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(回答先: 都会暮らしさん 投稿者 風のように 日時 2005 年 6 月 05 日 21:21:06)
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理解し合えない分離した状態が続き、それが強調されると、理解し合いたいという欲求も強調され、「理解し合いたい」(欲求)→「理解し合えるはずだ」(期待)→「理解し合うべきだ」(倫理)→「理解し合わなければならない」(規律)→「理解し合わない者はいらない」(罰・制裁)と発展していくことになります。
どこからが志高体験なのかは難しいですが、都会暮らしさんが想像されているような体験は多分していない(気づいていない)と思います。
また、私は自分自身の事の話をするのは、苦手です(笑)。(だから、人の事もあまり詮索しないようにしておりますが・・。)
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俺はなんていうか、「居酒屋人間」とでも言うのか、どうも人に寄り添おう、寄り添おうって傾向があるんです。
それは学生時代、下宿の近所の飲み屋に入り浸って、濃密な人間関係の中で青春時代を過ごしてきたからかもしれない。
20歳前後の世間知らずのガキ(俺)を、まるごと抱え込んでくれた大人たちに甘えながら、ガキから大人にならせてもらった気がする。
長い長いインイシエーションを経て、大人になっていった。
だからなんでしょうが、「わかりあいたい」という欲求が、風のようにさんの仰る“方程式”に陥るとは、どうしても思えないのです。
あの時、俺の周りの大人たちは、無条件で俺を受け入れてくれた。
「わかってほしい」と訴える俺を、「わかってるよ」と丸呑みしてくれた。
俺の渇きを癒し、飢えを満たしてくれたのは、土方焼けしたおっちゃん連中でした。
そんな経験を経てきたんで、自分をカヤの外において、人生とか、愛とか、ましてや“法則”とかを語ることは、少なくとも俺にはできない。
どうもなんか、今日は感傷的になってしまいました。
飲みすぎたかな・・(笑)
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