世界を理解する際に、決定的な意味を持つものでしょう。米国だけでなく、欧州も、そしてもちろん日本も。米国はイスラエルの「実の姉」なのです。欧州は言ってみれば「義理の妹」(欧州にとってイスラエルは「小姑」)かもしれません。そして日本は? それは各自でお考えください。
この文章は長編ですので1週間ほどかけて4回に分けて投稿し、私からのコメントは第4回目の投稿にレスとしてつけておきます。[1],[2]などは原作者がつけた注釈ナンバーです。その他の私からの注釈は【訳注: 】の形で訳文の中にはめ込んでおきます。
またこの文章の中には、日本語ではその違いやニュアンスが非常に翻訳しづらいJew, Jews, Jewish, Jewry, Judeo-, Judaismなどが多く出てきます。普通に「ユダヤ人」と訳す場合はa Jew や(the) Jews、また形容詞的に「ユダヤの」「ユダヤ人の」はJewishですが、紛らわしい場合には原文を添えておきます。
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http://www.israelshamir.net/English/Medina.htm
私の文章リストの読者諸氏はいつも十分に時間を先回りしておられる。時には数年の先を。つい最近、米国の主流派が「ユダヤ・ロビー(Jewish Lobby)」についての議論を始めたばかりなのだが、このサイトで我々は2001年にそのテーマを表面化させていた。実際のところ、そのとき我々が語ったことは現在もなお適切なままである。そこで2001年の私の論文A Yiddishe Medina(イーディッシュ語:あるユダヤ国家)を再掲しよう。これは拙著Galilee Flowersに収められた文章だが、この本の中で私は次のように問いかける。
【訳注:Galilee Flowers「ガリラヤの花」は2005年秋にシオニストの圧力によってフランス語版の発刊を禁止された。英語版は通信販売で手に入る。詳しくは下のUrl。】
http://www.booksurge.com/product.php3?bookID=GPUB02699-00003
《米国のイスラエル支持は、イスラエル・ロビーのためなのだろうか、あるいは「米国企業の真の利益」のためであろうか? ドンピシャリの答はこうだ。ユダヤ・ロビーはイスラエル右翼の支持基盤が外にあふれ出たものであり、一方で米国は、要するに中東の外にも利害関係を持つより大きな「ユダヤ(Jewish)」国家なのである。》
ある意味で、この論文は私の著述の集大成なのだ。
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米国:あるユダヤ国家(原題:A Yiddishe Medina)
イズラエル・シャミール著
T
米国は長い戦争に向かおうとしている。それは「対テロ戦争」と呼ばれるが、しかしその名前は「敵に対する戦争」という以外の意味は持たない。ノーム・チョムスキーが面白い定義をしてくれた。「テロリズムとは我々に対して為されることをいう」と。しかしながらこの戦争の只中で、何万人もの我々のアダムとイブの兄弟たちが爆撃を受けナパームに焼かれ核攻撃で死ぬだろう。少年たちも少女たちも、まだ生まれていない子供たちも老人たちも、復讐の神の祭壇に捧げられ儀式として屠られるだろう。
ブッシュ大統領はその企てを「十字軍」と呼んだ。その呼称は我々の記憶の中から、十字架を手に持ち、唇で我々の主の名を唱え、長く苦しい巡礼の冒険に出るアキテーヌの騎士たちや信心深いフランクの戦士たちのことを思い起こさせる。実際にはもっとひどいものだった。十字軍は西側のジハードであり数多くの流血を引き起こした。十字軍兵士たちは乱暴で見境が無く、世界で最も美しいキリスト教の都市であるコンスタンチノープルを略奪した。そしてエルサレムの聖なる土地を血みどろにしたのだ。十字軍の年代記家であるカエンのラドゥルフ(Radulf of Caen)は自分の戦友たちについてこう書いた。《シリアのマアラの街では「鉄串に刺し貫いた赤ん坊を火で炙って貪り食った」。》彼らは野蛮な連中だったが、私は、これらの殺し屋と肉食獣どもの名がブッシュの十字軍の連合によってこれ以上汚されることの無いように願うものである。彼らはこのほとんど非キリスト教的な、というより反キリスト教的な感覚に、復讐ではなく、栄光を求めていたのだ。
そもそも福音の精神は復讐を拒絶するものである。これが教会とシナゴーグの非常に大きな違いなのだ。この二人の姉妹は2000年前に生まれた。この内蔵された違いはこれら二つの信仰の間にある分離として受け継がれている。キリスト教徒が敵のために祈れと呼びかけられるのに対して、ユダヤ人は復讐を夢見るように期待されるのである。
U
旧約聖書のユダヤ教(Judaism)はユダヤ人とキリスト教徒の信仰の祖形なのだが、「メシア」に対して二つの異なった解釈を含んでいた。共に旧約聖書の中に見出すことができる。キリスト教徒とユダヤ人の間にある分離は、それそれの新しい信仰がその二つの解釈の片方を取り上げて支配的にしたものである。キリスト教徒にとってキリストは救済するためにやって来たが、ユダヤ教徒にとってメシアは復讐するために来るのである。この点は、ヘブライ大学のイスラエル・ジャコブ・ユヴァル(Israel Jacob Yuval)教授の最新の著書「子宮の中の二つの国(Two Nations In Your Womb[1])」の中で説明がなされている。ユヴァルが呼ぶ「復讐に満ちた救済」が、アシュケナジ・ユダヤによって昔のパリサイ派のテキストから取り出され、そしてシナゴーグの支配的な教義となったのである。
イスラエル・ユヴァル博士がエルサレムで復讐の神学に関する彼の洞察にあふれた本を出版したときに、イスラエルの学会の同僚たちには大きな熱狂で受け入れられたのだが、米国のユダヤ人学者はこれを嫌った。エツラ・フレイシャー(Ezra Fleischer)博士は強烈な批判を書いた。その中には次のような言葉がある。《そのような本は出版されなかったらよかったろうに。しかし出版されてしまったからには、忘却が宣告されるべきである。》[これは2006年6月に英語訳が出版されたばかりだ。]
ユヴァル教授は数多くの古いユダヤ教の教本をこの見地の根拠として引用する。《終りの日(メシアが来るとき)には、神は破壊し、殺し、そしてイスラエルの民以外のあらゆる国民を絶滅させるだろう》。これは13世紀ドイツのユダヤ人によって書かれたSefer Nitzahon Yashanによるものである。典礼詩人であるクロニムス・ジュダ(Klonimus b. Judah)は《ゴイムの死体であふれる神の手》の幻影を見た。
それよりももっと恐ろしい血と破壊に満ちた夢は、11世紀の終りに起こった最初のユダヤ人への襲撃に先立つものである。十字軍によるユダヤ人への猛攻の100年前に、R.シモン・イツァーク(R. Simon b. Yitzhak)は神に《あなたの剣を取ってゴイムを皆殺しにする》ように呼びかけている。彼らの破滅を急がせるために、欧州に住むユダヤの賢人たちはキリスト教徒とキリストに対して新たな恐るべき呪いの文句を採用し、過越の祭(Passover)やヨム・キップール(Yom Kippur:贖罪の祭)の典礼の中に導入した。それは2世紀にそこに組み込まれた呪いに付け加えられたものである。
その「復讐のメシア」はキリスト教神学の中で実際には別の名前を持っている。彼は「反キリスト」と呼ばれる。キリスト教神学者たちはこの黙示録の登場人物の性質を詳しく探求しようとしてきた。ダマスカスの聖ヨハネ(St John the Damascene:7〜8世紀の人物)は、反キリストはキリスト教徒とキリストに敵対して、ユダヤ人の元にユダヤ人のために現れるだろう、と預言した。(ダマスカスの聖ヨハネはイスラムの友人であり、永遠のコーランに関するイスラムの教義をロゴスについてのキリスト教的な教えの形として解釈した。)教父たちは「反キリストの出現」をユダヤ教の一時的な勝利と見なした。10世紀にはビザンチンの聖アンドリュー(St Andrew the Byzantine)が、イスラエルの王国は再建されそれが反キリストにとっての飛躍台となるだろう、と預言した。このようにして、ユダヤ教とキリスト教の神学者たちは、彼らのメシアがテーゼとアンチ・テーゼ、つまりキリストと反キリストとしてお互いに敵対しあうことにおいて、一致しているのである。
黙示録とイスラエルの親近性は米国にいる何百万人もの敬虔なキリスト教徒によって感じさせられる。彼らは反キリストの登場がキリスト再臨の前段階であると教えられている。しかし彼らは牧師たちによって誤誘導され、不合理な結論を描いて反キリストの側に立つことを決意している。彼らは次の言葉を忘れている。《人の子は己につきて録(しる)されたるごとく逝(い)くなり。されど、災いなるかな》反キリストの側につく者よ。
【訳注:新約聖書マタイ26−24:聖書では「されど、災いなるかな、人の子(=キリスト)を裏切る者よ」と述べられている。】
ユダヤ人は反キリストではない。しかし「復讐のメシア」の思想は非常に危険なものだ。そしてそれは対決し論破すべきものである。それは、旧約や新約の手段を用いて、あるいは普遍的な人間的コンセプトを用いて為されることが可能だろう。そうしなければ、この思想は我々の論調に毒を盛ることになるだろう。
V
米国の満ち満ちた復讐心を米国のユダヤ(Jewry)のせいにするのは間違っているだろう。米国はそこに住むユダヤ人にとって特別なものであり、キリスト教徒たちは取りとめも無くまとまった「ユダヤ-キリスト教徒(Judeo-Christians)」、もっと正確に言えば「ユダヤ-アメリカ人(Judeo-Americans)」なのだ。彼らの大部分がキリストの精神をほとんど全くと言って良いほど持っていないからである。カール・マルクスはこのように言った。《キリスト教世界を覆うユダヤ精神の実質的支配は、北アメリカで二律背反的ではない完全な実現を成し遂げている。》
多くの米国の公的な人士たちは、ユダヤ人も非ユダヤ人も、復讐を叫んでいる。
【訳注:この文章は9・11事変の直後に書かれた。】
《このような連中に対する取り扱いを始めるためのたった一つの方法がある。それは、たとえ直接に即座にはそのことに関わっていないとしても、その中の一部を殺さねばならない、ということなのだ。》[2]
これは元国務長官のローレンス・イーグルバーガー(Lawrence Eagleburger)の言葉である。彼はドイツに対する要求(毎年30万ドル)のためのユダヤ人組織を率いている。
《この想像を絶する21世紀のパール・ハーバーに対する返答は、それが即断できるほどに単純であるべきだ。クズ野郎どもを殺せ、である。両目の間に銃弾をぶち込み、やつらを木っ端微塵に吹き飛ばし、必要なら毒殺する。これらの虫ケラどもを飼っている都市や国については、それらを爆撃してバスケット・ボール・コートの大きさにバラバラにしてしまうこと。》
こう語ったのはニューヨーク・ポスト紙のスティーヴ・ドンリーヴィー(Steve Donleavy)である[3]。リッチ・ロウリー(Rich Lowry)はワシントン・ポスト紙に書いた。
《もし我々がダマスカスやテヘランの一部を平らにしてしまうなら、何かそのようなことなら何でもよいのだが、それは解決の一部分である[4]。》
最も引用のしがいがあるのはアン・コウルター(Ann Coulter)のものだろう。彼女はワールド・ジューイッシュ・レビューの人気の高い著者であった。
《この特別なテロ攻撃で直接に関与する正確な個々人の居所を完璧に突き止めているようなときではない。・・・。我々は彼らの国に侵攻し、そのリーダーを殺し、そして彼らをキリスト教徒に(!?)改宗させるべきだ。我々はヒトラーやその高官たちでさえ居所を突き止めて罰することに完璧さを求めてはいなかった。我々はドイツの都市を絨毯爆撃した。我々は民間人を殺した。あれは戦争だったのだ。そしてこれも戦争なのだ。》
【訳注:コウルターは、ドレスデンなどのドイツの都市を空爆によって廃墟にしたのが「我々」つまりユダヤ人であったことを、うかつにも認めている。】
この記事を書いたあと、彼女は正しくもその新聞社をクビになり、そしてネオコンのユダヤ雑誌Commentaryに席を置いている。
米国の新聞に見えるこの復讐心に満ちた精神は、西側の論説の中では常軌を逸脱している。もしあなたがキリスト教やイスラム教の地にある文学を綿密に調べたなら、あなたは復讐が重要な本の主題としてはまれであることに気付くかもしれない。ニコライ・ゴーゴリ(Nikolai Gogol)は「恐るべき復讐」と呼ばれる中世風の短編を書き、プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée)はコルシカの盗賊に関する「コロンバ」という短編小説を書いた。お好きなように。英国人たちは復讐というものを非常に非英国的な傾向と見なした。確かにそれはクリケットとは違う。「復讐心に満ちた」というのは、あらゆるキリスト教やイスラム教の文化の中では否定的な言葉なのだ。対称的に、ユダヤ教の文化は復讐の観念で充満している。旧約聖書から真っ直ぐつながっているからである。それは新約聖書やコーランによる補正のためのフィルターを通さないのである。
我々ユダヤ人が誰よりもよくそれを知っている。輝かしい米国ユダヤ人のジャーナリストであるジョン・サック(John Sack)はその「目には目を」の中でこれを記した。この本は、第2次世界大戦の後でドイツの一般市民に対して行われたユダヤ人の恐ろしい復讐に関する背筋の凍るような本である。この本は、拷問、「法の外での殺人」、集団毒殺、その他のホラーを告げているのだ。あなたはこの本を手にできないかもしれない。ユダヤ人支配者がその出版を抑え本屋から締め出すことに成功したからだ。
驚くようなことではないが、イスラエルは日常の政策の中に復讐を導入している。パレスチナに対するイスラエルの攻撃は peulot tagmulと、つまり復讐の行動と呼ばれた。これらの行動の一つが、(後に首相となる)アリエル・シャロン将軍によって1953年10月14日に遂行された。その時に彼とその兵士たちはおよそ60名の農民、女性、子供をギビヤの村で殺害したのだ。1982年のレバノン侵攻は、そこで2万人ものレバノン人、パレスチナ人、キリスト教徒とイスラム教徒を殺したのだが、それはロンドンのイスラエル大使に対する殺害の試みに対する復讐の行動だったのである。最近のインティファーダの期間に、イスラエル・テロのあらゆる行動は、イスラエルと米国のユダヤ人所有(Jewish-owned)のメディアによって、「報復」あるいは「仕返し」と呼ばれた。
【訳注:1953年のギビア村での虐殺に関しては次の文章を参照のこと。
http://nilemedia.com/Columnists/Ahmed/2001/May/Nailing_Sharon.html 】
このユダヤ人の復讐熱は厳しい大西洋の渡航にも生き抜いた。米国ユダヤ人はハリウッドを創出した。そしてハリウッドは復讐をそのメイン・テーマにしたのである。最近の「三銃士」のアメリカ再映画化では、ダルタニャンは復讐の精神で動かされている。そんなモチーフが原作やフランス映画ではほとんど表れないにも関わらずである。実際には、レイディー・ウインターの息子であるモードレッドは悪いやつで、彼が復讐の夢をあたためているのである。しかし新しいアメリカ映画にとっては、それはユダヤ系米国人によって作られたものだが、復讐は正当な感覚なのである。ある意味ではアメリカ映画はユダヤ人の集団的深層意識の表現であって、そしてそれがアメリカ的心理の創造における主要なファクターだったのだ。ハリウッドから、復讐に満ちた精神が地球の上にあふれ出た。そして間違いなく我々が今住んでいる世界を作り上げる補助となったのである。
言い換えると、ユダヤの陰謀など何の必要もなかったのである。トライヤー・ラビ(Trier Rabbi)の孫であり、自身は教会の中で育ったカール・マルクスは、1840年代(!)には、米国が(人種的な意味でユダヤ人が一人でもいたのかどうか)「ユダヤ的」精神を持つ国になっていたことに、そして貪欲と不和の「ユダヤ的(Jewish)」イデオロギーを抱いていたことに気付いた。マルクスの弟子であるワーナー・ソンバート(Werner Sombart)は米国のユダヤ精神に関して類似の結論に達した。彼の意見によると米国はユダヤ人とともに育ちそのごく初期からユダヤ人に作られていたのだが。比較的未熟な米国はユダヤのメンタリティーの衝撃に耐えることができず、そしてユダヤ国家(Jewish State)、イスラエルの姉となったのである。
このことは米国ユダヤ人の成功を説明する。「ユダヤ」国家で本物のユダヤ人がより成功しやすいことはまさに当然と言える。その突然の栄光と豊かさへの上昇を、のぼせ上がりと自画自賛の原因とすべきではない。他に求めるべきだ。偉大な米国の哲学者インマニュエル・ウォーラースタイン(Immanuel Wallerstein)の論理に沿うならば次のように言える。今の時代において物質的な成功は道徳的な欠損の印である。「成功」と富は神の恵みの印ではないのだ。いずれにせよ、貧乏人を祝福する神のものではない。泥棒の集団で成功する人間は神の目にかなうことはない。飢え死にしつつある何百万人もの人々と恵まれすぎる少数者のいる我々の世界は、不道徳的であり反キリスト教的である。ユダヤ-アメリカの「十字軍」と同じくらいに反キリスト教的である。
この説明によって先に我々が掲げた疑問に答えることができる。米国のイスラエル支持は、イスラエル・ロビーのためなのだろうか、あるいは「米国企業の真の利益」のためであろうか? ドンピシャリの答はこうだ。ユダヤ・ロビーはイスラエル右翼の支持基盤が外にあふれ出たものであり、一方で米国は、結局は中東の外にも利害関係を持つより大きな「ユダヤの」国家なのである。
この仮定は多くの疑問を説明し尽くす。それはイスラエル支持が驚くべき99%という投票結果であることを説明する。それはホロコースト博物館、ホロコースト研究、およびホロコースト映画を説明する。それは米国の生活でユダヤ人が中心になっていることを説明する。現在の米国は世界的な出来事を伝統的なユダヤの位置から見ているようにである。「それはユダヤ人にとって良いことなのか?」と。
それはダーバンでの米国の退場を説明する。G.W.ブッシュは欧州や日本との軋轢など気にもかけずに京都条約を無視した。彼はその戦略兵器条約を破棄する一元的な決定でロシアと中国を困らせることに何の遠慮もしなかった。しかしここで彼は彼の主人の声を聞いたのである。アフリカとアジアへの激しい拒否、アフロ・アメリカン社会への侮辱的な拒絶、人種主義に対する偉大な戦いの拒否は、米国がイスラエルの姉妹国家となっているさらなる証拠である。
【訳注:これは当然のことながら、2001年9月、9・11直前に南アフリカのダーバンで開かれた世界人種差別撤廃会議で米国とイスラエルが途中退場したことに関するものである。参照: http://www.imadr.org/japan/interview/wcar.international-news1.htmlダーバン世界会議をめぐるニュース(日本語)】
最近になって、ウラジミール・プーチン大統領は、ニューズウイークとのインタビューで、チェチェン人に対する攻撃を正当化しようとした[5]。彼は、チェチェンの指導者が「ユダヤ人の絶滅をおおっぴらに呼びかけた」と語って、アンチ・セミット(anti-Semite)の隊列に対する彼の戦いへの批判を追い払ったのである。現在、チェチェンにはユダヤ人はいない。そしてもしアンチ・セミティズム(anti-Semitism)が本来の意味の「反ユダヤ的(anti-Jewish)偏見や人種主義」を保つものであるとしたら、チェチェン人指導者のユダヤ人に対する見解は不適切である。我々が他の所で議論したように[6]、もはやこのような形ではアンチ・セミティズムは存在していない。しかし今やその言葉は新しい意味合いを持っている。それはマッカーシー時代の「反アメリカ主義」に、あるいはブレジネフのソ連での「反ソヴィエト」に相当するものになってきたのだ。
米国人たちはユダヤ人に対する忠誠心を問われていると感じるときにはいつでも緊張し縮こまる。米国であろうがどこであろうが、新しい米国のパラダイムを拒否する者は、誰であろうが定義どおりのアンチ・セミットなのだ。これが、ユダヤ起源の善良な者達――ノーム・チョムスキーでもウッディ・アレンでも、聖パウロでもカール・マルクスでも――「アンチ・セミティズム」と呼ばれる理由なのだ。彼らはいつもユダヤ人社会から拒絶される。しかし彼らの名前は彼らが攻撃した構造を守るために利用されるのだ。
ユダヤ人社会に対する攻撃を人種主義の一形態と見なすことはできない。通常の人種主義は極めて簡単に許されるからだ。もしそれがアラブ人(ユダヤ人の新しい敵)や黒人(ユダヤ人の旧敵)に対して向けられるものならば特にそうである。それは「不敬罪」として取り扱われるのである。ソヴィエト連邦でユダヤ人の権力が上昇した時期(1917〜1937)には、人々は反ユダヤ主義の非難を受けると銃殺された。ストラスブールのマンフレッド・ストリッカー(Manfred Stricker)はその地の大学をシュヴァイツァー博士にちなんで名前を付けるキャンペーンを行ったが、その一方でユダヤ人社会はその都市とほとんど縁の無いユダヤ人学者の名前を好んだ。結果として、マンフレッド・ストリッカーは6ヶ月の懲役刑に処せられたのだ。アレキサンダー・キャンセラー(Alexander Chancellor)はガーディアンに(“It is not Black and White”という見出しをつける約束で)オランダの右翼主義者の殺人について書いた。そう、彼はイスラム教徒たちの敵だったが、彼はユダヤ人たちとはうまくやっていた。そしてそれゆえに彼は悪いやつではなかったのである。
ハーヴァードやエモリィなどのアイヴィー・リーグの大学で学生に語ったときに、私は、彼らが「アーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)」の名を知らないことに気が付いた。この英国最大の20世紀の歴史哲学者は一つの間違いをしでかしたのだ。彼はパレスチナ人の悲劇について語ったのである。彼はまたアフリカ人の奴隷をユダヤ人のホロコーストに匹敵する悲劇として引用した。結局、彼は米国人の意識から消され姿を消した。G.K.チェスタートン(Chesterton)によって書かれたノンフィクションを米国や英国の本屋で探すことは決して不可能というわけでもない。この素晴らしいエッセイストは書店でほとんど存在しない「キリスト教部門」であると見なされ、彼の数少ない再版本が「悪い教皇」と「ラビ・イエス」の間に挟まれている。
この言論界における影響は、米国の(そして欧州の)知識人の従順さを説明している。ユダヤ-アメリカ国家の中で、ユダヤ人たちはその「教会」を、その思想的な支配体制を形作る。一人の知識人にとって、アンチ・セミットと呼ばれるよりは小児性愛者と呼ばれる方がまだましなのだ。
【脚注:注釈箇所についての著者からの補足】
[1] Publisher: Alma/Am Oved, Tel Aviv, 2000, ISBN 965-13-1428-1,
English translation http://www.ucpress.edu/books/pages/8335.html or cheaper: from Barnes and Noble http://search.barnesandnoble.com/booksearch/isbnInquiry.asp?z=y&endeca=1&isbn=0520217667&itm=1
[2] CNN, 9/11/01
[3] 9/12/01
[4] --Rich Lowry, National Review editor, to Howard Kurtz (Washington Post, 9/13/01)
http://nilemedia.com/Columnists/Ahmed/2001/May/Nailing_Sharon.html
Nailing Sharon for Qibya will bring peace By Ahmed Amr 5/31/2001
[5] 2.7.01
[6] The Third Dove