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(回答先: アウシュビッツ強制収容所(写真集) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 1 月 27 日 06:39:05)
親衛隊SS特殊作戦部隊 或る中尉の手記 ★加害者から視たホロコースト★
(プロローグ)
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◆1934年7月25日、第89SSスタンダルテの隊員たちは、ウィーンの連邦官房(オーストリア首相官邸)への道を急いでいた。
彼らは、エンゲルバート・ドルフュス首相に致命傷を負わせたにもかかわらず、クーデターに失敗した。[ドイツの隣国オーストリアでは、1934年のこの日、ナチス党員の過激派が首相官邸を襲撃し、ドルフュス首相を暗殺。しかし、彼らの襲撃は鎮圧され、失敗に帰した。以下に触れるように首相官邸襲撃メンバーの一人だった本編の主人公であるフェリクス・ランドウも逮捕された。]
それらの逮捕者のうちのひとりに、高級家具師フェリクス・ランドウがいた。
彼は、首相官邸の職員を短機関銃の銃口で脅して手を上げさせたのであった。
ランドウは、その犯罪の共犯者であったために告発されて、ヴォラースドルフ監獄に送られた。
彼は1937年に釈放された。
彼はドイツに帰化して、刑事補佐としての地位を得た。
1938年3月12日にドイツ軍部隊がオーストリアに進駐した[ナチス・ドイツは隣国オーストリアを併合する]とき、彼は保安警察・SD(保安諜報部)のアインザッツ・コマンドのSS大尉であった。[翌年の1939年9月に、ナチス・ドイツが隣国ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発する。]
それから、ランドウはウィーンのゲシュタポ地域本部に雇われ、ユダヤ人資産を保全するための責任を負わされた。
彼は結婚し、逃亡したユダヤ人の所有していたヴィラに移った。
1940年4月、彼はラドム(ポーランド総督領)のKdS(保安警察・SDの司令官)に任命された。
はじめ、彼はポーランド軍部隊の敗残兵との戦闘に参加するために派遣され、その後、記録事務所で働いた。
ウイーンでクーデターを試みたときの彼の役割とオーストリアで収監されていた年月が表彰され、1940年8月31日にナチスのBlutorden[「血の秩序」勲章]を与えられた。
彼は、ラドムの事務所で20歳の速記タイピストであるゲルトルーデに出会う。
ゲルトルーデは、ウィーン出身の兵士と婚約していたが、そのときには婚約を破棄したがっていた。
彼女は、ランドウと恋に落ち、彼との結婚を約束する。
その一方で、彼女は以前のフィアンセにまだ会い続けていた。
しかし、ゲルトルーデの巧みな恋の駆け引きも、ついに、ランドウの知るところとなった。
その結果、彼はゲルトルーデとの関係を清算しようと決心し、1941年6月30日に、すなわち、ソビエト連邦に対する全面的な攻撃「バルバロッサ」作戦が開始された[正確にはドイツがソ連を奇襲したのは1941年6月22日のこと]前後に、アインザッツコマンド(EK=特殊作戦中隊)に志願する。
彼の手記はこのときから始まる・・・・。
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フェリクス・ランドウの手記 (本文−−−竹中注)
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(翻訳者のご挨拶)
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◆親衛隊(SS=Schutz Staffel)のエンブレム(紋章)は、髑髏(ドクロ=Totenkopf)である。
いかにも人々に恐怖を与え、死をそのものを予感させるかのようであるが、元来その意味するところは、死んでも(ドクロになっても)ヒトラー総統に忠誠を誓うというものであった。
SS隊員なら誰もが持っていたであろうSSリングに彫られた”Meine Ehre heisst Treue!”(忠誠は我が名誉!)こそ、彼らが誇りであったろう。
SA(突撃隊=Sturm Abteilung)やSS(親衛隊)では点呼の際、本来ならば欠員として読み上げられないであろう戦死者の名前も、指揮官は読み上げることになっていた。
そうして、戦死者の名簿が読み上げられた時は、生き残って整列している戦友たちが、代わりに返事をするのだ。
それは、名誉の戦死を遂げた者は、死してなお精霊となりて部隊の中に存在しているという習わしによるものであり、ナチ党歌(ホルストベッセル)の歌詞の中にもそのことは唄われている。
SA隊員の中から選抜されて、ヒトラー個人に忠誠を誓い、彼を警護する役目を担ったSS親衛隊であったが、後にはドイツ第三帝国の中枢を支配するように強力で強大な組織になり、その陣容は一般SS(一般親衛隊=Argemeine-SS)とWaffen-SS(武装親衛隊)とに二分された。
いわゆる黒服にハーケンクロイツの腕章のお馴染みのスタイルは、一般SS隊員のものである。
武装親衛隊は、ドイツ国防軍の陸海空3軍に次ぐ第4軍として創設されたものであるが、実は国防軍以上のドイツ最精強軍であり、彼らはまた誇り高き軍人でもあった。
元アメリカ大統領レーガンが、在職当時、親衛隊員の墓碑に献花して物議を醸しだしたことは有名である。
親衛隊で、実際にホロコーストに手を染めたのは(もちろんのことながら、多かれ少なかれ親衛隊は、特に一般SS隊員は残虐行為に手を染めたであろうが)、本文にもあるとおり特殊部隊員である。
(もっとも、実際に現場で手を下したのは、SS特殊部隊員に命令されたクロチア人SS隊員「SS民族師団と呼ばれている」やウクライナ兵、ルーマニア兵などが多かったようだが・・・)
しかしながら、ここで考えて頂きたい!
当時の多くのドイツ人にとって、ヒトラー総統は神以上の存在であった。
就中(なかんずく)、活気と意気に溢れる当時の青年たちにとっては、総統はまさに憧れと尊敬の存在であったろうことは想像に難くない。
そうした中、難関を通り抜けて晴れて黒服を着用できた時(親衛隊に入隊できた時)、もはや言い得ようのないエリート意識が彼らの心中を支配したことだろう。
だからといって、彼らのなしたホロコーストについて弁護する気はないが、一方、当時の全体主義国家にあっては、抗命(命令に逆らうこと)は、即ち己(おのれ)の死や一族の没落を意味することも事実であろう。
恐ろしいことは、過(あやま)てる思想に感応することや、過てる政治的指導者を戴くこと、それに過てる政府を黙認することであり、これは現在でも留意すべきことがらである。
私たちは、このことを心肝に染めて政治を監視しなければならない。
悲劇は繰り返してはならないから・・・。
1998年5月6日
冴島 歳三
(以下略)