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(回答先: ここまでの俺の理解を、ちょっとまとめてみました。>風のようにさん、膝枕さん 投稿者 都会暮らし 日時 2005 年 6 月 03 日 10:59:11)
都会暮らしさん、どうもです。
▼都会暮らしさん
【(人々は理解し合えるという)この共同概念は非常に大切なもので、これなくしては人間同士、社会内部において共存していくことができない。
(つまり人間は相互を理解しているから一緒に暮らせるのではなく、「相互に理解できる」という誤解、即ち共同幻想を抱いているから一緒に暮らせるのだ。)】
【(人々は理解し合えるという)共同概念は非常に大切なもので、これなくしては人間同士、社会内部において共存していくことができない。】と考えることが、諸問題と呼ばれることを引き起こしている原因となるのではないかと思っております。
「人々は理解し合える」という期待は、「理解し合いたい」という価値判断からくるものでありであり、それを社会としての必要性として捉えてしまうことは、「人々は理解し合える」と“期待しない”者を排他的に捉えてしまうことになりえます。
▼都会暮らしさん
【例えば個人と個人の関係性において見てみよう。
A夫とB子間で相互理解を試み、そこに「価値意識」が介在したとする。
A夫 「僕は君が、好きだ。」
B子 「ほんと? じゃあ、どのくらい好きか言って!」
A夫 「君がいちばん好きなものは、何?」
B子 「それはあなたよ、A夫さん。」
A夫 「僕も君が僕を好きなくらい、君のことが好きだよ。」
B子 「ほんと? 嬉しいっ! わたしたち、愛しあってるのねっ!」
かくてこの二人の、悲劇への序章が切って落とされた。(爆)】
私も理解不足で申し訳ないのですが、都会暮らしさんの定義された“価値意識”の弊害が、この具体例を悲劇に導くということがいまいち把握しきれておりません。
都会暮らしさんの定義された“価値意識”は、「自分にとって一番大切なものはこれ、次に大切なものはこれ・・」というような意識であり、それは価値観の順位付けという価値意識になるのだと思います。そしてこの価値観の順位付けという価値意識が、“いいわけ”として用いられる具体例としてあげられたものだと思われます。
前後の文脈から推測するに、例題の両者(A夫とB子)が共に納得するために、本当は全てが同じように大切である(若しくは違う順位である)が、相手にあわせ、その場を取り繕い、相互理解していると見せかけるための“いいわけ”として用いられたものであり、結果として相互理解には至らないという悲劇を招くということでしょうか?
しかしこの場合は、価値意識が悲劇を招くというよりも、本心とは違う “嘘をつく”という行為が、悲劇を招いているということになり原因があいまいなものになり得るかもしれません。
私がこの具体例で、ある意味での“悲劇”だろうと解釈したのは、「私はあなたを一番愛している」という価値観の順位付けをするということは、“愛”には順位付けされる優越が存在し、そしてその優越を得るための何らかの条件が存在し、その条件を満たさなければ愛さないという限定された“愛”であると。そして、その条件とは自分が他に対して優越を得るための虚栄心や、その他の自分に対する欲求からくるものであり、つまり相手を愛しているのではなく、相手を通して自分を愛していると言っていることになると考えております。
両者の関係において、相手自身への“愛”が自分への“愛”と勘違いされてしまっていることが、“悲劇”へと繋がることになり得るのだろうと思っております。
この“愛”については、「愛とは何か」を考えることにも繋がるとも思われ、以前の膝枕さんへのご質問に答えていくものに繋がることかもしれませんね。
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