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(回答先: Re: 「何でこの人はこんな事を言うのだろう?」 たぶん 投稿者 kamenoko 日時 2005 年 6 月 26 日 00:52:25)
kamenokoさん、レスありがとうございます。
なるほど、彼はわざわざ上記の方に対して向けたものでは無いといいながら「こういう場合もある。」という事を控え目に言ったという事なんですね。
しかも、彼の娘さんにとっては精神的な外傷を受けるような大変な事態であったのだと。
これは、微量の物質に対してもアレルギー反応を示す子供に対して世間の理解が得られにくいという話そ似ているのかも知れません。
>Re: 「何でこの人はこんな事を言うのだろう?」 たぶん
>http://www.asyura2.com/0502/lunchbreak5/msg/576.html
>投稿者 kamenoko 日時 2005 年 6 月 26 日 00:52:25: pabqsWuV.mDlg
>(回答先: 「何でこの人はこんな事を言うのだろう?」って事でムキになるのです。 >投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 6 月 25 日 21:48:08)
>ワヤクチャさん こんにちは
こんにちは。
>あくまで私の想像なのですが、
>・・引用
>透明な悲しみ 投稿者 都会暮らし
>http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/700.html
▼
本当にすごく悲しいです。今も涙が止まりません。テレビではこんな映像が流れていなかった・・・・こんなことが起きていたなんてぜんぜん気にもしていなかった・・・・このサイトを見て本当に良かったです。私には二人の子供がいますが、こんなに恵まれた環境にいることが、すごく幸せなんだと思いました。何故戦争をするのだろう・・・・みんなが平等に、幸せになる権利はあるのに・・・・・・・・・戦争をやめてほしい。罪もないのに死んでしまった人たちにご冥福を祈ります。最後に、このサイトを多くの人たちに見てもらいたいです。この世の中平和に過ごしている人たちに、このことを知ってほしいです。
▲
>まず、俺のこの一文は、上記のご投稿をされた方や、戦争犠牲者の写真へのリンクを>掲載された方に向けたものでは断じてありません。
この部分ですね。
私もこの部分は留意したつもりです。
その上で、しかし、戦争の悲惨さを子供たちに教えようという教師の努力に対して
「自分の娘はこんなに感受性が強いのだから、こんな授業はやめてくれ〜!」という叫びと共にその授業に講義した教師に事を美談として彼が語っていた事に自己中心性を感じたのです。
>俺もこの方々と同様に「悲惨」を悲しみ、平和を願う「同胞」です。
で、彼はこう書きながらでは学校における平和教育に対しては否定的な事を書いているので、この文言と矛盾するし、何等平和構築の為の積極的姿勢を示していないと思ったのです。「悲しみ」「願う」と言えばそれで平和を構築できるのでは無いという実践的問題があると言いたかったのです。このような主観の表明では平和は実現できないのです。平和に対して積極的であるならば、「娘はこのようにショックを受けたのだが、この事で平和教育の実践を批判する事はできない。」と考えるのではないかな?と思うのです。
>人の書いた文章を誤読する自由は読者側にあるが、あまり甚だしく誤解されることは>心外でもあり、ここに一言お断り申し上げておきます。
>・・・・引用終了
よって、私は誤解してつもりはありません。
>これを冒頭にお書きになった、あるいは書かざるをえない想いがあった
>のだろうと思いました。
でしょうね。
批判が予め予想されるような文章であるからです。
しかし、この文言にも関わらず彼の文章は自分の娘かわいさに平和教育一般に異議を唱えるという逸脱であったのです。
つまり、彼は批判を予め予想し、その批判は誤解であると予め宣告するという卑怯な方法を取っているワケです。
>それに対するワヤクチャさんのレスは、もしかしたらここにヒットして
>しまったのではないかと思っています。
彼にとっては、「私は平和を願うと書いているじゃないか?にも関わらず、平和教育の批判だと誹謗中傷するのか?」という事だったのでしょうね。
しかし、どう読んでも批判にしかなっていないのですよ。
>それに私は、対話への誘いと
>いうよりも(大変申し訳ないのですが)矯正宣言に近いものを感じて
>しまいました。
まあ、少し私も感情的になっていたかと思います。
しかし、彼の発想には重大な問題があると考え、その意味では「矯正」的な発言になっていたでしょうね。
対話というゆとりは無かったかと思います。
>最近、入試問題に’ひめゆりの塔の話に「たいくつ」と感じた’男子学生の
>感想文を用いた学校が批判を受けて謝罪をした事件がありました。
>私は「たいくつ」一点を抜き出しての批判はフェアではないと思いましたし、
>なにより感じたままを口に出すのが憚れる雰囲気が形成されているような
>危機感を持ちました。
確かに「感じたままを口に出せない。」という抑圧的な雰囲気は問題でしょう。
その入試問題の出題は「この『たいくつ』という感想についてどう思うか?」という事であったのかも知れませんがし、実際にあった感想文を出題してはいけないという事は無いと思います。
問題は、戦争の悲惨な話に対して「たいくつ」しか感じ無いという事をどのように捉えるかです。
人の死に対して何も感じ無い人間とはどのような人間であるのか?です。
「たいくつ」と感じたのはこの子の本心なのだからそれはそれで尊重してあげようで終わりですか?って事です。
そのような事を放置するのであれば教育とは何なのか?を考えざるを得ません。
この「たいくつ」を肯定するのであれば「人殺しをやめよう」という訴えにも「何故、人を殺してはいけないの?嫌なヤツは殺してもいいジャン。嫌なヤツが死んだ方がオレはハッピーさ。殺し合いをする方がスリルがあってたいくつしなくていいジャン。」と返してくる若者に対して「まあ、そういう気持ちも判る。」って返事する事になってしまうのでは?「先生、中々話せるねえ〜♪」って若者から理解を得たと思って喜ばれるでしょう。それで、いいのか?って問題ですよ。
殺人ビデオを見て「興奮する。」という若者をどう説得するのか?という事でもあります。
人間の心の中にはいいものも悪いものもあり、思ったままを出せばそれでうまくいくという段階では残念ながら無いと思います。
悪いものを抑圧し、いいものを伸ばさなければならないという段階でしかないと思います。
これを自由の制限と言うのであれば、自由の中には制限しなければならないものもあると言わざるを得ません。
>問題文全体と設問を読めば、むしろ戦争の恐ろしさを伝える側にとって
>有益なことがことが書かれているように感じましたので、耳を傾ける価値が
>あったと思います。
それはそうですね。
恐らくほとんどの受験生がその「たいくつ」という感想に対して批判的な回答をしたと思います。出題者の意図を汲み取って。だから誘導的な要素がミエミエという事はあったのかも知れません。しかし、批判されるような出題では無い可能性が大ですね。
>自分のことばに言い換えれば、「なんともったいない!」です。
そうですね。
せっかくの考える機会を奪ったのかも知れません。
批判者は「たいくつ」という言葉よりも、その言葉に対する受験生の反発が反戦的であり、入試で反戦教育をするなという方が主眼であったのかも知れません。
>都会暮らしさんや田口ランディさんのコラムにも、現状の平和運動への
>有益な批判が内包されているように思ったのですが、いかがでしょうか?
田口ランディさんのコラムは、批判というよりも「自分には違和感がある。」という心情吐露に過ぎないと思いました。
それを読む人に「確かに文切型の平和教育には違和感あるよねえ〜。」って共感をもたらすような効果があったと思います。
しかし、その違和感の原因は何かと考えた時に「私は平和を願うが、こんな風に絶対の正義であるかのように押し付けられるのは嫌だ。」という感じでは無いでしょうか?
平和は望むが行動を強制されるのは嫌いだって感じでしょう。
しかし、この視点に欠けているのは「平和は望むだけでは得られない。」という事です。
結局は遊んでいたいから平和の為に動員されるのはゴメンダと言っているに過ぎないという事ですよ。
これが自己中心的反応パターンだと思っているのです。
>・・・
>悲惨な映像
>私が20年ほど暮らした国では、テレビや新聞に悲惨な映像が流れます。
>ともする”ハイテク戦争のコラテラルダメージ”などといった脚色も
>甚だしいことばで伝えられる報道に”事実”を補完するこれらの映像は、
>最盛時には8割に達した反戦世論に間違いなく影響を与えたと思います。
>一方で、911以降に増えたテロや戦争報道がもたらす心的外傷が、
>政府がガイドラインを発するほど憂慮される事態となっています。
心的外傷をもたらした原因はイラク戦争そのものであり、その報道に責任はありません。報道は重大な事実を知らせる使命があり、人殺しほど重大な事実はありません。どんなに残酷であったとしてもそれは現に起こっている事です。
やめさせるべきは戦争であり、戦争報道ではありません。
戦争報道を自粛してその事により反戦が盛り上がらず戦争が常態化するのならその方が害が多いと言えるでしょう。心的外傷は戦場でこそあるのですから。
我々は戦場の現実を他人事として情報隔離するべきではありません。
そのような隔離こそが悲惨の永続化の道です。
悲惨を止めたいと思う人にしか悲惨は止められないのですから。
悲惨を知らない人には止められないのです。
>国営RAI放送 ソーシャル・アクト部門にありますガイドラインへのリンク
>(イタリア語)と目次のみの翻訳を付記いたします。
>http://www.segretariatosociale.rai.it/codici/bambini_adolesc_paure/paure.html
>概論
> 1 幼児期の恐怖、青少年期の恐怖
2 出現率の高い恐怖
分離不安の詳細
戦争の恐怖の詳細
3 保護者と教師へのアドバイス
家庭で
学校で
4 子供の問いかけ、保護者の答え
大人の問いかけ、専門家の答え
PTSD
参考書籍
SOS センター、フリーダイアルへのリンク集
私達は、心的外傷以前に殺人そのものを廃絶しないといけないのです。
殺人をやめさせるには何が必要であるかをと共に考えませんか?
悲惨な現実を知る事が第一歩です。
悲惨な現実を知っても何もできなければ我々に未来はありません。
残念ながら現時点では心的外傷の防止の為に悲惨な報道を禁止するなどの要求は
殺される心配が無い安全な所で生活している人々の贅沢な要求にしか過ぎません。
戦争の悲惨さを知らせない事によって反戦運動が抑制され、
再び日本が戦争を始めて反撃されて死体がゴロゴロ転がる生活を強いられたら
報道によらなくても心的外傷を受ける人々が多数になるでしょう。
何が優先するかについて考えませんか?
現時点の自分の狭い日常生活の範囲だけで考える事は道を誤ります。
この日常生活自体が破壊されようとしているのです。
政府は国民殺しを日々行っているのです。
戦争実行の為の心理的準備の為にです。