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(回答先: アウシュビッツの図 (1977年)(丸木美術館) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 1 月 27 日 06:17:37)
アウシュビッツ強制収容所(写真集)
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/musicandauschwitz/auschwitz/campfotos.htm
残念ながら私の技術では写真アップは1枚しかできませんのでURLをたどってください。
(写真:公開処刑死体の前の右端女性の表情が印象的である
彼女たちも縄でつながれている
「耐える悲しみ」人間は悲しすぎると涙も出ない)
以下、文言だけコピーして紹介します。
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第二次世界大戦中、ドイツの「支配者」アドルフ・ヒトラーAdolf Hitlerの率いるナチ(ス)NAZIはヨーロッパのほとんどを占領支配しましたが、その中心となったのが、国防軍(陸・海・空軍)と親衛隊(SS)そして秘密国家警察(ゲシュタポ)*でした。なかでも親衛隊SSが各地に設けたのが、悪名高い「強制収容所」でした。有名なものでは、このアウシュビッツの他、すぐそばのビルケナウやトレブリンカ、テレジエンシュタット、ベルゲン・ベルゼン、マウトハウゼン、ザクセンハウゼン、ダッハウなど多くの占領地やドイツ、オーストリア国内に無数に作られました。
当時、ゲルマン系白人のドイツ人だけが「優秀民族」で、他の「劣等民族」は抹殺(まっさつ=消し去ること)することがドイツの発展につながるとされていました(他民族絶滅計画)。その手段としては、まずこれら「劣等民族」を一カ所に集め管理しました。これを「ゲットー」といいます。高い塀で他の地区とは仕切られ、自由に行き来をできなくして、多くの人たちを押し込めました。そして武器を持ったドイツ兵が監視・監督しました。
ゲットーについては、最近の映画ではユダヤ人監督スピルバーグの「シンドラーのリスト」や、やはりユダヤ人監督ポランスキーの最新作「戦場のピアニスト」にたくさん登場します。その後ここからさらにユダヤ人たちは汽車に乗せられて、各地の収容所に運ばれます。そこは「生きても地獄、死ぬのも地獄」の場所でした。あの小説や映画で有名になった「アンネの日記」の作者アンネ・フランクもこうして亡くなりました。
強制収容所では、考えられるありとあらゆることが行われました。たとえば、もう子供を産めなくするため若い女性の体に手術をしたり、ずっと食事をあたえずどのくらいで死ぬか(餓死)の実験や、コレラ菌など病原菌を植えつけ死ぬまで観察したり、「劣等民族」と「優秀民族」の体がどう違うのか生きたまま手術をして調べたりしました。ついでにいうと、こういう人体実験は日本の「大日本帝国時代の軍隊」でも行われました。旧満州731部隊です。
またなぐるけるなどの暴力や非人間的強制労働、極端に少ない食事などは、日常的におこなわれ、「人間としての扱い」はまったくありませんでした。またドイツ兵は機嫌の悪い日などは、リンチをしたり撃ち殺して「生活の楽しみ」にしていました。この辺の描写は収容所体験のあるポランスキー監督の「戦場のピアニスト」に出てきます。また一人でも逃げようとしたら、そのグループ全員が処罰、処刑されました。「見せしめ」のためです。
親衛隊が彼らを「処分=殺す」のに使ったもっとも一般的方法は、有毒ガス「チクロンB」でした。狭い部屋に押し込め、閉め切ってからガスを入れました。その後は死体を取り出して、髪を切り取り、金歯を抜き、肌をはぎ取りました。そしてこれらからマットや敷物を作りました。金は溶かして再利用しました。また死んだ人間の脂肪から石けんを作っていました。こうして人間はまるで牛や馬のように「処分」されました。
さて、収容所ではふつうは、ユダヤ人だけを殺したようにいわれていますが、そうではありません。収容所によっては、ユダヤ人よりも他の人たち、つまりロマ(ふつうはジプシーと呼ばれる)や何十もの少数民族、共産主義者、反ナチス活動家、支配した国の国民、、特に「政治犯」を捕らえては、裁判もなく殺してゆきました(処刑)。このアウシュヴィッツだけでも28民族150万人、すぐとなりのビルケナウ収容所では百数十万人、オーストリアのマウトハウゼン収容所では、約11万人(内ユダヤ人が3万8千人)が命を奪われました。全体の死亡者についてはさまざまな説があり、あまりに多すぎていまだにくわしい統計は出ていません。
上のようにのべてきたような「とんでもないこと」、「人命人権を軽視無視したやり方」は、現在では完全に否定されていますが、その時代にはかなり多くのドイツ国民に支持されました。というのは、当時のドイツ社会は第一次大戦後の敗戦・大不況にくわえて、連合国から当時「天文学的」といわれた1320億マルクという賠償金(ばいしょうきん)を要求されていました。そのため仕事も金もなく、さらに超超インフレが市民をおびやかしていました。このような中で、「ドイツ民族は最優秀である!」と訴えたのがオーストリア出身のヒトラーでした。彼は当時の社会のひずみや矛盾を、彼ら(ユダヤ人などドイツ人と違う人たち)に押しつけ憎ませることによって、人間の心の中にある「差別意識」を助長し、それを使って国をまとめようとしたのでした。
これを少し説明します。ユダヤ人は何千年も前に国が滅びてからは、世界に散らばってゆき、生きるためにいろいろなことをしました。どこの国民から見てもユダヤ人は「よそ者」でしたから、決して歓迎はされませんでした。いくらお金があっても、土地を買うこと持つことさえ禁じられていました。職業としては、いちばん頼りになるお金を扱う金融業(銀行、金貸し)や、実力さえあれば活躍できる芸術家(作曲家、演奏家、作家)や学者などが多かったようです。「ユダヤ人の金貸し」はシェークスピアの「ヴェニスの商人」の劇にも出てきますが、ユダヤ人を大変悪く書いてあります。その他には、裕福なユダヤ人の子どもであったメンデルスゾーンやマーラーなどの名前が残っていますし、現在でも歴史に残るクラシック演奏家はかなりの数がユダヤ人です。特にヴァイオリン奏者で有名な人は、ユダヤ人が多いのです。
またユダヤ人は自分の故郷でもない外国で「自分らしさ=アイデンティティ」を保つために、「ユダヤ教」を信じ、ヒゲを生やし丸い帽子をかぶり、彼らだけで集まって生活しました。また彼らの生活の独特なやり方をかたくなに守りました。それがことさらに「嫌われる」理由ともなったのです。このような理由で、ヨーロッパにおいてはユダヤ人はあまり好かれませんでした。こういう感情(差別意識)は、人々の生活が苦しい時ほどはっきり出てきて、ヒトラーはそれをおおいに利用したのです。当時のドイツ人たちは、ヒトラーを大歓迎しました。
いずれにしても、このような「人類の汚点」または「マイナスの遺産」を私たちは決して忘れてはいけません。そういう意味でも、このような施設を消してゆくのではなく、人間の愚行(おろかな行い)の記録(生き証人)として、永久に残してゆく必要があります。今でも世界の各地では、一部の国によって少数民族へのぎゃくたいなどの愚かな行為、戦争が行われ、今日も尊い命が失われています。殺人や人権無視などは「もう過去の話」ではないのです。だからこそ、私たちはこれらを「世界遺産」として、いつまでも人類のために、より良い世界のために、また考える手がかりとして大切にしたいものです。みなさんもヨーロッパ各地にあるこのような場所に訪れる機会があったら、ぜひ行ってみてください。これから自分が何をしたらよいかよく分かります。
(中略)
<参考資料>
ドイツ第三帝国ナチス親衛隊帝国指導者ハインリッヒ・ヒムラーの言葉
「いわゆる反ユダヤ主義というものは、人道上の問題ではない。 それはノミやシラミ退治と同じく衛生上の問題である。」
★ニュールンベルグ裁判の時の連合国側のある検事の言葉
「彼ら(ナチ)は、家族を愛し、犬を可愛がり、音楽などの芸術を好む。だが、その一方で大量虐殺に手を染めているのだ。その辺の彼らの神経が理解できない。これでは、音楽や芸術を愛しているからといって、その人が善人だとは言い難く、人間不信に陥る。」
★(旧ソ連反戦映画「狼たちの午後」のナレーター)
「彼らドイツ兵はとてもハンサムで賢そうだ。だが、彼らのポケットの中には、彼らの愛する家族の写真に混じって、我らが(ソ連人)同胞の虐殺現場の写真が誇らしげに保管されているのだ。このような写真と家族の写真を一緒に持ち歩くとは・・・・・」
*この欄はすべて「ある中尉の手記」サイトより転載(2003被許可済)