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「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア
関東学院大学林博史研究室 所収
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/
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「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper41.htm
沖縄県史料編集室編『沖縄戦研究U』沖縄県教育委員会発行 、1999年2月
これは新沖縄県史の一環として、沖縄戦の前史にあたる時期について刊行された2冊の本のうちの1冊に書いたものです。論文というよりも一般向けにわかりやすく解説したものです。本では写真や図表などをたくさん使いましたが、ここでは文字の部分だけ掲載します。 (1)から(16)の16項目と参考文献からなっています。 2002.5.19記
(1)「大東亜共栄圏」
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。
日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。
軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。東条首相は42年2月の議会での演説の中で「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。しかし「南方占領地行政実施要領」(前節参照)にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのはあくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。「大東亜共栄圏」「東亜解放」といったスローガンのもとでの日本軍支配の実態はどのようなものだったのだろうか。
(2)軍政の組織
戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。
陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ)のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。
軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。
軍人以外の軍政要員のために司政官という官職が設けられた。司政長官、司政官、技師、警部などの軍政要員の定数は最終的に陸軍1万8465人、海軍7689人とされた。ほかに軍政顧問が設けられ、各軍司令部に政財官の有力者が任命された。行政の末端においては以前からの公務員など地元住民を使っていたことはいうまでもない。
(3)資源の獲得と軍票
軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、開戦直後の12月12日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。
日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(1941年11月25日)によると、フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。
最も重要視されていた石油について見ると、北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は1942年2594バレル、43年4963バレルと拡大した。日本への輸送も42年167万キロリットル(生産量の40パーセント)、43年230万キロリットル(29パーセント)となった。しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。
日本軍は占領地に軍票を流通させた。日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、実際には軍票の発行が急増していった。
1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。発行高は1942年12月に4億6326万円だったのが、44年末には106億2296万円、45年8月には194億6822万円と急増していった。日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。シンガポールの物価指数は開戦時の1941年12月を100とすると翌年12月には352、44年12月には1万0766、45年8月には3万5000と350倍になっている。特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。
日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。 阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた